【六之幕:黄泉の焔】(草稿)
焼けては蘇り、また焼かれることを繰り返してきた幻の社――〈鬼の社〉。
今、その姿はどこにもなかった。
すべては〈闇〉が呑み込み、ただひとつ、かろうじて残されたのは、〈風哭きの社〉の鳥居のみ。
春姫たちは鎮魂花により浄められ、村人の罪より生まれし〈春を呑む鬼〉もまた、〈夜茂る主〉に裁かれ、闇へと還って逝った。
冬、そして春。
呑まれた春が還って来た。
季節は巡る廻る。
――篝火村は燃えていた。
蝉の鳴き声にも似た、けたたましい村人の叫喚。
空はまるで溶け落ちんばかりに白く、風は熱を孕み、吹くたびに焦げた灰を巻き上げていた。
村のあちこちで火の手が上がり、藁葺きの屋根が音もなく崩れ落ちる。
誰かが叫んだ――
「鬼の祟りじゃ!」
誰かが泣いた――
「死者が怒っておるんじゃ!」
彼らはまだ知らぬ。
あの社で何が起きたかを。
春を取り戻したその代償が、まだ何も終わっていなかったことを。
「祟りじゃ祟りじゃ!」
積み重ねられた罪と嘘が、まだこの村には残っていた。
ひとつ、ふたつと、軒先の藁に火が這った。
焚き口にくべられたはずの薪が、音もなく爆ぜ、紅蓮の舌を天に伸ばす。
畑に積まれた麦束が燃え、井戸の水すら煮え立つ。
風は助けることも、逃がすこともせず、ただすべてを煽った。
炎は獣のように喰らい、舞い、吼えた。
煙は地を這い、黒い蛇のように村を這いずった。
炎に照らされた村人の影が、ゆらゆらと揺れながら、地獄絵のように歪む。
誰かが叫ぶ声があった。
誰かが泣いていた。
されど、それすらも、燃えさかる音に呑まれていった。
天は沈黙し、大地は呻いた。
山あいの小さな村は、夏に焦されたように紅く染まり、いつまでもいつまでも燃え上がった。
まるで、“夏”そのものが狂ったようだった。
◇ ◇ ◇
その光景を、お蝶たちは高台から眺めていた。
社よりひとつ上の見晴らし台。
燃え上がる村の輪郭が、真昼の陽に歪んで見える。
「幕は下りたと思うとりましたが、こりゃあ……まだ終いじゃあなかったようでござんすなぁ」
それは全てを見透かすようなお蝶にさえ、予想外の出来事であったようだ。
「お蝶さん、村へ戻らなきゃ!」
こはるが駆け出しかけるも、ふいに足を止めた。
春姫の簪が耳元で揺れ、風の中に紛れて、かすかな声が――
「……わたし……まだここにいるよ……」
それは鬼の呻きではなかった。
春姫でも、こはるでもない。
もっと幼く、もっと哀しい、少女の声だった。
お蝶もその気配を感じ取り、眼を細めて峠の道を振り返る。
鳥居の向こう、焼け落ちた社の土台のさらに奥、残されていた鎮魂花の一輪が黒く萎れてゆくのが見えた。
焦げた布切れが一片、風に乗って舞い、お蝶の手元にふわりと落ちる。
布の感触。
焼け焦げの匂い。
そして――
妖糸を伝い、流れ込んできた記憶の残滓。
――供花の巫女、なつき。
手に握られていたのは巫女装束の切れ端だった。
「……黄泉の火、まだ消えておりやせんね」
ぽつりと落としたお蝶の一言に、こはるは息を呑んだ。
そのとき、村の方角からひとりの若者が、息も絶え絶えに山道を駆けてきた。
「おい、おいッ……村が……村が火事だァ!」
村の惨事に、社へ向かった男衆たちを呼び戻しに来たのだろう。
男はお蝶たちを見てぎょっとした。
葛籠を背負った黒子に目を留めたとたん、忌み嫌うような視線を送った。
「……おまえらか。いったい何をした! 村の男たちはどこだ!」
「さて、どうかねぇ。まだ社に残っとるかもしれんよ」
お蝶が顎をしゃくって方角を示す。
男は礼も言わずに鳥居の目指して駆け去った。
その背を見送りながら、お蝶はこはるの方を向いた。
「村は後だよ。あたしらは……呼ばれとる場所に、行かなくちゃね」
「はい……」
こはるは頷いた。
山道には、夏の入り口を告げるような熱気が立ちこめていた。
その空気は重く、けれど、ただの暑さではなかった。
何かが、まだこの地に棲みついている。
そう告げるかのように、風は無言で彼らの背を押した――。
鳥居をくぐった先――焦げた社の跡に、灼けた夏の匂いが重くのしかかっていた。
お蝶たちの前で、先ほどの男が顔面蒼白のまま立ち尽くしていた。
鼻を突くのは、草木の焦げる匂いではない。
もっと濃く、もっと重く、皮膚の奥まで染み入る――
人が焼けた臭いだった。
地には黒く炭化した屍が横たわり、その周囲には鉄の刃が錆びたまま無残に転がっていた。
桑、斧、鉈――村の男衆が握っていたであろう農具の残骸。
その柄は焼け落ちてなく、争った痕が生々しく地に刻まれていた。
お蝶は一歩、男に近づいた。
「……いったい、何があったんだい?」
その声音には、怒りもあったが、それ以上に悲哀が滲んでいた。
男は蒼ざめた顔を引きつらせたまま、口を開いた。
「それは……こっちの台詞だ。こんな悍ましいこと……俺が知るわけない……」
「社で何が起きたかじゃないよ。あんたたちが村で“何を”したかを、訊いてるんだ」
お蝶の声は、鋼を帯びていた。
「……火が、突然、村じゅうを呑んだんだ。どこからともなく、焔が吹き上がって……あっという間に、家が、畑が、家族が……」
「どうして火が出たのさ?」
「わからない、でも……でも俺は見たんだ……炎の中に……あの子が、立ってた。泣いてた。なのに、あの顔は……」
男は震える指で、空の焦げた一点を指した。
「……鬼だった……」
その名が口をついて出るより早く、こはるが一歩前へ踏み出した。
「……誰? 誰がそこにいたの?」
男の唇が小さく動いた。
「……なつき、だよ……あれは……なつきだった……」
その名を聞いてこはるは眼を見開いた。
「なつき!? なつきに……何があったの……?」
男は苦しげな表情でうつむいた。
黙する男の袖をこはるは掴んで力強く振った。
「なつきがどうしたんですか!」
男はこはるを振り払い、焼け焦げた屍体を一瞥したかと思うと、急に口元を押さえて喉元を鳴らした。
膝をつき、地に手をつくと、腹の底から湧きあがるような嘔吐が、嗚咽とともに彼を支配する。
そのまま、肩を震わせ、鼻水を垂らし、泣き崩れた。
「……あの子を、俺たちは……」
ようやく絞り出されたその声は、懺悔の響きを帯びていた。
「……なつきは、お前の代わりに〈春告げの巫女〉にされたんだ……」
こはるの身体が硬直する。
「春を呼べないなら、春の巫女を入れ替えろ。そう言い出したのは、村の長だった……。まだ子供だった……あの子を、無理やり……社に……」
お蝶が、じっと男を見下ろしたまま、ゆっくりと口を開く。
「お前ら、春を呑んだ罪の重さ、ほんにわかってんのかい……? “なつき”が見た地獄――それが、今、お前たちを焼いたんだよ」
男は泣き続けた。声も出さず、ただ喉の奥で呻くように、焼け焦げた大地に額を擦りつける。
こはるは、その場に立ち尽くしていた。
言葉も出なかった。涙すら、流れなかった。
ただ――その胸の奥に、小さな声が鳴っていた。
「……ごめんね、なつき……」
それは、誰にも届かない、心の底の叫びだった。
お蝶の瞳は静かだった。
その傍らにいた黒子の拳は固く握られ、わなわなと震えていた。
そしてそのとき、風がひとすじ、黒煙のなかを縫うように吹き抜けた。
その風の向こう、まだ焼け残る夏の村の奥――その先に、“なつき”の影が、ふたたび姿を現すのだった。
◇ ◇ ◇
こはるは、焦げた空の匂いの中に、遠き日の微かな香を思い出していた。
――あれは、まだ身売りされる前のことだった。
篝火村に春の兆しが訪れ、田畑には若草が萌え、川辺にて小石を跳ね遊ぶ音が響いていた頃。村の女たちは広場に集まり、年若き娘らに舞を教えていた。
春告げの舞――そう呼ばれていたが、誰ひとりその意味を正しく教えられたことはなかった。
ただ、季節の移ろいを祝うものとだけ伝えられ、娘たちは赤ら顔を寄せ合いながら、手を取り合って足運びを覚え、裾の捌きを真似て笑っていた。
こはるもまた、その輪の中にいた。
花の刺繍の入った布を巻かれ、片手に小さな扇を持たされて、陽に照らされた土の上をくるりと回る。それが誇らしく、ただ楽しく、ほんの少し大人に近づけたような気がしていた。
その輪の中に――ひとり、小さき影があった。
他の子らより年の離れた、細い手足の幼子。背の低さゆえに列に入るのもやっとで、舞も覚束ず、扇を逆に持ったまま転びかけていたあの子。
それが、なつきだった。
舞の手を何度教えても、すぐに忘れてしまう。
右と左を間違えて、よく笑われていた。
でも、誰よりも一所懸命だった。
何度転んでも泣かなかった。
転んだら、自分で起きて、泥のついた膝を拭って――
それでも、また扇を握った。
こはるは、なつきのことを妹のように思っていた。
指を取って舞の形を直し、そっと囁くように動きを教えた。
なつきは、目をまるくして頷いてくれた。
こはるの踊りは、よく褒められた。
なつきは、それを羨んでいたのか、尊敬していたのか――
ある日ぽつりと、こう言ったことがある。
「こはる姉ちゃんみたいに、うまくなりたいなぁ……そしたら、春が喜んでくれるかもって」
その時は、なんのことだか、分からなかった。
けれど今なら、分かる。
なつきが言っていた“春”とは、春姫だったのだと。
あの舞は、ただの遊びではなかった。
あれは、〈供花の巫女〉に選ばれるための“選別”だった。
娘らが誰とも知らぬまま、踊りを競わされ、“捧げられる者”としての資質を量られていた。
なつきは、幼かった。
踊れなかった。
だから、“選ばれずにいた”。
だが――こはるが村を出されたのち、その空席を埋めるようにして、なつきは連れていかれた。
なぜなのか。誰がそう決めたのか。
それを今さら問うても、誰も答えはせぬ。
ただ――
燃え落ちる社の中、なつきは泣いていた。
こはると同じ、春を見たかったはずのその子が、今や鬼と呼ばれ、炎の中で泣いていた。
あの時の無垢な瞳。
泥だらけの裾を恥じて、けれど、こはるの手を握って微笑んだあの顔。
すべてが、焼かれた夏のなかで、もう一度こはるの胸を刺していた。