【三之幕:風哭きの社】(草稿)
――哭いておる。山が。
吹きすさぶは、ただの風にあらず。
それはまるで、此岸と彼岸をつなぐ瘴の嘆き。
女の慟哭、子の嗤い、老いの呻き――さまざまな声を孕んだ風が、夜の帳を裂いて唸りを上げる。
雪の森に満ちるその音は、音にあらず。耳では聞こえぬが、魂にざらつきが刻まれる。
篝火村の外れ、鬼神を封じたと伝わる社の裏手、誰が呼ぶともなく「風哭きの道」と言い伝えられる獣道。
人の足も、獣の足も絶えたその路を、お蝶と黒子は、雪を踏みしめ歩いておった。
「……ここの風は、えらい艶っぽい声をしとりますなぁ」
お蝶は、ふわりと笑んだ。
けれどその笑みは、紙に書かれたもののように薄く、真意を隠す仮面のごとし。
風が、ひゅうと首筋を撫で、髪を遊ばせる。
髪の間をすり抜けた風は、まるで生き物のように蠢いて、耳朶をなぞる。
その感触に、お蝶はそっと瞳を細めた。
「いややわ……誰ぞ、わちきに口づけてきよった気がいたしますの」
艶をまとった言の葉ではあるが、その声音には確かに凍てつくものがあった。
華やかさの奥に、女の本能が、明確なる〈忌〉の気配を察知していた。
黒子は何も言わず、ただ前を行く。
その背に、雪が降りかかり、すでに肩に白が積もる。
音もなく、まるで闇と一体化するかのように、黒き装束が山の静寂に溶けていた。
そのときである。
森の奥――
風の流れのひと欠片が、はっきりと「声」を孕んだ。
まるで怨嗟にも似た女の囁きが、耳ではなく、心の奥へ直接流れ込んでくる。
「助けて……」
「っ……!」
お蝶の身体が、わずかに震えた。
その声には、情念があった。
切羽詰まった哀願ではない。
何百年も風と共に在り、なお届かぬ痛みを抱いたまま、ただ吹き続ける、永き祈りのようであった。
雪に沈む森――
老いた杉の幹は裂け、根は歪み、白き衣を纏った大地には、どこかしら女の怨念めいた艶が漂っていた。
お蝶は、足元の雪を見つめる。
そこには、誰かの足跡にも似た、けれども踏みしめた痕ではない――
重たき想念が残した、〈染み〉のような痕跡が、雪の上にうっすらと浮かんでいた。
「ここは、ただの山やありまへん。封じられた何かが……今も息をしておる」
その言葉に、黒子は微動だにせぬまま、小さく頷いた。
風が再び、鳴いた。
それは、社の奥より這い出した何かが、いま森に指先をのばした音――。
その音に応じるように、お蝶の足元から、小さく雪が蠢く。
影が、這いずるように白き大地を染めた。
「……ここが“風哭きの社”……ええ名やわ。風が、泣いとる。まるで、春を喰われた誰かの声のようや」
お蝶の手が、懐の扇にかすかに触れた。
いつでも舞い、いつでも斬れる。
艶と剣の狭間に生きる者の、戦の構え。
黒子は、葛籠を背にしたまま、ひととき立ち止まる。
まるで、その場に〈気配〉を染み込ませるように、静かに目を伏せる。
春を奪われた者たちの嘆きか――
それとも、春を封じられたまま忘れ去られた、神の呻きか。
この先、二人が踏み込むは、風の社。
封印されし記憶と、祈りと、怨念が眠る場所。
――春は、未だ、来ぬ。
――その理由を、いまこそ暴かねばなるまい。
社へ至る細道、その白き峠の途中にて、お蝶はふと足を止めた。
ひとつ、足を運ぶごとに、雪は深くなり、風の声も強まってゆく。
されど、その身にまとわりつく寒さは、肌の表ではなく、胸の奥底――魂の座へと忍び寄るような冷ややかさであった。
黒子の背は、ただ黙々と、雪を踏みしめる。
その影が、音もなく前へ進むたびに、お蝶の胸に棲まう違和が、じわりと、滲みを広げていった。
――何かが、待っとる。
呼ばれておるのか、それとも、招かれているのか。
あの哭く風が、確かに告げていた。
名もなき“何か”が、この先の闇に潜み、ただ静かに、訪れを待っていると。
「……黒子。待っとるのや、なにかが。この道の果てで。あたし、そないに感じてまいますのや」
その声は、低く、ややかすれていた。
まるで凍てついた言の葉を喉の奥から搾り出すように。
その響きは、黒子の背に向けられながら、半ば自らに投げかけるようなものでもあった。
己に逃げ場を許さぬための、覚悟の音であった。
黒子は振り返ることなく、ただひとつの影として、前へ進み続けた。
風が、白蛇のように雪を巻き上げ、視界を曇らせる中、その黒き背は、やがて霞みの中へと溶けてゆく。
されど、その沈黙は、お蝶にとって何よりの言葉であった。
そのとき――村で聞いた言葉が、お蝶の脳裏に反響した。
伝承の中で語られた、春を迎えるための〈しきたり〉。
春の訪れには、巫女の命を――ひとりの娘の魂を、捧げねばならぬという掟。
その呪いのような言の葉が、黒子の心にも深く沈んでいた。
やがて、彼の足が止まった。
雪は肩に降り積もり、風は頬を斬りつけるように吹き荒れる。
その場に立ち尽くした黒子は、目を閉じたまま、ただ風の声を聞いていた。
それは、過去より届く罪の音か、それとも未来を拒む咎の囁きか。
――春を迎えるために、命を……
誰が定めたのか、誰が受け入れたのか。
理を覆うための理が、いかに多くの命を踏みにじってきたのか。
雪の向こう、折れた枝が悲鳴のように軋む。
黒子の目は開かれ、その瞳には、凍てつく色の奥に、静かなる憤りがあった。
かつて、どれほどの“春”が、理不尽に呑まれ、喰われていったのか――
黒子は、ただそれを、まなざしの底で噛み締めておった。
何も語らずとも、彼の沈黙には熱があった。
その背に追いついたお蝶は、一瞬だけ彼の表情を窺うが、言葉は紡がず、代わりに小さく息を吸い込んだ。
「わちきらが、終わらせんとあきまへん。何百年と続いた、寒ぶい春を……」
その呟きは、まるで風に抗う種火のように、小さくとも消えぬ決意を帯びていた。
山の気は、なおも沈み、白雪の重みにうなだれた老樹たちが、黙して道を囲んでおった。
風の唸りはすでに音を失い、代わりに静けさという名の凶兆が、あたりを包んでおる。
ふと、黒子の歩みが、わずかに緩む。
風のなかに潜む何かを感じ取ったのか、それとも、心に去来する思念に足を取られたのか――
彼は前を見据えたまま、ひとときその場に立ち止まった。
そして、誰に語るでもなく、ただ己の内に問いかけるように、風の中へと視線を投げる。
“春を呑む鬼”――
その名を、黒子は口にせずとも、己が胸の内で確かに唱えていた。
それは、この村が長き時をかけて育んだ、闇の象徴。
鬼など、果たして実在するのか。
それとも、これは――
村というひとつの共同体が、忌むべき過去を覆い隠すために、己らの手で創り上げた“影”ではなかろうか。
黒子は、かつて耳にした伝承を思い返す。
鬼は春とともに現れ、骸花を咲かせ、娘ひとりを喰らうという。
だが、その話を語る者はいない。
いや、語れぬのだ。
語れば祟りが来る――それが、この村に脈々と流れる“掟”であった。
その掟に抗わぬことが、生きるための“しきたり”となり、やがてそれは、真実よりも深く根を張ってゆく。
恐怖とは、忘れられた記憶ではなく、記憶を閉ざす沈黙そのものである。
お蝶は、その黒子の気配を背に受けながら、ふと足を止めた。
風の向こうにある何かを見透かすように、遠くの森影を見据える。
「……この村の人々は、きっと、何も知らぬまま……生きてきたのやろな」
その言の葉は、雪に触れて消える吐息のようでありながら、確かなる哀しみを宿しておった。
「知らんのが、幸せだったのかもしれへん。けれど、それが、かえって縛りになってしまうこともあるんや」
お蝶の目は伏せられ、降りしきる雪に細き指がそっと触れる。
白く舞う結晶は、まるで誰かの声なき涙のように、手のひらからこぼれ落ちた。
「“春を呑む鬼”……その正体が、ほんに鬼やったとしても、怖れるこたぁあらしまへん。あれはきっと……誰かが生み落とした影どす」
お蝶はゆるりと顔を上げ、黒子の背に向けて静かに続ける。
「誰かが……何かを隠すために編んだ“物語”。そないな気ぃがしてならへんのや」
その言葉を受け、黒子の視線が、雪の帳の向こうを彷徨う。
その目には、怒りでも、驚きでもない。
ただ、長き黙考の末に至った、冷ややかな納得と――
そして、未だ見ぬ真実への警戒が浮かんでおった。
沈黙が落ちる。
ふたりの影を囲むように、森の闇が蠢く。
風がわずかに鳴り、枝のひとつが雪を落とす。
その音に、黒子が再び歩みを進めた。
お蝶もまた、ひと息吸い、静かにそれに従う。
「影を生んだのは、人や。けれど、影が本物の“鬼”になってしまったら……その先に待つのは、祟りだけやない。きっと……もっと深いものが、底におるんどすえ」
その声は、誰かに語るより、己に刻む呪文のように聞こえた。
銀の森はなおも深く――
“物語”に封じられた真実の地へ、ふたりの影が進んでゆく。
お蝶は、言葉を返すことなく、ただ静かに歩を進めた。
その背には、吹き荒ぶ山風。
紅の振袖の裾が、雪を払って流れゆくたび、どこか――決して揺るがぬはずの彼女の肩先が、わずかに震えておった。
それでも足は止まらず、踏みしめる一歩一歩が、深き雪を割って道を拓く。
黒子は、その背を見つめながら黙して続く。
足音を雪に吸わせ、影のように歩を揃えるその姿に、言葉はなかった。
けれど、その沈黙こそが、何より確かに彼女と歩調を合わせておることを示していた。
風がまた唸る――
まるで山そのものが呻いているかのような、深く低い鳴き声が、谷を渡ってふたりの耳朶を打つ。
それは、呼び声のようでもあり、警告のようでもあり、あるいは待ち受ける“何か”の呻きのようでもあった。
お蝶はその音に臆することなく、視線を前へと据えたまま、口を開く。
「……なにが“鬼”であろうと、あたしゃらがやることは変わりまへん」
その声音には、吹雪を裂くほどの凛とした力があった。
しっとりと濡れた唇の端に、揺るぎない決意の色が浮かぶ。
「遅かれ早かれ、春は来る。されど、その春が咲かせる花が……ただの“骸花”やったら、意味がありまへんやろ」
風が再び彼女の髪を吹き上げた。
その中で、お蝶はふと立ち止まり、片手で額をかざして雪の先を見遣る。
その視線の先――山道の果てには、まだ見ぬ闇が横たわっておる。
黒子は何も言わぬまま、その隣に立つ。
そして、しばしの沈黙ののち、ふたりの足が再び動き出す。
歩みは重く、風は強く、雪はなお降りしきる。
されど、その歩みは確かであった。
後戻りは、もはや叶わぬ。進む先に何があろうと、目を逸らすことは許されぬ。
お蝶は、ぽつりと呟いた。
「……春を迎えるたび、何かを喰う“鬼”が来るいう話。ならば、その鬼に呑まれる前に――こちらから、呑んでしまわんと」
それは挑発でも、虚勢でもなかった。
むしろ、春を呑むという“業”を前に、すでに覚悟を据えた者だけが放てる、静かな誓いの響きであった。
黒子は、ぴたりと足を止めた。
吹きすさぶ風が裾をはためかせ、墨のごとき衣が雪のなかに揺らめく。
彼の耳朶に、かすかに響くのは、遠く村で耳にしたあの言葉。
それはまるで、死者の囁きのように脳裏に這い寄り、耳の奥底を冷たく撫でる。
――春を迎えるには、巫女をひとり捧げねばならぬ。
風が唸る。
木々が、まるで怨嗟を漏らすかのように軋みを上げる。
黒子の周囲だけ、時間が凍りついたかのように、音も温度も遠ざかっていく。
それは、ただの古き習わしではない。
閉ざされた村が、幾度となく繰り返してきた、血と悲嘆に彩られた因習。
長き年月のなかで、ひとびとが“鬼”と名付けた何かに、命を以て応えてきた結果であった。
黒子は、雪の中にじっと立ち尽くし、仰ぎ見る空の深さに、言葉にならぬものを呑みこんでいた。
まるで天までもが、この山の奥に封じられた真実を黙して見守っているかのように。
やがて、雪を踏む微かな足音が背後より近づく。
それはお蝶であった。
凛と張ったその背は揺るぎなく、されどその足取りには、いつになく静けさが宿っていた。
彼女は黒子の傍らに並ぶと、ふと瞳を伏せ、風に乗せるようにそっと言葉を紡いだ。
「……黒子」
その声は、低く、切なげに風へと滲んでゆく。
黒子は何も応えぬ。ただその場に佇み、まるで自らの存在ごと雪の中に沈めてゆくような、無音の思索に耽っていた。
「さっき村で聞いた“しきたり”……胸に、刺さっておりんすね」
お蝶の声音は、どこか己の内側にも向けられていた。
黒子の横顔を見つめたまま、彼女は静かに続けた。
「巫女を捧げれば、春が来る――そう言うてました。けんど、そないなもんが真実やとしたら……それは、あまりに、ようござんせん」
彼女の吐く息が、白く宙に舞い、すぐに風に紛れて消えていく。
唇に浮かぶ微かな憂いが、凍てついた空気のなかで儚く見えた。
「春が来るたび、娘がひとり消える。……けど、あたしは、そんだけやない気がいたしますの」
お蝶は、しばし目を閉じた。
吹雪の音が耳元を過ぎていく。
その中に、かすかに、名もなき少女たちの嘆きが混じっているようにさえ思えた。
「その奥に……もっと深い闇が潜んでる。なぁ黒子、うちらは今……その闇に、足を踏み込んでしもたのやろか」
瞳を開き、雪に閉ざされた山道の先を見やる。
その視線には、確かな覚悟と、悲しみに揺れる光が宿っていた。
お蝶の声は、なおも続く。
「しきたりが真実なら、それに縋って生きてきた者たちの苦しみも、きっと本物やろうて。せやけどな、それを正しいと受け入れるんは、わちきらの務めやない」
その一言は、山の静けさを切り裂く刃のようであった。
決して派手ではない。されど、その声には、命を賭す者の気迫が宿っていた。
お蝶は一歩、前へと踏み出す。
雪がきしりと鳴き、足跡が山道に刻まれる。
「行きまひょ。あたしらの足で、この雪の下に隠れたもんを、確かめるんどす」
黒子は沈黙のまま、その背に従った。
言葉は要らぬ。
お蝶の声と歩みに、すべてが籠められていた。
ふたりの影は、白き風の帳のなかへ、ゆるりと溶けていった。
その先に待つものが、哀しみか怒りか――それすらも、すでに承知の上であった。
「“春を呑む鬼”――」
お蝶は、雪を踏みしめたまま、ふと空を仰いだ。
吹きすさぶ風が、簪を鳴らし、紅の袖を宙に泳がせる。
「それが、ほんに“鬼”なるものか……それとも、この村が長きにわたり、罪を塗り重ねる中で生み落とした、忌まわしき“かたち”なのか――」
言の葉の余韻が空気に溶けゆく刹那、ざわりと枝が鳴った。
風が、木々のあいだから呻くように吹きつける。
その声は、まるで森そのものが呻いているかのようにも聞こえた。
「けれども……村の者らは何も語らへん。語れば祟りが来ると、そう信じて疑わへん」
お蝶の声は低く、しかし凛としていた。
その言葉には、遠い記憶を辿るような痛みが滲み、同時に、村に満ちる沈黙への怒りが込められていた。
「そうやって皆、知らんふりをして、真実から目ぇ逸らしとるんや。誰かが傷ついても、自分らが生き延びられるなら、それでええと……」
お蝶は目を伏せる。
その睫毛に乗った小さな雫が、風にあおられた雪と共に、そっと地に落ちた。
ぽとり、と静かな音。
けれど、それは確かに、ひとつの痛みの滴であった。
「けれど……その沈黙こそが、村に根づいた“罪”の証やと、あちきは思うんどす」
お蝶は静かに顔を上げた。
白粉に隠された面の奥、瞳だけが烈火のように燃えていた。
「皆、知らずに生きてきた。知らずに誰かを犠牲にして、知らずに“春”を受け入れてきた……」
その声は、もはや怒りでも呪詛でもなかった。
ただ、あまりに深い哀しみと、諦めに似た情のようなものが、仄かに灯っていた。
「せやけどな……“知らずに奪う”っちゅうのは、知っていて見過ごすよりも、ある意味……ずっと、残酷なんやで」
雪は静かに降り続いていた。
風が、ひと吹き、お蝶の髪を揺らした。
その髪の中、簪がきらりと鈍く光る。
「“鬼”が本当におるのか……それとも人の心が“鬼”をこしらえたんか。わちきには、まだ分かりまへん」
お蝶は、黒子の方を振り返ることなく、ただ前を見据えたまま続けた。
「せやけど、ひとつだけは分かっておりんす」
一歩、また一歩。
雪を踏む足音が、夜の山道に柔らかく刻まれる。
「怖いのは、“鬼”やあらしまへん。真実を隠すために人が作った物語どす」
その声は、風よりも静かに、されど雪よりも重く、耳に残った。
「誰かの命を、あいまいな“物語”が呑みこんでゆく。そのことに、わちきはもう、黙ってはおられんのどす」
その姿は、まるで舞台の幕が開く刹那、役目を背負った役者のようであった。
背筋を伸ばし、紅の袖が風に翻る。
それは春告げの衣にも似て、どこか祈りの色を纏っていた。
「立ち止まっては、ならぬ。どんな“鬼”が出てこようとも、わちきらは決めたんどす。春を迎えるための真を、この手で掘り起こすと」
風がまた唸り、雪が激しく舞い上がった。
されど、お蝶の身は微動だにせず。
その双眸には、まだ見ぬ真実を穿つ者の気迫が漲っていた。
闇の奥に潜む“何か”に向け、静かなる戦いの幕が、今、切って落とされようとしていた――。
◇ ◇ ◇
山深き窪地の奥、風に潜む声が囁きをやめぬその場所に、ひとつの社がぽつねんと佇んでいた。
かつては、村人らの祈りと嘆きをその身に受けてきたであろう――神を祀るにはあまりに小さき祠。
今となっては、荒れ果てた風景の中に沈み、もはや誰ひとり顧みぬ廃祀の残骸に過ぎぬ。
屋根は斜めに傾き、破れた御簾は風に煽られ、千切れかけた紙垂が濡れた空気に貼り付いていた。
石の灯籠は苔に埋もれ、倒れたまま二度と立て直されることもなく、地に這う蔓草が柱を呑みこみ始めている。
柱の一本には、かつて誰かの手で刻まれた御神名が、もはや読めぬほどに掠れていた。
それでも――
それでもなお、そこには確かに“何か”が棲んでいた。
お蝶と黒子は、その前で足を止めた。
風が二人の背を押すように吹きぬける。
社の奥、薄闇のなかから、得体の知れぬ呼吸のような気配がぬるりと滲み出している。
お蝶は黙したまま、静かに社を見つめた。
瞳の奥に揺れるのは畏れではなく、薄氷のような、深き思索。
「……ここも……いずれ、土に還るべく、忘れられた祈りの痕やったのかもしれへんなぁ」
呟きはひどく静かで、まるでこの社そのものに語りかけるかのようだった。
だが、その声を聴いたかのように、風がぴたりと止み、境内の空気がぴんと張り詰める。
黒子は無言のまま、一歩踏み出す。
苔むした敷石がしとりと濡れ、足裏に冷たい感触を伝えてくる。
社の結界が、目に見えぬままにそこにあると――彼の一挙手が教えていた。
お蝶もまた、ゆるりと歩を重ねた。
朱を帯びたその裾が、濡れた地を掠め、紅の一刷けが、枯れた社の風景に咲く。
「可笑しいねぇ。焼けた痕があるってのに、焼けた物がない」
大木や石畳に残る火災跡。
それがいつ付けられた物かはわからぬが、そこに立つ鳥居は朽ち果てているものの、焼けた痕がない。
「ナニかに守られているのか、それとも……?」
境内の中央――
賽銭箱の向こうに、何かが「息をしている」。
黒子の懐から、一枚の札が抜かれる。
その紙が、風もないのに、ふわりと揺れた。
お蝶の表情に、かすかな緊張が走る。
「……この風、違うねぇ」
頬に触れた風は、冷たさではなかった。
寂しさ。未練。慕情。
かつてここに膝を折り、誰かを想い、祈りを捧げた者たちの息づかいが、今も風に混じっていた。
「なぁんか……未練が、この社に残っとる」
お蝶は目を細める。
そのまま足を賽銭箱の前に運ぶ。
誰かの手によって置かれた供物が、半ば朽ちてその形を失いながら、まだそこにあった。
その刹那――
空気が軋んだ。
紙札が、風もなく、裂けるような音を立てる。
空間に漂っていた“何か”が、わずかに動いたのだ。
お蝶の背筋がぴんと伸びる。
心の奥に、ぞわりと冷たいものが這い登る感覚。
それは、ただの“祈り”ではない。
それは、封じられた“叫び”だった。
「……あたしらの足音さえ、もう届かへんみたいやね」
囁くようにそう言ったとき、社の奥より――ひとひらの風が生まれた。
何処へも届かぬ風。それはかつての祈りの残滓。
今もなお、誰かを待ち続けている気配があった。
黒子がひとつ歩を進めると、結界の膜がひときわ軋んで揺れた。
霊の“気”が、札に触れて微かに震え、空気が重たくなる。
お蝶もまた、迷いなくその結界の内へと足を踏み入れる。
踏み込む一歩ごとに、まるで空間そのものが呻くように、重く、湿った音が足元を包む。
「……見捨ててええ場所とちゃうかったんやろね」
その一言に込められたものは、過去への追悼ではなく、いま目の前にある“封印された真実”への誓いだった。
風が、再び鳴った。
だがそれは、拒むような風ではなかった。
まるで、何かが応えているように――
二人の訪れを、待っていたかのように――。
社の裏手、風がひときわ鋭くなったそのとき、黒子がふと足を止めた。
白雪に沈む気配の中、ひと筋の違和が走ったのだ。
声もなく、ただ気配のみを察知するその身の動きに、お蝶もまた歩を留める。
互いに言葉を交わすことはなかった。ただ静かに、風の流れと気を読む。
目の前には、岩肌を裂いたような暗い隙間がぽっかりと開いておった。
自然が穿ったにはあまりに不規則で、あたかも何かが“抉じ開けた”かのような、生々しき裂け目であった。
「……ここぁ、ちぃと気配が……違うねぇ」
お蝶の声が、かすかに震えながらも、艶を宿した声音の奥に確かな剣を含んでいた。
ひと息、裾を揺らしてその中へ足を踏み入れる。
途端、風が逆巻き、彼女の髪を紅の帯のように巻き上げた。
その風には、ただの冷たさではない、見えぬ誰かの指先のようなものが混じっておった。
押しやるのでも引き止めるのでもない、ただ、そこに行け――そう告げているような感触だった。
岩の裂け目を抜けた先、ひやりとした空気が頬を撫でた。
そこは洞――
世の理より外れた空白のような場所であった。
岩壁には青白き苔がほのかに光を放ち、空間全体が仄暗く照らされている。
そして、その中心に――
何かが“在った”。
お蝶は一歩、また一歩と進み、そこで足を止めた。
眼前に佇む影に、背筋が凍るような気配を感じたのだ。
それは、かつて“人”であったもの――いや、“人”と呼ぶにはあまりに禍々しき存在。
朽ち果てた白装束は泥に塗れ、岩肌に貼り付きながら、まるで土の一部と化していた。
長く垂れた髪が、顔を覆い隠しており、まるで首のない骸のようにも見えた。
だが、それは“死んで”はいなかった。
呼吸もせぬその身体からは、濃密な“気”が渦巻いていた。
怒り。
哀しみ。
恨み。
断ち切られた祈りの残響。
そして、言葉にできぬ“訴え”が、重く、湿った空気となって洞を満たしていた。
「……こいつぁ、“人”って呼んでええんかしらねぇ……」
お蝶の吐いた言葉は、岩壁に反響し、空間をさらに冷たくする。
その声音の奥には、恐れと同時に、憐れみが宿っていた。
その存在は“鬼”ではなかった。
だが“人”でもなかった。
犠牲にされ、忘れられ、地に縛られたまま、未練だけを形にした何か――。
お蝶はゆるりと扇を開く。
けれど、振るうことはなかった。
彼女の眼差しは、ただ静かにその影を見据えていた。
その視線は、敵を見るものではなく、鎮魂の願いを込めた祈りのようでもあった。
「……何があったんやろねぇ、ここで……」
お蝶の吐息がひとすじ、白く漏れる。
その瞬間、影がびくりと肩を震わせたように見えた。
空気がきしむ。
過去の祈りと、現在の声が交わる。
黒子はその場に立ち尽くし、ただ静かにその空気の揺らぎを感じ取っていた。
お蝶は、もはや逃げぬ。
この“何か”の正体を、この地に染みついた“哀しみ”の根を、必ず見届けようとしていた。
それは、風に乗って囁く――
「忘れないでくれ」と。
岩窟の奥、蝋のような沈黙が場を満たしていた。
お蝶は一歩、そっと踏み出した。
足元にしとりと湿る苔、張り詰めた空気が肌を打つ。
闇の奥に宿るなにがしの存在に、静かなる言の葉が落ちる。
「……春姫……」
その名は、まるで封を解く鍵のように、闇を震わせた。
それはただの呼びかけではない。
時を越えてなお、この地に囚われ続ける“誰か”の魂を呼び戻す名であった。
かつて、春を呼ぶために命を供物とされし巫女がいた。
その名を、春姫と呼んだという。
――命をもって春を招く。
その因習のもと、彼女はこの地に縫い留められた。
「……春姫の血が、この村の春を支えていた……。けれど、それは祈りやあらへん。犠牲や」
お蝶の瞳が細められた。
紅の面差しの奥で、静かに怒りが芽吹く。
これは、哀しみだけの話ではない。
語られぬまま、捨てられ、忘れられた、深い深い無念が渦巻いておった。
「……彼女の魂は、まだ此処におる。囚われたまま、よう成仏もできんで、いまも……」
春姫。
名ばかりの神格を与えられ、巫女であることを強いられ、ひとり社に閉じ込められた少女。
その胸に宿っていたはずの“祈り”は、年月とともに変じていった。
祈りは、やがて願いに。
願いは、やがて叫びに。
そして叫びは、憎しみに変わり――
「……これはもう、祟りや。されど、誰も口にしようとはせんかった。皆、見て見ぬふりをして、春を享け続けてきたんや」
お蝶は、社の奥、苔むした祀台をじっと見つめた。
祀られたはずの“神”の像は、とうに崩れ落ち、かわりに残るのは土に埋もれた白き影。
それは、衣か。あるいは、骨か。いや、想念そのものか。
ひとつ、ふたつ。
お蝶は歩を進めた。
空気が重く、霧のように魂を締めつける。
目を細め、静かに囁いた。
「伝えられとる春姫の物語……あれは、表の顔や。ほんまの姿は、この闇に隠れてる」
白装束の裾が、地に散る花のように揺れた。
春姫の名は、いまや祈りではない。
それは“封印”であり、“呪い”の象徴でもあった。
村の者たちは、春姫を祭りながらも、語らず、祈らず、ただ“恐れ”ることしかしてこなかった。
「春が来るたびに娘が消えるのも、すべては――この社から始まったんかもしれへんねぇ」
お蝶は扇を閉じ、ゆっくりと胸に当てる。
風がふたたび吹き、髪が舞う。
どこか、遠くから声が聞こえた気がした。
それは、涙まじりの、少女の祈り。
あるいは、断末魔のような絶叫――
「……この社。ここが“鍵”どすな。すべての始まりであり、終わりでもある」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
されど、たしかに、春姫の魂に向けて放たれた祈りだった。
ここから、すべてを紐解くのだ。
村が閉ざした闇の蓋を。
春姫が抱えたまま、言葉にできなかった無念を。
そして、春を呑む“鬼”の正体を――。
岩窟の奥、霧のような冷気が、じとりと肌を這っていた。
お蝶はゆるやかに歩を進め、祠の前に立ち止まった。
その眼前には、時の流れに朽ちかけた祭壇と、誰にも顧みられることのなかった奉納物の名残があった。
かつてここに祈りが捧げられ、春が招かれたという。
だが今、その場に満ちるのは、祈りではない。
――呪い。
それも、濁流のように濃く、重く、澱んだ想念。
春姫。
その名で呼ばれし少女は、春を呼ぶ“媒介”として、生を削り、命を捧げ、魂をこの地に縛られた。
人々の祝祭の裏で、彼女は春の神として祀られ、ただただ祈り続けた。
「……春を迎えるたびに、誰かが血を流し、誰かが笑う。
けれど、その笑みの下に、春姫はんの涙はあったんやろなぁ」
お蝶の声が、微かに震えた。
春姫の祈りは、最初こそ純真であった。
村を想い、人々の幸せを願い、その命を贄として捧げた。
だが、季節が巡るたび、彼女の魂は見捨てられ、忘れられ、封じられたまま、人知れず哭いておった。
「……いつしか、願いも祈りも、呪いに変わってしもうたんやねぇ……」
その呟きは、お蝶の胸の内から溢れ出た、祈りに似た声であった。
怨霊などではない。
春姫の魂は、むしろ“想いの亡霊”――
愛しき者たちに捨てられた者の、名もなき慟哭であった。
祠の奥に、白く朽ちた衣の端が見えた気がした。
それは、かつて春姫がまとった祭衣か――あるいは、想念のまぼろしか。
「……ほんまに、春は来てたんやろか……?
春姫はんの祈り、ほんに届いてたんやろか……?」
お蝶の問いは、誰に向けられたものでもなかった。
だが、その言の葉は、この場に染みついた何かを微かに揺らした。
風がふと止み、重く沈んだ空気が、まるで返答のように張り詰める。
「春姫はん……あんた、どれほどの想いを抱えて逝かはったんやろねぇ……」
その声音は、優しくもあり、哀しくもあり、そして凛としておった。
春を呼ぶ神ではなく、ひとりの女として、春姫の魂に寄り添う声。
それは、花街に咲き、笑顔の裏で数多の痛みを飲み込んできた、お蝶という女だからこそ発せられた言葉であった。
彼女は涙をこぼすことなく、ただひとつ深く息を吸い、胸の奥に春姫の名を刻むようにして、囁いた。
「……この社。あんたの墓やない。あんたの魂を解き放つ鍵になる。
わちきが、それを見届けてみせんす」
その背には、黒子が静かに立つ。
言葉はない。されど、その沈黙は、確かな同意と覚悟を秘めていた。
雪の帳が、再び社を包み込む。
そして、お蝶の影もまた、春姫の想念を導くために、闇の奥へと滲むように消えていった――。
風の息が止んだ。
それは、雪の帳が一瞬だけ凪いだような、静寂の訪れであった。
お蝶は、祠の奥、朽ちかけた影の中に立つ白き姿を見つめていた。
生か、死か。
その境界すらも曖昧なまま、そこに佇むのは、確かに“春姫”の名を負う者――
かつて春を呼ぶため、この地に命を預け、祈りの残り香だけを残して散った、哀しき巫女の影であった。
「……お命を差し出してまで、あの村の春を……それだけを信じて、祈り続けてはったのに」
お蝶の声が、かすかに震えた。
それは怒りではない。
深く、静かな慟哭。胸の奥底よりせり上がった、祈りにも似た哀惜の響き。
「なのに、あんたのことを……誰も覚えとらんのやね。
誰も、感謝の一言すらも……」
言の葉は熱を帯び、唇をかすかに噛みしめた。
あの村で語られた春の伝承に、春姫という名はなかった。
ただ“巫女”とだけ――役目の名で葬られていた。
それが、どれほどの無礼であるか。どれほど、魂を引き裂く仕打ちであるか。
「忘れられた命ほど、哀しいものはおへん……
あたしらの足元に咲く花が、誰の血で咲いたかも知らずに、ただ春を謳って……
なんと無情な、なんと罪深いことやろなぁ……」
白き吐息が、薄闇に揺れた。
その向こうに、春姫の影が立つ。
顔は見えぬ。されど、確かにそこに在る。
それは怒りの像ではない。
ただ、名を呼ばれることなく消えた者の、哀しき影。
「復讐や恨みを望んだわけやあらしまへん。
ただ……あんたの命が、無駄やなかったと――
誰かに、気づいてほしかっただけやろうに……」
その声に宿るのは、共鳴。
お蝶もまた、己の存在が“見られる”ことなく過ぎ去ることの恐ろしさを、知っていた。
名を呼ばれず、顔も記憶も霞み、ただ役目として生き、消える。
それが、どれほど魂を削ることか。
「けど……それすらも叶わず、ただ忘れ去られて……
心も、魂も……壊れてもうたんやねぇ」
彼女は涙を流さぬ。
だが、その声が震えた。
春姫の影は、微かに揺れた。
呼びかけに応えるように、静かに、風のように。
「今さらのように“春姫”やなんて名を呼ばれたところで、あんたの嘆きが晴れるわけやない。
せやけど……」
一歩、また一歩。
お蝶は春姫のもとへと近づいていく。
その足取りは、揺らがず。
まるで舞台の上、幕が開かれる瞬間を踏みしめるかのように。
「ここで、終わらせましょ。
あんたの苦しみも、怒りも、みんな背負わせてもらいますえ。
忘れ去られる……そんな哀しい終わり方、させまへん」
その言葉に――世界が応えた。
社の奥から、風がふと止み、
辺りに満ちていた澱んだ気配が、わずかに、ほんのわずかに緩んだ。
春姫の影は、微かに後ずさり、そして消えることなく、なおそこに在った。
未だ語られぬ真実がある。
未だ、果たされぬ祈りがある。
それを――この女が解き放たんとしているのだと、彼女の魂は知ったのだ。
お蝶の瞳に、迷いはない。
ただ、その双眸に宿るは、巫女の名を背負いし者への、深い弔いの意志であった。
お蝶の瞳に宿りしもの、それは凛と結ばれた一条の決意であった。
ただの哀れみではない。ただの義でもない。
これは、春姫というひとりの女の魂に応えんとする、等しき女の誓いである。
春を呼ぶため、巫女として命を捧げ、祠に縛られし魂。
時の流れは無情にその祈りを塗り潰し、名は忘れられ、想いは塵と化した。
されど、ただ一人、お蝶はその声なき声を聞き取ったのだ。
「……その願いは、今も続いとるんやねぇ……」
紅の唇から洩れた囁きは、空気を震わせ、祠の奥に眠る名もなき痛みに触れる。
そこに佇む白き影――かつて春姫と呼ばれた者――その姿はもはや“人”のそれにあらず。
白装束は土に濡れ、髪は長く垂れ、顔は影に沈む。だが、その気配は確かに、生きていた。
祈りの果てに積もり積もった想いは、今や凍てついた怨念。
無念の炎を抱いたまま、この地に縛られているのだ。
「ここで起こるすべては……春姫はんが求めた“報い”なんやろねぇ。
けんど、どこにも安らぎはありゃせん……あるのは、忘れられた者の悲しみだけや」
静かに、お蝶は歩を進める。
己の声だけが、祠の闇に染み入っていく。
風は息を潜め、世界はまるで息を呑むように沈黙していた。
「春姫はんが望んではった“春”って、一体なんやったんやろ……」
それは、問いであり、祈りであり、誓いであった。
己の命で春を呼び、村に季節をもたらした女――
誰にも讃えられず、顧みられず、ただ神として祀られ、忘れられた魂。
「……どないな形であれ、春を呼ぶために命をくれたんや。
それを忘れて春を喜ぶなんざ、そらあんまりにも無体やわ……」
静かに語るお蝶の声に、春姫の影がかすかに揺れた。
それは、怒りか、それとも応えようとする震えか。
お蝶は構わず、さらに歩を進める。
その双眸は真っすぐに春姫を見据えていた。
「安らぎも、救いも与えられんまま、ずっと此処に囚われて……
あんたの魂、どんだけ冷たく、淋しかったことか……」
言の葉は、怒りを帯びながらも、慈しみに溢れていた。
お蝶は巫女ではない。されど、言霊をもって魂を慰撫することはできる。
それが、彼女にできる唯一の術だった。
「せめてもの償いに、あたしが……あたしがこの手で、あんたを解き放ってみせるわ。
この“春”が、あんたの望んだものであるかは分からんけど……それでも、探さなあかんのや」
手が、そっと胸元に添えられる。
言霊がこぼれるその唇に、確かな意思が宿る。
「誰も気づかずに終わらせてええ命やない。
誰にも知られず、風の中に散ってええ魂やない。
あんたの春は、終わらせたらあかん――それが、あたしの務めや」
その声は、鋼のように硬く、美しかった。
たとえそれが、鬼と呼ばれるものの手によって穢されていようとも、
祈りを喰われ、魂が囚われていようとも――
その魂に手を差し伸べることを、彼女は選んだのだ。
そして――その瞬間。
「……春を与えても……誰も私を、見てはくれなんだ……」
闇の底より、風に乗って染み入る声があった。
それは、誰の耳にも届かぬはずの声。
されど、確かにお蝶の胸に届いた。
まるで、心の奥にひっそりと灯る燭火を、ふっと吹き消すような声。
哀しみと、諦めと、そして微かな希望が混じり合ったその囁きに、お蝶はそっと目を閉じた。
「……貴女はん……まだ、春を待っとるんやねぇ……」
ひと筋の言葉が、空気を和らげるように祠を包んだ。
微かに結界が緩む気配。
春姫の魂が、呼応したのだ。
お蝶は、再び目を開く。
その瞳には、すでに迷いはない。
たとえ何があろうと、この祠の闇の奥、春姫の記憶の深淵へと、己の手で踏み込む覚悟があった。
その先に待つのが、“春”の真実であると信じて――。
春姫の姿は変わらぬまま、薄闇に溶け込むように、じっとその場に佇んでおった。
人の形を保ちつつも、もはや“人”にあらず――
朽ちた白装束は泥と瘴気に染まり、絡みつく黒髪は地に届いて這う。
顔を覆う影は、その正体を永き静寂の奥へと葬り去っていた。
されど、お蝶は目を逸らさぬ。
見ぬふりでは、終わらせられぬものが、この異形の奥にあると知っていた。
それは怨嗟でも、怒りでも、呪詛でもなく――
凍てついた祈りの残響。たったひとつの、忘れ去られた「想い」。
お蝶はひと足、またひと足と、
淀みきった空気をかき分けながら進む。
それは、ただの歩みではなかった。
魂の触れ合いを求める、祈りのような所作であった。
「春を呼んでも、誰も振り向かなんだ。
けど、あんたの声は……今ここに、おるあたしには、よう聴こえとるで」
その声音は、凍てついた岩肌にも染み入るような優しさを湛えながら、なおも強く、深く響いた。
静寂がわずかに波立ち、社の奥にひそむ空気が、一瞬だけ揺れる。
春姫の黒髪が、風もない中ふと揺れたように見えた。
お蝶は気配を逃さず、さらに歩を進める。
足元の岩は冷たく、湿り気を孕み、まるでこの地そのものが、春姫の涙を吸い込んだかのようであった。
「貴女はん……ほんまに怒ってはるのやろうけど、それでも……
ずっと祈っとったんやないかえ?」
その言葉が、春姫の奥底に届くことを願いながら、そっと投げかける。
声は静かに洞を満たし、やがて、岩の狭間に染み込むように消えていった。
春姫は身じろぎもせず、ただ黙して立つのみ。
だが、お蝶の瞳には確かに見えた――
その姿の奥に、まだ“待つ者”の気配があることを。
「貴女が求めてはるんは……春そのものやない。
誰かに……その春を受け止めてもらいたかったんとちゃいますかえ?」
語りかけるような声音が、空気を緩やかに変えていく。
それは春の初風のように、硬く凍った時を揺らし始めていた。
「春を咲かせて、誰にも見てもろうてへんなんて……
そら、どんなに寂しかったか。
貴女はんの春は、ほんまは……誰かに届いてほしかったんやろ?」
空気が、ふと柔らかくなった。
瘴気が引き、空間を覆っていた“怒りの膜”が、僅かに薄らいだ。
春姫の髪がもう一度揺れ、まるで何かに応えるように。
お蝶は、ゆるりと瞼を閉じた。
深く息を吸い、静かに語る。
「もしも、貴女はんが……もう春を待つことをおやめになるんやったら……
代わりに、あたしが探してみせます。
貴女はんが咲かせた春を、ちゃんと見つけて、誰かに伝えてみせますえ」
沈黙が戻る。だがそれは、もはや絶望の静けさではなかった。
それは、「聞こう」とする者の沈黙。
語られずにいた魂が、ふと耳を傾ける、その瞬間の“静”。
お蝶はそっと目を開き、言葉を継いだ。
「けど……まだ望んではるのやったら、あたしも応えます。
貴女はんが信じるその春、いっしょに迎えましょ……ようがすか?」
それは願いではなく、誓いであった。
ただ優しく、けれど確かな“ともに在る”という覚悟が、そこには宿っていた。
春姫は、なおも沈黙のなかに佇む。
されどその沈黙の奥には、変化の兆しが――
かすかに、確かに、灯り始めていたのであった。
お蝶は、ふたたび静かに一歩、春姫のもとへと歩み寄った。
その足音は、湿り気を孕んだ岩肌に沈み、まるで時の狭間に吸い込まれていくように、鈍く静かに響いた。
されど、その一歩には迷いはなかった。
それは決して踏み外さぬ者の歩。何かを引き寄せるための祈りに似た、慎ましくも揺るぎなき歩みであった。
洞を満たすは、澱んだ瘴気と、凍りついた時の流れ。
その只中に、お蝶は佇みながら、そっと胸に語りかけた。
「……貴女はんの怒りを鎮めるにゃ、まずその苦しみを、あたしが受けとめんと……ならんのでしょうなぁ……」
声は囁きにも満たぬほどに低く、けれど確かな温もりを孕んでいた。
春を喚ぶ巫女として命を捧げ、祈りに殉じた娘。
その深き想いに触れずして、癒しなど叶うものか――
お蝶は、己の中に湧くその問いを、確信へと変えながら進んでいく。
「ほんの少しでもええ。あたしに感じさせておくんなまし。
今のお前さんが、どれほどの想いを背負うてはるか……その重さを」
瘴気はなおも濃く、呼吸すら苦しむほどに圧し掛かってくる。
けれど、お蝶は退かぬ。
一歩、また一歩と進み、ついに膝をつき、春姫の前に身を沈めた。
「どれほど姿が変わろうとも……
あたしは、お前さんの奥底に、まだ人としてのぬくもりが残ってると信じてますえ」
指先が、ゆるやかに霧を裂くように伸びていく。
祈る者のごとく、あるいは、名もなき野辺の花に触れるように。
お蝶の胸裏には、雪に閉ざされた村で見た、人々の哀しき春待ちの姿が浮かんでいた。
その刹那――
春姫の姿が、かすかに揺れた。
風か、否。
魂がわずかに応えたがゆえの動きであった。
お蝶はそれを見逃さず、さらに深く、声を重ねる。
「お前さんの痛み……あたしには全部は分からへんかもしれん。
けど、寄り添うことはできる。届かんくても、手を伸ばし続けることはできる。
お前さんが安らげる場所、見つけてみせますえ」
その声音は、春の陽ざしのように柔らかく、
されど芯には鋼の如き意志を宿していた。
怒りの裾をまくるように、淡く、暖かな気配が、わずかに洞の空間を満たしてゆく。
「どんなに絶望が深こうても、闇のなかには光がある。
あたしが、それを見つけ出す手伝いをします。……ええやろ?」
その言の葉に応えるように、春姫の身を包んでいた瘴気が、ほんのひと呼吸分だけ、ゆるやかに退いた。
お蝶は、その気配を確かに受け止め、さらにそっと手を伸ばす。
指先には震えもなく、ひたすらに、まっすぐな情を込めて――。
「愛されたい……誰かに、ちゃんと見てもらいたかった……
そんな気持ちを、あたしも、よう知ってますのや」
その呟きは、誰にも届かぬようでいて、確かに春姫の魂に触れていた。
触れた感触――それは、冷たさではなかった。
寂しさと、望みと、かすかな光を含んだ、やわらかな脈動であった。
「お前さんがもう、春を待たんのなら……あたしが探してみせる。
けど、それでもまだ望んではるのやったら――あたしが、その春を迎えにいきますえ」
その声には、過去を背負いし者の祈りが宿っていた。
贖罪も、解放も、救いも――そのすべてを込めたような、深く澄んだ響きであった。
闇に呑まれた魂が、今なお息づいているとしたら――
その名を春姫と呼ぶならば、彼女はきっと、いまも誰かを待っている。
そして、お蝶は、その“誰か”になろうと、静かに覚悟を定めていた。
◇ ◇ ◇
風が止み、空気がふっと淀んだ刹那――
お蝶の指先に絡む一本の妖糸が、ぴん、と震えた。
それは、目に見えぬ何かに触れた徴であった。空間の裂け目に囁くような微細な力が、妖糸の先を揺らしたのだ。
お蝶は身じろぎもせぬまま、瞼を伏せる。
――触れた、のう……過去の、残滓に。
次の瞬間、世界が音もなく切り替わる。
まるで深き眠りの底より浮かび上がるように、彼女の視界に「過去」が広がっていた。
それは、幾十年も昔の光景。
冬の終わりを待ちわびた篝火村にて、村人らが集い、巫女の舞が始まろうとしていた。
――春告げの祀り。
そこに在ったのは、今とはまるで異なる村の姿であった。
薪を高く積み上げた社の前、御幣が揺れる境内にて、白装束を纏うひとりの少女が、静かに両の手を掲げていた。
「供花の巫女」と呼ばれるその娘は、若くも凛としており、薄紅に染まる布を手に、舞いを捧げようとしていた。
その舞は、本来ならば春を招き入れるためのもの。
雪解けの喜びを讃え、村に新しき命を呼びこむ、祝福の儀式であるはずだった。
だが――
その年、春は訪れなかった。
雪は溶けず、地は凍え、獣は姿を消し、麦は芽吹かなかった。
やがて村には飢えが忍び寄り、病が流行り、赤子の泣き声もやがて聞こえなくなった。
人々は恐れ、山神の祟りと騒ぎ立てた。
そして、誰かが言った。
「巫女の血が、足らぬのじゃ――」
その言葉が、すべてのはじまりであった。
供花の巫女は、祈りの象徴ではなく、「贄」として選ばれたのだ。
火に照らされ、縛められた少女は、雪の中で泣き叫ぶこともなく、ただ微かに唇を動かしていた。
その姿は、まるで“春”そのものを抱くような、儚く、痛ましい光景であった。
それからというもの、篝火村には、年ごとに一人――少女の命が捧げられるようになった。
冬の終わりに、春を呼ぶための「しきたり」。
それはただの祀りではない。祈りではない。
血で書かれた契約であった。
舞台は暗転する。供花の巫女の瞳がこちらを見ていた。いや――春姫では、ない。
違う。何かが、潜んでいる。
光景が揺れる。
社の裏、闇の中、歪んだ風景の奥に、巨きな“影”が蠢いた。
それは形を持たぬ、巨大な怨念の塊。幾人もの巫女の叫びと、無数の命の呻きが渦巻いていた。
お蝶はその場に立ちすくむ。春姫ではない。もっと深く、もっと古く、もっと暗い――なにか、得体の知れぬものが、この地に巣喰っていた。
「……これは……春姫はんやない……!」
お蝶が叫ぶより先に、視界が砕ける。
白い閃光とともに、幻想は破れ、現実の世界に戻された。
呼吸が乱れ、膝が笑いそうになるのをこらえながら、お蝶は岩窟の冷気のなかに立っていた。
妖糸は、まだ震えていた。
その先にあるのは――春姫の怨念ではない。
もっと別の、もっと深い“何か”であることを、お蝶は確かに感じ取っていた。
◇ ◇ ◇
洞窟を満たす沈黙は、もはや怨嗟の淵ではなかった。
長き眠りの底に沈んでいた春姫の魂が、いま――かすかに、揺れておった。
瘴気はすでに翳りを帯びており、空気の肌ざわりがわずかに変わる。
それは春の兆しのごとく、冷たき空の底にさす陽のぬくもりに似ていた。
お蝶の眼差しが、じっと異形の巫女を見つめる。
血のごとき黒き瘴気に覆われていたその姿が、微かに震えた。
――春を喰う鬼ではない。
――祈りが呪いに変わっただけの、ひとつの、哀しき魂。
「……春姫はん」
お蝶がその名を呼ぶと、洞の空気がわずかに震えた。
その瞬間、異形の身体に、なにかが走った。
白装束がゆるやかに揺れ、絡まった黒髪が風もないのにふわりと舞う。
すると、身体の中心から、かすかに紅が灯った。
最初はひとひらの花弁。まるで凍土に咲く一輪の花のように、慎ましく、静かに。
その紅はやがて、春姫の全身を包む瘴気の内より、光を帯びて膨らみ始めた。
――花、咲く。
それは咎を負わされた巫女の魂が、長き年月を越えてなお祈り続けた“春”の結晶であった。
瘴気がぱちりと弾けるように裂け、そこから一陣の光が迸る。
黒き穢れがゆっくりと剥がれ落ち、春姫の影が淡く透けてゆく。
その中心より、新たなる“ひかり”が顕れる。
幼子にも似た輪郭、小さき手、柔らかき顔。
春姫の面影を宿しつつも、まったく別の命。
それは――
「……こはる……」
お蝶が、涙を堪えるようにしてその名を呼んだ。
そう、それは春姫の記憶を継ぎながらも、まったく新しき命として生まれた娘。
春姫の祈りが結んだ、最初にして最後の、純粋なる“春”。
彼女の頬には、未だ消えぬ痛みの痕があった。
されど、その瞳は透き通っていた。
悲しみも憤りも、すべてを越えた場所にある光――それが、こはるという存在であった。
花のように。
あるいは、風のように。
春姫の魂は、こはるという名の娘へと姿を変え、この世に再び立ち現れたのだ。
そして、その場に吹き込む風が変わった。
春告げの風であった。
お蝶は、そっと膝をつき、こはるの前に掌を差し出した。
少女は、それに応えるように、ためらいがちに手を伸ばす。
ふたつの手が、音もなく触れ合った瞬間――
洞窟の空気が、ふわりと揺らいだ。
忘れられた祈りは、ようやく、春の扉を開け放ったのだった。
――その時であった。
深き山の麓より、不意にひと筋の音が、空を裂いた。
笛の音である。
されど、それは祭りに響く雅な音色ではなく、むしろ山の底より吹き上がる風のような鋭さと、呪いの響きを孕んだもの。
初めは細く、遠く、冬籠りの獣を目覚めさせるように慎ましく。
やがてそれは、うねりを帯び、夜の帳を切り裂くかの如く、四方の山肌にこだましながら幾重にも響き渡った。
お蝶は、その場に静かに立ち尽くしたまま、耳を澄ませる。
空気が、変わった。
空はなお暗く、雪はなお舞っているというのに、肌を刺す風のなかに、妙な温度の揺らぎがあった。
――呼ばれたのだ。
何かが、何処かから、いま動き出した。
「……こりゃあ、ただの合図やあらしまへん」
お蝶の声は低く、しずかに深いものをたたえていた。
それは直感ではなく、身体にしみ入るような確信の響き。
「眠っとった“何か”が……目ェ覚ましよったんや」
山の息が、鳴っておる。
笛の音に応えるように、大気がざわめき、森の奥底から地鳴りにも似た気配が微かに伝わってくる。
お蝶の視線は、鳴り響く音の向こう――村の背後に連なる山裾のさらに奥を射抜いていた。
「笛の音は、呼ぶ音やなく……終わらす音」
その響きは、まるで何かを終わらせ、何かを斬り捨てるために放たれた狼煙のようだった。
祓うための音色ではない。裁きの音――そう、お蝶の本能が告げていた。
「とうとう来よったねぇ……この村が隠してきた“裏”が」
言葉の端々には、既に逃げ場など無いことを悟った者の覚悟がにじむ。
お蝶は、ゆるりと振り返りもせず、声のない黒子の気配を背に感じながら、前を向いた。
「うちらは、もう引き返されへんとこまで来てしもうたんや」
夜風が強まり、笛の音が一際鋭く耳を裂いた。
それは、まるで結界を破る鍵のようでもあり、閉ざされていた“何か”を呼び戻す太鼓判のごとく、山全体を震わせておった。
「どんな闇が待っとろうが、進むしかあらへん」
裾がはためき、簪が風に鳴る。
だが、お蝶の背筋は一分の揺らぎも見せぬ。歩みはゆるやかにして、まっすぐ。
「うちらの務めは、春を喰う闇に、きっちり帳面つけることや。
誰が忘れても、誰が目ぇ背けても――わちきはこの手で、確かめんと気が済まん」
その声音には、祈りにも似た意思が宿っていた。
かつて春を奪われ、名前を奪われ、ただ祀られ、そして忘れられていった者たち。
その痛みを、この身に引き受ける者の言葉であった。
雪は止まぬ。闇は濃さを増す。
けれど、笛の音が鳴る限り、その先に待つものは確かにある。
お蝶は、もう一度笛の音に向けて顔を上げ、ぽつりと吐息のように呟いた。
「ええよ。来るもんは来ぃ。……あたしらが、終わらせたるわ」
その刹那、笛の音がひと際高く、夜を裂いた。
二つの影が、夜の深奥へと消えてゆく。
闇の向こうに待つ、真の“春”を、その手に掴むために――。