【五之幕:黒煙の胎】(草稿)
山が燃えていた。
赤き炎は山肌を舐め、黒煙は空を覆い、地を這うように瘴気を吐き続けていた。
その黒はもはや煙にあらず。ひとつの意志を持ち、怨嗟そのものが姿を成したかのように、這い寄ってくる。
夜明けは近かった。
けれども、篝火村の空には、まだ一筋の光も射さなかった。
遠い朝焼けの光がその煙を裂き、空はゆるやかに赤から金へと色を変えていた。
火と光が交差し、まるでこの地が新たな命を得る瞬間のような静謐が広がっていた。
こはるは胸に簪を抱きしめていた。
春姫が遺した、祈りの形。
その小さな証を、彼女は震える手で握りしめ、やがて静かに言った。
それは、春姫の魂が昇華された直後のことであった。ようやく終わりを迎えるはずだった焔の底より、地の奥を震わせる胎動が這い上がってきたのだ。
「春姫さまは……わたしの中に生きてる」
その声には涙が混じっていたが、揺るぎなき決意が宿っていた。
お蝶は、そっとその手から簪を受け取り、優しくこはるの髪に挿した。
その所作は、まるで春風が頬を撫でるような、柔らかな温もりを帯びていた。
その瞬間、山の上から風が吹き抜け、ほのかに梅の香が流れてきた。
骸花ではない、生きた花の香りだった。
冬の終わりとともに、春の兆しがこの地にも訪れたのだ。
こはるは目を閉じ、深く息を吸い込む。
心の奥に、春姫の記憶と、自らの新たな道を刻み込むように。
篝火村の空気は静まり、焼け跡の向こうに清らかな風が吹き込んでいた。
炎は収まり、煙は晴れ、空には確かに春が来たことを告げる光が満ちていた。
篝火村に、ようやく“春”が訪れたのだった。
と、思われた刹那――
冥府より吹きすさぶが如き凍て風が、山肌を削り、社を包む残煙さえ凍らせた。
すでに夜明け間近であった空は、ふたたび黒雲に閉ざされ、あたり一面、白き帳に包まれていく。
――冬が、来た。
それは四季の巡りなどではない。
理の枷を捻じ曲げて、死者たちの嘆きが呼び戻した、呪われし“季節”だった。
お蝶はその場に立ち尽くし、目を細める。
風が頬を斬るように吹き抜けるなか、彼女の眼差しは、すでに“次”の気配を見据えていた。
「……まだ終わっちゃおりやせんねぇ。あの村の罪根、もっと厄介な“なにか”が……息ひそめてやがるわ」
声はか細くも凛として、風のなかへすっと溶けていく。
焔に呑まれたはずの〈鬼の社〉――その影が、なぜか原型を留めたまま、黒煙の奥にぽっかりと現れていた。
まるで焼け落ちたのは、表層だけだったとでも言うように。
「まだ気づきゃしねえのかい……いったい、何を焼いたのか、何を祓うたつもりだったのか……」
お蝶の声音は、淡々としていながらも、ひとつひとつの言葉に、冷たい刃のような重みがあった。
「焼いたのは、鬼やありやせんよ……あんたたち自身さねぇ。見て見ぬふりして、怖いもんを“外”に押しつけた……その報いが、今来てるのよ」
そのときであった。
大地が低く唸り、社の奥、黒く焦げた岩の裂け目から、ひとすじの黒煙が立ち昇る。
煙はやがて凝り固まり、重たき瘴気を孕んで這い出してきた。
あれは、ただの煙ではない。
春姫の封印に寄りかかり、長く眠っていた“なにか”――村人たちが“鬼”の名を借りて隠してきた、真の“闇”である。
お蝶は、黒き胎動に目を向けた。微かに息を吸い込み、吐き出す。
「来よったねぇ……今度こそ、ほんまもん“闇”が……」
お蝶の瞳は、すでにその災厄を捉えていた。
風が再び唸る。
空は闇を深め、山は静かに呻き、夜の帳がもう一度、地を包み込む。
春の兆しは、ひとときの幻だった。
篝火村に春はまだ訪れていなかった。
――真の闇は、いまその姿を現す。
ようやく鎮まりはじめたかに思われた炎の残り香の底から、ずしんと大地を這うような低い震動が、村の奥底からじわじわと這い上がってきた。
お蝶は、その気配を感じて足を止めた。
瞳を鋭く細め、崩れかけた〈鬼の社〉の奥――封印の核たる場所へと視線を向ける。
こはるもまた、全身に疲労の影を滲ませながら、ふらつく足を止め、肌を刺すような気配に顔を上げた。
――その瞬間であった。
社が音を立てて崩れた。
柱が砕け、梁が軋み、積み上げられていた祈りと怨念の残骸が、重みに耐えかねて崩れ落ちたのである。
崩落の隙間より、どろりと黒煙が噴き上がる。
それはただの煙ではなかった。
幾百もの叫び、焼かれた祈り、捨てられた命たちの嘆きが、血の色に染まった記憶となって渦を巻き、怨念の塊として息をしながら、這い出してくる。
地の底から唸るような呻き声が、篝火の山全体を震わせた。
それは風ではなかった。
ましてや、獣の咆哮でもない。
恨み、呪い、断末魔……
祈りの裏でこびりついた呪い、贖われぬ苦しみ、語られずに忘れられた絶叫。
人の心に澱のように積もり、誰にも振り返られぬまま積もりに積もって、ついに形を得た“何か”の、呻き声だった。
黒煙は天を衝いた。
夜空を墨に染め、星の光をも呑み込んで、なお昇り続けるその気配に、空は、風は、大地さえも息を詰めたように沈黙した。
大地が軋み、裂け目から奥底から這い出たそれは――
村の者たちが祟りを恐れ、少女たちを供物として捧げ続けたその歴史。
春を呼ぶためと称した無惨な犠牲。
見ぬふりをして忘却し、そのすべての咎が積み重ねられた悪――
「……あれが、〈春を呑む鬼〉さ」
お蝶は凍てつく空気を割って、ゆっくりと口を開いた。
その声音は、ひとひらの紙を切る刃のように鋭く、しかしどこか哀しみに沈んでいた。
「あたしゃらが追い求めてきた村の闇の正体……ようやく、姿見せよったかいな」
風が、また唸る。
地が軋む。
闇が胎動する。
村が祀り上げ、そして見捨ててきた“罪”が、いまこの地に降り立った。
お蝶は一歩、前へと踏み出した。
黒煙が風に乗って流れ、その渦の奥で淀みが静かに蠢いていた。
それはもはや“生きもの”とは呼べぬ異形であり、かつての無貌の巫女が宿していた力とは、質も深さもまったく異なるものであった。
それは、仄暗い地の底に封じられ、忘れられ、積もりに積もった人の業が形を成したもの。
禍々しい……だが、どこか哀しげであった。
その躯体は漆黒。
煤けた皮膚には無数の亀裂が走り、そこから赤黒い光が脈打つように滲み出ていた。
背から伸びたのは羽か、腕か、それとも未熟な命の痕跡か。
禍々しくうねる影のなか、よく見れば幼き娘たちの手がいくつも、いくつも、まるで救いを求めるかのように空を這っていた。
「……まさか……あれが……っ」
こはるの声が、かすれた吐息となって漏れた。
彼女はその場に崩れ落ち、震える指先で地を掴んだ。
村人たちもまた、焼け崩れた社の麓で足を止めた。
先ほどまでの怒声や罵声はすでに消え去り、その口から漏れるのは、かすかな嗚咽と、言葉にできぬ絶望だけだった。
――誰もが、心のどこかで知っていた。
あれは自分たちが積み上げてきた罪の末路、逃げようと目を逸らしてきた“真実”の化身であることを。
その異形の貌は、見る者によって異なる姿をとった。
ある者には、幼くして亡くした我が娘の貌。
ある者には、よく遊んだ近所の子の貌。
ある者には……。
それゆえ、村人は己が罪の意識に苛まれる。
だが、お蝶の瞳に映り込んだ貌は、何の感情も浮かべぬ仮面のような無表情。
眼窩には底知れぬ空洞がぽっかりと穿たれていた。
鬼の口が、音もなく開いた。
そこから吐き出された黒煙は、土と血と骨の腐臭を孕み、咲きかけていた骸花の花びらをひとひら、またひとひらと呑み込んでいった。
お蝶はゆるりと目を細め、そっと口元に微笑を浮かべた。
「……あんたの腹ン中にゃ、いったい幾人分の“春”が詰まっとるんやろねぇ」
その声音は静かであったが、芯に刺すような鋼の強さを孕んでいた。
お蝶はにじるように、もう一歩、鬼の影へと身を寄せる。
艶やかな衣の裾が風に揺れ、くすんだ夜の中で紅が美しくなびく。
その胸元に揺れる簪が、燃え残った月光を受けて、ひときわ鮮やかに煌めいた。
あたかも――これから咲くべき春を照らす、ひとすじの光のように。
鬼が呻いた。
それは、逝年の痛みを込めた慟哭の響き。
娘たちの影がその背よりゆらりと浮かび上がり、やせ細った手を宙へと伸ばす。
瞳からは涙が零れ、誰かに――何かにすがろうとするような、その動きはあまりに哀しかった。
されど、その哀しき姿を見つめるお蝶の眼差しは、どこまでも冷ややかであった。
「春を喰ろうて、罪を積み重ねて、それでもまだ足らんと呻くんかい……ふふっ、よぉ泣くわ、まるで自分が被害者みてぇな面して」
低く吐き出すその言葉の端には、憐れみでも怒りでもない、諦めに似た峻烈さが宿っていた。
異形と成り果てたその“鬼”は、ただの怪異ではなかった。
村人たちの恐れ、悔恨、そして――忘却。
見て見ぬふりをし、祀りに名を借りて少女を供物として差し出したその業が、幾重にも重なり、ついに形を成した存在。
お蝶はそれを見抜いていた。
「こいつの正体は罪と罰、そして嘘さ」
不意にお蝶が振り返り、こはるへと問いかける。
「……こはる、春姫はんたちは……どないなったんやい?」
「鎮魂花によって……浄化されました……っ、春姫さまたちの魂は、もう――」
そこで、こはるははたと息を呑んだ。
己の言葉にこそ、違和の影が混じっていることに気づいたのだ。
お蝶は、その動揺を見透かすように、ふっと薄笑みを浮かべる。
「……そうどすえ。だからこそ――あれは嘘。あたしらを惑わす、えげつない嘘」
その声音は、焔のように静かで、それでいて鋭利だった。
「ありゃあ、春姫はんやない。罪を押し付けた村の連中が、自分らの“罰”を形にしただけの代物どす。言うなれば、恐れがこしらえた影絵やわ」
こはるはその言葉に打たれたように震えた。
「……あれが……春姫さまが、ずっと封じておられた……村の罪、原罪……」
お蝶はひとつ、静かに頷き、そしてまた一歩、鬼の方へと進み出た。
「そうや。あれこそがこの里を“冬”に閉じ込めとった元凶。春を呼ぶためと称して娘を喰らわすたび、春は遠のき、雪は深うなっていったんや」
吹きすさぶ風に、お蝶の言葉が乗って流れる。
彼女の姿は、燃え残る骸花のあいだから立ち上る靄のなかで、ひときわ凛としていた。
「春姫はんは……ずっと、ひとりで封じてきはったんやろ。けど、あないな想い、ひとりで抱えてよいもんやあらへん」
お蝶の背に、夜明けの光が差し込む。
そしてこはるの中にも、春姫の記憶が確かに刻まれていた。
血の中に、魂の奥に、春を願った彼女のぬくもりが、まだ消えずに残っていた。
だからこそ――いま、お蝶は進むのだ。
それは、春姫の願いを継ぎ、罪を断つための一歩。
鬼が呻いた。
千年の怨嗟、万の悲鳴、積もり積もった慟哭のすべてが溶け合い、ただ空を震わせ、大地を唸らせる慟哭。
唸るごとに、大気は揺れ、山は呻き、木々が悲鳴を上げるように音を立てて折れ伏した。
こはるは堪えきれず膝をついた。
頭を押さえ、胸に満ちる圧に呼吸すら困難となる。
意識の端が、白く染まりそうになる。
だが――
ただ一人、お蝶だけは、風ひとつ乱すことなく、そこに立っていた。
その瞳は凪のように静かで、紅の唇が、ふいと吊り上がった。
「春を奪うてのうのうと眠っていた報い、ここらで清算してもらいやしょうかねぇ……」
凛と響いたその声に、空気が揺れた。
風が止み、音という音が息を潜める。
風が止み、空気が凝縮される。
次の瞬間、鬼が唸りを上げた。
異形の腕を伸ばし、山肌を薙ぐような一撃が、地を裂き、空を切り裂く。
土は爆ぜ、岩は砕け、空に黒い塵が舞う。
――が、
すでにお蝶はその刃の中に身を躍らせていた。
風を割って跳ね上がるようなその身のこなし。
舞のように軽やかでありながら、刃のように鋭い。
彼女の足元からは、鈴のような音が微かに響き、裾の衣が一閃の光を放つ。
舞台は、整った。
春を喰らい、命を奪い、それでもなお飽き足らぬ異形。
それに相対し、名もなき者たちの春を背負って立つ、艶なる討ち手。
すべては、この一刻のために在った。
お蝶の身体が、静かに軋んだ。
まるで機構が音を立てたように、どこかで歯車が廻りはじめる。
その瞳が、闇の奥の“鬼”を真っすぐに射抜いた。
「……お名残りやけど――あんたは、ここで終わりや」
静かな声音でありながら、鋼よりも重く響いた。
その言葉を合図に、鬼が再び咆哮した。
黒煙が空を呑み、骸花の花弁が夜風に乗って、一斉に舞い上がる。
これは、春を取り戻すための艶劇。
誰も知らず、誰も語らぬ“真の春”を求めた、命と魂の舞台。
黒煙渦巻く社の残骸の中に、朱の裾を翻し、ひとりの女が歩を進める。
背に春を背負い、胸に罪を宿し、足下には骸花の花弁が舞う。
「魅せやす、殺りやす、咲かせやす。
この世に咲かぬ花はあれど、悪の根だけは咲かせておけぬ。
今宵も華、咲かせてみせやしょう」
その声は花の香にまみれるがごとく、艶やかにして凄烈。
花の香にも似た気配を纏いし振袖は、見事な桜模様。
揺れる簪は春の名残を留め、紅を引いた妖艶な口元に、魔を誘うような笑みを浮かべる、ひとりの花魁。
その名は――。
「夜桜お蝶、毒をもって毒を制しに、参上つかまつりやした」
艶劇乱舞!
その名乗りに、黒煙の奥で蠢いていた〈春を呑む鬼〉が咆哮を上げた。
その異形、もはや鬼と呼ぶにも生温い。
その姿、ただ“醜”ではない。
焦げた衣のような肌、髪には少女らの叫びが織り込まれ、裂けた胸からは無数の腕がのたうつ。
それは、春を喰らい、命を呑み込み、そして生き延びてきた――“虚偽”の集合体であった。
篝火村が積み重ねてきた犠牲。
忘れられ、封じられ、語られずに終わった春たちの亡骸が、いま鬼の貌となって這い出してきた。
お蝶は、一歩、また一歩と、確かな足取りで進む。
その身に纏う艶やかさは、決して華美のためではない。
それは命を踊らせ、心を震わせる舞であり、戦いであった。
「さぁて……いよいよ幕引きのお時間でござんすなぁ」
静かに笑んだ唇から、やがて凛とした言葉がこぼれる。
「わちきの艶劇、終幕のお相手は――あんたに決めたよ。魂の底まで泣かせてやらぁ。咲かせてみせる、ほんまの春ってもんを……!」
風が哭き、黒煙がうねり、舞台が整う。
夜桜のごとく咲き誇るお蝶の背に、風がそっと花弁を散らした。
それは、死者の鎮魂にして、生きとし生ける者たちの祈りの形。
いま、この地に咲き誇るは――命と因果を賭した、最終の舞であった。
そのとき、鬼の咆哮が夜空を裂いた。
瘴気を帯びた煤の羽が大きく広がり、空気そのものを黒く濁らせながら辺りを薙ぎ払う。
その風に触れた草木は、命を吸われたように萎れ、地は震えた。
だが、次の刹那。
ふわりと、お蝶の着物の裾が翻った。
その動きに合わせて、見えざる糸が幾筋も空を奔り、風鳴り一つせぬまま、鬼の巨体を縫い留めんと奔る。
妖糸は肩口へと食い込み、幾重にも巻きつく――が、鬼はそれを嘲るように、腕とも翼ともつかぬ無数の肢をもって引きちぎった。
お蝶はわずかに唇を歪め、紅を引いたその口元から、艶やかな毒を吐く。
「へぇ……ずいぶんとお元気そうじゃないかえ。ならば、もうちぃと強めがお好きかい」
言うが早いか、艶やかな白手が天を裂くように舞い上がった。
その手には、夜桜を飾るかんざしのひと振り。
月光を受けて煌めいたそれは、まるで舞台の小道具を抜くがごとく、妖艶にして鋭利な刃へと変じていた。
お蝶はそのまま、ひと呼吸で投擲する。
一本、また一本――
花魁の髪を彩っていた美の象徴が、今は鬼を穿つ刃と化す。
そのひと振り、ひと閃きが、まるで舞のように美しい。
閃く銀光が鬼の肩口を裂き、黒き血が噴き出す。
されど、その血は地に落ちるや否や、瘴気となって空へと還る。
鬼はむしろその傷を糧とせんばかりに、いっそうの膨れを見せた。
だが、お蝶は一歩も退かぬ。
風を切り、舞台を駆けるその姿は、まさに春嵐。
片足に妖糸を絡ませると、地を蹴って跳び上がり、真っ向から鬼の膝を蹴り砕く。
「さァ、おどきなさいな」
足裏が鬼の膝を叩きつけ、同時に逆足のかかとが頭上から振り下ろされた。
かかと落としが決まる!
鬼の巨体が仰け反るも、お蝶の動きは止まらない。
そのまま身を翻して一回転、肘打ちを鬼の胸元へと叩き込んだ。
ドン、と山に響くほどの音が辺りに散った。
その動きは一切の迷いなく、戦いのためだけに研ぎ澄まされた舞踏であった。
鬼の腕が襲いかかるも、お蝶は半身を捻り、それを紙一重で躱す。
そのたびに髪飾りがきらめき、衣の柄がひらりと舞う。
「どうしたい、春喰い……そんなんじゃ、うちの舞台は終わりゃしないよ」
挑発混じりの声に呼応するように、背後で渦を巻く妖糸が再び唸りを上げた。
無数の細糸が鬼の足元に絡みつき、その動きを一瞬止める。
お蝶は間髪入れず、ひらりと身を翻すと、回し蹴りを首元に放つ。
振袖が舞い、紅の裾から花の意匠が散るようにひらめく。
「春を返しな、化け物……艶劇の幕は、まだまだ下ろしちゃいないんだよ」
鬼が咆哮し、黒煙が唸りを上げて爆ぜた。
それでも、中心に立つお蝶の姿は微動だにせず、ひとつの花として闇に咲き誇る。
美しく、凛と立ち、戦いの只中に咲き誇る、
――艶やかなる華であった。
大地が呻き、空が裂ける。
春を喰らう鬼の咆哮が山野を揺るがした刹那、社の跡地にわずかに残されていた緑は枯れ落ち、木々は幹ごと黒く崩れ、命の気配が音を立ててしぼんでゆく。
辺りに腐臭が漂う。
まるで春という季節そのものが喰われていくように、生命の気配が音を立てて削がれていく。
お蝶は、かんざしを逆手に構えたまま、鬼の気配を真正面から受け止めていた。
その巨大な気が放つ異様な圧力は、皮膚の奥へと染み込むように、躰を軋ませるような重みがあった。
「やるじゃないかえ、お前さん……けんど、これしきで花魁が退くとお思うたら……」
言葉を途中で切り、唇の端に笑みを浮かべながら、お蝶は静かに一歩、前へと踏み込む。
その刹那、黒煙の渦の中から現れた無数の腕が、まるで地獄から這い出した亡者のように蠢いて、お蝶を包囲した。
それは、形ある呪詛。
かつて春を奪われた娘たちの慟哭が、手足となって形を成していた。
腕は実体を持ちつつも、霧のように解け、また現れる。
「しつこいったらありゃしないねぇ」
妖糸がしなやかに宙を駆け、腕を切り裂いていく。
だが、切っても切っても、影は尽きぬ。
むしろ、絶え間なく生まれ出づるかのように、次々と絡みつく。
「まったく……意地の悪い手ぇばかり出しおって……!」
と、お蝶は舌打ちひとつ。
かんざしを抜き放ち、くるりと身をひるがえして旋回すれば、華やかな衣の裾が花弁のように舞う。
その動きは舞踊にも似て、鋭く、美しく、そして恐ろしく、無惨に影の腕を一掃していく。
が、お蝶が片足を地面に着いた刹那を鬼は逃さなかった。
――ゴウッ!
鬼の巨大な腕が横なぐりに襲いかかり、お蝶の躰を吹き飛ばした。
――ガギィンッ!
金属のような音を立て骨格が軋み。
お蝶は宙を舞い、地面に転がり、土煙の中に身を沈めた。
結わかれた髪が乱れ、紅を引いた唇の端から赤い液が滲む。
「くっ……なんて重さだい……こいつが、喰われた春の怨念ってやつかい……」
地に伏したまま、肩で息をしながらも、お蝶の瞳にはまだ闘志の灯が残っていた。
立ち上がろうとするも、すぐにまた影が迫る。
腕だけではない、鬼の本体がゆっくりと姿を現した。
全身は黒煙と赤熱の血管に覆われ、皮膚の瘡蓋のように浮かぶのは、かつて生贄にされた少女たちの顔と手足。
ひとつ、またひとつ――声なき呻きのままに張りついた面差しが、見る者の罪を静かに責め立てる。
その口から漏れる吐息は、春の香を奪い尽くすように冷たく、乾いていた。
草木は瞬く間にしおれ、花は萎れ、辺りの空気すら曇らせていく。
「……ほんに、おぞましゅうなりおったなぁ」
お蝶は震える膝を支えに、ゆるりと立ち上がる。
だが、足の関節は軋み、動きは鈍い。
「へっ……倒れたままじゃ、締まりが悪ぅござんすからねぇ」
お蝶は笑った。
それは絶望に抗う者の微笑。
命を蝕む瘴気の中でなお、咲き誇ろうとする――夜桜の笑みだった。
そして彼女は、一歩、また一歩と鬼へと歩み寄る。
「春を返しな――お前さんが呑みこんだもん、ひとつ残らず、吐き出させてもらいんすよ」
呼応するように鬼が再び吠えた。
低く、地を這うような咆哮に、社の跡地に残る木々が一斉に枯れ落ちた。
空が裂け、土が震え、まるで春という季節そのものが、鬼の咆哮に呑まれ、影がこの地に伸びていく。
「ッ……!」
お蝶が踏み出すよりも早く、鬼の足元が爆ぜる。
そして、それはまさに嵐のような速さで突進してきた。
咄嗟にかわそうと身を翻すも――鬼の腕が、お蝶の胴をえぐるように打ち据えた。
凄まじい衝撃音と共に、かんざしが散り、帯が緩む。
胴体がひしゃげ、軋みを上げる。
再びお蝶の細身の躰が宙に舞い、地を滑り転がるように吹き飛ばされる。
またもや土の上に叩きつけられ、彼女の衣の裾が裂け、唇の端から紅とは異なる深紅の液体がにじんだ。
「ぐ……ッ……。なんて、重さやろかい……これが、喰われた春の怨念ちゅうもんなんやね……」
倒れたまま声すら震えていたが、なおも眼は鬼から逸らさない。
だが、視界は回るようにがぐらついていた。
遠くで戦いを見守っていた黒子は、正座のまま片手を地面に付いた。
音も、匂いも、曖昧に霞む。
息を呑むこはるの視線の先で、鬼はゆるゆるとお蝶に近づいていく。
亡者のような手をだらりとぶら下げ、しかしその指は明確な意志をもって、お蝶の喉元へと伸びようとしていた。
しかし、まるで糸が切れたようのお蝶は動かない。
――だが、そのとき。
鬼の動きが、ふと止まった。
禍々しい気配がする。
それは黒煙に満ちた地の底より溢れ出す禍々しき気配ではない。
風も音も凍りついたような静寂の中、ゆらりと立ち上がる黒装束の影。
その傍らには不気味な葛籠。
刹那にして大地を撫でるようにして妖糸が広がった。
張り巡らされた糸は、まるで意思を持つかのように大地を這い、やがて複雑な紋様を描き出す。
糸が結ぶ紋様は、古き呪言と幾何が織り成す召喚の印――〈あちら側〉へと扉を開くための鍵である。
空気が震えた。
時間さえも淀むような重苦しさが辺りを包み込む。
魔法陣が閃光を放ち、空間が裂ける。
亀裂の向こう――この世の理を越えた場所より、〈それ〉は現れた。
空間の裂け目から現れた〈それ〉は、生き物の姿などとは到底言い難い、異界の瘴気と絶望の具現だった。
触れれば精神が崩れ落ちるような感覚をまとい、形は常に脈動し、見る者によって姿を変える。
だが唯一確かなのは、それは、この世のものであらず。
それは、眼を持たぬ貌のような器官をいくつも携え、羽虫のような触腕を幾重にも揺らす。
巨躯はぬめる粘液と黒き煙に覆われ、内部から時折、赤子の泣き声のような呻きと、天より響くような美しい鐘の音が漏れ出す。
〈それ〉は顕現した。
お蝶は、社の崩れた残骸の上より、その姿を見据えていた。
「……嗚呼、まっことおぞましいもんを呼び寄せちまったねぇ。けんど、村の罪、胎を喰らうに、より昏きモノが来ちまったんじゃしょうがねぇさね」
その声音は艶やかでありながら、どこか諦めにも似た微笑を含んでいた。
「〈夜茂る主〉と申しやす。あんたらが積みに積んだ罪よりも、なお昏うて深ぇ闇……そいつの名でござんす」
お蝶の声は凜と澄み、焔の向こうに立ちすくむ村人たちの耳に、まるで裁きの鈴のように響いた。
このモノは〈あちら側〉の深淵の一柱。
春を呑む鬼よりも深き闇。
闇に蠢く闇。
鬼の咆哮すら凍りつくその気配――それは闇の中の闇、蠢く底なしの影であった。
魔法陣の裂け目より姿を現した〈夜茂る主〉は、もはやこの世の理を逸脱した異形。
その胴より伸びたるは、幾夜の闇を孕んだ触腕。
腐蝕した藤の蔓のごとく揺らめき、空気そのものを蝕むように、ゆるゆると鬼へと迫ってゆく。
されど、鬼は退かぬ。
それを前にしてさえ咆哮を上げ、怯むことなく突進した。
胸より溢れる怒りの焔を唸りに変え、己が腕を振りかざして、〈主〉に飛びかかった。
だが、次の瞬間。
ひと筋の触腕が、風を斬って流星のごとく閃いた。
ぶすり。
鬼の首を、まるで紙を裂くかのように、触腕は貫いた。
軽々と。何の抵抗もなく。
その刹那、空間に響き渡るのは、“大人たち”が悲鳴を上げるような音だった。
鬼の呻きが途切れぬうちに、さらに幾本もの触腕が、四方より鬼の身体を貫き、引き裂き、ねじり潰していく。
黒煙が散り、罪の声が溢れ出す。
「やめてくれ……たすけて……!」
「俺は、ただ……ただ従っただけなんだ――!」
それらは、鬼の口からではなかった。
鬼に喰われ、形となり、やがて声となって、いま吐き出されているのは――村の者たち、大人たちの罪そのもの。
〈主〉は容赦しなかった。
そのすべてを喰らう。
ためらいもなければ、哀れみもない。
ずるりずるりと、ひと噛みごとに、罪の記憶がちぎれ、血と涙と呪詛の匂いが空に立ちのぼる。
ただただ情け容赦なく喰らい尽くす。
赤黒い血と、怨嗟の記憶が空を染める中、〈主〉は咀嚼を繰り返す。
音を立てて、春の香りを、記憶を、怨念を――そして鬼の核を、罪を。
お蝶は、風に揺れるかんざしを静かに揺らしながら、仄かに目を細めた。
「……あれが、本懐てやつかい。咲き損ねた春の恨み、喰い損なった魂……まとめてあの〈主〉が呑み干すつもりなんやねぇ」
その声は艶やかにして、どこか冷たく、どこか――哀しかった。
黒煙の中で、鬼はついにひとつ呻きを残し、声を失った。
そして、すべては、呑み込まれた。
咀嚼の音が止むと同時に、辺りにはただ――深き沈黙と、春を喰らった闇の重さだけが残された。
こはるはただ、目の前の光景を見つめていた。
社の焼け跡を照らす焔の揺らぎ、その向こうで咀嚼される「罪」の末路を、言葉もなく凝視していた。
胸の内に疼く恐怖と、それを越えて押し寄せるものは――諦めでも憎しみでもなく、ただ静かな震え。
手の中に握りしめていた春姫の簪が、冷たくもあり、どこか熱を帯びてもいるような、不思議な重みを宿していた。
「……これで……本当に、すべての罪が消えるんですか……」
その問いは、焔の音にかき消されそうなほどに小さく、けれど確かな意志をもって発せられた。
お蝶は、ふっと首を横に振った。
「いいや、そんな生やさしいもんやおまへん。村が積み重ねてきた罪っちゅうのはねぇ……消えるもんじゃなく、抱え続けるもんでありんすよ。村の秘密を知っている大人たちを皆殺しにしない限り」
「そんなこと!」
こはるははっとして、お蝶の横顔を見つめた。
お蝶は、ゆるりと視線を村人たちのほうへ流し、朱の唇に妖しき微笑を浮かべた。
「お前さんが手を汚すことはありやせん。けんど、あの衆には味わうて貰わにゃならん。己らがこしらえた“あやかし”の真の顔をね……怖気立つほどの恐ろしさで、骨の髄まで思い知らせてやらにゃあ、また同じことを繰り返すだけさ」
その声音はあくまで艶やかに、けれども底冷えのするような凄みが滲んでいた。
妖しく艶やかな笑みを浮かべるお蝶の貌は、もはや人ならざる存在に思え、こはるは思わずぞくりと小さい背を震わせた。
目の前にいるお蝶は、確かに“花魁”としての華やかさを纏いながらも、その影にはもはや人の理を超えた“何か”が潜んでいるように思えた。
そのとき――
呻き声が、鬼の残骸から響いた。
すでに原型を留めぬその身が、なおも最後の力を振り絞り、地を割るほどの咆哮と共に、〈主〉へと喰らいついた。
その顎が、異形の触腕に食い込む。
だが、刹那。
〈主〉は、ぬるりとその巨体の内から口を幾重にも開いた。
無数の咽喉が、鬼の体内へと這い込み、逆流するように内側から喰らいはじめたのだ。
春の喰い手が、より深い飢えに呑まれる。
鬼は断末魔の叫びを上げ、のたうち、砕け、そして――溶けた。
そのすべてを、〈主〉は静かに咀嚼し、胎内へ呑み込んだのだった。
地が、空が、静まり返った。
春の香が、空気から消えていた。
残されたのは、社の崩れた残骸と、あたりを漂う瘴気の濁流。
〈主〉だけが、なおそこに蠢いていた。
その巨大な躰は、形という概念すら失われ、ただ黒く、濃く、重く、夜の帳が空間そのものを呑み込むかのように、ゆらゆらと広がっていた。
お蝶がなお凛として、一歩、二歩とゆるやかに前へと進み出た。
眼前に在るは、もはや理の外――姿を定めぬ瘴気の奔流、〈夜茂る主〉。
その異形を、ひと目見れば、心が裂けると知れたものの、お蝶の眼差しには微塵の揺らぎもなかった。
「……ごちそうさま、てなとこかい? 腹ァ膨れたようで、よござんしたなぁ」
艶と毒とを帯びた声音が、霧のように空間に漂う。
されど〈主〉は応えぬ。
ただ、微かにうねる。
その身を包む夜が渦巻くたび、空気が呻くように震えた。
そのとき、少し離れた場所で妖糸が、ふるりと震えた。
黒子の傍ら、古びた葛籠が、わずかに軋んだ。
葛籠の封が解かれた。
「おかえりなさい」
その声が風に溶けた刹那、空間が軋みを上げる。
葛籠より立ち昇った昏き〈闇〉は、悲鳴と嗚咽と呻き声とを伴って溢れ出した。
葛籠に潜む闇から、
甲高く裂ける悲鳴が聴こえる。
喉を潰すほどの号泣する声が聴こえる。
轟々と呻く声が聴こえる。
どれも惨苦に満ち溢れている。
哀しみ、悔恨、怨嗟――あらゆる感情を孕んだ無数の声が闇の中から響き渡る。
〈闇〉は〈夜〉よりも昏く、月すら射さぬ底無しの奈落。
〈闇〉は這う。
音もなく、地を撫でるように、やがて〈夜茂る主〉の足元へと辿り着く。
〈主〉はそれを認めたかのように、身をくねらせる。
触腕の先が震え、内なる鐘の音がかすかに響いた。
だが、そのとき。
お蝶の紅い唇が、凛として動いた。
「……戻りな。あたしらの手に余る代物でござんす」
お蝶の声は、低く、決して感情を荒げることなく、ただ静かに告げられた。
黒子の妖糸がすうっと伸び、宙に複雑な封印紋を描く。
細く、美しく、されど確実に〈あちら側〉との結界を織り上げてゆく。
〈闇〉はそれに応えるように、〈主〉の脚を絡め、腹を縛り、背を包み込み――そして、首元までを呑み込んだ。
魔法陣の中心に、〈闇〉に囚われた〈主〉の残滓が集まり、漆黒の濁流となって収束してゆく。
ゆっくりと引き裂かれながら、〈主〉は呻いた。
だが、その声すらも、葛籠の闇は呑み込んだ。
そして、〈あちら側〉へと還って逝った。
糸がひとすじ、またひとすじと、丁寧に巻き取られてゆくたび――
歪みに引き攣れていた空間は、次第にその静けさを取り戻していった。
音もなく、光もなく、〈あちら側〉の影は、まるで初めから存在しなかったかのように、あとかたもなく消えていく。
やがて〈闇〉は、まるで掃き清めるように地を這い、砕けた瓦礫、焼け焦げた社、赤黒く染まった大地、響いていたはずの悲鳴の名残りさえも――すべてを呑み込み、ただの静寂を残した。
それはまるで、「ここにはなにも起こらなかった」と言わんばかり。
そして、最後にひとつ。
葛籠の蓋がぴしゃりと閉まる音が響いた。
〈闇〉もまた還って逝ったのだ。
風が吹く。
長き戦いのあととは思えぬほど、静かな風だった。
夜の残り香をまといながらも、どこか春の匂いを孕んだその風が、そっと村を撫でてゆく。
空に浮かぶ雲が日差しを浴びて朱く染まっている。
焼け跡の傍に佇んでいた男衆たちは、誰ひとり声を出さぬまま、その場に立ち尽くしていた。
眼は虚ろに開かれていたが、その奥には確かに――言葉にせぬ驚きと、恐怖の残滓が焼き付いていた。
お蝶は、ゆるりとひと息吐き、かんざしを髪へ戻すと、歩を進めた。
振袖の裾が、灰の上を音もなく滑るように揺れ、やがてひとり、こはるの傍へと立った。
「……帳が下りたねぇ」
静かに、けれど艶やかな声音が風に溶けた。
「長ううございましたが、ようやっと……これで、春が来るでありんしょうよ」
お蝶は、やさしく、どこか寂しげに微笑む。
こはるは、瞼を閉じ、そっと小さく頷いた。
ひとしずく、頬を伝った涙が、冷えた大地に落ちて、すぐに消えた。
その瞬間。
ふわり、と春の風が吹いた。
まだ若く、まだ細く、されど確かに“春”を告げる風が、こはるの頬を撫で、髪を揺らした。
篝火村の空には、もはや黒煙はなかった。
ただ静けさと、どこからともなく漂う梅の香りだけが、残されていた。
それはまぎれもなく、終わりの匂いではなく――始まりの気配であった。