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夜桜お蝶 艶劇乱舞「怪」  作者: 秋月瑛
黄泉の夏
18/22

【四之幕:骸花の咲く夜】(草稿)

こはるが失踪したことで慌てた村人たち。

苦肉の策として、別の少女を巫女にしようとする。


親元から無理矢理引き離された「なつめ」

巫女の衣装と神楽鈴を持たせ、大人たちによって村の中央の円形の舞台に引っ張られる。


口寄せ神楽の舞を強要されるが、できない。

何でもいいから舞え、祈りを捧げろと怒鳴られる。


それでもできない。


突如、不気味な風が吹く。

それはまるで声のようだった。


 ――春を喰らいし鬼よ


 ――願わくば、我らが骸を咲かせよ


 ――その花を喰らい、春を呼びたまえ


大人たちが脅えた様子で慌てふためく。


「〈春を呑む鬼〉の祟りだ」「お怒りだ」と。


半狂乱になった男が叫ぶ。


「早く生贄を殺せ!」


そのあとは何が起きたかわからなかった。

狂った眼の男たちが一斉になつめに飛びかかった。


少女の絶叫だけが木霊する。


そして、その同時刻。

骸花の群生地帯に怪異が起きていた。


骸花が瘴気を放ちながら闇色に染まり、そして朽ちていく。

渦巻く怨念。


絶望、苦しみ、痛み、驚怖、そして復讐。

幾多の少女たちの無念。


ただ一輪のみ銀色の花びらを輝かせていた骸花。

花びらを散らせて舞い上がる。



 ◇ ◇ ◇



闇の中の静けさ。


夜の帳が降りる頃、山は白い息を潜め、凍てつく闇に沈んでいた。

日中の喧騒が嘘のように消え去り、山の空気は一層澄み、冷たさを深めていく。

木々の影が濃くなり、しんと静まり返った山道に足を踏み入れた者は、時の流れが止まったかのような錯覚を覚えるだろう。

その深い闇の中、山は何も語らず、ただ存在しているようだった。


静寂を破るのは、風の音のみ。

しかしその風も、ただの自然の息吹ではなかった。

冷たい空気が木々を揺らし、しわがれた声のような音を立てて流れる。

それはまるで、遠い昔から続くささやきのように、耳の奥でこだまする。


「こんな夜に、何を感じ取ろうとしてるのやら……」


お蝶が低く呟いた。

その声は風に溶け、誰にも届かぬほどにかすかであったが、黒子には確かに聞こえていた。


彼女の瞳は静かに夜を見つめていた。

山の気配が妙に濃くなり、木々のざわめきが一層不規則に響き始める。


その気配は傍らにこはるも感じ取っていた。


「お蝶様、あちらです。あの人が呼んでいます」


こはるはなんの怖れも疑問もないように、お蝶を置いて小走りで駆けだした。


すぐさまお蝶はこはるを追う。


風の流れを肌で感じ取る。

耳元で囁くように吹きすさぶ風が、次第にその輪郭を変えていく。


「……気配が、濃くなったわ」


目を閉じたお蝶の耳に、かすかな足音が届いた。

遠くから、誰かが足を引きずるように歩く音。


「誰か、来てる……けど、こりゃ人じゃないわねぇ」


その言葉に応えるように、山道の奥から影が姿を現す。

長く乱れた髪が揺れ、闇の中でその姿は人の輪郭を保っているようで保っていない。


「……何者だい、あんたは」


お蝶の声は低く、静かに空気を裂いた。

その場の空気が張り詰めていく。


仄かな光の中、巫女装束の娘が立っていた。


「私はかつて春姫と呼ばれた土地神です」


その声が静かに響く。

その響きは空気を震わせ、言霊のように空間を揺らした。


春姫と名乗った娘の顔の輪郭がはっきりとしてくる。

その顔を見たお蝶はハッとして、すぐさまこはるの顔を覗き込んだ。


「瓜二つじゃないかい?」


春姫は頷いた。


「こはるは私の生まれ変わり。いえ、残滓と申した方が正しいでしょうか」


春姫は巫女ではないのか?

巫女である初代「春姫」は、長寿を全うしたのちに土地神になる。


その後、〈春告げの祀り〉で口寄せ神楽を舞う巫女に「春姫」の称号が与えられる。


誤った儀式によって、生贄が捧げられ、数えきれる娘たちが犠牲になった。その怨念を沈めるために、神である春姫は呪われてしまう。


しかし、春姫は最後の力を振り絞り怨念の浄化のために骸花をこの世に残す。本来の名前は鎮魂花。

骸花の本来の役割は、怨念を浄化するものだったが、怨念の力が年々大きくなっていた。


浄化された魂は輪廻の輪に戻ることができる。

春姫「私は私を浄化することで、その魂の一部を転生させました」

そして、その中でも、特別に春姫の力を受け継いだのが、本当の巫女の系譜である春姫の子孫にあたる「こはる」だった。

こはるはこはるでありながら、春姫の一部を宿した存在だったのだ。


「もうすぐ私は幾多の春姫たちの闇に呑み込まれてしまいます。だから消える前にあなたに託すものがあります」


「しかし、どうするかはあなたが決めてください。無理強いをすれば、それは生贄と変わらないのですから」


「大丈夫です」


その言葉とともに、こはるの眼差しが変わった。

怯えた子供のそれではない。

確かな意志を宿した者の瞳だった。


春姫の影が、静かにこはるの背後に現れ、そっと肩を包む。

そして、いつしか春姫は消えていた。


「怖くなかったのかい?」


お蝶の声が、静寂を破るように響く。


こはるは振り向かぬまま、ただ震える肩を強張らせ、そして答えた。


「最初は……怖かったよ。でも、春姫さまは言ってくれたの。『あんたは、生きててええ』ってね」


こはるの頬に、一筋の涙が伝う。


「それが、私を救ってくれた」


お蝶は目を閉じ、風に髪をなびかせながら、静かに頷いた。


「生きるってのは、ほんに難しいこった」


彼女の声には、自身の過去を知る者の重みが込められていた。


こはるの足下に鎮魂花が静かに咲いた。

白銀に揺れるその花は、春姫の未練を映し出す鏡のように、月光を浴びて淡く輝いていた。


「……これが、春姫さまの……」


こはるの目に涙が溢れる。


「こんな形でしか、想いは残せなかったのね」


お蝶はその言葉に、そっと囁くように答えた。


「それでも、花は咲いたのさ。きっと、希望もあったのよ」


鎮魂花の花弁が一枚、夜風に乗って舞い散った。


その静寂を破るように、山の麓から怒声が響いた――


こはるの肩がびくりと震えた。


山を登る松明の炎が、まるで狂気に照らされた亡霊のように、揺らめきながらこちらへと迫ってくる。


「鬼狩りだ! 社に妖が棲んどるぞ!」


「逃がすな! 化け物め、今度こそ地の底へ還れッ!」


怒号と共に、刃と松明が乱れ、山の静けさを引き裂く。


群衆の叫びが闇を揺らし、風を狂わせる。

その怒声は理性を欠いた恐怖と憎しみに染まっていた。


「……来ちまったねぇ」


お蝶は目を細めながら呟いた。

その瞳はすでに決意を帯び、背後のこはるを庇うように一歩前へ出る。


「やめて……来ないで……春姫さまは、悪くなんか、ないのに……!」


こはるの叫びが空を裂くも、それは届くことなく、山の風にかき消される。


その時だった。

地面に咲いていた鎮魂花に翳りが見えはじめた。


異様な呻き声と共に膨れ上がり、闇の中で形を歪ませていく。


影は歪み、巨大な瘴気となって社を包み始めた。


骸花の根元から吹き出すように瘴気が地を這い、冷たい空気を一気に重く染めてゆく。


「だめだよ、春姫さま……そんな、姿にならないで……!」


こはるが手を伸ばすも、その腕をお蝶が静かに引き寄せた。


「だめだよ、こはる……このままじゃ、あんたまで呑まれてしまう」


「でも……っ」


「あたしが終わらせる。あの子の苦しみを、ここで断ち切ってやるんだよ」


お蝶の声には、悲しみと覚悟が滲んでいた。


「いやだ……! 終わらせたくなんか、ない……春姫さまを、ひとりにしたくない……っ!」


「……だからこそ、あたしが手を引いてやらなきゃ。ここで春を終わらせるんだよ」


異形と化したヒトガタの春姫の影が膨れ、社の屋根を超えるほどの大きさにまで膨張し、空間そのものをねじ曲げていく。

空が悲鳴を上げ、社の柱がきしみをあげて崩れかけた。


「春姫さま……!」


こはるが声を張り上げる。


「お願い、気づいて……わたし、ここにいるの……!」


その声に、一瞬だけ異形の動きが止まった。


「……こは……る……?」


影の中心から、微かにその声が返る。


そして――


骸花がふたたび咲き誇り、春姫の影に淡い光が差しはじめた。


――花の色は何色か?


そのとき、社の天井が軋みを上げ、ついにひとつの梁が崩れ落ちた。


「もう……止められないの……?」


こはるが絶望の声を漏らしたその刹那、葛籠を背負った黒子が社の奥より飛び込んできた。


お蝶はは躊躇なくこはるを抱え上げ、社の外へと走り出す。

こはるは振り返り、引き裂かれそうな思いで春姫の影を見つめた。


「春姫さまァ……!」


こはるの涙が宙を舞い、光の欠片となって夜空に散る。

その一雫が春姫の影に触れたとき、再び、影が微かに震えた。


「……こは……る……」


声なき声が、確かにこはるを呼んだ。


「もうええんよ、春姫さま……あんたの春は、もう……終わりにしてええんよ……」


お蝶の声が、震える空気の中に溶けていく。


「わちきがここにおる。……だから、もう眠ってええのよ」


春姫の影が、ふと風に解けるように揺らめいた。

銀色の骸花が再びひとひら、光のように舞い上がり、春姫の中心へと吸い込まれていく。


「さよならや、春姫さま……よう忘れんよ……あんたのこと」


お蝶が静かに目を閉じたその瞬間、社の中に満ちていた瘴気がふっと霧散し、風がすべてを浄化するかのように吹き抜けた。


黒子が妖糸を操り印を結ぶと、葛籠の表面に奇妙な模様が浮かび上がった。


お蝶は哀しげに囁く。


「おゆきなさいな」


 悲鳴が聴こえる。

 泣き声が聴こえる。

 呻き声が聴こえる。

 どれも苦痛に満ちている。


葛籠の中から聞こえる絶叫が、風となり、楔となり、〈闇〉を世界に放った。


春姫の影よりも、なお昏きモノ。


〈闇〉は春姫の影に絡みつき、葛籠の中へと引きずり込む。


全身の身の毛がよだつとも、こはるは目をそらさなかった。

“今度”はすべてを見届けた。


月明かりが、初めて社の奥まで届いた。


そして――


骸花は、ひとひらも残らず、静かに葛籠の中に納められた。


無機質な葛籠の蓋を閉める音が木霊する。


こはるはお蝶の腕の中で、泣きじゃくっていた。


「春姫さま……ありがとう……ほんとに、ありがとう……!」


黒子は一歩、地に膝をつき、静かに手を合わせた。

そして、言葉を発したのはお蝶。

「……春の終わりを、見届けさせてもろたよ」


その言葉は、春姫の魂へと捧げられた、最後の祈りだった。


しかし、これで終わりではなかった。


山の闇を割くがごとく、鬼狩りの叫びが押し寄せる。


「見えたぞ! あれが妖だ、春姫の亡霊だ!」


「社ごと焼き払え! もう二度と蘇らぬようにな!」


 松明の火が風に煽られ、炎の尾が唸りを上げて宙を舞った。

 その姿はもはや正義ではない。

 ただ恐怖に突き動かされた狂気の塊であった。


 お蝶はこはるを庇いながら、足を止めた。


「こりゃあ……もう話の通じる相手じゃないねぇ」


 彼女の声は静かでありながら、怒りと哀しみを孕んでいた。


「この世でいちばん恐ろしいのは、無知と恐れから来る正義ってやつさ……」


 そのとき――骸花の群生地から呻き声にも似た音が聞こえてきた。


 怨怨怨怨ッ!


 堪らず耳を押さえた村人たちが発狂しながら蹲る。


 お蝶は目を細めて、それを見た。


 巨大な巨大な春姫の影が、呻くように揺れた。

 闇色に染まる骸花の群れを毟り取っては喰らっている。


「今度はいったいなんだってんだい!?」


 こはるが怯えたようにお蝶を見上げる。


「春姫さまじゃない……春姫たちが怒ってる……っ!」


「嗚呼、そういうことかい。当たり前だろさ。踏みにじられ、裏切られ、捧げた命の先に残ったのがこれなんだからねぇ……」


あれは本物の春姫ではない。

春姫の称号を持つ歴代の巫女たち。


いや、本当は巫女ですらない――ただの娘たち。

無意味な生贄に捧げられた無惨な子たち。


その怨念たちの成れの果て。


 そのとき、炎に照らされた社の入口が崩れ、そこから這い出るように、巨大な影が姿を見せた。


 それは春姫の姿を模してはいたが、もはや人の形とは程遠い。

 苦しみと怒り、未練と祈り……全てを呑み込んだ、忌まわしき存在――。


 お蝶はそっとこはるの手を握った。


「もう、終わりにしようや」



 ◇ ◇ ◇



 夜の帳が落ちきった頃だった。

 山の向こうより、突然、朱の火柱が天を突き焦した。

 風哭きの社のある山の一角から、噴き上がるように紅蓮の焔が空を裂き、月の光を塗り潰していった。


 それはまるで、夜空ごと焼き尽くすかのような勢いだった。


「な、なんだあれは……」


 村はざわめきに包まれた。

 最初に声を上げたのは、社へと向かった男衆の無事を待っていた一人の若者だった。


 肌を刺す熱と共に、ただならぬ気配が漂う。


「……なにさ、これ……山ごと、燃えてやがる……」


 唖然と声を漏らす村人。


 焔の柱は風とともにうねり、獣が咆哮するかのような低い響きを山全体に轟かせている。

 その様は、まるで山そのものが呻き声をあげているようだった。


「社で……何が起きたんだ……」


 誰ともなくそう呟いた声に、皆が凍りついたように沈黙する。


 男衆たちが風哭きの社に向かって山に入りて数刻。

 渾然とすべてを呑み込み燃える炎。

 いったい社でなにが起きたというのか?


 村人たちはは呆然と立ち尽くし、燃えさかる炎の咆哮に耳をすませた。


 吹きつける風は、熱を孕み、焔の粉塵とともに焼けた土と木々の匂いを村まで運んでくる。

 鼻をつく煙と灰が空を覆い、月はおろか星のひとつも見えやしなかった。


「火事……じゃねぇ……あんなの……山ごと、燃えてるじゃないか……!」


 男たちの間でどよめきが起こる。

 それは恐怖というよりも、常識の外にある現象に対する本能的な拒絶だった。


「こりゃ、ただの火じゃないよ……なにかが……なにかが戻ってきたんだわ……!」


 老婆がひとり、口の中で言葉を呟いた。

 けれど、その声音は確かだった。

 まるで記憶の底から引きずり上げてきたかのような、古い言い伝えをなぞるように。


 ――春姫様の封印が、解けた……?


 誰ともなくそう口にしたその言葉は、すぐに風にかき消された。

 だが、それを聞きとった者たちの目には、はっきりと恐怖の色が宿っていた。


 火の向こう、社のある方角の空が、不自然なまでに脈打っている。


 その赤々と染まる山肌の上に、黒々とした影が浮かび上がっていた。

 それは人の形ではなかった。

 まるで山の精か、古の怪か、あるいは地そのものが具現化したような、巨大な輪郭が蠢いていた。


 地が揺れ、影が伸びる。

 火の照り返しに映るその黒い輪郭は、影にさえ滲みこんでゆく。


「なんなのよ……何が、目を覚ましたっていうの……!」


 村娘の震える声が炎に呑まれ、夜の空へと掻き消える。


 そして社付近では、呪われし巨大な異形と対峙するお蝶たち。



 闇より滲み出たかのごとき異形の影が、静かに蠢いていた。


 それは鬼と呼ぶにはあまりに禍々しく、神と称するにはあまりに哀しかった。

 かつて春を告げる祈りの場であったはずの社は、今やその影に蝕まれ、凶兆の芯となっていた。


 お蝶は、異形と対峙するその場に立ち尽くし、目を細めてその姿を見据える。


 こはるは震える両手を胸元で組み、喉奥で嗚咽を堪えていた。


「お願い……誰か……誰か止めて……」


 その時だった。


 谷底を揺らすような怒声が響き渡った。

 山の麓から怒気を孕んだ足音が響き、松明を掲げた男衆が続々と姿を現す。


「鬼がいるぞォ! 社に棲みついてやがるッ!」


「見たんだよ! 黒い影が、灯籠に這い回ってたッ!」


「やらなきゃ、また春が喰われるんだ! 今度こそ終わらせるッ!」


 先ほどとは別の男衆たちがが次々に集い、怒りと恐怖に駆られて喚き散らす。


 鍬を振るう者、火かき棒を構える者、猟銃を震える手で構える者――その目に宿るは恐怖と怒り、そして知らずして積もらせてきた怨念の燃え滓であった。


「祟り? 上等だ! 村が喰われるよりゃマシだろがッ!」


「焼けェェッ! 社ごと焼き払え! 灰になっちまえば、全部終わるんだァ!」


 長き因習に縛られた者たちの声が、夜空を貫いた。


 狂気に染まりゆく怒号が夜の山々に響き渡る。

 焔が風に踊り、社の影を狂おしく揺らめかせた。


 その時、彼らの背後で、ひとりの老人が呻くように呟いた。


「……昔も、そうじゃった……社を焼いた……けれど、終わらなんだ……誰も、何も、救われなんだ……」


 この老人だけが狂気の中で、ただ一人だけ真顔だった。

 しかし声は誰にも届かず、風の中に消えていった。


 篝火村に伝わる〈風哭きの社〉――それは、いつしか〈鬼の社〉と呼ばれるようになっていた。

 春を呼ぶ社は、春を喰らう社へと変じたのだ。


 お蝶は、宙を薙ぐように手を翳し、黒髪を翻してゆるりと前へ歩み出た。


「やっぱり……そうやったんやねぇ。あたしが前に来たときから、なにか……引っかかっとりましたわ」


 その声音は、花街の見世を思わせる艶やかさを含みながらも、芯にはひとさじの鋼があった。


 お蝶の指先から放たれた一本の糸が、空気を裂くように舞う。

 妖糸――記憶を手繰り、過去に封じられた真実を編み直す、亡き者の言の葉を紡ぐ糸。


 社に残された灯籠、瓦、破れた御簾の残滓。

 それらすべてに宿った記憶が、糸を通じてお蝶の意識へ流れ込む。


「……物言わぬもんほど、よう語るもんや……あんたらの怒りも、怯えも、あたしには見えてるよって……」


 妖糸が絡めとった記憶の断片が、ひとつの“かたち”を結び始める。過去と現在が交錯し、社の闇がその姿を現そうとしていた。


 夜空に、ふたたび火の粉が舞った。


 だが、その場に立つお蝶の姿は揺るがぬ。

 彼女の口元には、ひとつの決意が宿っていた。


「社を焼いたところで、春は還らん。……このごうは、火ごときで消せるもんやあらしませんのや」


 その言葉は、村の因果を切り裂く刃となって、男たちの耳に突き刺さった。


 お蝶は妖糸を張りめぐらせ、そこに宿る残滓を探っていた。


「……こいつぁ、ただの残り香やありんせんねぇ」


 彼女の言葉とともに、糸が微かに脈打つ。

 お蝶はモノに宿った記憶の残滓を妖糸で手繰り寄せた。


 次の瞬間、眼前の景色がかすかに揺れたかと思うと、世界は音もなく塗り替えられた。


 見えてきたのは、いつとも知れぬ昔の光景。


 ――篝火村。

 春告げの祀りの宵。


 社の前には男衆が列をなし、手にした松明が闇を赤く染めていた。

 祭りのはずの宵に、祝いの歌も舞もない。

 ひとりの娘が社の奥に囚われ、村人らはその姿に眼を背けていた。


「……また、捧げるのか……この年も……」


 誰ともなく呟いた声が、湿った夜気に溶ける。


 娘の名は「供花くげの巫女」――春を呼ぶために差し出される存在。

 かつては祈りの巫女と称えられ、村人の安寧を願う象徴であった。


 しかし、ある年、冬が明けず、雪が溶けなかった年を境に、供花は生贄と化した。


 飢饉が来た。

 疫病が流行った。

 山の神の祟りと噂された。


「燃やせ……社ごと、祓え……!」


 怒号とともに、火が放たれる。


 焔は社を呑み、黒煙は天へと昇っていった。


 かつての「供花の巫女」は、炎に包まれ、叫びも届かぬまま、焼かれた。


 それが――「最初の祀り」となった。


 以来、村は春を迎えるたび、社に火を放ち、生け贄を捧げ続けてきた。 春を得るために、命を手放す。

 それが“しきたり”となった。


 お蝶は、はっとして目を見開いた。


 視界が戻った時、彼女の目の前には、鳥居が焼けることなく残っていた。


 社は燃えた。

 たしかに燃えた。


 燃えたのだ。


「何度焼いても、元に戻る……幻視……いや、記憶の残滓やろねぇ」


 篝火村に伝わる〈鬼の社〉――それは幾度となく焼かれ、祓われ、そしてなお、何も終わらなかった。


 そして、村人たちは再び焼こうとする。

 祀りのためでなく、その祀りを終わらせるために。


 村人たちの声がこだまする。


「鬼を焼けぇ! 社ごと焼き払え! そうすれば春は来る!」


「これで終わるんだ、俺たちの……俺たちの春が……!」


 その声は哀しみに満ちていた。

 怒りとも違う、絶望から絞り出された祈りにも似た声。


 燃え盛る火の中で、影が踊る。

 人々の眼差しには、ただ一つの信念が宿る。


 鬼を討てば春が来る

 ――それが、この地に根を張った呪いであった。


 だが、それは真ではなかった。


 彼らの怒りと悲しみは、年月の中で歪み、いつしか繰り返すことが習わしとなった。

 それは儀式のように、傷を繰り返すことでしか癒せぬ哀しみだった。


「……本当に、これでよかったのか……」


 誰かの呟きが、火の中に吸い込まれていった。


 炎に染まる夜空を背に、お蝶は静かに息を吐いた。


「……これが、繰り返されるべき運命ってやつかねぇ……今度こそ、終わらせられると信じて」


 その声は、焔の音に混ざり、誰にも届かぬような静けさを宿していた。


「正義の名を借りて、誰かを焼いて、春が来ると思うてやすのかい……まったく、よう笑わせてくれるわ」


 空に舞う灰がひとひら、ふたひらとお蝶の頬に落ちた。


「……火で清めるつもりかい? 過去の罪まで焼け落ちると思うてるのかねぇ……ほんに、おめでたい話やわ」


 炎は咆哮のように唸りを上げ、闇の山を朱に染めていた。

 焔に炙られた空気はひりつくように熱を帯び、風は灰を巻き上げ、谷を這うようにして吹き下ろす。


 舞い散る灰が、頬にひとつ、ふたつと落ちる。


「火が真実を照らすとでも思うてんのかい。……お笑いやねぇ、そんなもん」


 目を伏せるようにして、ゆるりとまぶたを閉じる。

 やがて静かに開かれたその眼差しは、ひどく澄んでいて、それゆえに凍てつくような冷ややかさを湛えていた。


「見てみなはれ……あの眼。どれだけ燃やしても潤いなんて戻りゃしない。虚ろなまま、ただ怯えて、欲に突き動かされてるだけどす」


 群衆の顔――炎の赤に照らされたそれらは、一様に険しく、しかしその実、怒りでもなければ誇りでもなかった。

 そこにあったのはただ、恐れに裏打ちされた安堵と、誰かを犠牲にすることで得る一時の安心。


「恐れが欲望に姿を変える……あたしは、もう何度も見てきた光景どすわ。けどねぇ……いつか気づく時が来るんやろ」


 ゆるりと、肩を落とすようにお蝶は息を吐く。


「――自分たちこそが、鬼になっとったってことに」


 その言葉は焔に掻き消されず、風に乗って夜へと溶けていった。


 炎はさらに勢いを増し、社の屋根がついに崩れ落ちた。

 ぱちん、と木材の割れる音が響き、火の粉が空高く舞い上がる。

 その閃きの先、闇の帳に沈む山影の奥――そこに、形を持たぬ“何か”の存在があった。


「この火で、なにが清められるってんやろねぇ……過去の罪まで、灰にできると信じてるのなら、ほんにおめでたいこっちゃ」


 お蝶は、目の奥に静かな怒りを宿しながらも、どこか憐れむような眼差しで群衆を見下ろした。


「ほれ見なはれ……影が踊っとるわ。あれは、あんたらが恐れ、焼き払おうとしとる“鬼”やろうか……それとも、あんたら自身がこさえた影やろうか……」


 その時、風向きが変わった。炎の熱が押し戻されるように逸れ、煙の奥に、ひとつの塊が浮かび上がった。


 黒く、朧で、輪郭を定めぬその影は、まるで胎の奥底から這い出してくる何かのようであった。

 呻きとも、唸りともつかぬ声が、地の底から微かに響く。


「……この火のあとに残るんは、灰と問いだけ。『誰が鬼やったのか』――けど、誰も答えられへんのやろねぇ」


 お蝶は片口を歪めて笑い、ゆるりとひとつ呟いた。


「――次の焔を、待つだけどすわ」


 その言葉は、闇に向けた予言のようでもあり、自嘲のようでもあった。


 そして――山は燃えていた。

 社は崩れ、祀られたはずの神も、鬼も、区別のつかぬまま灰となり、夜空へと散っていった。


 だが、すべては終わっていなかった。


 燃え落ちるその先、まだ姿を見せぬ“何か”が、今まさに胎動を始めようとしていた。


 お蝶の簪が風に揺れ、白粉の面差しが炎に照らされ、紅を帯びる。


「ほな……幕のつづき、見せてもろうかね」


 その声とともに、夜は、さらに深みへと沈んでいった――。


 山を焼く炎の業火がなおも空を焦がすなか、夜は深まり、風がうねりを増した。


 蠢くそれは煙の奥、炎のほとぼりの中に、ぼんやりと浮かぶ影。

 形を定めぬその黒き塊が、呻き声とともに、ゆるゆるとその輪郭を得ていく。


 社を包む炎の赤が、空と大地を焼いていた。

 揺らぐ火の粉が舞い上がり、夜の帳を朱に染めるなか、男衆たちの声が空気を裂いた。


「見ろ……あれ……あれはなんだ……?」


「鬼じゃねぇ……鬼なんかじゃねぇ……!」


 最初こそ歓声と怒号だった男衆たちの叫びは、やがて恐怖に変わっていった。

 目の前の“何か”に、ことわりでは届かぬ異様な気配を感じ取ったのだ。


 ――怨怨怨怨怨ッ!


 呻き声のような風が、地を這うように広がった。

 耳に直接届くのではない。

 肌に、骨に、心に届く。

 呪詛が具現となり、声とも音ともつかぬ重みとなって群衆を締めつける。


 社の焼け跡から、ゆらり、とそれは姿を現した。


 炎の名残にくすぶる炭と灰をまとい、黒き煙をまといつかせた影が、ひとつ、ゆるゆると立ち上がっていく。

 熱で揺らぐ空気の向こうに、見え隠れするその巨影。


 それは、かつて焼かれ、祓われ、封じられ、それでも終わらなかったもの。


 篝火村が語らぬまま押し隠し、忘れたふりをして生き延びてきた――幻想の鬼。


「……こはる、よう見ておくんなまし」


 お蝶は炎の向こうを見つめながら、静かに呟いた。

 その瞳には一切の迷いがなかった。


「これが、あたしゃらが追ぅてきた“真実”でありんす。炎の奥に、ようやっと、あの影が姿を見せてくれやしたわ」


 風が唸り、燃え残った木々が爆ぜる音が響く。


 村人たちの怒声は悲鳴へと変わり、恐怖に取り憑かれた群衆は次々と後退りしていく。


 そして、最後はその場に立ちすくみ、誰一人、声を出せなくなった。


 動けぬのではない。

 見てしまったのだ。

 自分たちがずっと目を逸らし続けてきた“罪”の形を。


「よう見ておくんなはれ、こはる。あれが“鬼”どす。けんど、あれは化け物とちゃう。人の欲と恐れの、成れの果て……哀しき影どす」


 お蝶の瞳が細くなり、紅の唇がかすかに歪む。

 嘲笑ではない。

 そこに宿るのは深い哀しみ。


「生け贄を求め、封印にすがり……けど、誰ひとり終わらせようとはせんかった。あれは、ヒトの業がこさえたもんどす」


 言葉のひとつひとつが、焔の奥にある業の姿に重なっていった。

 怨念ではない。

 ただの復讐心でもない。

 長い年月、積み重ねられた無理解と恐怖と犠牲。

 それが、形を持っただけ。


 炎が轟音を立てて崩れた社を舐め尽くす。

 その奥――焼けた礎の影で、巨影が咆哮を上げた。


 それは、春姫が囚われ続けていた封印が解けたことで、長き沈黙を破り、村の“原罪”が姿を現した瞬間であった。


 風が止んだ。

 だが空気は、なおも刺すように張り詰めている。


「これが……終わりやないのやろなぁ」


 お蝶の声は、風に消えるほどに小さく、されど確かな覚悟が込められていた。


「まだ、あの鬼の奥には……あの娘の“春”が眠っとる気ぃがいたしますのや」


 炎に浮かぶ影。

 その輪郭が、なおも揺らぎ続けていた。

 まるで、まだ決まりきってはおらぬ運命を、そこに宿しているように。


 お蝶はひとつ、息を吐いた。

それは、炎に包まれた社を前にしてなお、心を静かに整える者の吐息であった。


 そして、瞼を閉じ、ふたたび開けたときには、すでに決意がその瞳に灯っていた。

 足取りは軽やかにして確か。


「こはる――あたしらにゃ、まだやらにゃならん舞台が残っちゃりやす。……覚悟は、ようござんすかえ?」


 背を向けたままそう言ったお蝶に、すぐさま真っ直ぐな声が返る。


「はい!」


 その返事には、一点の曇りもなかった。

 こはるの瞳には、迷いも恐れもなく、ただ信じる者の背を追いかける意志が光っていた。


 燃え盛る社の焔を背にして、お蝶の姿は、まるで夜に咲いたひとひらの桜のように艶やかで、儚げで、それでいて揺るぎなかった。

 振袖の裾がひらりと翻り、紅が揺れるたび、火の粉が花びらのように舞った。


 そのとき、鬼の影がうねりを上げる。

 黒く濁った気が天を突き破り、怨嗟の咆哮が山の根を揺るがせた。

 その巨体がうねり、呻き、夜の帳に無数の声を撒き散らす。


 それは過去に失われた者たちの慟哭。

 生贄となった娘たちの声。

 

 涙も、訴えも、届くことなく飲み込まれていった命たちの、最期の慟哭だった。


 それでも――お蝶は振り返らなかった。


「……さぁ、おやすみ。皆まで言わずとも、もうようござんす」


 その声には、深い哀しみとやさしさが滲んでいた。

 艶やかに、凛として、それでも静かに魂に寄り添う声音だった。


「今宵、黄泉への道を閉じてみせましょう。……艶劇の幕引き、どうか見届けておくんなまし」


 焔の向こうで、鬼がひと際大きく咆哮を上げた。

 空が裂け、地が震え、黒き影が膨れあがる。


 だが、お蝶の背は揺るがぬまま。

 その足元に咲く焔の花びらのなかで、彼女の姿は、夜桜のように美しく、静かに気高く立っていた。


 そして、こはるの瞳にも、同じ火が灯っていた。

 運命に抗う者たちの舞台――

 今、最終の幕が開かれようとしていた。


 決意を胸に秘めたその瞬間――


 業火に照らされた社の前、一瞬の静寂を切り裂いて、ひとりの村人が狂気を帯びた叫び声とともに飛び出した。


「化け物めえぇぇぇえッ!」


 その男の手には、大ぶりな石。

 振りかぶると同時に、憎悪そのままに黒子めがけて放り投げた。


 石は夜の空気を裂き、まっすぐ黒子の額を打ち据えた。


 ごつっ……!


 鈍く重たい音が響いた刹那、鮮やかな紅が月明かりに煌めいた。

 血が黒子の額から溢れ、面を伝って頬を濡らし、地へと滴り落ちる。


 黒子の体がふらりと揺れ、膝を折る。


 そして、同時にお蝶もふらりと倒れ込む。


「お蝶さま! 黒子さま……!」


 状況が飲み込めずこはるが慌ててお蝶の身を抱き上げる。

 額に汗、指先は震え、声もかすれる。


「お蝶さま!……あなたさまが倒れたら……誰が……誰がこの闇を斬るのさ……!」


 振り向けば黒子も地面に倒れ込んでいる。


「黒子さまも! 二人とも早く起きてくださいませ!」


 そうこうするうちに、村人たちの怒声が近づいてきた。


「いたぞ! あいつだ、封印を妨げてた奴!」


「違う! お蝶さまは……っ、あんたらとは違う……!」


 叫んでも無駄だと、こはるは知っていた。

 群衆の耳は、炎と怒りに焼かれて久しい。


 こはるの眼差しが燃えさかる社の奥へと向けられた。

 元凶を絶たねばなにも解決しない。


 巨大なうねりと化していた怨念の影は、呪力に満ちあふれ、やがてそれは社の奥、燃える光の中で収束していった。


 だがこはるは、それをただの化け物とは見なかった。

 怨み、祟り、呪い――そのすべての底にあるものが、春を願った者の祈りであったことを、彼女は知っていた。


 巫女装束をまとった影。

 その貌は無貌。

 だれであって、だれでない貌。


 無貌の巫女の髪は赤く生き物のようにうねり、躰から這い出る影が壁や床を這う。


「……また……火に焼かれるのね……」


 その声は怨みでも怒りでもない、諦念に近い悲哀に満ちていた。


「わたしは……ただ、春を迎えたかっただけなのに……」


 柱が崩れ、社が呻きを上げる。

 空気が裂け、影が這う。


「わたしは……ただ祈っていただけなのに……」


 赤い髪が風に舞い、衣が破れ、影が社の壁を塗り潰す。


「どうして……いつもわたしばかりが……」


 崩れゆく姿のまま、無貌の巫女の力は空間を歪ませ、柱を軋ませる。


「もう、繰り返させない……全部……終わらせる……」


 その瞳に宿るのは、絶望の果てにある決意――そして炎と同じ色の狂気。


 こはるは燃え落ちる社の床に、一歩、また一歩と近づく。

 その手のひらには、銀に光る一枚の花びらが乗っていた。


 それは、春姫の祈りの残滓。


 すべての巫女たちの鎮魂を宿した、ただひとひらの希望。

 鎮魂花のひとひらだった。


 さらにこはるは一歩、また一歩と無貌の巫女へ近づいていった。


 巫女装束をまといながらも貌なきその影は、もはや人でも鬼でもなかった。

 ただ、長き祈りと絶望とを纏ったまま、そこに立ち尽くしていた。


「……春姫さま、あなたさまのご意思は……わたしが継ぎます」


 その一言が、夜気に溶けるより早く、怨嗟の風が社を震わせた。


 怨怨怨怨ッ!


 それは泣き声のような風の音。


 だがこはるの足は止まらない。

 その身を裂くような力の奔流の中、おはるは一歩ずつ、静かに、だが確かな足取りで、影に寄り添っていく。


 こはるは社の中心に進み出ると、燃えさかる炎の中に立つ無貌の巫女を見つめた。


 赤くゆらめく焔に包まれながら、無貌の巫女の姿は崩れつつもなお、そこに在った。


「もう、終わりにしましょう……わたしの鏡たち」


 その声はどこまでも静かで、けれど凛としていた。


 こはるの手のひらが、ゆっくりと開かれる。


「あなたたちが背負ってきた苦しみや、春を願う想い……わたしには全部はわかりはしないけど……もう、背負う必要なんてないんだよ」


 その声は、優しく、しかし凛とした響きを持っていた。


 ひとひらの銀の花びらが舞い上がる。

 春姫たちの記憶を宿した鎮魂花。


 無貌の巫女の姿がわずかに揺れた。

 その周囲に、淡く揺れる光の粒が現れる。


 それは供物として捧げられた魂たちの記憶――少女たちの囁きだった。


「冷たかった……」


「暗かった……」


「でも、春姫さまがいてくれた……」


「独りじゃなかった……」


 霧のように浮かぶ声は、無貌の巫女の心をなぞるように響き渡る。


 嗚呼、無貌の巫女の姿が淡く揺れた。

 涙が一筋、燃え残る影の頬を伝い落ちる。


「誰かに……春を感じてほしかった……ただ、それだけだったのに……」


 こはるは静かに瞼を伏せ、右手を胸に添え、静かに頷いた。


「その願い……しかと受け取りました」


 ひとひらけだった花びらが、こはるの手のひらから溢れんばかりに舞い上がった。



 こはるは、胸の奥に灯る“春”を、そっと両の掌に込めるようにして、その一歩を踏み出した。


「……春は、ここにあります。みんなの春は、ここに」


 その声音は、吹き抜ける風よりもなお静かに、しかし確かな温もりを持って、燃え残る社の闇に溶けてゆく。


 無貌の巫女――かつて春姫と呼ばれた者たちは、わずかに瞳を揺らした。


「……わたしの……春……?」


 こはるは頷いた。

 掌を開くと、そこには銀の光を宿した一枚の鎮魂花の花びらがあった。

 かすかな風に揺れ、ふわりと宙に舞い上がる。


「どうか……聞いてくださいませ、春姫さまたち。あなたさまたちの願った春は、ここに――わたしの中に、息づいております」


 その言葉に呼応するかのように、光の粒が闇の中に浮かび上がった。それは、供物とされ、名もなく消えた少女たちの面影であった。


「……これが、春……なのね……」


 無貌の巫女の呟きは、まるで夢に語りかけるような、透きとおる声であった。


 そして、骸花のひとひらが、彼女の傍らにそっと咲く。

 すぐに花びらは紫赤から銀色へと変わっていく。


 その瞬間、無貌の巫女の姿を包んでいた闇が、ゆるやかにほぐれた。

 髪を揺らしていた赤き影は静まり、装束の裾もまた、風に溶けてゆくように淡く薄れてゆく。


「……託すわ、この春を……わたしたちの、もうひとりに……」


 そう言い残し、無貌の巫女は、光となって溶けていく掌から、ひとつの簪をこはるに手渡した。


 それは、こはるへの最後の願い。


 カッと眼を見開いたこはるの脳裏に、次々と幾多の“貌”が流れ込んできた。


 幼きもの、儚きもの、誇り高きもの、恋に憧れしもの――


 それぞれの貌。

 それぞれの人生。

 短い生涯であったが、そこには多くの想いがあった。


 それは皆、この村で生を享け、そして春の代償として命を奪われた娘たちの面影であった。

 ひとりひとりが、確かに生き、愛し、何かを願って散っていった。


 こはるは、そのすべてを、眼に焼きつけるように見つめていた。


 ――わたしが、受け継がねば。


 ふと、視界が広がった。


 見渡せば、あたり一面に銀の花が咲き誇っていた。月光も届かぬ社の内に、幻のごとく現れた花の海――


 それは鎮魂花。


 雪のように儚く、けれど強かに咲き誇る花々が、犠牲となった娘たちの魂を、そっと浄めてゆくかのようだった。

 風も音もなく、ただ静かに、静かに。


 その美しさに、こはるは言葉を失った。


 ――願いが、届いたんだ。


 鎮魂花によって娘たちの無念が浄化されたのだ。


 と、その刹那、天井を割るかのように火柱が上がり、社全体が大きく揺れた。

 柱が悲鳴を上げ、土壁が音を立てて崩れる。


「下がってな、こはる!」


 耳に飛び込んだのは、お蝶の声だった。


 いつの間にか意識を取り戻していたお蝶が、火の粉舞う闇の中から姿を現し、すぐさまこはるの傍へと駆け寄った。


「目ぇ閉じな、嬢ちゃん……あたしが、絶対に死なせやしないよ」


 お蝶はその細腕でこはるを抱きかかえ、まるで風を切るように走り出す。


 轟音が社を包み、こはるの叫びも、黒子の警告も、すべてが炎に呑まれた。


 だが――お蝶の足取りには、一寸の迷いもなかった。


「生きるんだよ、ええね……生きてさえいりゃあ、また春は来るんだわ」


 燃え落ちる梁の下をすり抜け、崩れる柱をくぐり抜ける。

 お蝶の一歩ごとに、死と生の境が揺れる。


 その背に、火が迫る。

 だが、お蝶の瞳はただ前だけを見つめていた。


「あんたの春は、まだこれからやろ? だったら――走りな」


 全身に焼けた空気をまといながら、お蝶は駆けた。

 まるで命の灯を手放すまいとする者のように。


 そして、瓦礫を踏み越え、炎の轟きのなか、ついに光の射す出口が見えた――


 命の重さを両の腕に抱きしめながら、お蝶は、走った。


 燃え尽きようとする社を背に、春の残り香を胸に抱いて――ただ、まっすぐに。

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