【終幕:夏を待つ村】(草稿)
春というものは、決して告げられて訪れるものではない。
それはある日、ふとした拍子に息を吹き返し、知らぬ間に足元に咲いている。
だが、誰ぞ知ろう――
その春の先に、さらに季節が巡ることを。
春が終わりではなく、始まりですらないことを。
篝火村の空には、今なお淡い霞が流れ、
陽の光が大地にやわらかく差していた。
けれどその光は、春のそれとは違っていた。
どこか、燃えるような熱を孕んでいた。
道端にほころぶふきのとう。
梅の花がようやく開きかけ、冬の気配を追い払おうとしていた。
だが、土の匂いは――すでに夏を知っていた。
季節は巡る。
だがこの村の春は、まだ完全に咲ききってはいなかった。
咲かぬまま、どこかで足を止め、誰かを待っていた。
それを、誰よりも感じていたのは、こはるであった。
彼女はひとり、焼け跡の社に立っていた。
焦げた柱の残骸。崩れた石段。
その中心にぽつねんと立つ一本の白梅。
春姫の祈りが、根を張った証であった。
こはるは、掌に乗せた一枚の花びらを見つめる。
それは、春のものではなかった。
陽を仰ぐ、夏の象徴――向日葵であった。
その花びらを胸にあて、こはるは目を閉じる。
「春姫さま、なつき……あなたたちの季節は、もう終わったんですね」
声は、風に溶けるようにして社跡を包んでいく。
そこには、ひっそりと咲いた向日葵たち。
まるで、なつきの魂が地に宿ったかのように、凛として咲き誇っていた。
こはるはその中に身を沈め、目を細める。
「でも、終わりじゃありません。
わたしは、わたしの春を終えました。
次は、“夏”を迎えに行きます。わたしは、なつきを――わたしの“夏”を……生きて咲かせてみせます」
その言葉に、風が応える。
ふと、背後から足音が近づいた。
「……良い面持ちじゃないかい。春を経て、夏を知った娘の顔ってやつさねぇ」
紅と黒の衣をひるがえし、お蝶がそっと背に立つ。
「お蝶さん……」
こはるが微笑む。
お蝶は、ゆるりと手を合わせ、社の方へと一礼する。
「春の祀りも、ようやく幕引きでござんすなぁ。
ならば次は、“夏”の艶舞――その幕を引き受ける役目、しっかと見届けさせてもらいやしょう」
こはるは頷いた。
「……わたし、“春”のこはるは、今日でおしまいです。
次は、なつきの背を継ぎ、わたしの“夏”を生きてみたい」
「よう言うた……その言の葉があれば、どこぞの神もよう見とるはずでござんしょ」
お蝶は小さく笑い、空を仰ぐ。
空は、晴れていた。
夏を待たずして、光はもう、村を照らしはじめていた。
こはるは最後にもう一度、向日葵に手を伸ばし、そっと摘み取った。
その花を胸元に抱くと、足元の白梅が風にそよぐ。
「春は、別れの名……」
「そして、夏は――」
「命の、巡りなのですね」
そう口にしたこはるの背に、お蝶は静かに歩み寄り、やさしく押す。
「ほら、もう立ちなされ。“夏”が待っとるよ」
ふたりは、向日葵の揺れる中を、静かに歩き出した。
春の名残が後ろで揺れ、けれど、振り返る者はいなかった。
――春は終わった。
そして、夏がやってくる。
季節は、廻り、繰り返し、
命は、その中で、何度でも咲く。
ご希望であれば、エンディング詩や余韻ある一文も加筆可能です。必要であればお申しつけください。
こはるがゆるりと身を翻すと、そこには、すでに待っていた者たちの姿があった。
紅と黒に身を包んだ花魁――お蝶。
そして、その背に無言の影を落とす黒子。
ふたりは黄泉の火をくぐり、骸花の咲く夜をも共に越えた。
今やその面持ちは、何かを成し遂げた者の静けさを湛えていた。
お蝶がひとつ、艶然と微笑む。
「さぁて……あんたの“春”は、これでひと段落でござんすなぁ。けどね――春の果てには、必ず“夏”が顔を覗かせるもんでさぁ」
その声には、やわらかさと厳しさ、両の色が交じっていた。
こはるは小さく息を吐きながら、ふと遠くの空を見やった。
「……でも、その“夏”は……また誰かを試すのでしょうね」
空の青は深く、風はすでに春を追い越していた。
「そりゃあ、命というものは、よう試されるもんさねぇ。
咲くも散るも、その手で選びなされ。
あんたが背負った“夏”を、どない咲かすか――それが次の路でござんす」
お蝶の言葉に、こはるは黙って頷いた。
そして、掌の中に包んでいたひとつの簪を、そっと髪に挿す。
それは向日葵を象った、ひときわ小さな簪。
かつて、なつきが遺した“季節の証”であった。
挿した瞬間、ふいに風が吹いた。
それは春と夏の狭間を揺らすような風。
どこか懐かしく、けれど熱を帯びていた。
こはるの頬に、ひとひらの花びらが舞い落ちる。
それは、梅か、桜か、それとも向日葵の影か――誰にもわからない。
けれど、こはるはそのまま目を閉じ、そっと花びらを指先でつまみあげた。
「……春は終わった。でも、わたしは終わらない。咲かせます、“夏”を。わたしの季節を」
お蝶はそっと背を押し、微笑んだ。
「それでこそ、春を越えた娘さねぇ。咲きなされ、あんたの“夏”を――誰の代わりでもない、あんた自身のために」
風が再び吹く。
向日葵の畑が、ざわりと音を立てる。
そこに咲いていたのは、祈りでも贖罪でもない。
ただひとつの――新しい季節の始まりであった。
篝火村は、未だ燃え残る記憶の中にあった。
村のあちこちには、炎の名残が残っていた。
煤けた壁、崩れた屋根、焦げた柱の下に、泣き崩れたままの誰かの跡がある。
火事は、多くを焼き、奪った。
命も、家も、未来も。
その傷痕は、あまりにも深く、浅くは癒えぬ。
それでも――
村の片隅に、ぽつりぽつりと咲いていたのは、鎮魂花だった。
春姫が遺したもの。
あの娘が身を挺して咲かせた、静かな祈りの証である。
だが、村人たちの目は――
なおも鋭く、お蝶たちに向けられていた。
無理もないことだ。
誰が何を見たのか。
社で何が起きたのか。
お蝶たちが何を討ち、何を救ったのか――
そのすべては、知る者などおらぬ。
ただ一つ、村人たちが覚えていたのは、あの“よそ者”たちがやってきて、村が崩れたということだけ。
怒りにも、悲しみにも、正体がいる。
理由なき苦しみに、どうにか輪郭を与えるには、誰かを憎まずにはいられぬ。
それが人の、哀しい性というものだろう。
お蝶は、何も言わなかった。
ただ、肩越しに村を一瞥すると、ぽつりと呟いた。
「……長居は無粋でござんすな。意図せずとも、また何ぞ……いらぬ“業”が生まれちゃあ、たまったもんじゃない」
それは責めでもなければ、諦めでもなかった。
ただ、静かに一度きりの季節を見送る者の言葉であった。
黒子が、無言のまま葛籠を担ぎ直す。
こはるは、ただひとつ、村の白梅に一礼し、最後の振り返りもなく歩き出す。
村人たちは――誰一人、声をかけなかった。
ただ、その背を見送るように、黙して立ち尽くすばかり。
けれど、その沈黙には、確かに何かがあった。
憎しみか。諦めか。あるいは――
ほんのひとしずくの、感謝のようなものか。
それは風の中に溶けて、もう誰にも確かめる術はない。
そうして、春の終わりを背に――
お蝶たちは、次なる“夏”の兆しを追い、村をあとにした。
こはるだけが、しっかりと、その背を見送っていた。
焼け落ちた社の跡も、崩れた家屋も、すでに風に晒されはじめていたが、こはるの眼差しは、ただ二人の姿を追っていた。
「今はまだ……この村は落ち込んでいても、きっと、何年か先には……よくなっていると思うんです。だから……いつかまた、また来てください」
その声音には、震えも迷いもなかった。
春を越え、夏を迎え、なおここに立つ者としての、確かな覚悟があった。
お蝶は、ゆるりと紅の唇を綻ばせ、肩越しに振り返る。
「へへ……季節が巡りゃあ、また戻って来るさ。そんときゃ、あんたがこの村を咲かせておくれ……春の巫女様よ」
そう言って、艶やかに微笑んだその横で、黒子は黙して葛籠の紐を締め直した。
言葉はなかったが、その所作のひとつひとつに、深き想いが滲んでいた。
彼らは、歩き出した。
背には過去を、足元には未来を携え、風にその身を任せるように、次なる季節へと。
旅は終わらぬ。
それが、命を継ぐ者の宿命なのだろう。
やがて、こはるの頬を撫でる風が変わった。
まだ春の匂いが残る中に、確かに“夏”の気配が混じり始めていた――
◇ ◇ ◇
◆ 終焉詞◆
春を超えて 夏へと至る
命の道を 歩く者あり
託されし名を 抱きしめて
想いの簪 風に鳴る
咲くは一輪 夏の骸花
終わりを告げて 始まりを告ぐ
そして、秋は無明の帳を引く――
── 黄泉の夏 完 ──