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夜桜お蝶 艶劇乱舞「怪」  作者: 秋月瑛
偽りの春
2/14

偽りの春 一之幕

 折からの山道を辿るうち、空模様がにわかに曇りはじめ、やがて、ぱら、ぱらと小粒の雨が落ちてきたかと思えば、ものの数刻もせぬうちに、ざあざあと本降りに変わった。


 通い慣れぬ峠道。

 里人が言うには「近道じゃ」とのことだったが、実際には斜面は険しく、足場も悪い。

 ましてや、足元は雨に洗われぬかるみ、ぬかぬかと靴の裏を吸いつける。

 背には、柿渋色の大きな葛籠。

 その重みが肩へと食い込み、なお一歩ごとに膝へとのしかかる。


 編笠を深く被ったその影は、しばし立ち止まり、静かに息を吐いた。

 雨脚は次第に強まり、見上げる空はどこまでも鉛色。

 雲の流れは早く、雷鳴こそ響かぬものの、山気は肌を刺すように冷たい。


 ふと、木立の間より覗いたのは、雨に煙る一軒の小屋。

 板葺きの屋根は傾き、壁の一部は苔に覆われてはおれど、風雨を凌ぐには足りる造り。

 恐らくは、猟師か炭焼きの骨休めに使う庵であろう。


「――あすこまで参れりゃあ、ひと息つけやしょうかねぇ」


 それは、濡れた風に混じって流れてきた、どこか艶を帯びた女の声。


 雨を中で回り踊る大きな唐傘。


 声の主は、桜模様の振袖を風に揺らしながら、雨に濡れた山道を優雅に歩んでいた。

 かんざしが鈴のように鳴り、うなじから背にかけて艶やかな黒髪がひと筋流れる。

 面差しは、絵巻から抜け出たような美貌。

 まるで春の夜に咲く一輪の妖花――。


 その傍ら、ひとつの黒き影が寄り添う。


 葛籠を背負う旅の男――と思いきや、その姿は異様。

 頭巾を深くかぶり、顔も装束も黒ずくめ。

 舞台裏で働く“黒子”の姿そのままに、口を噤んで影のように女に従う。

 目元のみが細く覗き、そこにあるのは光でも理でもない、ただの影だ。


 そんなふたりが、雨のなかぬかるむ山道を慎重に下り、小屋を目指す。

 葛籠は、見る者に畏れを抱かせるほどに大きく、何が入っているのか想像もつかない。

 ただの旅道具ではないことは、一目瞭然。


 艶やかな女は、そっと紅を含んだ口元を緩め、微笑む。


「ふふ、お足元の悪い夜にゃ、こういう宿こそ上等でござんしょ」


 そのとき、山の端を一陣の風が駆け抜け、木の葉をざわめかせた。


 ぎぃと古びた小屋の戸が、風に押されて軋みを上げる。


 小屋の戸をそっと開き、そして、女は中へと身を滑り込ませた。


「おじゃまをいたしやすよ」


 花魁の気品を湛えた物腰。

 艶やかな声音と共に、桜の振袖が闇に咲く。


 誰もいないと思って発したその一言だったが、どうやら小屋の中には先客があったようだ。


 粗末な囲炉裏の脇、そこには男女ふたり。

 互いに微妙な間合いを保ち、無言のまま腰を下ろしている。

 どちらも、猟師には見えぬ風体。

 荒れた風貌の男と、どこか憂いを帯びた女――。


 先に男の方が顔を上げ、異様な二人組を見て目を細めた。


「なんだァ、てめぇら……」


 低く、威嚇するような声音。


 その目が、次に黒子の姿を捉えた瞬間、眉がひくりと動いた。

 ぎょっとした色を見せる。

 無理もない。

 空の具合の悪い日に、この姿を見て平然とできる者など、まずいないだろう。


 だが、柔らかな声でそれを制したのは、桜の花のように咲き誇る艶姿の女であった。


「失礼いたしやす、あたしゃ旅芸人のお蝶と申します。こちらにおりますのが、付き人の黒子でござんす」


 黒子と呼ばれたその者は、口を開くことなく、ただ静かに一礼をした。

 ぬるりと、幽鬼のような仕草で。


 真夜中に出会えば、卒倒する者もあろうという不気味な姿だが、お蝶の隣にあれば、それすら一幅の絵のように見えてしまう。


 山の庵に集う、二組の男女。

 雨は、まだ止みそうにない――。


 お蝶は小屋の隅に腰を下ろすや否や、ふう、と肩を撫で下ろした。

 濡れた袖をそっと払いつつ、しとやかに裾を整える。

 その所作、まるで舞台の一幕のごとく、あでやかにして静謐。

 まわりに湿り気を帯びた山の空気すら、華の香に染まるような錯覚を覚えさせた。


 続いて、傍らの黒子が音もなく動き、背に負っていた大葛籠を、どさり、と床に下ろす。

 その重量感に、小屋の床板が微かに軋んだ。

 黒子はそのまま、ぬるりと正座。

 姿勢を崩すことなく、まるで影が地に根を下ろしたかのようである。


 その様子を、向かいに陣取る男が苦々しげに見ていた。

 片膝を立てた無遠慮な座り方。

 額には癇に障ったような皺が寄り、まるで鼠でも見たかのように、あからさまな嫌悪を眼差しに浮かべている。


 されど、お蝶はにこりと微笑んで返した。

 紅の唇の端を柔らかく弓なりに持ち上げ、まるで「犬の遠吠えも夜の風情」とでも言いたげに、何食わぬ顔で受け流す。


「お騒がせいたしやしたねぇ。雨宿りひとつにも、運命さだめちゅうものがありんすかねぇ……ふふ」


 男は舌打ちを一つ、ぴしゃりと音を立てて床を睨んだ。

 その傍らでは、もうひとりの女が、同じく眼を落とし、無言のまま座している。

 まなじりを伏せたその横顔には、どこか陰りがあり、男と視線を交わすことすら避けているように見えた。


 この男女の関係は恋仲には見えない。


 男の風体は、刀の代わりに苛立ちを腰に差したような荒くれ者。

 髪は乱れ、着物の合わせもだらしない。

 目には怒りと恐れが澱のように沈み、まっとうな稼業に身を置く者のそれではない。

 道理よりも損得、情よりも力がものを言う裏通りの者。


 一方の女。

 艶やかな晴れ着に、丹念に施された化粧――されど、どこか仮初に見える。

 山中にはあまりに場違いなその姿は、まるで都から連れ出された人形のよう。


 お蝶は扇の陰からそっとその女を見やった。

 濃艶な化粧の奥にある素顔を、じっと見つめる。


 化粧で誤魔化されているが、よく見れば若い。

 まだまだ生娘という言葉が相応しいかもしれない。


 たしかに器量は整っている。

 だが、その眼の奥には、怯えと諦めがないまぜになっており、今ここに居ることすら夢のように感じている風情。

 自らの意思でこの庵に辿り着いた者ではあるまい。


 ――子細がありそうな男女だ。


 外では、雨脚がなお強まり、屋根を叩く音が闇に満ちる。


 日も暮れはじめ、濡れた夜に浮かぶ山小屋の灯り。


 そこに居合わせた者たち、それぞれの過去と思惑を胸に、しばし言葉を交わさぬまま、雨音だけが静かに時を刻んでいた。


 今宵はここで一晩を明かすより他なさそうだ。


 されど、ただ雨宿りするにしては、あまりにも空気が重たい。


 その元凶は、火の気もない庵の片隅で、ひときわ不機嫌そうに膝を抱える男の態度にある。

 見知らぬ客人を疎ましく思っているのは、誰の目にも明らかであった。

 とりわけ、黒子に向ける目つきは露骨で、刀こそ抜かねど視線が鋭く刺さる。


 黒子はといえば、まるで己がただの影であるかのように、静かに正座し、身じろぎ一つしない。

 ただ黒衣の中に人がいる、それだけの存在感。

 目の前にありながら、どこか現実味のない、不気味とすら言える風貌である。

 得体の知れぬ者に警戒するのは、人の常というもの。


 庵の中には、ぴんと張りつめた沈黙が落ちていた。


 やがて、遠くの山の向こう、黒雲の奥底から、雷鳴が轟いた。


 ごろり、ごろりと低く唸る音は、まるで山神が眠りから覚めたかのようだ。


 庵の屋根を打つ雨音が強まり、ついには天井の節から、ぽたり、ぽたりと水の雫が落ちはじめる。


「チッ……雨漏りしやがるとは、冗談じゃねぇ」


 男が苛立たしげに舌打ちし、濡れた袖を睨む。

 庵の天井から垂れる雫が、着物の肩口にじわりと染みを広げていた。

 天からの水は、男の怒気に油を注ぐように、険悪な空気を一層濃くする。


 そのとき、お蝶がそっと脇に置いていた風呂敷包みに手を伸ばした。

 紅の爪先が、まるで花びらでも摘むような優雅さで布を解き、小さな楽器を取り出す。


「……ふふ、みなさん。退屈じゃぁ、ござんせんか?」


 艶めいた声音が、ふいに闇を照らす灯のように響く。

 男が不機嫌そうに顎をしゃくると、お蝶はにっこりと微笑み、続けざまに口を開いた。


「こちとら、旅芸人の端くれ。雨の夜の手慰みに、ひとつ座興でもご覧じませ。御代なんぞ、いただきゃしません。今宵は……月も見えぬ、闇の中。三味の音色で、少しでも心の灯になればと存じやす」


 そう言って、風呂敷の中から現れたのは、艶のある黒塗りの棹に、ぴんと三本の糸を張った三味線。

 雨音の中に、それが放つ艶やかな存在感は、まるで庵の中にぽつりと咲いた夜桜のようだった。


 不穏の念を抱く男の目の前で、黒子が静かに背負いし葛籠に手を掛け、蓋をそろりと開けようとした、そのとき――


「おい、てめえ……何を出す気だ!」


 ぴりりと空気を裂く怒声が庵に響いた。

 男は険しい目をして身を乗り出し、黒子を睨み据える。

 手は腰のあたり、匕首に自然と伸びていた。


 されど、その間に、ふわりと紅の袖が舞う。


「まあまあ、そんなに剣幕立てなさんな。これからお目にかける芸に使うもんでございますよ」


 お蝶がにこりと笑みを湛え、間に割って入った。

 艶やかな声音の柔らかさが、殺気立った空気をすこし和らげる。


 黒子は無言のまま、葛籠の中から一体の人形を取り出す。

 月明かりも届かぬ庵の中に、ぱっと艶やかな色彩が咲いた。


 それは、絢爛たる刺繍を施した羽織を纏う糸あやつりの人形。

 大きさは黒子の膝丈ほどであろうか、けれどその目元の艶、口元の微笑、どこか人の情を宿したかのような気配を帯びていた。


 庵の中に、ふっと風が通ったように静寂が生まれた。

 その沈黙を破ったのは、晴れ着の娘であった。


「……おもしろそう」


 初めて発したその声は、澄んでいて、どこか無垢。

 いくら化粧で大人びた姿を飾っていても、声は嘘をつけぬ。

 瑞々しく、あどけなさの残る響きが、庵に一抹の人間らしさを取り戻させた。


 ――興味を惹きつけることさえできれば、あとは容易い。


 お蝶の眼が細められ、そっと娘に微笑を送る。


 しかし、男はなおも警戒の色を解かぬ。


「くだらねえ。誰もそんなもん頼んじゃいねえんだ。さっさと仕舞いやがれ」


 吐き捨てるような声とともに、視線を逸らす男。

 だが、お蝶は笑顔を絶やさぬまま、しなやかに首を傾げる。


「まぁまぁ、そう言いなさんな。そちらのお嬢さんのお顔を見りゃ、ようござんす。目が、見たいと申しておいでだわ」


 そう言って、お蝶は娘の方へと躰を傾け、その顔を覗き込む。

 娘は一瞬だけ躊躇し、やがて目を輝かせて口を開いた。


「……見たい。わたし、見たいの」


 その声は願い乞う子のように真っ直ぐで、真心がこもっていた。

 だが男は、冷たく切って捨てた。


「てめぇにゃ自由なんざねぇんだ。おれが見たくねぇって言ったら、それで終いよ」


 娘の目に、微かに光が宿った。

 いや、あれは涙の煌きであろうか。


「どうせ、わたしは……売られていくんだよ。これくらい、いいじゃないか……御代もいらないって言ってるのに」


 その一言に、庵の中の空気が静かに沈んだ。

 男の眼が動き、娘の晴れ着に一瞥をくれる。


 そう――売られていく娘に、華やかな着物を着せ、紅を引かせて送り出す。

 彼女の艶やかな姿の裏には、哀しき定めが隠されていたのであった。


 その事実を、誰よりも早く見抜いていたのは、お蝶であったかもしれぬ。


 黒子が声ひとつ発さず、すっ――と袖口をすべらせた。

 そこから現れたるは小ぶりな撥。

 まるで時の流れも息を呑んだように、慎ましやかに、お蝶の手へと渡された。


 ふたりの間には、もはや言葉など野暮というもの。

 長年の旅芸にて磨かれし絆が、息遣いひとつで心を通わせているようだった。


「ふん……くだらねぇ」


 男はひとつ鼻を鳴らし、不貞腐れたまま、乱暴に胡坐をかいた。

 背を壁にもたれ、膝を投げ出し、つまらなさげに天井を睨む。


 だが、お蝶はそんな男の態度など意にも介さず、凛と背を伸ばす。

 三味線を膝に抱え、撥を静かに構えた。


「……さぁて、お耳汚しになりやすが――今宵は夢の端を、ひと撫でいたしやしょうか」


 ひとつ、長く深く息を吸い込む。

 そして、息とともに心を込めて、撥を音に乗せた――。


 しゃりん……しゃりん……と、乾いた絹擦れのような音が、夜の帳に溶けていく。


 はじめは風の音と見紛うような、か細き調べ。

 けれど、その音は確かに庵の中を満たし、冷えた空気をほの温かに揺らしはじめる。


「月のひかりに まどろむ夢は……」


 お蝶の唄声は、深く、柔らかく、まるで酒のように胸へ沁みわたる。

 艶の中に哀しみを忍ばせたその声が、三味線の音と絡み合い、夜をたゆたうように包んでゆく。


 黒子がその声にあわせ、指先を繊細に操ると――葛籠から取り出されていた艶やかな人形が、ぴくり、と動いた。


 小さきその躯が、まるで命宿したかのように、ぬるりと立ち上がる。そして、くるりと一回転。


「……おやまあ」


 娘が思わず息を呑んだ。


 人形は舞う。

 時には蝶のように、時には柳の枝のごとく、優雅に揺れ、跳ねる。


 動きはあまりに滑らかで、まるで生きているかのよう。

 袖が翻り、帯が流れ、絹の光沢が灯にきらめく。


 先刻まで憮然と胡坐をかいていた男も、いつしか口を半開きにして、その光景に見入っていた。

 瞳がわずかに丸くなる。


 やがて黒子は、もう一体の人形を取り出し、両手を巧みに操る。

 二体の人形が舞台の上をなぞるように、寄せては返す波の如く、見事な連舞を見せる。


 お蝶の唄も一層深くなる。

 恋慕、別離、ひとときの夢――その声に浮かび上がる情景が、人形の舞に重なり合い、まるで夢の世のよう。


「……まるで、夢……」


 娘がぽつりと呟いた。

 手を胸に当て、目を見開き、まばたきを忘れている。


 男もまた、無意識のうちに腕を組み直し、何度か瞬きをしていた。

 その頬には、わずかに赤みが差しているようにも見えた。


 やがて、唄が静かに終わる。

 黒子の手が止まり、人形たちはふわりと膝を折り、礼をするかのごとく頭を垂れた。


 庵の中に、静寂が降りる。


 ……しばしの沈黙ののち、娘がぽつりと拍手をした。

 それが合図となり、男もひとつ、照れくさそうに鼻を鳴らす。


「ふん……まぁ、悪くはなかったな」


「おおきに。お気に召してなによりでござんすえ」


 お蝶がにっこりと笑い、三味線を膝から外す。

 黒子もまた、人形を静かに葛籠へと納めていく。


 険悪であった空気は、どこへやら。

 庵の中には、ふんわりと穏やかな夜気が流れていた。


 やがて、娘は布を肩まで引き上げ、男にもたれるようにして眠りについた。

 男もまた、瞼を閉じたまま、微かに息を立てはじめる。


 お蝶と黒子は目を交わし、静かに頷き合った。


 今宵、唄と舞がひとときの安らぎを与えた。

 たとえ、明日がどんな運命であろうとも。


 時が過ぎ。

 ――暁の刻。


 遠くの空が仄かに白みはじめる頃、雨はすでに上がっていた。


 庵の屋根を打っていた雫の音も止み、あたりは嘘のような静けさに包まれている。

 昨夜の嵐が夢であったかのように、湿った空気だけが僅かに残っていた。


 男は、うつらうつらと目を覚ました。


「……ん、あァ?」


 眠気眼を擦りながら、胡坐のままあたりを見渡す。

 だが、ふと気づいて、眉をひそめた。


 そこには、もうあの旅芸の女も、仮面の黒子も、姿かたちすら見当たらぬ。


「……おい。おいッ、どこ行きやがった……?」


 昨夜、三味線と人形に酔いしれた面影はどこにもなく、男はまるで狐に抓まれたような面持ちで立ち上がった。


 庵の戸を押し開けると、冷たい風が頬を撫でた。

 空はすっかり晴れ上がり、雲ひとつなく高い。

 まさしく、秋晴れである。


 娘が静かに小屋の外に立っていた。

 白粉の残る頬に朝の陽が射し、紅の振袖が紅葉の中にとけ込んでいる。


「……きれい」


 少女の声が、風に溶けるようにこぼれた。


 見渡す限り、錦の絨毯。

 山肌を彩る紅葉が陽の光を受けてきらきらと輝き、地面には濡れた落ち葉が敷き詰められていた。

 紅、黄、橙――色とりどりの秋が娘を包む。


 娘は両手を胸に当てたまま、ゆっくりと目を伏せた。


 その瞳が、潤んでいる。


「……あの方たちに名乗ればよかった、こはるですって」


 ひとすじ、涙が頬をつたう。

 けれど、それは嗚咽の涙ではない。

 ただ、そっと零れ落ちる、静かな涙――。


「だって、明日からは別の名で生きていかにゃならないから……」


 それは、売られてゆく運命への哀しみか。

 はたまた、夢のような一夜を共にした旅芸の者たちとの別れか。


 あるいは、はじめて触れた「美しきもの」に心を震わせた証なのか。


 それを知る者は、誰もいない。


 男は黙って娘の背を見つめる。

 その姿に、なぜか言葉をかけることもできぬまま。


 秋風がそっと紅葉を揺らす。

 空には、ひらひらと一枚の葉が舞い落ちる。


 まるで――昨夜の唄の余韻が、形を変えて残っているかのようであった。



 ◇ ◇ ◇



 空は高く、抜けるような秋晴れ。

 朝日が屋根瓦に煌めき、木戸を開ける音があちこちに響く。


 ここは東海道筋の宿場町、馬や荷車が行き交い、町人らの声が飛び交う繁盛の地。


「おおい、焼き栗はまだかい!」

「へいへい、今しがた焼き上がりでござんすよ!」


 露店の呼び声、飴売りのかね、煙管をふかす老爺の笑い声。

 町のあちこちに人が溢れ、商いに、芝居小屋に、賭場にと、皆がそれぞれの今日を生きている。


 そんな雑踏の中、ひときわ人目を惹く影が二つ――。


 一人は、桜模様をあしらった艶やかな紅の衣装に身を包み、背筋をまっすぐに伸ばした女。

 旅芸人お蝶。


 もう一人は、全身黒ずくめの装束に身を包み、柿渋色の葛籠を背に負う者。

 無口なる黒子。


 二人が通る道、男も女も、ふと足を止めて振り返る。

 お蝶の美貌に息を呑む者あり、黒子の異様さに目を細める者あり。

 だが、誰一人として、その正体を語れる者はいない。


 黒子は杖を突きつつ、地を探るように一歩一歩を踏みしめる。

 まるで視界のない者の如く、音と振動だけを頼りに進む様が、不思議と人々の心に静かな緊張を与えていた。


 ――と、そこへ。


「きャッ……!」


 町角から転げ出てくるように、一人の娘が走り来た。

 年の頃は十五、六。

 派手な振袖は乱れ、白粉の頬には恐怖が浮かんでいる。

 足元も覚束ず、とうとうよろめいて――。


「おっと、とんだ危なっかしいこってすねぇ」


 お蝶がすかさず身を翻し、倒れかけた娘をその腕に受け止めた。

 娘の体はふにゃりと崩れ、そのまま意識を失ったらしい。


 次の瞬間、町のざわめきが変わった。

 ざわっ、と波が立つように道が割れ、数人の男たちが現れたのだ。


 黒羽織に身を包み、面構えの悪い連中。

 腰に下げた鯉口の柄、腕に覗く入れ墨――どう見ても、筋の通った町人ではない。


「おい、そこの姐さん、その娘ァ渡してもらおうか」


 一人の男が、低く、圧のある声で言った。

 周囲の町人たちは、ぴたりと動きを止め、そそくさと道の端へ退く。

 空気が一変する。


 だが、中心に立つお蝶は、物怖じ一つせず。


「まぁまぁ、こりゃ困ったこってすねぇ」


 と、唇にうっすらと笑みを浮かべて言うや、軽く肩を揺らす。


「見てのとおり、あたしゃら通りすがりの旅芸人。倒れてきたこの娘さんとは、なんの縁もゆかりもありゃしませんえ」


「ならァ……話が早ェ。さっさと渡しゃいいものを」


 男たちが数歩、詰め寄る。


 が、そのとき。

 黒子の杖が、カツンと一度、石畳を強く叩いた。


 小さな音だが、なぜかそれだけで、場の空気が止まる。


 お蝶は娘を優しく抱いたまま、すっと視線を向けると、穏やかに、だが毅然として言い放つ。


「ですがねぇ……通りすがりとはいえ、気ぃ失ってあたいに身ぃ預けたこの娘を、道ばたに転がすような真似は、芸人の名折れってもんでござんすよ」


 その言葉に、町のあちこちで息を呑む音がした。

 誰かが喉を鳴らす。

 誰かが袖を握る。


 町はまた、静かになった。

 だがその静けさは、まるで嵐の前触れのようであった――。


「黒子、娘さんと三味線を頼みやす」


 お蝶がそう言い残し、ふと身を返した刹那――。


「うおらァッ!」


 背より襲い来るは、血気にはやる若いやくざもん。

 眼を血走らせ、抜き身の匕首を振りかぶっていた。

 町人

たちの悲鳴が上がる間もなく、飛び込むようにして突っかかってくる。


 だが。


 カシャンッ!


 黒子の持っていた杖が風を裂いて飛んだ。ひと振り、まるで獣のような唸り音を伴い――


 ズバッ!


 眉間にずどんと命中。やくざの顔ががくりと傾き、奇声を上げる間もなく、そのまま土に沈んだ。額から血を滲ませ、目を白黒させながら動かくなった。


「な、なにィ……!」


 残るやくざもんたちが、面食らった顔を見合わせたのも束の間。


「やっちまえっ!」


「姐御ごと叩き斬れぇ!」


 怒声が飛び交い、三人、四人と次々に匕首を抜く。日差しを浴びて、刃がぎらつく。鋭い光が走るたび、群衆は悲鳴を上げて逃げ惑う。


 対するお蝶、武器は一つも持たず。薄紅の袖をひるがえし、しなやかに身を捻るのみ。


「刃物なんざ、似合いもしねぇ顔で振るもんじゃありやせんよ」


 と、薄く笑んだその刹那――


 ひらりっ!


 一閃。お蝶の身体がひとひらの花びらのごとく舞い、迫る刃を紙一重で躱した。


 シャッ、シャッ!


 二度三度と飛ぶ鋼の音。それをするりと避け、お蝶は逆に相手の懐へ入り込む。手首へぽんと一打。すると、まるで吸い込まれるように匕首が地面へことりと落ちた。


「う、腕がっ……!」


 驚愕に目を見開くやくざの顔面に、すかさず足払い。重心を崩したところを、肩口に掌底をひとつ。


 ズシャアッ!


 土煙を巻き上げて、男が吹き飛ぶ。


 次なる二人が左右から飛びかかる。お蝶はその場でくるりと回り、裾を翻すと――


 ドスッ!


 一人の腹へ肘打ち。もう一人はその勢いで黒子の杖に脚を払われ、見事に宙を舞った。


「まるで、糸で操られているようじゃのう……」


 どこかで、町人の一人が呟いた。まさに、お蝶の立ち回りは、黒子が操る人形のごとし。無駄なく、滑らかに、しかし確実に敵を封じてゆく。


 残るは、一人。


「ぐ、ぐわああああっ!」


 乱心したかのように、最後のやくざが狂ったように刃を振り回しながら突進してくる。目は血走り、もはや理性の欠片も残っていない。


 だが――


 お蝶はふわりと舞うように一歩退き、そのまま腰を落とすと、地を蹴って前転し、男の懐へと潜り込む。左手で刃を押さえ、右手で肘を抱え込み――


「あら、よっと」


 気合一閃、男の巨体を軽々と投げ飛ばした。


 ドゴォンッ!!


 空中で一回転し、背から地に落ちた男が呻く。腰を打ったのか、立ち上がることもできず、四肢をバタつかせてうめいている。


 場が静まり返った。


 風の音さえも止んだかのような、圧倒的な静寂。


「お、覚えてやがれえっ!」


 と、お決まりの文句を吐き捨てながら、やくざどもはよろよろと立ち上がり、腰を押さえ、情けない背中を晒して逃げていく。


 町人たちはしばし呆気にとられたのち――


「おおっ……」


「たいした芸だ……いや、こりゃ芸なんぞの域じゃねえ……!」


 どっと拍手が湧き起こった。誰かが小銭を投げる者もおれば、指笛を吹き鳴らす者もいた。


 そんな喧騒のなか、お蝶はそっと娘を抱き直し、黒子のもとへと歩み寄る。


「黒子、行きやすよ。騒ぎが大きくなりゃあ、野暮な御役目が寄ってくるからねぇ」


 黒子は黙って頷き、倒れたやくざの傍らから、静かに杖を拾い上げた。


 市井の人々は、先ほどの騒ぎに沸き立っていた。


 されど、すべてが浮かれていたわけではない。


 その賑わいの片隅――

 ひっそりと、まるで水底に沈むような静けさをまとった者らもいた。

 蒼白な面持ちに、わなわなと唇を震わせる町人たち。目を合わせぬよう、そっと視線を逸らし、声を押し殺すように囁く者もいる。


 お蝶はそのひとり、薄暗がりに身を潜めていた町人へと歩み寄った。

 すっと細き手を伸ばし、顎を上げさせるように顔を覗き込む。


「……どうしたえ、あんた。あんな男どもに震えといでかい?」


 町人はぎょっとして顔を背けたが、逃げもせず、小さく呟いた。


「……お、おまえさんたち……ようもまあ、天狐組に手ぇ出したもんだ……」


 声は細く、掠れていたが、確かにその場にいた誰もが耳にした。


「この町で天狐組に楯突くなんざ、生きちゃ出られねぇ……」


 場が、しんと凍りついた。


「へえ……そんなに幅利かせてるのかい、このシマのやくざは」


 お蝶がひとつ、肩で笑えば、町人はさらに顔を青くし、震えながら口を開く。


「天狐組と……お代官様が……」


 が、それ以上は言えなかった。言葉の先を呑み込み、顔を伏せる町人。その背中からは、見えぬ圧力に押し潰されるような気配がにじみ出ていた。


 察しは容易につく。天狐組とこの地の役人――癒着、もしくはそれ以上の繋がりがある。

 この町が濁っているのは、ただの流れ者のせいではない。


 黒子の腕の中、娘は目を閉じていた。

 戦の喧噪などまるで届かぬような、静かな顔だった。


 その首筋には、はっきりと残る青痣。


 そして、娘は死んでいた。


「……やっぱり、死んでるねえ、この娘さんは」


 お蝶は目を伏せ、そっと呟いた。


 痣以外に外傷はない。血の気は引いていたが、まだあどけなさすら残るその面差し。

 病に臥せたのか、それとも――


「……毒か、いずれにせよ、死んだ理由わけは穢れてるねえ」


 お蝶は広場の群衆を振り返った。見渡す限り、誰ひとりとして目を合わせようとしなかった。


「この娘の身寄りを知ってる者はいないのかい?」


 問いかけに、誰もが揃って首を横に振る。


 そのなかの一人、下駄屋と思しき老人がぽつりと口を開いた。


「……その娘っ子は、女郎ですじゃ。どこかの山の村から連れて来られたと聞いておるが……この町に、身寄りなんざありゃせんわ」


 風が、冷たく吹き抜けた。


 ならば、せめて穏やかな場所に還してやろう――

 そう思ったか、黒子は黙って葛籠を下ろした。


 渋柿色の葛籠。その表面には、奇妙な模様が浮かび上がる。

 蓋を開け、黒子は娘をそっと抱き上げ、そのまま葛籠の中へ。


 その瞬間――


「ひぃ……!」


 誰かが短く悲鳴を漏らした。


 娘の躰が、するりと、まるで水に沈むように、葛籠の中へと吸い込まれていく。


 決して大きな葛籠ではない。

 人ひとり収めるには狭すぎるはず。

 それでも、娘の肢体は布を揺らすことなく、すうっと沈み――次の瞬間、蓋が音もなく閉じられた。


「バテレンの魔か……!」


「いや、陰陽師の秘術じゃろう……」


「……いや、あれは……死人を喰らう葛籠ってやつじゃ……」


 民衆の間にざわめきが走る。だが黒子は、何も語らず、ただ葛籠をひょいと担ぎ上げた。


 まるで羽根のように軽く。まるで、娘の重さなど、最初から無かったかのように。


「さて――黒子、行こうじゃないかい」


 お蝶は自らの三味線を包み直し、音もなく踵を返す。


 その足が向かうのは――そう、先ほどやくざもんたちが逃げ去っていった方角。


 お蝶はふと口元を吊り上げ、艶やかに笑った。


「因果の糸はもう結ばれてるよ。あたしらが引くんじゃないよ――向こうから、ほどけに来るのさ」


 二つの影が、町の裏路地へと沈んでいく。

 風に乗って、三味線の糸がわずかに震えた――まるで、冥府の帳が、ゆるやかに開かれる音のように。



 ◇ ◇ ◇



 路地裏に足を運ぶたび、お蝶は人々に声を掛けて回った。

 この町で、天狐組と呼ばれるやくざの根城を知っている者は少なくない。

 だが、口を開きたがる者はさらに少なかった。

「命が惜しけりゃ、知らぬ存ぜぬが一番さ」と言いたげな顔をして、皆そそくさと去ってゆく。


 それでも、お蝶は粘り強く聞きまわった。

 とうに覚悟はできていた。ここまで来て、引き返すつもりなど毛頭ない。


 やがて、一人の魚屋の親父が、ぽつりと洩らした。


「……町の裏手、川沿いに賭場を構えとるよ。天の字が焼き抜かれた格子戸が、目印でさぁ」


 礼を言い、静かに町の北へと足を向ける。

 夕闇が迫るなか、灯のともった紅提灯が、ぼんやりと浮かび上がる。


 そこにあったのは、年季の入った長屋風の建物。

 軒先にはいかにもな薄汚れた暖簾がかかり、くぐれば畳敷きの賭場が奥へと続いている。

 戸口には、確かに『天』の一文字を焼き入れた木の板が掛かっていた。


 その戸の前に、いかつい男が一人、仁王立ちしている。


 だが――

 お蝶の姿を目にした瞬間、その男の顔から血の気が引いた。


「て、て、てめぇはっ……!」


 声が裏返り、腰が引けた。

 先ほど広場で、お蝶に派手にのされた一味のひとりである。


 お蝶は、うふふと一笑みして、その男の横をすり抜ける。

 怯えて動けぬ男の肩をそっと押しやり、戸に手を掛けた。


 ――ぎぃぃ……


 戸の開く音が、やけに高く、冷たく響いた。


 中には十数人ほどの荒くれ者たちがいた。

 賽の音が止み、札を数えていた手が止まり、茶をすする音までもが止んだ。


 皆一斉に振り向く。


 目を細め、手に鉄扇を握る者、帯刀して肘に手をかけたまま固まる者。

 それぞれの視線が一瞬にして鋭く変わる。

 殺気、警戒、疑念、威圧――。

 だが、そのただ中に入ってきたお蝶だけは、どこ吹く風の微笑みを浮かべていた。


 きらびやかな打掛を翻し、ひとつ足を前へ。


「おやおや、これはこれは、ご機嫌ようでござんす。あたしゃ喧嘩売りに来たわけじゃありやせんよ」


 まるで遊郭の客間にでも入ったかのように、しなをつくって膝を折り、軽く頭を垂れる。


「親分さんに――お目通りを願いたく、こうして参上いたしやした。どうか、どうか、お取次ぎくだんせ」


 その声色は穏やかで、言葉遣いも丁寧ながら、背後に潜む気迫は隠しようもなかった。


 ひとり、またひとりと、荒くれどもは戸惑いを見せる。

 先ほど広場での一件を、既に耳にしていた者もいたようで、表情に明らかな戦慄が走る。


 奥の帳の向こうで、誰かが動いた気配があった。


 すっと暖簾が揺れ、奥から声がした。


「……ほう、俺になんの用だい、お譲ちゃん?」


 その声は低く、だがどこか芝居がかっていた。


 静まりかえる賭場の空気の中、お蝶は暖簾をくぐり一歩、二歩と奥へ進み、打掛の裾を整えながら、しなやかに腰を下ろした。


「こちらさんの子分衆が追っておいでだった、あのおなごのことでござんすがね――残念なことに、もう、息を引き取りやしてござんすよ」


 その言葉に、場の空気がぴんと張り詰めた。

 数名のやくざ者が目を見交わし、ざわりと声を殺す。


 賭場の一番奥、朱塗りの長火鉢の脇に座していた天狐組の親分――狐吉と呼ばれる男が、ゆるりと煙管を置いた。


「……で、その亡骸はどこにあるってんだ?」


 問いは簡潔だった。だが、その声音には冷たい刃が潜んでいる。

 お蝶は、にこりと笑みを崩さず、うしろを振り返って言う。


「はい、そちらの葛籠に――ちゃあんと、お納めしてござんす」


 黒子が無言で一歩進み出て、柿渋色の葛籠の留め金を外した。


 ギィと静かに蓋が開き、場の誰もが息を呑む中――


 中から現れたのは、まるで“立ったまま”格納されていたかのような娘の亡骸。

 黒子は葛籠の中から娘を脇に抱え出し、畳の上へと、丁重に横たえた。


 娘の顔は、安らかな眠りのようにも見えるが、頬の痩け具合と、青白い肌が、それが永遠の眠りであることを雄弁に語っていた。それを見て誰かが、喉を鳴らした。


「どうにも、ここの親分衆は――遊女の扱いが、たいそうご丁寧でござんす……ねぇ?」


 お蝶が皮肉混じりに放った言葉に、賭場の男たちの眼差しがいっせいに鋭くなる。


 だが、お蝶は眉ひとつ動かさず、涼しげな目元で、親分をまっすぐ見すえて続けた。


「この娘が、なして命を落としたか……そこまで詮索する気はありやせん。けんどねぇ――せめて、故郷の里親さんに、知らせてやるのが、筋ってもんでござんしょ」


 しん、と空気が凍る。


 ややあって、狐吉はふっと鼻で笑い、脇に置いてあった煙草盆から、小判を一枚、指先で弾いた。


 ――ちゃりん。


 黄金の一枚が、お蝶の足元に転がり落ちる。


「娘の亡骸は、こっちで預からせてもらおう。そいつは……届けてくれた駄賃だ。取っときな」


 その言葉に込められた含みを、お蝶が悟らぬはずもない。

 死体の処理も口の封も、すべて一枚の金で済まそうというわけだ。


「一両とは……こりゃまた羽振りのよろしいことで。ありがたく、頂戴いたしやす」


 軽やかに小判を拾い上げ、懐へと収める。

 それは、恩を受けたのではない。買われたわけでもない。

 金を受け取ったことにより、対等の礼を示しただけ――お蝶の仕草には、そんな気概があった。


「そんじゃ、あたいはこれにて……お邪魔いたしやした」


 ぴたりと頭を下げ、立ち上がったお蝶に続き、黒子も葛籠を再び背負い直した。


 お蝶は一礼ののち、踵を返し、しずしずとその場を後にせんとした。


 だが、その背を見送る狐吉は、薄く笑みを浮かべながら、顎をしゃくって合図を送った。


「――やれ」


 無言の命に応え、黒羽織の一人がぬるりと抜刀。

 日光を弾く刃先が、風を切って音もなくお蝶の背へと迫る。


 誰かが呟く。


「……懲りないお人たちで」


 お蝶は、まるで背に眼でも持っているかのように、軽やかに身を捻った。

 匕首の切っ先は空を裂き、すかさずお蝶の白き指先が男の手首を掴み、ぎりりと捻り上げた。


「い、いでででっ……!」


 呻き声をあげる子分。その顔には信じられぬという色が浮かぶ。


「おやおや……男衆のくせして、えらく艶っぽいお声をお出しなさることで」


 お蝶はくすりと艶笑を浮かべ、ひと息に身を翻すと、掴んだ男の巨体を、ひと抱えの小娘とは思えぬ膂力でぶんと振り回し――


 ――どんっ!


 賭場の戸板が内から破られ、哀れな男の身体は、大八車のごとく空を飛び、通りの向こうへと転がり落ちた。


「なっ……」


 狐吉の目が見開かれ、煙管を落としそうになる。

 他の子分衆も言葉を失い、喉仏だけが上下する。


 それに対し、お蝶はひとつ、しとやかに衣紋を直しながら、にこりと笑みを返した。


「ついと、手癖が出ちまいやしてねぇ。どうぞ、お見逃しくだんせ」


 そして、静かに頭を下げ、艶やかに踵を返す。

 乱れぬ所作、背筋の美しさはまるで白拍子の舞。


 ――さらさらと三味線の絃が鳴るような足音を残し、お蝶はその場を立ち去ろうとした。


 残された賭場は、誰ひとりとして口を開けぬまま、ただ、女ひとりの気配に圧された静寂に包まれていた。


 その静寂を破ったのは狐吉の声だった。


「おい、お嬢さんや。ちと待ちねぇ」


 背にかけられた声は、先ほどまでとは打って変わった、妙に和らいだ声音であった。

 お蝶はゆるりと振り返り、艶やかに片眉を上げる。


「なんでござんしょ?」


 そこに立つ狐吉の面相は、先刻の威風を引っ込め、今やまるで寺の坊主が托鉢でも頼むかのよう、両の掌をすり合わせて偽善の笑みを浮かべていた。


「いやいや、先ほどの手並み、いや見事でござった。お嬢さん、いや姐さん、その腕前を、ぜひともウチで役立てちゃくれねぇか。用心棒として迎えたいのよ、どうだい?」


 ふっ――と、お蝶は色香を滲ませた笑みを浮かべ、しとやかに首を横に振った。


「そいつぁご無礼。あたいら旅芸人の稼業、喧嘩を売り買いするような真似ぁ、お里が知れるってもんでさぁ」


 そのとき、二階の廊から、衣擦れの音と共に女の気配が降りてくる。

 きりりと結い上げた髷に、紺地に牡丹の刺繍をあしらった粋な着物、裾から覗く白い足首が艶かしい。現れたのはこの賭場の姉御、お紺であった。


「姐さん!」


 子分のひとりが思わず声を上げ、場の空気がぴりりと締まる。


 お紺は階段を降りながら、鋭い眼差しをお蝶に据え、にやりと唇を吊り上げた。


「ウチの若ぇ衆を、ようもまぁ可愛がってくれたそうじゃないか。その身のこなし、腕っぷし……なるほど、只者じゃねぇわけだ」


 お蝶は微笑みを絶やさず、袖を軽く合わせて一礼する。


「恐れ入りやす。手が勝手に動いただけでして」


「ふふ……口の利きようも気が利いてる。あんた、芸人てぇのは嘘じゃなさそうだ。その才覚、色街の座敷でも光りそうだねぇ。どうだい、あたしが上客のひとりふたり、紹介してやろうかい?」


 その言葉に、場の男たちはざわりと息を呑んだ。

 お紺はこの辺り一帯の花街とやくざを手のひらで転がす、大姐御である。


 お蝶は伏し目がちに笑い、改めて深く一礼する。


「ありがたきお言葉。あたいのような半端者にゃ、過ぎたご好意でござんす」


 そこへ、たまらず狐吉が口を挟んだ。


「おい、お紺姐さんよ。そいつぁ俺が――」


「……あんた、なにか文句でもあるのかい?」


 すっと切れ長の双眸を吊り上げたお紺の一睨みに、狐吉はまるで蛇に睨まれた蛙のように声を詰まらせ、目を逸らした。


「……い、いや、姐さんの差配なら、異存ござんせん」


 これまでのやりとりを知らぬ男が、壊れた戸口を不審そうに見ながら、若い娘を連れて玄関先に姿を現した。


「いったい何が……って、あんたらは!」


 お蝶の面影に覚えがあったのだろう。男は思わず声を上げた。

 つい幾夜か前、山中の小屋で相まみえた男女だった。


 連れの娘は男の袖にすがるようにして中へ入り、畳の上に静かに横たえられた娘の亡骸を目の当たりにした。

 年の頃はそう違わぬであろう。

 蒼白な頬、削げた面影――それは、まさしく娘自身の“行く末”を見せられたような光景であった。


 娘の肩が細かく震える。

 だが、泣きはしなかった。

 唇をぎゅ、と噛みしめ、瞳の奥には、何か別の感情が灯っていた。


 ――それは、哀しみではなく、怒りでもなく、燃ゆるような憎悪。


 ふと、座敷に目をやれば、黒子が静かにお蝶の三味線包みを手渡し、それを受けたお蝶はすでに踵を返し、通りへと歩み去らんとしていた。


「――お初にて、最後の舞台。幕は、しかと下り申した」


 小さく呟くと、お蝶は雨上がりの夕暮れ空を一瞥し、しとやかに一礼して賭場の縁側を後にした。

 黒子もそれに続き、姉御お紺と親分狐吉に軽く頭を下げ、無言で立ち去った。


 その背を見送る狐吉は、唇を歪めつつも黙して物言わず。

 対してお紺は、じっと娘の眼差しを見据えていた。

 その瞳に、かつて自らが抱いた炎が残っていることを、姉御の勘が告げていたのかもしれぬ。


 やがて、ふたりの姿が通りの角に消え、屋敷の空気が再び沈黙に包まれる。

 そのなかで、亡骸を荒々しく抱え、奥へと運ぶ子分の背を――娘はじっと見つめていた。


 その眼は、決して逸らさなかった。

 己が行く道の先に横たわる、哀れな定め。

 だが、その先に、なにを変え得るかを、その眼は問いかけていた。

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