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夜桜お蝶 艶劇乱舞「怪」  作者: 秋月瑛
黄泉の夏
22/22

【終幕:夏を待つ村】(草稿)

 春というものは、決して告げられて訪れるものではない。

 それはある日、ふとした拍子に息を吹き返し、知らぬ間に足元に咲いている。


 だが、誰ぞ知ろう――

 その春の先に、さらに季節が巡ることを。

 春が終わりではなく、始まりですらないことを。


 篝火村の空には、今なお淡い霞が流れ、

 陽の光が大地にやわらかく差していた。


 けれどその光は、春のそれとは違っていた。

 どこか、燃えるような熱を孕んでいた。


 道端にほころぶふきのとう。

 梅の花がようやく開きかけ、冬の気配を追い払おうとしていた。

 だが、土の匂いは――すでに夏を知っていた。


 季節は巡る。

 だがこの村の春は、まだ完全に咲ききってはいなかった。

 咲かぬまま、どこかで足を止め、誰かを待っていた。


 それを、誰よりも感じていたのは、こはるであった。


 彼女はひとり、焼け跡の社に立っていた。

 焦げた柱の残骸。崩れた石段。

 その中心にぽつねんと立つ一本の白梅。

 春姫の祈りが、根を張った証であった。


 こはるは、掌に乗せた一枚の花びらを見つめる。

 それは、春のものではなかった。

 陽を仰ぐ、夏の象徴――向日葵であった。


 その花びらを胸にあて、こはるは目を閉じる。


「春姫さま、なつき……あなたたちの季節は、もう終わったんですね」


 声は、風に溶けるようにして社跡を包んでいく。

 そこには、ひっそりと咲いた向日葵たち。

 まるで、なつきの魂が地に宿ったかのように、凛として咲き誇っていた。


 こはるはその中に身を沈め、目を細める。


「でも、終わりじゃありません。

 わたしは、わたしの春を終えました。

 次は、“夏”を迎えに行きます。わたしは、なつきを――わたしの“夏”を……生きて咲かせてみせます」


 その言葉に、風が応える。

 ふと、背後から足音が近づいた。


「……良い面持ちじゃないかい。春を経て、夏を知った娘の顔ってやつさねぇ」


 紅と黒の衣をひるがえし、お蝶がそっと背に立つ。


「お蝶さん……」

 こはるが微笑む。


 お蝶は、ゆるりと手を合わせ、社の方へと一礼する。


「春の祀りも、ようやく幕引きでござんすなぁ。

 ならば次は、“夏”の艶舞――その幕を引き受ける役目、しっかと見届けさせてもらいやしょう」


 こはるは頷いた。


「……わたし、“春”のこはるは、今日でおしまいです。

 次は、なつきの背を継ぎ、わたしの“夏”を生きてみたい」


「よう言うた……その言の葉があれば、どこぞの神もよう見とるはずでござんしょ」


 お蝶は小さく笑い、空を仰ぐ。


 空は、晴れていた。

 夏を待たずして、光はもう、村を照らしはじめていた。


 こはるは最後にもう一度、向日葵に手を伸ばし、そっと摘み取った。

 その花を胸元に抱くと、足元の白梅が風にそよぐ。


「春は、別れの名……」

「そして、夏は――」


「命の、巡りなのですね」


 そう口にしたこはるの背に、お蝶は静かに歩み寄り、やさしく押す。


「ほら、もう立ちなされ。“夏”が待っとるよ」


 ふたりは、向日葵の揺れる中を、静かに歩き出した。

 春の名残が後ろで揺れ、けれど、振り返る者はいなかった。


 ――春は終わった。

 そして、夏がやってくる。


 季節は、廻り、繰り返し、

 命は、その中で、何度でも咲く。


ご希望であれば、エンディング詩や余韻ある一文も加筆可能です。必要であればお申しつけください。






 こはるがゆるりと身を翻すと、そこには、すでに待っていた者たちの姿があった。


 紅と黒に身を包んだ花魁――お蝶。

 そして、その背に無言の影を落とす黒子。


 ふたりは黄泉の火をくぐり、骸花の咲く夜をも共に越えた。

 今やその面持ちは、何かを成し遂げた者の静けさを湛えていた。


 お蝶がひとつ、艶然と微笑む。


「さぁて……あんたの“春”は、これでひと段落でござんすなぁ。けどね――春の果てには、必ず“夏”が顔を覗かせるもんでさぁ」


 その声には、やわらかさと厳しさ、両の色が交じっていた。


 こはるは小さく息を吐きながら、ふと遠くの空を見やった。


「……でも、その“夏”は……また誰かを試すのでしょうね」


 空の青は深く、風はすでに春を追い越していた。


「そりゃあ、命というものは、よう試されるもんさねぇ。

 咲くも散るも、その手で選びなされ。

 あんたが背負った“夏”を、どない咲かすか――それが次のみちでござんす」


 お蝶の言葉に、こはるは黙って頷いた。


 そして、掌の中に包んでいたひとつの簪を、そっと髪に挿す。

 それは向日葵を象った、ひときわ小さな簪。

 かつて、なつきが遺した“季節の証”であった。


 挿した瞬間、ふいに風が吹いた。

 それは春と夏の狭間を揺らすような風。

 どこか懐かしく、けれど熱を帯びていた。


 こはるの頬に、ひとひらの花びらが舞い落ちる。

 それは、梅か、桜か、それとも向日葵の影か――誰にもわからない。


 けれど、こはるはそのまま目を閉じ、そっと花びらを指先でつまみあげた。


「……春は終わった。でも、わたしは終わらない。咲かせます、“夏”を。わたしの季節を」


 お蝶はそっと背を押し、微笑んだ。


「それでこそ、春を越えた娘さねぇ。咲きなされ、あんたの“夏”を――誰の代わりでもない、あんた自身のために」


 風が再び吹く。


 向日葵の畑が、ざわりと音を立てる。

 そこに咲いていたのは、祈りでも贖罪でもない。

 ただひとつの――新しい季節の始まりであった。



 篝火村は、未だ燃え残る記憶の中にあった。


 村のあちこちには、炎の名残が残っていた。

 煤けた壁、崩れた屋根、焦げた柱の下に、泣き崩れたままの誰かの跡がある。


 火事は、多くを焼き、奪った。

 命も、家も、未来も。

 その傷痕は、あまりにも深く、浅くは癒えぬ。


 それでも――

 村の片隅に、ぽつりぽつりと咲いていたのは、鎮魂花だった。


 春姫が遺したもの。

 あの娘が身を挺して咲かせた、静かな祈りの証である。


 だが、村人たちの目は――

 なおも鋭く、お蝶たちに向けられていた。


 無理もないことだ。

 誰が何を見たのか。

 社で何が起きたのか。

 お蝶たちが何を討ち、何を救ったのか――


 そのすべては、知る者などおらぬ。


 ただ一つ、村人たちが覚えていたのは、あの“よそ者”たちがやってきて、村が崩れたということだけ。


 怒りにも、悲しみにも、正体がいる。

 理由なき苦しみに、どうにか輪郭を与えるには、誰かを憎まずにはいられぬ。

 それが人の、哀しい性というものだろう。


 お蝶は、何も言わなかった。

 ただ、肩越しに村を一瞥すると、ぽつりと呟いた。


「……長居は無粋でござんすな。意図せずとも、また何ぞ……いらぬ“業”が生まれちゃあ、たまったもんじゃない」


 それは責めでもなければ、諦めでもなかった。

 ただ、静かに一度きりの季節を見送る者の言葉であった。


 黒子が、無言のまま葛籠を担ぎ直す。


 こはるは、ただひとつ、村の白梅に一礼し、最後の振り返りもなく歩き出す。


 村人たちは――誰一人、声をかけなかった。


 ただ、その背を見送るように、黙して立ち尽くすばかり。


 けれど、その沈黙には、確かに何かがあった。

 憎しみか。諦めか。あるいは――

 ほんのひとしずくの、感謝のようなものか。


 それは風の中に溶けて、もう誰にも確かめる術はない。


 そうして、春の終わりを背に――

 お蝶たちは、次なる“夏”の兆しを追い、村をあとにした。


 こはるだけが、しっかりと、その背を見送っていた。


 焼け落ちた社の跡も、崩れた家屋も、すでに風に晒されはじめていたが、こはるの眼差しは、ただ二人の姿を追っていた。


「今はまだ……この村は落ち込んでいても、きっと、何年か先には……よくなっていると思うんです。だから……いつかまた、また来てください」


 その声音には、震えも迷いもなかった。

 春を越え、夏を迎え、なおここに立つ者としての、確かな覚悟があった。


 お蝶は、ゆるりと紅の唇を綻ばせ、肩越しに振り返る。


「へへ……季節が巡りゃあ、また戻って来るさ。そんときゃ、あんたがこの村を咲かせておくれ……春の巫女様よ」


 そう言って、艶やかに微笑んだその横で、黒子は黙して葛籠の紐を締め直した。

 言葉はなかったが、その所作のひとつひとつに、深き想いが滲んでいた。


 彼らは、歩き出した。

 背には過去を、足元には未来を携え、風にその身を任せるように、次なる季節へと。


 旅は終わらぬ。

 それが、命を継ぐ者の宿命なのだろう。


 やがて、こはるの頬を撫でる風が変わった。

 まだ春の匂いが残る中に、確かに“夏”の気配が混じり始めていた――



 ◇ ◇ ◇



終焉詞しゅうえんのことば


 春を超えて 夏へと至る

 命の道を 歩く者あり


 託されし名を 抱きしめて

 想いの簪 風に鳴る


 咲くは一輪 夏の骸花

 終わりを告げて 始まりを告ぐ


 そして、秋は無明の帳を引く――


  ── 黄泉の夏 完 ──

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