表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜桜お蝶 艶劇乱舞「怪」  作者: 秋月瑛
黄泉の夏
17/22

【三之幕:風哭きの社】(草稿)

 ――哭いておる。山が。


 吹きすさぶは、ただの風にあらず。

 それはまるで、此岸と彼岸をつなぐ瘴の嘆き。

 女の慟哭、子の嗤い、老いの呻き――さまざまな声を孕んだ風が、夜の帳を裂いて唸りを上げる。

 雪の森に満ちるその音は、音にあらず。耳では聞こえぬが、魂にざらつきが刻まれる。


 篝火村の外れ、鬼神を封じたと伝わる社の裏手、誰が呼ぶともなく「風哭きの道」と言い伝えられる獣道。

 人の足も、獣の足も絶えたそのみちを、お蝶と黒子は、雪を踏みしめ歩いておった。


「……ここの風は、えらい艶っぽい声をしとりますなぁ」


 お蝶は、ふわりと笑んだ。

 けれどその笑みは、紙に書かれたもののように薄く、真意を隠す仮面のごとし。

 風が、ひゅうと首筋を撫で、髪を遊ばせる。


 髪の間をすり抜けた風は、まるで生き物のように蠢いて、耳朶をなぞる。

 その感触に、お蝶はそっと瞳を細めた。


「いややわ……誰ぞ、わちきに口づけてきよった気がいたしますの」


 艶をまとった言の葉ではあるが、その声音には確かに凍てつくものがあった。

 華やかさの奥に、女の本能が、明確なる〈忌〉の気配を察知していた。


 黒子は何も言わず、ただ前を行く。

 その背に、雪が降りかかり、すでに肩に白が積もる。

 音もなく、まるで闇と一体化するかのように、黒き装束が山の静寂に溶けていた。


 そのときである。


 森の奥――

 風の流れのひと欠片が、はっきりと「声」を孕んだ。

 まるで怨嗟にも似た女の囁きが、耳ではなく、心の奥へ直接流れ込んでくる。


「助けて……」


「っ……!」


 お蝶の身体が、わずかに震えた。

 その声には、情念があった。

 切羽詰まった哀願ではない。

 何百年も風と共に在り、なお届かぬ痛みを抱いたまま、ただ吹き続ける、永き祈りのようであった。


 雪に沈む森――


 老いた杉の幹は裂け、根は歪み、白き衣を纏った大地には、どこかしら女の怨念めいた艶が漂っていた。


 お蝶は、足元の雪を見つめる。

 そこには、誰かの足跡にも似た、けれども踏みしめた痕ではない――

 重たき想念が残した、〈染み〉のような痕跡が、雪の上にうっすらと浮かんでいた。


「ここは、ただの山やありまへん。封じられた何かが……今も息をしておる」


 その言葉に、黒子は微動だにせぬまま、小さく頷いた。


 風が再び、鳴いた。

 それは、社の奥より這い出した何かが、いま森に指先をのばした音――。


 その音に応じるように、お蝶の足元から、小さく雪が蠢く。

 影が、這いずるように白き大地を染めた。


「……ここが“風哭きの社”……ええ名やわ。風が、泣いとる。まるで、春を喰われた誰かの声のようや」


 お蝶の手が、懐の扇にかすかに触れた。

 いつでも舞い、いつでも斬れる。

 艶とつるぎの狭間に生きる者の、戦の構え。


 黒子は、葛籠を背にしたまま、ひととき立ち止まる。

 まるで、その場に〈気配〉を染み込ませるように、静かに目を伏せる。


 春を奪われた者たちの嘆きか――

 それとも、春を封じられたまま忘れ去られた、神の呻きか。


 この先、二人が踏み込むは、風の社。

 封印されし記憶と、祈りと、怨念が眠る場所。


 ――春は、未だ、来ぬ。

 ――その理由を、いまこそ暴かねばなるまい。


 社へ至る細道、その白き峠の途中にて、お蝶はふと足を止めた。


 ひとつ、足を運ぶごとに、雪は深くなり、風の声も強まってゆく。

 されど、その身にまとわりつく寒さは、肌の表ではなく、胸の奥底――魂の座へと忍び寄るような冷ややかさであった。


 黒子の背は、ただ黙々と、雪を踏みしめる。

 その影が、音もなく前へ進むたびに、お蝶の胸に棲まう違和が、じわりと、滲みを広げていった。


 ――何かが、待っとる。


 呼ばれておるのか、それとも、招かれているのか。

 あの哭く風が、確かに告げていた。

 名もなき“何か”が、この先の闇に潜み、ただ静かに、訪れを待っていると。


「……黒子。待っとるのや、なにかが。この道の果てで。あたし、そないに感じてまいますのや」


 その声は、低く、ややかすれていた。

 まるで凍てついた言の葉を喉の奥から搾り出すように。

 その響きは、黒子の背に向けられながら、半ば自らに投げかけるようなものでもあった。

 己に逃げ場を許さぬための、覚悟の音であった。


 黒子は振り返ることなく、ただひとつの影として、前へ進み続けた。

 風が、白蛇のように雪を巻き上げ、視界を曇らせる中、その黒き背は、やがて霞みの中へと溶けてゆく。

 されど、その沈黙は、お蝶にとって何よりの言葉であった。


 そのとき――村で聞いた言葉が、お蝶の脳裏に反響した。

 伝承の中で語られた、春を迎えるための〈しきたり〉。


 春の訪れには、巫女の命を――ひとりの娘の魂を、捧げねばならぬという掟。


 その呪いのような言の葉が、黒子の心にも深く沈んでいた。

 やがて、彼の足が止まった。

 雪は肩に降り積もり、風は頬を斬りつけるように吹き荒れる。


 その場に立ち尽くした黒子は、目を閉じたまま、ただ風の声を聞いていた。

 それは、過去より届く罪の音か、それとも未来を拒む咎の囁きか。


 ――春を迎えるために、命を……


 誰が定めたのか、誰が受け入れたのか。

 ことわりを覆うための理が、いかに多くの命を踏みにじってきたのか。


 雪の向こう、折れた枝が悲鳴のように軋む。

 黒子の目は開かれ、その瞳には、凍てつく色の奥に、静かなる憤りがあった。

 かつて、どれほどの“春”が、理不尽に呑まれ、喰われていったのか――

 黒子は、ただそれを、まなざしの底で噛み締めておった。


 何も語らずとも、彼の沈黙には熱があった。

 その背に追いついたお蝶は、一瞬だけ彼の表情を窺うが、言葉は紡がず、代わりに小さく息を吸い込んだ。


「わちきらが、終わらせんとあきまへん。何百年と続いた、ぶい春を……」


 その呟きは、まるで風に抗う種火のように、小さくとも消えぬ決意を帯びていた。


 山の気は、なおも沈み、白雪の重みにうなだれた老樹たちが、黙して道を囲んでおった。

 風の唸りはすでに音を失い、代わりに静けさという名の凶兆が、あたりを包んでおる。


 ふと、黒子の歩みが、わずかに緩む。

 風のなかに潜む何かを感じ取ったのか、それとも、心に去来する思念に足を取られたのか――

 彼は前を見据えたまま、ひとときその場に立ち止まった。


 そして、誰に語るでもなく、ただ己の内に問いかけるように、風の中へと視線を投げる。


 “春を呑む鬼”――


 その名を、黒子は口にせずとも、己が胸の内で確かに唱えていた。

 それは、この村が長き時をかけて育んだ、闇の象徴。


 鬼など、果たして実在するのか。

 それとも、これは――

 村というひとつの共同体が、忌むべき過去を覆い隠すために、己らの手で創り上げた“影”ではなかろうか。


 黒子は、かつて耳にした伝承を思い返す。

 鬼は春とともに現れ、骸花を咲かせ、娘ひとりを喰らうという。

 だが、その話を語る者はいない。

 いや、語れぬのだ。

 語れば祟りが来る――それが、この村に脈々と流れる“掟”であった。


 その掟に抗わぬことが、生きるための“しきたり”となり、やがてそれは、真実よりも深く根を張ってゆく。

 恐怖とは、忘れられた記憶ではなく、記憶を閉ざす沈黙そのものである。


 お蝶は、その黒子の気配を背に受けながら、ふと足を止めた。

 風の向こうにある何かを見透かすように、遠くの森影を見据える。


「……この村の人々は、きっと、何も知らぬまま……生きてきたのやろな」


 その言の葉は、雪に触れて消える吐息のようでありながら、確かなる哀しみを宿しておった。


「知らんのが、幸せだったのかもしれへん。けれど、それが、かえって縛りになってしまうこともあるんや」


 お蝶の目は伏せられ、降りしきる雪に細き指がそっと触れる。

 白く舞う結晶は、まるで誰かの声なき涙のように、手のひらからこぼれ落ちた。


「“春を呑む鬼”……その正体が、ほんに鬼やったとしても、怖れるこたぁあらしまへん。あれはきっと……誰かが生み落とした影どす」


 お蝶はゆるりと顔を上げ、黒子の背に向けて静かに続ける。


「誰かが……何かを隠すために編んだ“物語”。そないな気ぃがしてならへんのや」


 その言葉を受け、黒子の視線が、雪の帳の向こうを彷徨う。

 その目には、怒りでも、驚きでもない。

 ただ、長き黙考の末に至った、冷ややかな納得と――

 そして、未だ見ぬ真実への警戒が浮かんでおった。


 沈黙が落ちる。

 ふたりの影を囲むように、森の闇が蠢く。


 風がわずかに鳴り、枝のひとつが雪を落とす。

 その音に、黒子が再び歩みを進めた。

 お蝶もまた、ひと息吸い、静かにそれに従う。


「影を生んだのは、人や。けれど、影が本物の“鬼”になってしまったら……その先に待つのは、祟りだけやない。きっと……もっと深いものが、底におるんどすえ」


 その声は、誰かに語るより、己に刻む呪文のように聞こえた。


 銀の森はなおも深く――

 “物語”に封じられた真実の地へ、ふたりの影が進んでゆく。


お蝶は、言葉を返すことなく、ただ静かに歩を進めた。


 その背には、吹き荒ぶ山風。

 紅の振袖の裾が、雪を払って流れゆくたび、どこか――決して揺るがぬはずの彼女の肩先が、わずかに震えておった。

 それでも足は止まらず、踏みしめる一歩一歩が、深き雪を割って道を拓く。


 黒子は、その背を見つめながら黙して続く。

 足音を雪に吸わせ、影のように歩を揃えるその姿に、言葉はなかった。

 けれど、その沈黙こそが、何より確かに彼女と歩調を合わせておることを示していた。


 風がまた唸る――

 まるで山そのものが呻いているかのような、深く低い鳴き声が、谷を渡ってふたりの耳朶を打つ。

 それは、呼び声のようでもあり、警告のようでもあり、あるいは待ち受ける“何か”の呻きのようでもあった。


 お蝶はその音に臆することなく、視線を前へと据えたまま、口を開く。


「……なにが“鬼”であろうと、あたしゃらがやることは変わりまへん」


 その声音には、吹雪を裂くほどの凛とした力があった。

 しっとりと濡れた唇の端に、揺るぎない決意の色が浮かぶ。


「遅かれ早かれ、春は来る。されど、その春が咲かせる花が……ただの“骸花”やったら、意味がありまへんやろ」


 風が再び彼女の髪を吹き上げた。

 その中で、お蝶はふと立ち止まり、片手で額をかざして雪の先を見遣る。

 その視線の先――山道の果てには、まだ見ぬ闇が横たわっておる。


 黒子は何も言わぬまま、その隣に立つ。

 そして、しばしの沈黙ののち、ふたりの足が再び動き出す。


 歩みは重く、風は強く、雪はなお降りしきる。

 されど、その歩みは確かであった。

 後戻りは、もはや叶わぬ。進む先に何があろうと、目を逸らすことは許されぬ。


 お蝶は、ぽつりと呟いた。


「……春を迎えるたび、何かを喰う“鬼”が来るいう話。ならば、その鬼に呑まれる前に――こちらから、呑んでしまわんと」


 それは挑発でも、虚勢でもなかった。

 むしろ、春を呑むという“業”を前に、すでに覚悟を据えた者だけが放てる、静かな誓いの響きであった。


 黒子は、ぴたりと足を止めた。

 吹きすさぶ風が裾をはためかせ、墨のごとき衣が雪のなかに揺らめく。

 彼の耳朶に、かすかに響くのは、遠く村で耳にしたあの言葉。

 それはまるで、死者の囁きのように脳裏に這い寄り、耳の奥底を冷たく撫でる。


 ――春を迎えるには、巫女をひとり捧げねばならぬ。


 風が唸る。

 木々が、まるで怨嗟を漏らすかのように軋みを上げる。

 黒子の周囲だけ、時間が凍りついたかのように、音も温度も遠ざかっていく。


 それは、ただの古き習わしではない。

 閉ざされた村が、幾度となく繰り返してきた、血と悲嘆に彩られた因習。

 長き年月のなかで、ひとびとが“鬼”と名付けた何かに、命を以て応えてきた結果であった。


 黒子は、雪の中にじっと立ち尽くし、仰ぎ見る空の深さに、言葉にならぬものを呑みこんでいた。

 まるで天までもが、この山の奥に封じられた真実を黙して見守っているかのように。


 やがて、雪を踏む微かな足音が背後より近づく。


 それはお蝶であった。


 凛と張ったその背は揺るぎなく、されどその足取りには、いつになく静けさが宿っていた。

 彼女は黒子の傍らに並ぶと、ふと瞳を伏せ、風に乗せるようにそっと言葉を紡いだ。


「……黒子」


 その声は、低く、切なげに風へと滲んでゆく。

 黒子は何も応えぬ。ただその場に佇み、まるで自らの存在ごと雪の中に沈めてゆくような、無音の思索に耽っていた。


「さっき村で聞いた“しきたり”……胸に、刺さっておりんすね」


 お蝶の声音は、どこか己の内側にも向けられていた。

 黒子の横顔を見つめたまま、彼女は静かに続けた。


「巫女を捧げれば、春が来る――そう言うてました。けんど、そないなもんが真実やとしたら……それは、あまりに、ようござんせん」


 彼女の吐く息が、白く宙に舞い、すぐに風に紛れて消えていく。

 唇に浮かぶ微かな憂いが、凍てついた空気のなかで儚く見えた。


「春が来るたび、娘がひとり消える。……けど、あたしは、そんだけやない気がいたしますの」


 お蝶は、しばし目を閉じた。

 吹雪の音が耳元を過ぎていく。

 その中に、かすかに、名もなき少女たちの嘆きが混じっているようにさえ思えた。


「その奥に……もっと深い闇が潜んでる。なぁ黒子、うちらは今……その闇に、足を踏み込んでしもたのやろか」


 瞳を開き、雪に閉ざされた山道の先を見やる。

 その視線には、確かな覚悟と、悲しみに揺れる光が宿っていた。


 お蝶の声は、なおも続く。


「しきたりが真実なら、それに縋って生きてきた者たちの苦しみも、きっと本物やろうて。せやけどな、それを正しいと受け入れるんは、わちきらの務めやない」


 その一言は、山の静けさを切り裂く刃のようであった。

 決して派手ではない。されど、その声には、命を賭す者の気迫が宿っていた。


 お蝶は一歩、前へと踏み出す。

 雪がきしりと鳴き、足跡が山道に刻まれる。


「行きまひょ。あたしらの足で、この雪の下に隠れたもんを、確かめるんどす」


 黒子は沈黙のまま、その背に従った。

 言葉は要らぬ。

 お蝶の声と歩みに、すべてが籠められていた。


 ふたりの影は、白き風の帳のなかへ、ゆるりと溶けていった。

 その先に待つものが、哀しみか怒りか――それすらも、すでに承知の上であった。


「“春を呑む鬼”――」


 お蝶は、雪を踏みしめたまま、ふと空を仰いだ。

 吹きすさぶ風が、簪を鳴らし、紅の袖を宙に泳がせる。


「それが、ほんに“鬼”なるものか……それとも、この村が長きにわたり、罪を塗り重ねる中で生み落とした、忌まわしき“かたち”なのか――」


 言の葉の余韻が空気に溶けゆく刹那、ざわりと枝が鳴った。

 風が、木々のあいだから呻くように吹きつける。

 その声は、まるで森そのものが呻いているかのようにも聞こえた。


「けれども……村の者らは何も語らへん。語れば祟りが来ると、そう信じて疑わへん」


 お蝶の声は低く、しかし凛としていた。

 その言葉には、遠い記憶を辿るような痛みが滲み、同時に、村に満ちる沈黙への怒りが込められていた。


「そうやって皆、知らんふりをして、真実から目ぇ逸らしとるんや。誰かが傷ついても、自分らが生き延びられるなら、それでええと……」


 お蝶は目を伏せる。

 その睫毛に乗った小さな雫が、風にあおられた雪と共に、そっと地に落ちた。

 ぽとり、と静かな音。

 けれど、それは確かに、ひとつの痛みの滴であった。


「けれど……その沈黙こそが、村に根づいた“罪”の証やと、あちきは思うんどす」


 お蝶は静かに顔を上げた。

 白粉に隠されたおもての奥、瞳だけが烈火のように燃えていた。


「皆、知らずに生きてきた。知らずに誰かを犠牲にして、知らずに“春”を受け入れてきた……」


 その声は、もはや怒りでも呪詛でもなかった。

 ただ、あまりに深い哀しみと、諦めに似たじょうのようなものが、仄かに灯っていた。


「せやけどな……“知らずに奪う”っちゅうのは、知っていて見過ごすよりも、ある意味……ずっと、残酷なんやで」


 雪は静かに降り続いていた。

 風が、ひと吹き、お蝶の髪を揺らした。

 その髪の中、簪がきらりと鈍く光る。


「“鬼”が本当におるのか……それとも人の心が“鬼”をこしらえたんか。わちきには、まだ分かりまへん」


 お蝶は、黒子の方を振り返ることなく、ただ前を見据えたまま続けた。


「せやけど、ひとつだけは分かっておりんす」


 一歩、また一歩。

 雪を踏む足音が、夜の山道に柔らかく刻まれる。


「怖いのは、“鬼”やあらしまへん。真実を隠すために人が作った物語どす」


 その声は、風よりも静かに、されど雪よりも重く、耳に残った。


「誰かの命を、あいまいな“物語”が呑みこんでゆく。そのことに、わちきはもう、黙ってはおられんのどす」


 その姿は、まるで舞台の幕が開く刹那、役目を背負った役者のようであった。

 背筋を伸ばし、紅の袖が風に翻る。

 それは春告げの衣にも似て、どこか祈りの色を纏っていた。


「立ち止まっては、ならぬ。どんな“鬼”が出てこようとも、わちきらは決めたんどす。春を迎えるためのまことを、この手で掘り起こすと」


 風がまた唸り、雪が激しく舞い上がった。


 されど、お蝶の身は微動だにせず。

 その双眸には、まだ見ぬ真実を穿つ者の気迫が漲っていた。

 闇の奥に潜む“何か”に向け、静かなる戦いの幕が、今、切って落とされようとしていた――。



 ◇ ◇ ◇



 山深き窪地の奥、風に潜む声が囁きをやめぬその場所に、ひとつの社がぽつねんと佇んでいた。


 かつては、村人らの祈りと嘆きをその身に受けてきたであろう――神を祀るにはあまりに小さき祠。

 今となっては、荒れ果てた風景の中に沈み、もはや誰ひとり顧みぬ廃祀はいしの残骸に過ぎぬ。


 屋根は斜めに傾き、破れた御簾は風に煽られ、千切れかけた紙垂しでが濡れた空気に貼り付いていた。

 石の灯籠は苔に埋もれ、倒れたまま二度と立て直されることもなく、地に這う蔓草が柱を呑みこみ始めている。

 柱の一本には、かつて誰かの手で刻まれた御神名が、もはや読めぬほどに掠れていた。


 それでも――

 それでもなお、そこには確かに“何か”が棲んでいた。


 お蝶と黒子は、その前で足を止めた。


 風が二人の背を押すように吹きぬける。

 社の奥、薄闇のなかから、得体の知れぬ呼吸のような気配がぬるりと滲み出している。


 お蝶は黙したまま、静かに社を見つめた。

 瞳の奥に揺れるのは畏れではなく、薄氷のような、深き思索。


「……ここも……いずれ、土に還るべく、忘れられた祈りの痕やったのかもしれへんなぁ」


 呟きはひどく静かで、まるでこの社そのものに語りかけるかのようだった。

 だが、その声を聴いたかのように、風がぴたりと止み、境内の空気がぴんと張り詰める。


 黒子は無言のまま、一歩踏み出す。

 苔むした敷石がしとりと濡れ、足裏に冷たい感触を伝えてくる。

 社の結界が、目に見えぬままにそこにあると――彼の一挙手が教えていた。


 お蝶もまた、ゆるりと歩を重ねた。

 朱を帯びたその裾が、濡れた地を掠め、紅の一刷けが、枯れた社の風景に咲く。


「可笑しいねぇ。焼けた痕があるってのに、焼けた物がない」


 大木や石畳に残る火災跡。

 それがいつ付けられた物かはわからぬが、そこに立つ鳥居は朽ち果てているものの、焼けた痕がない。


「ナニかに守られているのか、それとも……?」


 境内の中央――

 賽銭箱の向こうに、何かが「息をしている」。


 黒子の懐から、一枚の札が抜かれる。

 その紙が、風もないのに、ふわりと揺れた。


 お蝶の表情に、かすかな緊張が走る。


「……この風、違うねぇ」


 頬に触れた風は、冷たさではなかった。

 寂しさ。未練。慕情。

 かつてここに膝を折り、誰かを想い、祈りを捧げた者たちの息づかいが、今も風に混じっていた。


「なぁんか……未練が、この社に残っとる」


 お蝶は目を細める。

 そのまま足を賽銭箱の前に運ぶ。

 誰かの手によって置かれた供物が、半ば朽ちてその形を失いながら、まだそこにあった。


 その刹那――


 空気が軋んだ。

 紙札が、風もなく、裂けるような音を立てる。

 空間に漂っていた“何か”が、わずかに動いたのだ。


 お蝶の背筋がぴんと伸びる。

 心の奥に、ぞわりと冷たいものが這い登る感覚。


 それは、ただの“祈り”ではない。

 それは、封じられた“叫び”だった。


「……あたしらの足音さえ、もう届かへんみたいやね」


 囁くようにそう言ったとき、社の奥より――ひとひらの風が生まれた。

 何処へも届かぬ風。それはかつての祈りの残滓。

 今もなお、誰かを待ち続けている気配があった。


 黒子がひとつ歩を進めると、結界の膜がひときわ軋んで揺れた。

 霊の“気”が、札に触れて微かに震え、空気が重たくなる。


 お蝶もまた、迷いなくその結界の内へと足を踏み入れる。

 踏み込む一歩ごとに、まるで空間そのものが呻くように、重く、湿った音が足元を包む。


「……見捨ててええ場所とちゃうかったんやろね」


 その一言に込められたものは、過去への追悼ではなく、いま目の前にある“封印された真実”への誓いだった。


 風が、再び鳴った。

 だがそれは、拒むような風ではなかった。


 まるで、何かが応えているように――

 二人の訪れを、待っていたかのように――。


 社の裏手、風がひときわ鋭くなったそのとき、黒子がふと足を止めた。


 白雪に沈む気配の中、ひと筋の違和が走ったのだ。

 声もなく、ただ気配のみを察知するその身の動きに、お蝶もまた歩を留める。

 互いに言葉を交わすことはなかった。ただ静かに、風の流れと気を読む。


 目の前には、岩肌を裂いたような暗い隙間がぽっかりと開いておった。

 自然が穿ったにはあまりに不規則で、あたかも何かが“抉じ開けた”かのような、生々しき裂け目であった。


「……ここぁ、ちぃと気配が……違うねぇ」


 お蝶の声が、かすかに震えながらも、艶を宿した声音の奥に確かな剣を含んでいた。

 ひと息、裾を揺らしてその中へ足を踏み入れる。

 途端、風が逆巻き、彼女の髪を紅の帯のように巻き上げた。


 その風には、ただの冷たさではない、見えぬ誰かの指先のようなものが混じっておった。

 押しやるのでも引き止めるのでもない、ただ、そこに行け――そう告げているような感触だった。


 岩の裂け目を抜けた先、ひやりとした空気が頬を撫でた。


 そこはほらあな――

 世の理より外れた空白のような場所であった。

 岩壁には青白き苔がほのかに光を放ち、空間全体が仄暗く照らされている。


 そして、その中心に――


 何かが“在った”。


 お蝶は一歩、また一歩と進み、そこで足を止めた。

 眼前に佇む影に、背筋が凍るような気配を感じたのだ。


 それは、かつて“人”であったもの――いや、“人”と呼ぶにはあまりに禍々しき存在。

 朽ち果てた白装束は泥に塗れ、岩肌に貼り付きながら、まるで土の一部と化していた。

 長く垂れた髪が、顔を覆い隠しており、まるで首のない骸のようにも見えた。


 だが、それは“死んで”はいなかった。


 呼吸もせぬその身体からは、濃密な“気”が渦巻いていた。

 怒り。

 哀しみ。

 恨み。

 断ち切られた祈りの残響。

 そして、言葉にできぬ“訴え”が、重く、湿った空気となって洞を満たしていた。


「……こいつぁ、“人”って呼んでええんかしらねぇ……」


 お蝶の吐いた言葉は、岩壁に反響し、空間をさらに冷たくする。

 その声音の奥には、恐れと同時に、憐れみが宿っていた。


 その存在は“鬼”ではなかった。

 だが“人”でもなかった。

 犠牲にされ、忘れられ、地に縛られたまま、未練だけを形にした何か――。


 お蝶はゆるりと扇を開く。

 けれど、振るうことはなかった。


 彼女の眼差しは、ただ静かにその影を見据えていた。

 その視線は、敵を見るものではなく、鎮魂の願いを込めた祈りのようでもあった。


「……何があったんやろねぇ、ここで……」


 お蝶の吐息がひとすじ、白く漏れる。

 その瞬間、影がびくりと肩を震わせたように見えた。


 空気がきしむ。

 過去の祈りと、現在の声が交わる。


 黒子はその場に立ち尽くし、ただ静かにその空気の揺らぎを感じ取っていた。


 お蝶は、もはや逃げぬ。

 この“何か”の正体を、この地に染みついた“哀しみ”の根を、必ず見届けようとしていた。


 それは、風に乗って囁く――


「忘れないでくれ」と。


 岩窟の奥、蝋のような沈黙が場を満たしていた。


 お蝶は一歩、そっと踏み出した。

 足元にしとりと湿る苔、張り詰めた空気が肌を打つ。

 闇の奥に宿るなにがしの存在に、静かなる言の葉が落ちる。


「……春姫……」


 その名は、まるで封を解く鍵のように、闇を震わせた。

 それはただの呼びかけではない。

 時を越えてなお、この地に囚われ続ける“誰か”の魂を呼び戻す名であった。


 かつて、春を呼ぶために命を供物とされし巫女がいた。

 その名を、春姫と呼んだという。


 ――命をもって春を招く。

 その因習のもと、彼女はこの地に縫い留められた。


「……春姫の血が、この村の春を支えていた……。けれど、それは祈りやあらへん。犠牲や」


 お蝶の瞳が細められた。

 紅の面差しの奥で、静かに怒りが芽吹く。

 これは、哀しみだけの話ではない。

 語られぬまま、捨てられ、忘れられた、深い深い無念が渦巻いておった。


「……彼女の魂は、まだ此処におる。囚われたまま、よう成仏もできんで、いまも……」


 春姫。

 名ばかりの神格を与えられ、巫女であることを強いられ、ひとり社に閉じ込められた少女。

 その胸に宿っていたはずの“祈り”は、年月とともに変じていった。


 祈りは、やがて願いに。

 願いは、やがて叫びに。

 そして叫びは、憎しみに変わり――


「……これはもう、祟りや。されど、誰も口にしようとはせんかった。皆、見て見ぬふりをして、春を享け続けてきたんや」


 お蝶は、社の奥、苔むした祀台をじっと見つめた。

 祀られたはずの“神”の像は、とうに崩れ落ち、かわりに残るのは土に埋もれた白き影。

 それは、衣か。あるいは、骨か。いや、想念そのものか。


 ひとつ、ふたつ。

 お蝶は歩を進めた。

 空気が重く、霧のように魂を締めつける。

 目を細め、静かに囁いた。


「伝えられとる春姫の物語……あれは、表の顔や。ほんまの姿は、この闇に隠れてる」


 白装束の裾が、地に散る花のように揺れた。


 春姫の名は、いまや祈りではない。

 それは“封印”であり、“呪い”の象徴でもあった。


 村の者たちは、春姫を祭りながらも、語らず、祈らず、ただ“恐れ”ることしかしてこなかった。


「春が来るたびに娘が消えるのも、すべては――この社から始まったんかもしれへんねぇ」


 お蝶は扇を閉じ、ゆっくりと胸に当てる。

 風がふたたび吹き、髪が舞う。

 どこか、遠くから声が聞こえた気がした。


 それは、涙まじりの、少女の祈り。

 あるいは、断末魔のような絶叫――


「……この社。ここが“鍵”どすな。すべての始まりであり、終わりでもある」


 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。

 されど、たしかに、春姫の魂に向けて放たれた祈りだった。


 ここから、すべてを紐解くのだ。


 村が閉ざした闇の蓋を。

 春姫が抱えたまま、言葉にできなかった無念を。

 そして、春を呑む“鬼”の正体を――。


 岩窟の奥、霧のような冷気が、じとりと肌を這っていた。


 お蝶はゆるやかに歩を進め、祠の前に立ち止まった。

 その眼前には、時の流れに朽ちかけた祭壇と、誰にも顧みられることのなかった奉納物の名残があった。

 かつてここに祈りが捧げられ、春が招かれたという。

 だが今、その場に満ちるのは、祈りではない。


 ――呪い。

 それも、濁流のように濃く、重く、澱んだ想念。


 春姫。

 その名で呼ばれし少女は、春を呼ぶ“媒介”として、生を削り、命を捧げ、魂をこの地に縛られた。

 人々の祝祭の裏で、彼女は春の神として祀られ、ただただ祈り続けた。


「……春を迎えるたびに、誰かが血を流し、誰かが笑う。

  けれど、その笑みの下に、春姫はんの涙はあったんやろなぁ」


 お蝶の声が、微かに震えた。


 春姫の祈りは、最初こそ純真であった。

 村を想い、人々の幸せを願い、その命を贄として捧げた。

 だが、季節が巡るたび、彼女の魂は見捨てられ、忘れられ、封じられたまま、人知れず哭いておった。


「……いつしか、願いも祈りも、呪いに変わってしもうたんやねぇ……」


 その呟きは、お蝶の胸の内から溢れ出た、祈りに似た声であった。

 怨霊などではない。

 春姫の魂は、むしろ“想いの亡霊”――

 愛しき者たちに捨てられた者の、名もなき慟哭であった。


 祠の奥に、白く朽ちた衣の端が見えた気がした。

 それは、かつて春姫がまとった祭衣か――あるいは、想念のまぼろしか。


「……ほんまに、春は来てたんやろか……?

  春姫はんの祈り、ほんに届いてたんやろか……?」


 お蝶の問いは、誰に向けられたものでもなかった。

 だが、その言の葉は、この場に染みついた何かを微かに揺らした。

 風がふと止み、重く沈んだ空気が、まるで返答のように張り詰める。


「春姫はん……あんた、どれほどの想いを抱えて逝かはったんやろねぇ……」


 その声音は、優しくもあり、哀しくもあり、そして凛としておった。

 春を呼ぶ神ではなく、ひとりの女として、春姫の魂に寄り添う声。

 それは、花街に咲き、笑顔の裏で数多の痛みを飲み込んできた、お蝶という女だからこそ発せられた言葉であった。


 彼女は涙をこぼすことなく、ただひとつ深く息を吸い、胸の奥に春姫の名を刻むようにして、囁いた。


「……この社。あんたの墓やない。あんたの魂を解き放つ鍵になる。

  わちきが、それを見届けてみせんす」


 その背には、黒子が静かに立つ。

 言葉はない。されど、その沈黙は、確かな同意と覚悟を秘めていた。


 雪の帳が、再び社を包み込む。

 そして、お蝶の影もまた、春姫の想念を導くために、闇の奥へと滲むように消えていった――。


 風の息が止んだ。


 それは、雪の帳が一瞬だけ凪いだような、静寂の訪れであった。

 お蝶は、祠の奥、朽ちかけた影の中に立つ白き姿を見つめていた。


 生か、死か。

 その境界すらも曖昧なまま、そこに佇むのは、確かに“春姫”の名を負う者――

 かつて春を呼ぶため、この地に命を預け、祈りの残り香だけを残して散った、哀しき巫女の影であった。


「……お命を差し出してまで、あの村の春を……それだけを信じて、祈り続けてはったのに」


 お蝶の声が、かすかに震えた。

 それは怒りではない。

 深く、静かな慟哭。胸の奥底よりせり上がった、祈りにも似た哀惜の響き。


「なのに、あんたのことを……誰も覚えとらんのやね。

  誰も、感謝の一言すらも……」


 言の葉は熱を帯び、唇をかすかに噛みしめた。

 あの村で語られた春の伝承に、春姫という名はなかった。

 ただ“巫女”とだけ――役目の名で葬られていた。

 それが、どれほどの無礼であるか。どれほど、魂を引き裂く仕打ちであるか。


「忘れられた命ほど、哀しいものはおへん……

  あたしらの足元に咲く花が、誰の血で咲いたかも知らずに、ただ春を謳って……

  なんと無情な、なんと罪深いことやろなぁ……」


 白き吐息が、薄闇に揺れた。

 その向こうに、春姫の影が立つ。

 顔は見えぬ。されど、確かにそこに在る。


 それは怒りの像ではない。

 ただ、名を呼ばれることなく消えた者の、哀しき影。


「復讐や恨みを望んだわけやあらしまへん。

  ただ……あんたの命が、無駄やなかったと――

  誰かに、気づいてほしかっただけやろうに……」


 その声に宿るのは、共鳴。

 お蝶もまた、己の存在が“見られる”ことなく過ぎ去ることの恐ろしさを、知っていた。

 名を呼ばれず、顔も記憶も霞み、ただ役目として生き、消える。

 それが、どれほど魂を削ることか。


「けど……それすらも叶わず、ただ忘れ去られて……

  心も、魂も……壊れてもうたんやねぇ」


 彼女は涙を流さぬ。

 だが、その声が震えた。

 春姫の影は、微かに揺れた。

 呼びかけに応えるように、静かに、風のように。


「今さらのように“春姫”やなんて名を呼ばれたところで、あんたの嘆きが晴れるわけやない。

  せやけど……」


 一歩、また一歩。

 お蝶は春姫のもとへと近づいていく。

 その足取りは、揺らがず。

 まるで舞台の上、幕が開かれる瞬間を踏みしめるかのように。


「ここで、終わらせましょ。

  あんたの苦しみも、怒りも、みんな背負わせてもらいますえ。

  忘れ去られる……そんな哀しい終わり方、させまへん」


 その言葉に――世界が応えた。


 社の奥から、風がふと止み、

 辺りに満ちていた澱んだ気配が、わずかに、ほんのわずかに緩んだ。


 春姫の影は、微かに後ずさり、そして消えることなく、なおそこに在った。

 未だ語られぬ真実がある。

 未だ、果たされぬ祈りがある。

 それを――この女が解き放たんとしているのだと、彼女の魂は知ったのだ。


 お蝶の瞳に、迷いはない。

 ただ、その双眸に宿るは、巫女の名を背負いし者への、深い弔いの意志であった。


 お蝶の瞳に宿りしもの、それは凛と結ばれた一条の決意であった。

 ただの哀れみではない。ただの義でもない。

 これは、春姫というひとりの女の魂に応えんとする、等しき女の誓いである。


 春を呼ぶため、巫女として命を捧げ、祠に縛られし魂。

 時の流れは無情にその祈りを塗り潰し、名は忘れられ、想いは塵と化した。

 されど、ただ一人、お蝶はその声なき声を聞き取ったのだ。


「……その願いは、今も続いとるんやねぇ……」


 紅の唇から洩れた囁きは、空気を震わせ、祠の奥に眠る名もなき痛みに触れる。

 そこに佇む白き影――かつて春姫と呼ばれた者――その姿はもはや“人”のそれにあらず。

 白装束は土に濡れ、髪は長く垂れ、顔は影に沈む。だが、その気配は確かに、生きていた。


 祈りの果てに積もり積もった想いは、今や凍てついた怨念。

 無念の炎を抱いたまま、この地に縛られているのだ。


「ここで起こるすべては……春姫はんが求めた“報い”なんやろねぇ。

  けんど、どこにも安らぎはありゃせん……あるのは、忘れられた者の悲しみだけや」


 静かに、お蝶は歩を進める。

 己の声だけが、祠の闇に染み入っていく。

 風は息を潜め、世界はまるで息を呑むように沈黙していた。


「春姫はんが望んではった“春”って、一体なんやったんやろ……」


 それは、問いであり、祈りであり、誓いであった。

 己の命で春を呼び、村に季節をもたらした女――

 誰にも讃えられず、顧みられず、ただ神として祀られ、忘れられた魂。


「……どないな形であれ、春を呼ぶために命をくれたんや。

  それを忘れて春を喜ぶなんざ、そらあんまりにも無体やわ……」


 静かに語るお蝶の声に、春姫の影がかすかに揺れた。

 それは、怒りか、それとも応えようとする震えか。

 お蝶は構わず、さらに歩を進める。

 その双眸は真っすぐに春姫を見据えていた。


「安らぎも、救いも与えられんまま、ずっと此処に囚われて……

  あんたの魂、どんだけ冷たく、淋しかったことか……」


 言の葉は、怒りを帯びながらも、慈しみに溢れていた。

 お蝶は巫女ではない。されど、言霊をもって魂を慰撫することはできる。

 それが、彼女にできる唯一の術だった。


「せめてもの償いに、あたしが……あたしがこの手で、あんたを解き放ってみせるわ。

  この“春”が、あんたの望んだものであるかは分からんけど……それでも、探さなあかんのや」


 手が、そっと胸元に添えられる。

 言霊がこぼれるその唇に、確かな意思が宿る。


「誰も気づかずに終わらせてええ命やない。

  誰にも知られず、風の中に散ってええ魂やない。

  あんたの春は、終わらせたらあかん――それが、あたしの務めや」


 その声は、鋼のように硬く、美しかった。

 たとえそれが、鬼と呼ばれるものの手によって穢されていようとも、

 祈りを喰われ、魂が囚われていようとも――

 その魂に手を差し伸べることを、彼女は選んだのだ。


 そして――その瞬間。


「……春を与えても……誰も私を、見てはくれなんだ……」


 闇の底より、風に乗って染み入る声があった。

 それは、誰の耳にも届かぬはずの声。

 されど、確かにお蝶の胸に届いた。


 まるで、心の奥にひっそりと灯る燭火を、ふっと吹き消すような声。

 哀しみと、諦めと、そして微かな希望が混じり合ったその囁きに、お蝶はそっと目を閉じた。


「……貴女はん……まだ、春を待っとるんやねぇ……」


 ひと筋の言葉が、空気を和らげるように祠を包んだ。

 微かに結界が緩む気配。

 春姫の魂が、呼応したのだ。


 お蝶は、再び目を開く。

 その瞳には、すでに迷いはない。

 たとえ何があろうと、この祠の闇の奥、春姫の記憶の深淵へと、己の手で踏み込む覚悟があった。


 その先に待つのが、“春”の真実であると信じて――。


 春姫の姿は変わらぬまま、薄闇に溶け込むように、じっとその場に佇んでおった。


 人の形を保ちつつも、もはや“人”にあらず――

 朽ちた白装束は泥と瘴気に染まり、絡みつく黒髪は地に届いて這う。

 顔を覆う影は、その正体を永き静寂の奥へと葬り去っていた。


 されど、お蝶は目を逸らさぬ。

 見ぬふりでは、終わらせられぬものが、この異形の奥にあると知っていた。

 それは怨嗟でも、怒りでも、呪詛でもなく――

 凍てついた祈りの残響。たったひとつの、忘れ去られた「想い」。


 お蝶はひと足、またひと足と、

 淀みきった空気をかき分けながら進む。

 それは、ただの歩みではなかった。

 魂の触れ合いを求める、祈りのような所作であった。


「春を呼んでも、誰も振り向かなんだ。

  けど、あんたの声は……今ここに、おるあたしには、よう聴こえとるで」


 その声音は、凍てついた岩肌にも染み入るような優しさを湛えながら、なおも強く、深く響いた。


 静寂がわずかに波立ち、社の奥にひそむ空気が、一瞬だけ揺れる。

 春姫の黒髪が、風もない中ふと揺れたように見えた。


 お蝶は気配を逃さず、さらに歩を進める。

 足元の岩は冷たく、湿り気を孕み、まるでこの地そのものが、春姫の涙を吸い込んだかのようであった。


「貴女はん……ほんまに怒ってはるのやろうけど、それでも……

  ずっと祈っとったんやないかえ?」


 その言葉が、春姫の奥底に届くことを願いながら、そっと投げかける。

 声は静かに洞を満たし、やがて、岩の狭間に染み込むように消えていった。


 春姫は身じろぎもせず、ただ黙して立つのみ。

 だが、お蝶の瞳には確かに見えた――

 その姿の奥に、まだ“待つ者”の気配があることを。


「貴女が求めてはるんは……春そのものやない。

  誰かに……その春を受け止めてもらいたかったんとちゃいますかえ?」


 語りかけるような声音が、空気を緩やかに変えていく。

 それは春の初風のように、硬く凍った時を揺らし始めていた。


「春を咲かせて、誰にも見てもろうてへんなんて……

  そら、どんなに寂しかったか。

  貴女はんの春は、ほんまは……誰かに届いてほしかったんやろ?」


 空気が、ふと柔らかくなった。

 瘴気が引き、空間を覆っていた“怒りの膜”が、僅かに薄らいだ。

 春姫の髪がもう一度揺れ、まるで何かに応えるように。


 お蝶は、ゆるりと瞼を閉じた。

 深く息を吸い、静かに語る。


「もしも、貴女はんが……もう春を待つことをおやめになるんやったら……

  代わりに、あたしが探してみせます。

  貴女はんが咲かせた春を、ちゃんと見つけて、誰かに伝えてみせますえ」


 沈黙が戻る。だがそれは、もはや絶望の静けさではなかった。

 それは、「聞こう」とする者の沈黙。

 語られずにいた魂が、ふと耳を傾ける、その瞬間の“静”。


 お蝶はそっと目を開き、言葉を継いだ。


「けど……まだ望んではるのやったら、あたしも応えます。

  貴女はんが信じるその春、いっしょに迎えましょ……ようがすか?」


 それは願いではなく、誓いであった。

 ただ優しく、けれど確かな“ともに在る”という覚悟が、そこには宿っていた。


 春姫は、なおも沈黙のなかに佇む。

 されどその沈黙の奥には、変化の兆しが――

 かすかに、確かに、灯り始めていたのであった。


 お蝶は、ふたたび静かに一歩、春姫のもとへと歩み寄った。


 その足音は、湿り気を孕んだ岩肌に沈み、まるで時の狭間に吸い込まれていくように、鈍く静かに響いた。

 されど、その一歩には迷いはなかった。

 それは決して踏み外さぬ者の歩。何かを引き寄せるための祈りに似た、慎ましくも揺るぎなき歩みであった。


 洞を満たすは、澱んだ瘴気と、凍りついた時の流れ。

 その只中に、お蝶は佇みながら、そっと胸に語りかけた。


「……貴女はんの怒りを鎮めるにゃ、まずその苦しみを、あたしが受けとめんと……ならんのでしょうなぁ……」


 声は囁きにも満たぬほどに低く、けれど確かな温もりを孕んでいた。

 春を喚ぶ巫女として命を捧げ、祈りに殉じた娘。

 その深き想いに触れずして、癒しなど叶うものか――

 お蝶は、己の中に湧くその問いを、確信へと変えながら進んでいく。


「ほんの少しでもええ。あたしに感じさせておくんなまし。

 今のお前さんが、どれほどの想いを背負うてはるか……その重さを」


 瘴気はなおも濃く、呼吸すら苦しむほどに圧し掛かってくる。

 けれど、お蝶は退かぬ。

 一歩、また一歩と進み、ついに膝をつき、春姫の前に身を沈めた。


「どれほど姿が変わろうとも……

 あたしは、お前さんの奥底に、まだ人としてのぬくもりが残ってると信じてますえ」


 指先が、ゆるやかに霧を裂くように伸びていく。

 祈る者のごとく、あるいは、名もなき野辺の花に触れるように。

 お蝶の胸裏には、雪に閉ざされた村で見た、人々の哀しき春待ちの姿が浮かんでいた。


 その刹那――


 春姫の姿が、かすかに揺れた。


 風か、否。

 魂がわずかに応えたがゆえの動きであった。

 お蝶はそれを見逃さず、さらに深く、声を重ねる。


「お前さんの痛み……あたしには全部は分からへんかもしれん。

 けど、寄り添うことはできる。届かんくても、手を伸ばし続けることはできる。

 お前さんが安らげる場所、見つけてみせますえ」


 その声音は、春の陽ざしのように柔らかく、

 されど芯には鋼の如き意志を宿していた。

 怒りの裾をまくるように、淡く、暖かな気配が、わずかに洞の空間を満たしてゆく。


「どんなに絶望が深こうても、闇のなかには光がある。

 あたしが、それを見つけ出す手伝いをします。……ええやろ?」


 その言の葉に応えるように、春姫の身を包んでいた瘴気が、ほんのひと呼吸分だけ、ゆるやかに退いた。


 お蝶は、その気配を確かに受け止め、さらにそっと手を伸ばす。

 指先には震えもなく、ひたすらに、まっすぐな情を込めて――。


「愛されたい……誰かに、ちゃんと見てもらいたかった……

 そんな気持ちを、あたしも、よう知ってますのや」


 その呟きは、誰にも届かぬようでいて、確かに春姫の魂に触れていた。

 触れた感触――それは、冷たさではなかった。

 寂しさと、望みと、かすかな光を含んだ、やわらかな脈動であった。


「お前さんがもう、春を待たんのなら……あたしが探してみせる。

 けど、それでもまだ望んではるのやったら――あたしが、その春を迎えにいきますえ」


 その声には、過去を背負いし者の祈りが宿っていた。

 贖罪も、解放も、救いも――そのすべてを込めたような、深く澄んだ響きであった。


 闇に呑まれた魂が、今なお息づいているとしたら――

 その名を春姫と呼ぶならば、彼女はきっと、いまも誰かを待っている。


 そして、お蝶は、その“誰か”になろうと、静かに覚悟を定めていた。



 ◇ ◇ ◇



 風が止み、空気がふっと淀んだ刹那――


 お蝶の指先に絡む一本の妖糸が、ぴん、と震えた。


 それは、目に見えぬ何かに触れた徴であった。空間の裂け目に囁くような微細な力が、妖糸の先を揺らしたのだ。


 お蝶は身じろぎもせぬまま、瞼を伏せる。


 ――触れた、のう……過去の、残滓ざんさいに。


 次の瞬間、世界が音もなく切り替わる。


 まるで深き眠りの底より浮かび上がるように、彼女の視界に「過去」が広がっていた。


 それは、幾十年も昔の光景。


 冬の終わりを待ちわびた篝火村にて、村人らが集い、巫女の舞が始まろうとしていた。


 ――春告げの祀り。


 そこに在ったのは、今とはまるで異なる村の姿であった。


 薪を高く積み上げた社の前、御幣ごへいが揺れる境内にて、白装束を纏うひとりの少女が、静かに両の手を掲げていた。


供花くげの巫女」と呼ばれるその娘は、若くも凛としており、薄紅に染まる布を手に、舞いを捧げようとしていた。


 その舞は、本来ならば春を招き入れるためのもの。

 雪解けの喜びを讃え、村に新しき命を呼びこむ、祝福の儀式であるはずだった。


 だが――


 その年、春は訪れなかった。


 雪は溶けず、地は凍え、獣は姿を消し、麦は芽吹かなかった。

 やがて村には飢えが忍び寄り、病が流行り、赤子の泣き声もやがて聞こえなくなった。


 人々は恐れ、山神の祟りと騒ぎ立てた。


 そして、誰かが言った。


「巫女の血が、足らぬのじゃ――」


 その言葉が、すべてのはじまりであった。


 供花の巫女は、祈りの象徴ではなく、「贄」として選ばれたのだ。


 火に照らされ、縛められた少女は、雪の中で泣き叫ぶこともなく、ただ微かに唇を動かしていた。

 その姿は、まるで“春”そのものを抱くような、儚く、痛ましい光景であった。


 それからというもの、篝火村には、年ごとに一人――少女の命が捧げられるようになった。


 冬の終わりに、春を呼ぶための「しきたり」。


 それはただの祀りではない。祈りではない。

 血で書かれた契約であった。


 舞台は暗転する。供花の巫女の瞳がこちらを見ていた。いや――春姫では、ない。


 違う。何かが、潜んでいる。


 光景が揺れる。


 社の裏、闇の中、歪んだ風景の奥に、巨きな“影”が蠢いた。


 それは形を持たぬ、巨大な怨念の塊。幾人もの巫女の叫びと、無数の命の呻きが渦巻いていた。

 お蝶はその場に立ちすくむ。春姫ではない。もっと深く、もっと古く、もっと暗い――なにか、得体の知れぬものが、この地に巣喰っていた。


「……これは……春姫はんやない……!」


 お蝶が叫ぶより先に、視界が砕ける。


 白い閃光とともに、幻想は破れ、現実の世界に戻された。


 呼吸が乱れ、膝が笑いそうになるのをこらえながら、お蝶は岩窟の冷気のなかに立っていた。


 妖糸は、まだ震えていた。


 その先にあるのは――春姫の怨念ではない。


 もっと別の、もっと深い“何か”であることを、お蝶は確かに感じ取っていた。



 ◇ ◇ ◇



 洞窟を満たす沈黙は、もはや怨嗟の淵ではなかった。

 長き眠りの底に沈んでいた春姫の魂が、いま――かすかに、揺れておった。


 瘴気はすでに翳りを帯びており、空気の肌ざわりがわずかに変わる。

 それは春の兆しのごとく、冷たき空の底にさす陽のぬくもりに似ていた。


 お蝶の眼差しが、じっと異形の巫女を見つめる。

 血のごとき黒き瘴気に覆われていたその姿が、微かに震えた。


 ――春を喰う鬼ではない。

 ――祈りが呪いに変わっただけの、ひとつの、哀しき魂。


「……春姫はん」


 お蝶がその名を呼ぶと、洞の空気がわずかに震えた。

 その瞬間、異形の身体に、なにかが走った。

 白装束がゆるやかに揺れ、絡まった黒髪が風もないのにふわりと舞う。


 すると、身体の中心から、かすかに紅が灯った。

 最初はひとひらの花弁。まるで凍土に咲く一輪の花のように、慎ましく、静かに。

 その紅はやがて、春姫の全身を包む瘴気の内より、光を帯びて膨らみ始めた。


 ――花、咲く。


 それはとがを負わされた巫女の魂が、長き年月を越えてなお祈り続けた“春”の結晶であった。


 瘴気がぱちりと弾けるように裂け、そこから一陣の光が迸る。

 黒き穢れがゆっくりと剥がれ落ち、春姫の影が淡く透けてゆく。


 その中心より、新たなる“ひかり”が顕れる。

 幼子にも似た輪郭、小さき手、柔らかき顔。

 春姫の面影を宿しつつも、まったく別の命。


 それは――


「……こはる……」


 お蝶が、涙を堪えるようにしてその名を呼んだ。


 そう、それは春姫の記憶を継ぎながらも、まったく新しき命として生まれた娘。

 春姫の祈りが結んだ、最初にして最後の、純粋なる“春”。


 彼女の頬には、未だ消えぬ痛みの痕があった。

 されど、その瞳は透き通っていた。

 悲しみも憤りも、すべてを越えた場所にある光――それが、こはるという存在であった。


 花のように。

 あるいは、風のように。


 春姫の魂は、こはるという名の娘へと姿を変え、この世に再び立ち現れたのだ。


 そして、その場に吹き込む風が変わった。

 春告げの風であった。


 お蝶は、そっと膝をつき、こはるの前に掌を差し出した。

 少女は、それに応えるように、ためらいがちに手を伸ばす。

 ふたつの手が、音もなく触れ合った瞬間――


 洞窟の空気が、ふわりと揺らいだ。


 忘れられた祈りは、ようやく、春の扉を開け放ったのだった。


 ――その時であった。


 深き山の麓より、不意にひと筋の音が、空を裂いた。


 笛の音である。

 されど、それは祭りに響く雅な音色ではなく、むしろ山の底より吹き上がる風のような鋭さと、まじないの響きを孕んだもの。

 初めは細く、遠く、冬籠りの獣を目覚めさせるように慎ましく。

 やがてそれは、うねりを帯び、夜の帳を切り裂くかの如く、四方の山肌にこだましながら幾重にも響き渡った。


 お蝶は、その場に静かに立ち尽くしたまま、耳を澄ませる。

 空気が、変わった。

 空はなお暗く、雪はなお舞っているというのに、肌を刺す風のなかに、妙な温度の揺らぎがあった。


 ――呼ばれたのだ。

 何かが、何処かから、いま動き出した。


「……こりゃあ、ただの合図やあらしまへん」


 お蝶の声は低く、しずかに深いものをたたえていた。

 それは直感ではなく、身体にしみ入るような確信の響き。


「眠っとった“何か”が……目ェ覚ましよったんや」


 山の息が、鳴っておる。

 笛の音に応えるように、大気がざわめき、森の奥底から地鳴りにも似た気配が微かに伝わってくる。


 お蝶の視線は、鳴り響く音の向こう――村の背後に連なる山裾のさらに奥を射抜いていた。


「笛の音は、呼ぶ音やなく……終わらす音」


 その響きは、まるで何かを終わらせ、何かを斬り捨てるために放たれた狼煙のようだった。

 祓うための音色ではない。裁きの音――そう、お蝶の本能が告げていた。


「とうとう来よったねぇ……この村が隠してきた“裏”が」


 言葉の端々には、既に逃げ場など無いことを悟った者の覚悟がにじむ。

 お蝶は、ゆるりと振り返りもせず、声のない黒子の気配を背に感じながら、前を向いた。


「うちらは、もう引き返されへんとこまで来てしもうたんや」


 夜風が強まり、笛の音が一際鋭く耳を裂いた。

 それは、まるで結界を破る鍵のようでもあり、閉ざされていた“何か”を呼び戻す太鼓判のごとく、山全体を震わせておった。


「どんな闇が待っとろうが、進むしかあらへん」


 裾がはためき、簪が風に鳴る。

 だが、お蝶の背筋は一分の揺らぎも見せぬ。歩みはゆるやかにして、まっすぐ。


「うちらの務めは、春を喰う闇に、きっちり帳面つけることや。

 誰が忘れても、誰が目ぇ背けても――わちきはこの手で、確かめんと気が済まん」


 その声音には、祈りにも似た意思が宿っていた。

 かつて春を奪われ、名前を奪われ、ただ祀られ、そして忘れられていった者たち。

 その痛みを、この身に引き受ける者の言葉であった。


 雪は止まぬ。闇は濃さを増す。

 けれど、笛の音が鳴る限り、その先に待つものは確かにある。


 お蝶は、もう一度笛の音に向けて顔を上げ、ぽつりと吐息のように呟いた。


「ええよ。来るもんは来ぃ。……あたしらが、終わらせたるわ」


 その刹那、笛の音がひと際高く、夜を裂いた。


 二つの影が、夜の深奥へと消えてゆく。

 闇の向こうに待つ、真の“春”を、その手に掴むために――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ