【七之幕:季節は巡り】(草稿)
男は崩れた鳥居の前で、ぼろぼろと膝を突いたまま、呻くように口を開いた。
「……俺はな、反対してたんだよ。今回だけじゃねぇ、ずっと前から……」
うなだれたその顔を、夜風が撫でると、乱れた髪の隙間から腫れ上がった目元がのぞいた。紫に変色したその痣は、まるで誰かの意思を押しつけられたように、生々しかった。
「嫌だったんだ……あんなの、ずっと……だから……なつきを、あの子を連れて逃げようとしたんだ……けど……」
声が嗄れ、喉が潰れるような音になった。
「……救えなかった。俺の目の前で……やつらは、あの子を……」
唇が震え、男はただ首を振るしかなかった。
――生贄に、捧げられたのだ。
「……何もかも、可笑しかった。今までだって酷かったさ……けど、今年は……違ってた。目の色が……まるで鬼だ」
男の瞼の奥に焼きついていたのは、血に染まった少女が、半ば意識を失いながら、男たちの手で引きずられていく光景だった。
演舞台での“儀式”を終えた巫女が、神輿に乗せられ、社へと送られる――それが、村の〈春告げの祀り〉における“表向き”のしきたりであった。
舞を舞い、村を笑顔で見送ったあと、巫女は山の社へと向かい、春の到来を願って神に祈りを捧げる。祈りを終えた巫女は、〈神の使い〉として村の外に送られ、他所で奉仕の務めにつく。
――そう語られていた。
だが、それはすべて、虚構だった。
実際には、社に送られた娘は、生きては戻らぬ。
社の扉は二度と開かれず、そこに囚われた娘は、生きたまま?に包まれるのだ。
焼かれることで、“春を呼ぶ”。娘の命が焔となって、雪を溶かし、山を目覚めさせると信じられていた。
「村じゃ、そうやって……“役目を終えた巫女は、外で暮らすんだ”なんて……もっともらしく言いやがる……けど、みんな知ってるんだ……あの社に行った娘は……帰ってこねぇって……」
男は苦悶に顔を歪め、焼け焦げた地面を拳で打った。
「だから、忘れるんだ……村人たちは……見て見ぬふりして……“あれは神のご加護だ”って……そう言って、毎年、春を祝ってやがるんだよ……!」
しばしの沈黙が、村の焼け跡に落ちた。
風が吹いた。まるで、その嘘をあざ笑うかのように。
――忘れられた命。
――祭りの裏に隠された、犠牲と血の真実。
こはるは、ただ震えていた。
なつき――かつて小さき手で扇を握り、こはるの後ろを追いかけていた、あの幼子。
その子が、今、焼かれたのだ。
誰に見送られることもなく。
誰にも救われることもなく。
ただ、“春”の名のもとに。
――その声は、まるで焦土の底から滲み出るように。
焼け落ちた社の残骸のほとり、黒く煤けた石の間より、少女の声がふいに響いた。
「……覚えてるよ。熱かった……苦しかった……でも、いちばん辛かったのは――」
声はどこからともなく響きながら、耳ではなく胸の内へ染み渡る。柔らかくも凍てついた哀しみを帯びていた。
と、その声に呼応するように、焼け跡を撫でる風がひと吹き。
春の余韻を含んでいたはずの空気が、突如、じわりと粘り気を帯びる。
湿り気と熱気を孕んだ空の気配――それは、春を終わらせる気配。
――夏が来る。
お蝶は黙然と立ち上がった。
朱を引いた唇が、低く囁くように紡ぐ。
「春の次に来るのは、夏……。なんの因果か、とうに仕組まれた流れだったんだねぇ……」
その声音は風の向こうに滲み、時の流れを裂くように響いた。
その言葉に、こはるの瞳が揺れる。
「……なつき……わたしの……代わり……」
唇が震え、声が掠れたその刹那――
焼け焦げた地面より立ちのぼる陽炎が、ゆらりと形を成した。
熱風が唸りを上げ、ひとつ、ふたつ、黒焦げの骸が塵のように風へと散っていく。
やがて、社の中心に揺れる光のなか。
そこに在ったのは、一人の少女の姿だった。
白の巫女装束は焦げ跡一つなく、足元からはふつふつと陽の気配が立ち昇っている。長い髪には黒百合の髪飾りがひとつ挿され、瞳には古の夏が宿っていた。
彼女は、ただ静かに立っていた。まるで、最初からそこにいたかのように。
「――こはる姉ちゃん、わたしのこと、覚えてる?」
その声は、耳ではなく、魂の奥底へと直接響いた。
こはるは一歩、また一歩と引き寄せられるように足を踏み出す。
風が止まり、音が消えた。世界が一瞬、時を止めたかのように沈黙する。
こはるの唇が、かすかに震えた。
「……なつき?」
ぽつりと漏れたその名に、白き少女は小さく、確かに微笑んだ。
だが、それは幼き懐かしさでも、再会の喜びでもなかった。
それは――まるで長き眠りを終え、すでにすべてを知り尽くした者の顔。
それは、諦めに似た静けさと、覚悟に染まった清冽な微笑。
風がふたたび吹き始めた。今度は、明らかに“夏”の匂いを含んだ熱を帯びていた。
なつきは、風と共に現れた。
春のあとに咲く、“もう一人の巫女”として――。
「わたし……春を喰われたその夜、呼ばれたの。こはる姉ちゃんの代わりに、“夏の巫女”として……」
なつきの声は、氷をなぞるように静かだった。
瞳は曇りひとつない水面のように澄んでいたが、その奥には、長い歳月を閉じ込めた深海のような悲しみと、炎のごとき怨がひそんでいた。
「誰も、わたしのことなんて見ていなかった……。名を呼ぶ者も、傍に立つ者も、誰ひとり……。だから、今度は――わたしが呼ぶの。“黄泉の夏”を、ふたたび……」
その瞬間だった。
空が、裂けた。
天上から響いたのは、まるで空そのものが悲鳴を上げるかのような、ひび割れる音。
風が逆巻き、焦土となった地を這うように、青白い炎が奔った。
「なつきッ!」
こはるが駆け出そうとした、その身体を、しっかと後ろから抱きとめたのはお蝶だった。
その瞳に宿るは、哀しみと覚悟。
「――そこから先ぁ、黄泉の道よ。姉ちゃん、それ以上踏み入れちゃ、いけねぇよ……」
お蝶の声音は艶やかにして、どこまでも静謐であった。
風が唸る。地鳴りが這う。まるでこの世の理が反転するように。
なつきの身体が、ふわりと宙に浮かび上がる。
白装束の袖が風に踊り、黒百合の髪飾りが夜空に煌めいた。
その背後――焼け落ちたはずの社の残骸が、まるで意志を持つかのように立ち上がり、組み上げられていく。
燃え焦げた柱、崩れた梁が、誰の手も借りずに積み重ねられ、やがてひとつの異形を成す。
――〈夏の社〉。
その姿は神聖を模しながら、どこか禍々しく、凍てついた悪夢の骨格のようでもあった。
お蝶はひとつ息を吐き、そっと呟いた。
「こはるを救った先に、なつきがいた……。犠牲の春を終えた先にゃ、また別の扉が開いたってわけさ」
唇に苦い笑みを浮かべながら、お蝶は続ける。
「犠牲の春は終い。けんど次にゃ、“黄泉の夏”の幕が開くって寸法か……。こりゃあ――ますます、厄介なことになってきたねぇ」
風は止まぬ。
なつきの瞳に宿る炎は、もはやあの幼子のものではなかった。
これは、春を弔ったその先に待つ、新たな季節の祟り。
そして、こはるが抱くべき、次なる“答え”の物語。
黒子は、ただ黙して佇んでいた。
その黒装束の影は、風に揺れることもなく、空に焦げ跡を残したままの焼け野の端に、まるで時間の外にいるかのように沈んでいた。
その胸に何を秘めているのか――誰にも、いや、お蝶にすら、窺い知ることはできぬ。
けれど、この場に立つ誰もが、無言の彼から感じ取っていた。
これはもう、人の手でどうこうできる次元ではない。
運命か、因果か、それとも――
「……神さまの戯れか、あるいは罰か。どのみち、洒落にもなりゃしないねぇ……」
お蝶は、空に残る焔の名残を仰いで呟いた。
空には、なお焦げた雲が尾を引いていた。
地には、いまだ拭えぬ怨の気配。
そしてその中心に、ひとりの少女が立っていた。
なつき。
――黄泉返りの巫女。
焼け落ちた社の跡地、その残炎の熱すら失せた土の上に、突如として姿を現した〈夏の社〉。
それは古き因習の歪みが、時を越えて姿を変え、まさにいま再構築された“呪の祭壇”であった。
なつきは、白装束に身を包み、黒百合の髪飾りを揺らしながら、社の中心に佇んでいた。
その瞳は、夜の底よりなお深く、微かに浮かべた笑みは、見る者の背をぞくりとさせる冷たさを孕んでいた。
神々しさと人ならぬ儚さ――
ふたつの矛盾を兼ね備えたその存在に、誰しもが言葉を失った。
風は、止んだ。
雨も、すでにやんでいた。
空は、さながら薄墨を流したようにぼんやりと曇り、物音ひとつなく、静寂が辺りを覆っていた。
そして――
雲が裂ける。
天頂より、陽が射した。
まるで神託のように、空が晴れわたったのだ。
晴れ渡る快晴。
その光の下、なつきの姿は、まるで天から遣わされた神使のようにも、地より這い出た怨霊のようにも見えた。
お蝶はひとつ、目を細めて呟いた。
「春が終いを告げるころ……夏が目を覚ますって寸法かい。ずいぶん、厄介なお出ましじゃないかえ……なつき、あんたって子ぁ……」
その声音は、嘲りでも哀れみでもなく、ただ真実を見据える者の諦観と静かな敬意に満ちていた。
巡る季節。
いまや春は鎮まり、夏が、祟りとして目覚めようとしていた――。
お蝶が、ひとつ息を吐き、炭を踏むように静かに一歩、足を踏み出した。
焼け落ちた社の残骸、その焦土に生まれ落ちたかのような〈夏の社〉を前にして、彼女の声は決して高ぶることなく、だが確かな響きを持って宙を裂いた。
「……なつき。あんたは、黄泉から“何を”持ち還ってきたんだい?」
その問いに、なつきはふっと目を伏せ、ひととき間を置いてから、まるで古井戸の底から掬い上げたような声で応えた。
「――こはるを救った代償よ」
その声音には、怒りも恨みもない。ただ、火が尽きることを拒む灰のように、燃え残ったものの静かな熱が宿っていた。
彼女の背後で、〈夏の社〉の柱がぎい、と軋む。
その音はまるで、遠い慟哭のように風に乗って社殿の周囲へと響いた。
「……あの春の夜のあと、わたしは“選ばれた”の。こはる姉ちゃんの代わりとして。儀式の“埋め合わせ”として――」
なつきの目は遠くを見ていた。けれど、その瞳が映しているものは、眼前の風景ではなかった。
「けど、誰にも望まれなかった。誰ひとり、わたしの名を呼んではくれなかった。こはる姉ちゃんの命を繋いだ代わりに、わたしがいなくなったことさえ……村の誰も気づかなかった」
お蝶は言葉を挟まなかった。ただ、その視線の奥に、なつきの魂の温度を測るような、深い静寂を湛えて見つめていた。
そのときだった。
なつきの両の手がそっと開かれた。
焦げ土に、黒紫の〈返り火草〉が咲き出す。花というには異様なその姿は、まるで地の底から湧き上がる怨念の火種のように、ぽつりぽつりと芽吹いていた。
「だから、今度はわたしが呑み込むの。春が呑まれたのと同じように、今度は――“夏”を供物として」
その言葉と共に、〈返り火草〉は地を這い、社の基壇を覆いはじめる。
空の色が変わった。
晴れ渡っていたはずの青空が、徐々に翳り、まるで夏の陽炎がそのまま黒雲へと変じたかのように、天を染めていく。
お蝶は、足元の花を一瞥し、唇に紅を引くように言葉を乗せた。
「――なるほどねぇ。春に呑まれ、夏に祟られ……こりゃあ、四季じゃなくて、四怨ってところかい」
なつきの瞳が、その声に一瞬だけ揺れた。
けれど、その揺らぎはすぐに静けさへと戻っていく。
「こはる姉ちゃんが生きたから、わたしは死んだの。
でも、それで良かったのよ……あの人が笑ってくれるなら、それで、ね。
でも……でもね、あの人が、もうわたしを思い出せないのなら――」
なつきの足元から、返り火草が火のように燃え上がった。
「――この夏は、誰のものでもないわ。わたしが、わたしのために咲かせる“黄泉の夏”よ」
お蝶は静かに目を伏せ、風に揺れた髪を押さえながら、ぽつりと呟いた。
「……春を返してもらったら、今度は夏を引き換えに持っていかれる……。皮肉なもんだねぇ、まったく」
そして、風が吹いた。
なつきの姿が、返り火草の中心に立ち尽くし、まるでこの夏そのものを纏った化身のように、静かに空を仰いだ――。
空が灼けるように白み、季節の鼓動が狂い始めたのは、それが現れてからのことだった。
〈夏の社〉――焼け落ちた旧社の焦土に、禍々しき呪の理によって再構成されたその社は、いまや誰も寄りつかぬ禁足地となり、昼夜問わず淡い火の粉を宙へ撒いていた。
その火は、風に乗って村の屋根を焦がし、畑の苗を枯らし、井戸の水を濁らせた。
老女が目を凝らして言った。
「……陽は出とるのに、どうしてこうも……肌が焼けるように痛むのかねぇ……」
子を背負った若き母が泣き叫ぶ。
「この子が……熱を出したまま、冷めないんです……水も、薬も効かないの……!」
軒先では、蓑を着た男が唇を震わせて天を睨んでいた。
「……夏の陽が……燃えちまってる……あれは、陽の光じゃない……炎だ……!」
村に広がるのは、無音の災禍であった。
だが、誰一人としてそれを“なつき”の仕業とは口にせぬ。
なつきは、村にとって“無かった者”であり、“忘れられるべき存在”であったからだ。
――だが、それこそが彼女の怒りを燃やした。
その夜。
〈夏の社〉の奥、かつて神楽が舞われた祀りの間に、なつきはひとり立っていた。
白装束に浮かぶ赤黒い影は、まるで夏に灼かれた死装束のようであり、彼女の肌には燻るような文様が浮かび上がっていた。
目を閉じたなつきの唇が、ふいに動く。
「……燃やす。わたしを捧げた村も……名を呼ばなかった人々も……記憶ごと、ぜんぶ燃やしてしまえば、きっと楽になれる……」
次の瞬間、社の祭壇の中央に、〈返り火草〉がひとつ咲いた。
ひとつ、ふたつ、みっつ……。
無数の黒紫の炎が地を這い、境内の木々に絡みつく。
その火は火でありながら熱を持たず、触れたものを“思い出”ごと焼き払う呪の焔だった。
そして、天が裂ける。
なつきの足元から、緋色の裂け目が地を割るように走り、地中深くに眠る“過去”が目覚める。
〈黄泉〉の囁き。
かつて生贄となった少女たちの名もなき嘆きが、返り火の焔に乗ってこの世へと還る。
なつきの瞳がゆっくりと開かれた。
そこには、もう“人の子”の光はなかった。
その眼は、春の終わりを拒み、夏の命を灼き尽くす、異なる理の象徴――
〈夏祀の主〉。
風が止み、虫の声が絶えた。
空は凪いだまま、昼とも夜ともつかぬ“白い闇”に覆われた。
――黄泉の夏が、始まった。
〈夏の社〉――それは焼け落ちた旧社の骨の上に、呪いが織り上げた“祀りの骸”であった。
その柱は赤黒く、焔に焼かれたような裂け目からは熱気が漏れ、屋根には触れれば記憶を溶かす返り火草が咲き乱れていた。風すらも社のまわりでは立ち止まり、虫の音も絶えて久しい。
なつきは祭壇の中央に立っていた。
その姿は、かつて神に捧げられた巫女たちの面影を纏いながらも、もはや人ではなかった。白装束の袖は炎に揺れ、足元の影は緋色に染まっていた。
「ようこそ、わたしの“夏”へ」
なつきの声は、遠雷のように境内を這った。
■ 闖入者、来たり
お蝶とこはるが〈夏の社〉の前に姿を現したとき、空は血のように灼けていた。
鳥居は歪み、社を囲う結界のような熱風が、近づく者を拒むように渦巻いている。
だが、お蝶はひるまなかった。
「……ほう、歓迎の火ぃが派手やこと。けど、こんな熱、花魁の肌にはちぃと足りんくらいやねぇ」
手の甲で口元をぬぐうと、お蝶は髪に差していたかんざしを一本抜き取り、ひらりと指先で宙を踊らせた。妖糸が光を纏い、結界のひと隅に刺さる。
瞬間、空気がひび割れた。
「さ、こはる。行くよ。あの子を――迎えにね」
■ 夏の社、動く
だが、社が応えた。
柱が呻くように軋み、地を這う黒紫の根が石畳を突き破って伸びた。それらはまるで生きているかのように動き、お蝶たちの足元へと伸びる。
「ッ……足が……!」
こはるが声を上げる。
だが次の瞬間、お蝶のかんざしが煌き、根の一本を一閃にて断つ。
「しっかりなさい、こはる。ここぁ、あんたが“春”を取り戻した場所。けど……今度は“夏”が、あんたに託されとるんやよ」
お蝶の声は、熱のなかにあってなお、冷たく、冴えていた。
■ なつき、舞い踊る
祭壇のなつきが、ふと目を細めた。
「やっぱり……来たんだね、こはる姉ちゃん」
その瞳には涙ではなく、火が宿っていた。
次の瞬間、なつきは手を広げる。
社の天井が砕け、空から黒い火の粉が降り注いだ。それは燃えず、焼かず、ただ記憶と痛みを呑み込む“消去の火”だった。
「記憶を焼き尽くせば……苦しみも、全部消えるの……わたしみたいに、なかったことに……!」
「なつきィィィ!」
こはるが叫び、駆け出した。だが炎の鎖が彼女の進路を阻む。
お蝶は一歩前に出た。
「悪ぅな、なつき嬢ちゃん。こはるの前を塞ぐんは、あたしの務めやない。けんど――あんたの道も、今ここで止めさせてもらうで」
お蝶の妖糸が舞う。
絡みつく火の蔓を断ち切り、地を這う根を縫い、空から落ちる火の粉を撥ね退ける。
ひとつ、またひとつ――
まるで舞のように、お蝶は炎のなかを跳ね、斬り、舞い進んでゆく。
■ こはる、呼びかける
こはるの足がふらつく。
だが、彼女の声は震えていなかった。
「なつき――あんたが、わたしの代わりになったこと……本当は知ってた……ずっと、目を背けてただけ!」
なつきが微かに振り向く。
「……だから、今さら赦されたいの?」
「違う! 赦してほしいんじゃない! ……ただ、わたしは、あんたを――救いたいだけだよ!」
■ 闇を裂く、糸と声
お蝶が囁く。
「聞いといで、なつき。あの子の言葉は、嘘ちゃうで」
結界が割れる音がした。
妖糸の一閃が、〈夏の社〉の結界を断ち切ったのだ。
空が動き、社が震えた。
なつきの身体が、一瞬だけふらついた。
■ 次章への楔
なつきは顔を伏せる。
「……こはる姉ちゃん。あんたが……わたしを呼んでくれたなら……」
その瞬間、社の焔がふっと凪いだ。
だが――。
なつきの背に、再び黒い影が現れた。
それは、巫女という存在そのものが背負った“系譜の闇”。
春を呑み、夏を焼き、秋へと続く新たなる因果の扉が、ゆっくりと開かれようとしていた。
焼け跡に揺れる夏の残光。その中央、〈夏の社〉の祭壇に立つなつきの姿は、もう人の世にあるものとは思えなかった。
髪に挿した黒百合の髪飾りが風に揺れるたび、陽炎のような残滓がゆらりと立ち昇る。白装束の裾が焦げ跡に舞い、瞳はどこか遠い――人の世と神の世の狭間を見ているかのようだった。
こはるは、その姿を見据えながら、ひと足ずつ近づいた。
「なつき……わたしは、あんたを忘れたことなんて一度もないんだよ……あの日から、ずっと……」
なつきは微笑んだ。けれど、その笑みは、あまりにも静かで、あまりにも遠かった。
「わたし、こはる姉ちゃんの背中、ずっと見てたんだよ。あの時、姉ちゃんを助けられたのが、ほんとうは嬉しかった。けど、誰も――わたしの名を呼んでくれなかった」
「……すまない。わちきは、ずっと目を背けとった。あんたの“夏”を、生きた証を……見ようとせんかった」
お蝶が静かに言った。
「けれど、あんたは“燃え尽きること”を選んじゃいけない。夏は、燃えるために咲く花やない。“実り”へと続く道や。あんたが歩くべき季節は、ここで終わっちゃいけねぇ」
なつきは、ふいに顔を伏せた。そして、ぽろりと涙をこぼす。
「じゃあ、わたし……どうすればいいの……?」
こはるが、そっと手を伸ばした。
「わたしと一緒に、生きてほしい。もう、春を終わらせたんだ。今度は、あんたの“夏”を生きて――その先を、見てほしいの」
ふたりの手が、ゆっくりと重なった。
その瞬間、〈夏の社〉を包んでいた黒紫の火が、ふっと風に揺らぐように静まり、返り火草が灰となって溶けた。
そして、なつきの身体から、光がふわりと立ち昇る。だがそれは炎ではなく――希望の灯。
お蝶がにやりと笑って言う。
「黄泉の夏を抜けたんなら……あんたの季節は、もう“終わり”やない。“始まり”なんだよ、なつき」
なつきが、微かに頷いた。
それは、永い鎮魂の果てに、ひとつの魂が選んだ“再生”のしるしだった。
――やがて、風が吹いた。
そこには、静かに咲く一輪の花。燃え残りではなく、芽吹きの兆し。
そして、空が微かに鳴った。
――夏の亡霊たちが、声を重ねて、なつきに語りかける。
「――なつき、わたしたちは忘れない」
「あなたの祈りを……」
「一緒に咲いて、終わろう……」
空が、かすかに鳴いた。
風が、ゆるりと動いた。
その風に紛れて、かつてこの地で散った“夏の亡霊”たちの声が、どこからともなく微かに響く。
「――なつき、わたしたちは忘れない」
「あなたの祈りを……」
「一緒に咲いて、終わろう……」
お蝶は、はっと息を呑んだ。
「……こりゃあ、ひとりやふたりの無念じゃありやせんねぇ。時を越えて供養もされず、祈りも応えられぬまま打ち棄てられた“夏”……何十年と積もり積もった怨嗟が、ようやっと花を咲かせたってことかいな」
なつきの身を包む白装束が、かすかに揺れる。返り火草の黒紫の花弁が、風に乗って天へと舞い上がる。
それは呪いではなかった。
春を経て訪れるはずだった“季節”――失われた夏が、ここに顕現したのである。
なつきの姿は、炎に焼かれるのではなく、朝靄のように、やわらかく、透明に溶けていく。
そのありさまを、こはるは茫然と見つめ、ひとつ歩を踏み出した。そして、震える声で名を呼んだ。
「……なつき……わたし、忘れてなんていなかった。あんたと踊ったあの夕暮れも、歌った唄も、全部覚えてる……だから、どうして……どうしてわたしの代わりに――」
なつきは、静かに、けれど確かに微笑んだ。
「……忘れてくれて、よかったのに」
その笑顔には、諦めでも、恨みでもなかった。むしろ、それを超えた、深い受容の色が宿っていた。
「こはる姉ちゃんが、生きていてくれるなら……わたし、それで、よかったんだよ」
彼女の頬を、ひとすじの涙が伝う。
その涙が頬を離れた刹那、風がそよぎ、遠くで蜩の声が鳴いた。
まるで、夏の終わりを告げる鐘のように――
お蝶は、そっとこはるの背に手を添え、低く、深く囁いた。
「……夏が終わりゃ、秋が来る。けれど、あの娘の“夏”は、ここに置いていかれちゃなんねぇ。あんたの中で、咲かせておやり。悔いやなく、願いのままに……」
こはるは、涙を拭わずに頷いた。
なつきの身体が、光の粒となり、空へと溶けてゆく。
その残響が、なおも地に残る“聖火”のように、静かに辺りを温めていた――
◇ ◇ ◇
なつきの身体は、ほのかに光を帯びながら天へと昇っていった。
それは、まるでひとひらの花が風に舞うようでもあり、またひとすじの祈りが浄化されていくようでもあった。
――だが。
天が割れた。
空の蒼がひび割れ、その奥より巨大なる〈門〉が姿を現した。
門は光に包まれていた。金剛石のように煌めき、無垢の白に彩られながらも、見る者の魂を膝から崩れさせるほどの威圧を孕んでいた。
まるで、神が裁きを下すために、その“正義”を掲げて現れたかのように。
「……ちっ、またかい……天界の偽善者どもめが」
それは、誰とも知れぬ男の低い呟きだった。風にまぎれ、地に沈むように吐き捨てられたその声には、底知れぬ憎悪と嘲りが滲んでいた。
次の瞬間、天空に七つのラッパが鳴り響いた。
その調べは甘美にして荘厳、狂おしいまでに美しい旋律を伴い、天より声が降ってくる。
――これは救済、これは昇華、これは永劫の祝福。
耳に触れただけで涙が溢れるような、聖なる響きであった。
こはるは膝を折り、地に伏す。
涙がとめどなく流れる。理屈ではなかった。ただ、魂が震え、胸が満たされ、息をするだけで幸福に包まれる。
「……なんで、涙が……止まらない……こんなにも……温かい……」
お蝶が、それを見て駆け寄った。こはるの両肩をぐっと掴み、眼と眼を真っ直ぐに合わせ、躰ごと強く揺さぶる。
「気ぃ確かにおし! そりゃまやかしの光、耳ざわりのええ声で心ぅ縛りつけとるだけさ!」
「でも……お蝶さん……わたし、今……こんなに幸せで……天にも昇るって、こういうことなんだね……もう……死んでもいいくらい……」
「……やれやれ、しっかりおしな……こりゃ洗脳が強すぎるねぇ。あれをどうにかしなきゃ、皆が神の名の下に、喜んで魂を明け渡しちまうわ!」
お蝶は、ふらつくこはるを支えながら、ゆるゆると天を見上げた。
門が開こうとしている。
聖なる響きの裏側に、ぞっとするほどの沈黙があった。
開けば終わる――そう告げるかのように、空の門はひとすじの光を漏らし、その口をゆっくりと開きつつあった。
その奥より、まるで裁きの火を孕むかのような白光が漏れ出してくる。
村の者たちは跪き、喜悦の涙を流し、手を掲げていた。
だが、お蝶だけは、天に向かって毒を含んだ微笑を浮かべて言った。
「神サマがなんぼのもんだい……あたしらはあたしらの地べたで、己の春も夏も、ちゃあんと歩いて咲かすんだよ」
その声は、あらゆる天の調べを裂くように、鋭く――そして誇り高く、夜気の中に響き渡った。
空に裂け目が走った。
そのわずかな隙間より、白銀に光る無数の手が、螺旋を描いて天より垂れ、ふわりと浮かぶなつきの身へと伸びていった。
指先は美しく、まるで天使の祝福のようでありながら、その指の一本一本には、神聖と呼ぶにはあまりに過酷な意志がこもっていた。
――それは、祝福の手ではなかった。救済の名を借りた拘束。穢れなき意志による、断罪の手。
そのとき、空に妖糸の煌めきが走った。
お蝶が、両手を高く掲げて妖糸を放つ。投げ縄のように巻き上がった糸は、天の光の中を翔け、幾本にも枝分かれして手を断ち切っていく。
ぎぃぃぃ、と虫のような甲高い悲鳴が虚空に木霊する。
断たれた手がぼとぼとと地に堕ちる。輝きを失ったその白き手は、地に触れた瞬間からぶくぶくと膨れ、蛆を湧かせて黒く変色していった。
「冥府の手にゃ届かせやしないよ……なつきは、まだこっち側の娘だ!」
お蝶は叫ぶようにして、妖糸をさらに放つ。糸はなつきの腰元へ絡み、ぐい、と一気に地へと引き下ろそうとする。
だが、なつきの身は羽のように浮かんでいるというのに、あまりにも重い。
引けども引けども、糸はきしみ、なつきの身体は揺れるばかりで降りてこない。
「……重いねぇ、この子が背負わされとるもんは……あたしひとりの手には余るかい!」
そのとき、黒子が一歩、静かに進み出る。
葛籠の蓋が音もなく開いた。
中から溢れ出したのは、底知れぬ〈闇〉。怒りの熱を孕みながらも、音なき奔流のごとく、空を裂いて門へと襲いかかる。
黒い布のようなそれは、怒号も嘆きも持たぬまま、門の柱へと絡みつき、扉へと滲みこみ、まるで溶かすように光を喰らいはじめた。
「喰らいな、あたしらの苦悶と怨嗟を、その“きれいごと”の門ごと飲み干しちまいな!」
お蝶の声が風を裂いた。
〈闇〉は何重にも門に絡みつき、空をひとしきり暗く染め上げてゆく。天界の門は、光を失い、徐々にその輪郭を歪ませた。
――あと少しで届く。
あと一息で、天界の偽りは呑まれようとしていた。
だが、刹那。
門の隙間から、ぞろりと黒い影が這い出た。
それは――蝗であった。
最初は一匹、そして十、百、千と。
無数の蝗が、門のひび割れから這い出し、羽音を鳴らしながら空を覆ってゆく。
蝗は〈闇〉を喰らい、地を這い、空を覆い、風を汚し、火のごとく渦巻いた。
「……こりゃ、神サマが出してきた“最後の切り札”ってとこかい……なんともえげつない真似を……!」
お蝶の声には怒りというよりも、深い哀しみと呆れが混ざっていた。
この地に在るべき夏を、“神の正義”とやらが、いま呑み込もうとしている。
――なつきを救うのか、それとも――夏そのものを呑み込ませてしまうのか。
風が唸り、戦いは、いよいよ臨界を迎えようとしていた。
――空が、裂けた。
天の門は、ついにその口を完全に開いた。
まばゆき光が大地を照らす。だが、それは祝福ではなかった。眩さの底にあったのは、冷たい審判、血よりも白き暴力。
光が柱となって地に落ちる。
最初に焼かれたのは、村の祠に伏していた老婆だった。
ただ手を合わせていただけの老いた手が、骨ごと音もなく蒸発した。
次いで、逃げ惑う者たちの背に、まるで神罰の矢のごとき閃光が突き刺さる。
肉は焦げ、骨は砕け、影だけを地に焼きつけて、村人たちは次々に消えていった。
「……っ、あれが……“許し”ってのかい……!」
お蝶の声が震える。怒りか、絶望か、その区別すらも付かぬほどに震えていた。
「冗談じゃないよ……これが、あんたらの“慈悲”かい……?」
門より降り注ぐ白き炎は、選ばず、分け隔てず、ただ無慈悲に降り注ぐ。
善人も、罪人も、子も、母も、狂った者も正気の者も。等しく、許しと称された裁きに焼かれていく。
ひとり、またひとりと、篝火村の人影が消えていった。
燃えたのは躰ばかりではない。神棚も石碑も、幼子が作った泥団子までもが、神の焔に呑まれていく。
――それは、浄化ではなかった。
――それは、断絶だった。
お蝶は、なお立ち尽くすなつきの姿を見つめた。
彼女の瞳に映るのは、降り注ぐ光――そして、滅びゆく村の影。
「なつき……目ぇ覚ましな! それが“救い”かい? あんたの願いが、そんなもんだったのかい……?」
なつきは微動だにしなかった。
だが――風が変わる。
ひとひらの花びらが舞った。
それは、返り火草ではなかった。
春姫の遺した、白き鎮魂花の花弁だった。
焦土を滑るように、ひとひらの花が、なつきの頬に触れた瞬間――
少女の肩が、小さく震えた。
――風が、止んだ。
突如として、なつきの両の瞳が見開かれた。
その眸に宿るは、神々が与えし光ではない。人としての、選択の光であった。
「……違う……こんなこと、わたしは……望んじゃいない!」
声は悲鳴にあらず、叫びにあらず――まるで呪縛を断ち切る祓言のように、天を衝いた。
なつきの白き衣が風に翻り、光と熱を孕んで眩く輝きはじめる。
その身を包んでいた天よりの〈意志〉――それは〈闇〉をも凌ぐ天罰の光であったが、今や彼女自身の意志のもとに祓われ、燃え尽きてゆく。
蝗どもは絶叫とともに焼け落ち、天に流れていた旋律――甘美にして残酷なる“神の歌声”が、虚空に吸い込まれるように消え失せた。
「……っ!」
こはるが息を呑み、震える瞳を見開いた。
――正気に還ったのだ。
「春姫さまも、こんな“救い”を……望んでいない……!」
胸元で、春姫から受け継いだ銀の簪が、ひときわ強く光を放つ。
その光が、こはるの身をやわらかに包んだ。
ふわり――まるで春風に乗るように、こはるの身体が空へと浮かびあがる。
白梅の香が漂い、天地の境すら超えるかのごとく、彼女はなつきのもとへと運ばれていった。
ふたりの少女が、空に浮かぶ。
炎の舞台を背に、青空を仰ぎ、静かに、しかし確かに手と手を取り合う。
「……あたしらの祈りで……あたしたちの“夏”を……もう一度、生まれ変わらせよう……」
こはるが呟くと、なつきの瞳にも涙が浮かぶ。
そして――
ふたりの少女が、同時に、天に向かって掌を合わせた。
その背に、光。
それは西洋のそれでも、天界の裁きでもない。
日ノ本の八百万の神々が、それぞれの姿で姿を現す。
炎の中に、白狐が駆ける。
雲の中より、天鈿女命の舞が舞い降りる。
山の背より、鹿の角を戴く神が、静かに首を垂れる。
海の彼方からは、龍がひとつ、空をめぐる。
――そのすべてが、なつきとこはる、ふたりの少女の選択を肯んじたのだった。
後光は、太陽を超えて天を裂き、まばゆき神域そのものとなった。
村の大地が震え、天の門の影が最後の呻きをあげて崩れ落ちる。
光がすべてを呑み、世界はひとたび――白く塗りつぶされた。
……
そして、光が収まったとき。
そこにあったのは、青く澄んだ空と、風に揺れる夏草だけだった。
天の門は、どこにもなかった。
お蝶は、地に膝をついて空を仰ぎ、ぽつりと呟いた。
「――やれやれ……あれが“神”のお裁きだってんなら、あたしは何度でも人間のほうを選ぶよ……」
こはるは、なつきの手を握ったまま、小さく微笑んだ。
なつきもまた、肩の力を抜き、ひとつ深く息を吐いた。
その瞬間、はらりと舞ったのは、白き鎮魂花の花びら。
それは、夏の終わりを告げるものではなく――はじまりを象徴する、新たな季節のしるしであった。
お蝶は、そっと空を仰いだ。
その双眸に映るのは、もはや禍々しき天門ではなく、透きとおる青の彼方――
「わちきひとりじゃ、手に負えなかったでござんす……」
ぽつりと呟いたその声音は、決して誇らず、ただ深く、感謝に満ちていた。
お蝶は静かに二歩前へ出ると、天に向かって二度、深く頭を垂れた。
二礼。
手を重ね、ぱん、ぱんと二拍。
そして、もう一度の礼。
「この地には……二柱の土地神様が、宿っておいででしたんやねぇ」
そう言って、静かに目を伏せた。
空より、こはるとなつきが舞い降りる。
その姿は、まるで春と夏とが同時にこの地へと還ってきたようで――
けれども、なつきはもう、限界だった。
地に降り立った瞬間、糸の切れた人形のようにその場へ崩れ落ちる。
「なつきっ!」
こはるが駆け寄り、迷いなく膝をつき、抱き留める。
その腕の中で、なつきの躯はふんわりと温かく、しかし、どこかしら遠い風のようでもあった。
「わたし……もう、逝かなきゃいけないの」
その声は、微かに笑っていた。
それが哀しい冗談であればと、こはるは思った。
「そんなこと、言わないで……! 一緒に生きよう、ねぇ、いっしょに、また村へ帰ろうよ……!」
「だめだよ……わたしは、もう死んでるから……。ここにいるのは、ちょっとだけ……借りた時間だったんだって」
なつきの指が、こはるの頬をなぞる。
冷たくはなかった。ただ、儚かった。
「お姉ちゃん……生きていて……。あのとき、助けられてよかった……わたしが、かわりでよかった……」
こはるは頭を横に振る。
涙がぽろぽろと零れ落ち、なつきの髪を濡らした。
「でもね……夏になったら……また、昔みたいに……盆踊りをしようって……“夏姫さま”が、そう言ってたの……」
なつきは、まるで子供のように、無邪気に笑った。
その笑みの奥には、もう痛みはなかった。ただ――満ち足りた、救いがあった。
その笑みを最後に、なつきの身体はふわりとほどけるように、光とともに消えていった。
こはるの腕のなかには、もう何もなかった。
ただ――
そこに、ひとつ。
季節外れの、小さな向日葵が咲いていた。
夏の象徴。
燃える太陽を見上げる、小さな命。
お蝶はその花に目を落とし、そっと言の葉を洩らす。
「……ようやく、夏が咲いたんやねぇ」
その声は、涙を堪えきった誰かの代わりに、静かに震えていた。
「長すぎた春に、皆が慣れすぎて……夏の訪れを、誰も思い出せなかったのかもしれないね」
こはるが、空を仰ぐ。
そこには、もはや神の門もなければ、呪いの気配もない。
ただ、広がる青と、微かに香る、夏草の匂い。
「春は……こはるは、終わったんだね。これからは、“なつき”の季節……」
お蝶はゆっくりと、こはるの背を押すように、微笑んだ。
「そうさ……“春”のあとに来るのは、“夏”さ。生まれ変わりでも、継ぎ目でもない。季節はね、ただ……巡るだけなんだよ」
こはるは、向日葵の傍らで、なつきの名をそっと呼んだ。
「……なつき。わたし、きっと、忘れないから」
そして、静かに、深く一礼をした。
風が吹いた。
初夏の風だった。
どこまでも、やわらかく、あたたかく――
季節は巡る。
命もまた、巡る。
それは、終わりではなかった。
夏のはじまりだった。
◇ ◇ ◇
世のすべてが息をひそめる丑三つ時。
闇に沈んだ社の跡地に、ひとつ、人影が揺れていた。
月は雲に隠れ、風すらも気配を殺すなか――
その影は、ひざまずくようにして地に咲いた向日葵を一本、また一本と、刈り取っていく。
ざり、と茎が裂ける音。
影の主は、小声でなにやら呪のごとき詞を口にしていた。
「……これでいい……これで、よいのだ……夏は、まだ終わらぬ……まだ……」
その声は男とも女ともつかず、老いも若きも判じ難い、曖昧な音色であった。
向日葵は無造作に地へ投げ捨てられた。
そして、影はまるで霧のごとく、その場から姿を消した。
やがて――
捨てられたはずの向日葵の束が、ぬらりと蠢いた。
しゅるり、と音もなく、一本の茎が伸び、芽吹くようにして形を変えていく。
茎は腕となり、根は脚となり、蕾の奥より一枚の花弁が?がれ――そこに、顔が現れた。
――否、貌である。
ついにそれは、幽鬼のごとき静けさで立ち上がった。
生まれたままの白き裸身を、月の淡き光が照らしている。
その肌はまだ土の気配をまとい、滴る露を身に引いている。
貌は、なつきであった。
いや、なつき“に似たもの”――
ただし、その瞳に映るものは、あの夏に散った少女のものではない。
そこに宿っていたのは、ただひとつの問い。
少女は、地に咲いた最後のひとひらを摘み、掌に乗せた。
ゆらりと風が吹き、花弁がひとつ、指先から滑り落ちた。
そのとき、彼女は、ぽつりと、つぶやいた。
「……わたしは、だれ?」
その声音は、悲しみでもなく、怒りでもなかった。
ただ空虚な、名もなき命のはじまりを告げる囁きであった。
――“なつき”という名が継がれた者。
けれど、それは“なつき”そのものではない。
それは、新たなる“夏”の、はじまりであった。