表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜桜お蝶 艶劇乱舞「怪」  作者: 秋月瑛
黄泉の夏
20/22

【六之幕:黄泉の焔】(草稿)

 焼けては蘇り、また焼かれることを繰り返してきた幻の社――〈鬼の社〉。

 今、その姿はどこにもなかった。


 すべては〈闇〉が呑み込み、ただひとつ、かろうじて残されたのは、〈風哭きの社〉の鳥居のみ。


 春姫たちは鎮魂花により浄められ、村人の罪より生まれし〈春を呑む鬼〉もまた、〈夜茂る主〉に裁かれ、闇へと還って逝った。


 冬、そして春。

 呑まれた春が還って来た。


 季節は巡る廻る。


 ――篝火村は燃えていた。


 蝉の鳴き声にも似た、けたたましい村人の叫喚。

 空はまるで溶け落ちんばかりに白く、風は熱を孕み、吹くたびに焦げた灰を巻き上げていた。


 村のあちこちで火の手が上がり、藁葺きの屋根が音もなく崩れ落ちる。


 誰かが叫んだ――


「鬼の祟りじゃ!」


 誰かが泣いた――


「死者が怒っておるんじゃ!」


 彼らはまだ知らぬ。

 あの社で何が起きたかを。

 春を取り戻したその代償が、まだ何も終わっていなかったことを。


「祟りじゃ祟りじゃ!」


 積み重ねられた罪と嘘が、まだこの村には残っていた。


 ひとつ、ふたつと、軒先の藁に火が這った。

 焚き口にくべられたはずの薪が、音もなく爆ぜ、紅蓮の舌を天に伸ばす。


 畑に積まれた麦束が燃え、井戸の水すら煮え立つ。


 風は助けることも、逃がすこともせず、ただすべてを煽った。


 炎は獣のように喰らい、舞い、吼えた。

 煙は地を這い、黒い蛇のように村を這いずった。


 炎に照らされた村人の影が、ゆらゆらと揺れながら、地獄絵のように歪む。


 誰かが叫ぶ声があった。

 誰かが泣いていた。

 されど、それすらも、燃えさかる音に呑まれていった。


 天は沈黙し、大地は呻いた。

 山あいの小さな村は、夏に焦されたように紅く染まり、いつまでもいつまでも燃え上がった。


 まるで、“夏”そのものが狂ったようだった。



 ◇ ◇ ◇ 



 その光景を、お蝶たちは高台から眺めていた。


 社よりひとつ上の見晴らし台。

 燃え上がる村の輪郭が、真昼の陽に歪んで見える。


「幕は下りたと思うとりましたが、こりゃあ……まだ終いじゃあなかったようでござんすなぁ」


 それは全てを見透かすようなお蝶にさえ、予想外の出来事であったようだ。


「お蝶さん、村へ戻らなきゃ!」


 こはるが駆け出しかけるも、ふいに足を止めた。

 春姫の簪が耳元で揺れ、風の中に紛れて、かすかな声が――


「……わたし……まだここにいるよ……」


 それは鬼の呻きではなかった。

 春姫でも、こはるでもない。

 もっと幼く、もっと哀しい、少女の声だった。


 お蝶もその気配を感じ取り、眼を細めて峠の道を振り返る。


 鳥居の向こう、焼け落ちた社の土台のさらに奥、残されていた鎮魂花の一輪が黒く萎れてゆくのが見えた。


 焦げた布切れが一片、風に乗って舞い、お蝶の手元にふわりと落ちる。


 布の感触。

 焼け焦げの匂い。


 そして――

 妖糸を伝い、流れ込んできた記憶の残滓。


 ――供花の巫女、なつき。


 手に握られていたのは巫女装束の切れ端だった。


「……黄泉の火、まだ消えておりやせんね」


 ぽつりと落としたお蝶の一言に、こはるは息を呑んだ。


 そのとき、村の方角からひとりの若者が、息も絶え絶えに山道を駆けてきた。


「おい、おいッ……村が……村が火事だァ!」


 村の惨事に、社へ向かった男衆たちを呼び戻しに来たのだろう。


 男はお蝶たちを見てぎょっとした。

 葛籠を背負った黒子に目を留めたとたん、忌み嫌うような視線を送った。


「……おまえらか。いったい何をした! 村の男たちはどこだ!」


「さて、どうかねぇ。まだ社に残っとるかもしれんよ」


 お蝶が顎をしゃくって方角を示す。

 男は礼も言わずに鳥居の目指して駆け去った。


 その背を見送りながら、お蝶はこはるの方を向いた。


「村は後だよ。あたしらは……呼ばれとる場所に、行かなくちゃね」


「はい……」


 こはるは頷いた。


 山道には、夏の入り口を告げるような熱気が立ちこめていた。

 その空気は重く、けれど、ただの暑さではなかった。


 何かが、まだこの地に棲みついている。

 そう告げるかのように、風は無言で彼らの背を押した――。


 鳥居をくぐった先――焦げた社の跡に、灼けた夏の匂いが重くのしかかっていた。


 お蝶たちの前で、先ほどの男が顔面蒼白のまま立ち尽くしていた。


 鼻を突くのは、草木の焦げる匂いではない。

 もっと濃く、もっと重く、皮膚の奥まで染み入る――


 人が焼けた臭いだった。


 地には黒く炭化した屍が横たわり、その周囲には鉄の刃が錆びたまま無残に転がっていた。

 桑、斧、鉈――村の男衆が握っていたであろう農具の残骸。

 その柄は焼け落ちてなく、争った痕が生々しく地に刻まれていた。


 お蝶は一歩、男に近づいた。


「……いったい、何があったんだい?」


 その声音には、怒りもあったが、それ以上に悲哀が滲んでいた。


 男は蒼ざめた顔を引きつらせたまま、口を開いた。


「それは……こっちの台詞だ。こんな悍ましいこと……俺が知るわけない……」


「社で何が起きたかじゃないよ。あんたたちが村で“何を”したかを、訊いてるんだ」


 お蝶の声は、鋼を帯びていた。



「……火が、突然、村じゅうを呑んだんだ。どこからともなく、焔が吹き上がって……あっという間に、家が、畑が、家族が……」


「どうして火が出たのさ?」


「わからない、でも……でも俺は見たんだ……炎の中に……あの子が、立ってた。泣いてた。なのに、あの顔は……」


 男は震える指で、空の焦げた一点を指した。


「……鬼だった……」


 その名が口をついて出るより早く、こはるが一歩前へ踏み出した。


「……誰? 誰がそこにいたの?」


 男の唇が小さく動いた。


「……なつき、だよ……あれは……なつきだった……」


 その名を聞いてこはるは眼を見開いた。


「なつき!? なつきに……何があったの……?」


 男は苦しげな表情でうつむいた。


 黙する男の袖をこはるは掴んで力強く振った。


「なつきがどうしたんですか!」


 男はこはるを振り払い、焼け焦げた屍体を一瞥したかと思うと、急に口元を押さえて喉元を鳴らした。


 膝をつき、地に手をつくと、腹の底から湧きあがるような嘔吐が、嗚咽とともに彼を支配する。

 そのまま、肩を震わせ、鼻水を垂らし、泣き崩れた。



「……あの子を、俺たちは……」


 ようやく絞り出されたその声は、懺悔の響きを帯びていた。


「……なつきは、お前の代わりに〈春告げの巫女〉にされたんだ……」


 こはるの身体が硬直する。


「春を呼べないなら、春の巫女を入れ替えろ。そう言い出したのは、村の長だった……。まだ子供だった……あの子を、無理やり……社に……」


 お蝶が、じっと男を見下ろしたまま、ゆっくりと口を開く。


「お前ら、春を呑んだ罪の重さ、ほんにわかってんのかい……? “なつき”が見た地獄――それが、今、お前たちを焼いたんだよ」


 男は泣き続けた。声も出さず、ただ喉の奥で呻くように、焼け焦げた大地に額を擦りつける。


 こはるは、その場に立ち尽くしていた。

 言葉も出なかった。涙すら、流れなかった。


 ただ――その胸の奥に、小さな声が鳴っていた。


「……ごめんね、なつき……」


 それは、誰にも届かない、心の底の叫びだった。



 お蝶の瞳は静かだった。

 その傍らにいた黒子の拳は固く握られ、わなわなと震えていた。


 そしてそのとき、風がひとすじ、黒煙のなかを縫うように吹き抜けた。


 その風の向こう、まだ焼け残る夏の村の奥――その先に、“なつき”の影が、ふたたび姿を現すのだった。



 ◇ ◇ ◇



 こはるは、焦げた空の匂いの中に、遠き日の微かな香を思い出していた。


 ――あれは、まだ身売りされる前のことだった。


 篝火村に春の兆しが訪れ、田畑には若草が萌え、川辺にて小石を跳ね遊ぶ音が響いていた頃。村の女たちは広場に集まり、年若き娘らに舞を教えていた。


 春告げの舞――そう呼ばれていたが、誰ひとりその意味を正しく教えられたことはなかった。


 ただ、季節の移ろいを祝うものとだけ伝えられ、娘たちは赤ら顔を寄せ合いながら、手を取り合って足運びを覚え、裾の捌きを真似て笑っていた。


 こはるもまた、その輪の中にいた。


 花の刺繍の入った布を巻かれ、片手に小さな扇を持たされて、陽に照らされた土の上をくるりと回る。それが誇らしく、ただ楽しく、ほんの少し大人に近づけたような気がしていた。


 その輪の中に――ひとり、小さき影があった。


 他の子らより年の離れた、細い手足の幼子。背の低さゆえに列に入るのもやっとで、舞も覚束ず、扇を逆に持ったまま転びかけていたあの子。


 それが、なつきだった。


 舞の手を何度教えても、すぐに忘れてしまう。

 右と左を間違えて、よく笑われていた。

 でも、誰よりも一所懸命だった。


 何度転んでも泣かなかった。

 転んだら、自分で起きて、泥のついた膝を拭って――

 それでも、また扇を握った。


 こはるは、なつきのことを妹のように思っていた。

 指を取って舞の形を直し、そっと囁くように動きを教えた。

 なつきは、目をまるくして頷いてくれた。


 こはるの踊りは、よく褒められた。

 なつきは、それを羨んでいたのか、尊敬していたのか――

 ある日ぽつりと、こう言ったことがある。


「こはる姉ちゃんみたいに、うまくなりたいなぁ……そしたら、春が喜んでくれるかもって」


 その時は、なんのことだか、分からなかった。

 けれど今なら、分かる。

 なつきが言っていた“春”とは、春姫だったのだと。


 あの舞は、ただの遊びではなかった。

 あれは、〈供花の巫女〉に選ばれるための“選別”だった。

 娘らが誰とも知らぬまま、踊りを競わされ、“捧げられる者”としての資質を量られていた。


 なつきは、幼かった。

 踊れなかった。

 だから、“選ばれずにいた”。


 だが――こはるが村を出されたのち、その空席を埋めるようにして、なつきは連れていかれた。


 なぜなのか。誰がそう決めたのか。

 それを今さら問うても、誰も答えはせぬ。


 ただ――


 燃え落ちる社の中、なつきは泣いていた。

 こはると同じ、春を見たかったはずのその子が、今や鬼と呼ばれ、炎の中で泣いていた。


 あの時の無垢な瞳。

 泥だらけの裾を恥じて、けれど、こはるの手を握って微笑んだあの顔。


 すべてが、焼かれた夏のなかで、もう一度こはるの胸を刺していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ