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夜桜お蝶 艶劇乱舞「怪」  作者: 秋月瑛
黄泉の夏
16/22

【二之幕:供花の谷】02

 その晩、篝火の宿は、深々と降り積もる雪に包まれていた。

 村の気配はまるで凍りついたかのように静まり返り、白銀の帳が世界を呑み込み、すべてを夢の中へと閉じ込める。


 窓の外には、月明かりを吸い込むような雪原が広がり、風の音すら届かぬ夜が、ただ無言で世界を支配していた。

 だがその沈黙の底に、微かに、鋭い針のようなざわめきがあった。


 お蝶は、膝を抱え眠る黒子の横顔をちらと見やり、そっと立ち上がる。

 振袖の裾がふわりと揺れ、硝子の窓辺に歩を運んだ。


 硝子越しに映るのは、凛とした美しさを湛えた雪景色。

 だが、あまりに完璧すぎるその静寂は、かえって異様な気配を滲ませていた。


 お蝶の瞳が細くなる。


「……おかしいねぇ。人の気配でも、獣の気配でもない……それでも、何かがおるよ」


 その声音には、確かな警戒が含まれていた。

 喉の奥で、どこか懐かしい不安が鈴のように震える。

 胸の内で、妖糸がふるふると軋み、知らぬ闇に触れたと告げていた。


 そのとき、黒子が静かに身を起こす。

 彼は何も言わぬまま、窓の向こうに目を据える。

 お蝶と目が合う。言葉はいらない。互いの表情だけで、確信は共有された。


――この夜、何かが、来る。


 空気が僅かに凍てつく。

 それはただの雪の冷たさではない。

 人の世に属さぬ“なにものか”が、息を潜めていた。


 お蝶は扇のような睫毛を伏せ、息を呑む。


「来るなら、受けて立ちましょう。……そのために、ここまで来たんやからねぇ」


 静かに、言い聞かせるような呟き。

 その声音には、怯えも躊躇もなかった。

 この村の闇と向き合うことこそが、己の役目だと信じているから。


 そして、ふいに――


 雪の上に、音が走る。


 ざっ……


 それは一度きり。けれど、耳に届いた刹那、ふたりの全身を緊張が駆け巡った。

 黒子が音もなく立ち上がり、葛籠に手をかけかけて、しかしすぐに離す。

 まだ、その時ではない。


 お蝶は、静かに背筋を伸ばす。


 その視線は、もはや夜の闇を見据えていた。

 この夜の奥に蠢くもの――

 “春を呑む鬼”の気配すら、微かに交じっていたのかもしれない。


 雪は、音もなく降り続く。

 けれどその下に、何かが確かに近づいていた。

 気配は、息づいている。


 静謐に閉ざされた銀の世界は、あまりにも美しく、あまりにもおぞましかった。

 粉雪が空より舞い降り、地を白銀に染めるさまは、まるで神の筆先が世界を塗り直しているよう。

 けれどその中には、人の理を外れた“なにか”が、確かに紛れ込んでおった。


 ――この世のものにあらず。

 風の狭間、雪の隙間を縫うようにして滲む気配は、まるで“幽”のもの。


 お蝶は、黒子の背を目で追う。

 黙して動かぬ彼の気配すら、もはや当たり前のように感じられた。

 けれど今夜ばかりは、その沈黙が、より強く彼女を支えているように思えた。


 お蝶は、静かに吐息を漏らした。


「来たんやったら……迎え撃つしかあらへんやろ」


 その声に怯えはない。

 これは戦いの前に己を鼓舞する言葉ではない。

 自らの存在を確かにし、あの“何か”に対峙するための、誓いの一言であった。


 ふたたび窓辺へ。

 薄月が白髪を青白く染め、その面に落ちる影をより艶やかに映し出す。

 夜の闇に抗うその姿は、まるで舞台の上に立つ花魁――けれどそこに浮かぶのは、艶ではなく、覚悟。


「……何かが、おる」


 そう呟いた声は、雪の静寂を切り裂くでもなく、むしろそれを抱きしめるような、しんとした響きを持っていた。


 お蝶はそっと目を閉じた。

 そして、音のない世界に身を沈める。


 風が、廊下を撫でていく。

 その流れが、簪の鈴をかすかに鳴らす。

 まるで、昔の神楽の余韻のように。


 そのときだった。


 遠く。

 雪の中。

 誰かが――確かに“お蝶”を、呼んでおった。


 それは言葉ではない。音でもない。

 けれども、確かに感じ取れる。

 胸の奥を、琴線のように震わせる“誰かの気配”。


(……呼ばれとる)


 雪はまだ、やむことを知らぬ。

 銀の闇の向こうから、何かがこちらへ、手を伸ばしていた。


 お蝶は、静かに瞼を開ける。

 その瞳には、もはやためらいなどなかった。

 夜が明けぬのなら、己がその闇に踏み込もう。


「……行かんと、ならへんようやね」


 その声は凛としながらも、どこか穏やかであった。

 まるで、すべてを受け入れた者のように。


 お蝶は静かに、黒子の背へ目をやる。

 彼はひと言も発せぬまま、ただ扉の前で佇んでいた。


 ふたりの影が、雪の宿の中で重なり、ひとつの意志を結ぶ。


 ――その先に、何が待つとも知れず。

 それでも、行かねばならぬ。

 この夜の底へと。春を呑む闇の正体へと。


 月が、雪の帳を照らしていた。


 ――しん、しん、と雪は降り続けていた。。

 白の帳が、篝火村のすべてを覆い尽くす。

 その静寂の奥で、風に紛れて、ふいに――何かが囁いた。


「……わたしを、さがしてるの?」


 耳元に触れたその声は、あまりにか細く、あまりに淡く、けれど確かに、お蝶の胸奥を凍らせるには十分でだった。

 ぞわり、と肌をなぞる冷たい指先のような感覚。

 思わず、お蝶は息を呑んだ。


「……誰かえ……?」


 自ずと漏れた問いに、応えるものはない。

 ただ雪の降る音さえ消えたような静寂が、室内を満たしていた。


 しかし、胸の奥では何かがざわめいている。

 理では説明のつかぬ“気配”が、外からこちらを見ている――お蝶には、そうはっきりと感じ取れたのだ。


 そっと窓辺へ近づき、外を覗く。


 白、白、ただ白。

 風が雪を巻き上げ、世界をぼかす。

 けれど、その揺らぎの奥――ひとつ、形あるものが混ざっていた。


  “誰かが立っている”


 目を凝らせど、雪が遮る。

 されど確かに、そこに「誰か」がいた。

 その影は、次第に姿をとって浮かび上がってきた。


 一人の、少女。


 白装束。裸足。長き髪。

 薄明かりの下、風に髪を揺らし、まっすぐに此方を見つめていた。

 耳に挿した紅の簪が、雪の白に妖しく映え、その輪郭をより幻めいて見せていた。


 お蝶の瞳が、ゆっくりと見開かれる。

 言葉より先に、胸が震えた。

 あれは、忘れようにも忘れ得ぬ、あの姿――


「……こはる……?」


 唇から零れたその名は、まるで儀式の呪文のように空気を震わせ、雪のなかへと滲んでいった。


 少女は、その名を聞き届けたかのように、ふわりと微笑んだ。

 どこか哀しげで、どこか懐かしく――

 そしてその笑みを最後に、雪が一陣、吹きすさぶ。


 少女の姿は、風と共に溶け、雪へと紛れていった。


「待ってぇな……!」


 お蝶は思わず手を伸ばした。

 されど、掴めたのは冷えた空気のみ。

 その指先に、ぬくもりは残されていなかった。


 残されたのは、凍てついた空気と、胸に残る微かな余韻――

 それは幻か、過去の残像か、あるいは、ほんとうに“こはる”が呼んでいたのか。


 窓に手をつき、お蝶はそっと息を吐いた。

 指先が震え、胸の鼓動はなおも早鐘を打ち鳴らす。


 けれどその鼓動が、彼女の中で一つの確信へと変わっていく。


(あの娘は、生きておる――)


 たとえそれが、魂だけの存在であったとしても。

 たとえそれが、鬼の喰らう“春”の只中に在ったとしても。

 お蝶の心は、あの儚き笑みを決して忘れはしない。


 そしてその想いこそが、次なる一歩を、お蝶に踏ませるのだ。


 闇の奥にはまだ、真実が潜んでいる――。


 あれは、夢であったろうか。

 それとも、幻。

 ――いや。


 お蝶の心は、否と応えた。

 確かに、そこには“何か”がいたのだ。

 そして今もなお、その“何か”が、どこかで己を呼び、引き寄せているような感覚が拭えなかった。


 その刹那であった。


 突如、風が吠えた。

 篝火の宿の外にて、吹雪が唸りを上げ、雪は渦を巻き、天へと舞い上がる。

 まるで、あの白き少女の面影を――こはるを――隠すかのように。


 お蝶の瞳には、もはや何も映らぬ。

 ただ白霧の帳が視界を覆い、世界そのものが、しんと音を失っていた。


「……こはる……」


 その名は、唇から静かに零れ落ちた。

 けれど、その音は、風にさらわれ、雪に沈み、消えた。

 されど、名を呼んだその瞬間、胸の奥に、冷たくも鋭い波紋が広がった。


 少女の残像は、雪に溶けて消えたはずなのに、胸のどこかが、いまなお引き寄せられていた。

 それはまるで、凍てついた心の底に、誰かがそっと触れたような感覚。


 やがて、風は力を失い、凪が戻った。

 雪は、静かに、なおも降り続けている。

 白銀の帳の向こうからは、何の気配もなく、ただしんしんと積もるばかり。


 けれども、お蝶の胸には、あの瞬間に灯った“予感”があった。

 それは、ゆるりと形を取り、声なき声で訴えかけてきた。


 ――この村には、春が来ておらぬ。

 ――春を、誰かが拒んでおるのだ。


「……拒んでおる……?」


 お蝶はその言の葉を、低く反芻する。

 まるで己の中で何かが目覚めようとしているのを、そっと確かめるように。


 思わず、胸に手を当てた。

 その奥でくすぶる疼きは、決して気のせいではなかった。


 あの少女、こはる。

 その名を思うたび、胸の中で火が灯り、得も言われぬ痛みと熱が湧き上がってくる。

 なぜ、己はあの娘の名をこうも深く、重く感じてしまうのか。


 記憶の奥から呼ばれるように、面影が揺れる。

 けれど、掴もうとすれば、指先からふいに抜け落ちていく。


 お蝶は、窓へと視線を戻した。

 外は、なおも白銀の舞。


 ゆっくりと息を吸い、白き吐息を、硝子に曇らせる。

 肺に染み込む冷気が、神経を研ぎ澄ませてゆく。


 そのとき――


 微かに。

 ほんの微かに、遠くより足音のような気配が聞こえた。


 それは獣か、風か。

 あるいは……人ならぬ“何か”か。


「……誰かが、待っとる……」


 お蝶はそう呟いた。

 その声音は、怯えを帯びてはおらぬ。

 むしろ、確信に満ちていた。


 誰かが、そこにおる。

 誰かが、自分たちを待っている。


 ――それは、春を拒む者か。

 ――あるいは、春を喰らう鬼か。


 黒子の気配が微かに動いた。

 お蝶は、彼に目をやることなく、ただまっすぐ、闇の向こうを見据えた。


 そこには、まだ見ぬ真実がある。


 春が、ただの季節ではなくなったとき。

 人の祈りが形を変え、鬼の名が囁かれるようになったとき。

 この村の時間は――きっと、止まってしまったのだ。


 その止まった時間の中で、お蝶は歩き出そうとしている。


 真の“春”を見出すために。

 そして、こはるという名の娘が、何を背負い、どこへ消えたのか――


 すべての答えが、雪の向こうに待っている。


 その晩、篝火の宿の一室は、雪に閉ざされた世界の静けさに包まれておりました。


 薄明かりの灯りは、木の壁にかすかに揺れ、まるで眠れぬ者の影を映すかのように心細げに震えておりました。


 お蝶は、低く伏せた瞳に強き決意を宿し、黙して窓辺に腰を落としておりました。


 ――この村で起きておること、すべてのまことを暴かねばならぬ。


 雪はなお音もなく降り続き、時折吹き抜ける風が障子をかすかに揺らすたび、彼女の肩が微かに震えます。


 背後には、黒き影がひとつ。


 黒子――何も語らぬ影法師のごとく、黙してその背に寄り添っておりました。言葉を交わすことなくとも、その気配にこそ、深き信頼と覚悟が通い合っていたのです。


 やがて、お蝶が静かに口を開きました。


「……山に棲まうてる“春を呑む鬼”、そいつぁ、伝説なんかやおまへん。なにかが……あたしを、あの山へ誘うてる気ぃがいたしますの」


 その声は囁きに近く、されど澱むことなく、凛と響いておりました。


 思い浮かぶのは、こはるの面影。


 あの娘が流した涙、あの娘が残した言葉、あの娘が託した春――それらすべてが、胸に澱のように残り続けておりました。


「こはる……あの子の春を、必ずや取り戻してみせんす。わちきの、この手で……」


 それは誰かに告げるためではなく、己に言い聞かせる誓いの言葉でした。


 目を閉じれば、なおも瞼の裏に揺れるこはるの笑顔。

 春の風に舞う花の中で、柔らかく微笑むその姿。

 失われたものの重みが、胸を締めつける。


「取り戻す……それが、わちきの務め。そう、思うておりんす」


 その声に込められた想いは、まるで時を超えて再びこはると向き合おうとする者の覚悟であった。


 黒子は無言で動くことなく、ただその言葉の重みを受け止めているようだった。

 その沈黙こそが、最も深き理解の証。


 吹き荒れる風が、再び窓を叩く。

 月は姿を隠し、闇がこの村をすっぽりと覆い隠す。


「こはるの春を、失せたままにはいたしません。どんな闇の中にあろうとも、必ずや」


 お蝶の声音は、夜の深淵に落ちていくかのような静けさを帯びていた。


 そして――窓の外を見つめたまま、彼女はそっと続ける。


「明日は……何かが、起こるような気ぃがいたしますの」


 その囁きは、誰に向けられたものでもなく、ただ“兆し”を読み取る者だけが口にする言葉った。


 黒子の眼差しがふと、お蝶へと向けられたとき、彼女は振り返って言います。


「そう……起こるべくして、起きること。わちきらの過去が、どこまでも絡みついてくるんどすえ」


 その瞳には、哀しみと覚悟が重なっていた。


 ふと、窓の外の雪に目を向ければ、どこかにこはるの面影が舞っているような錯覚すら覚える。


 されど、怯えることなど、もはやない。


 お蝶は強く言う。


「それでも、進むしかありんせん」


 吹きつける雪に負けじと、言葉を吐き出すように。


「明日、あの山へ赴きます。“春を呑む鬼”――その正体、わちきが突き止めてみせんす」


 その声には、迷いも恐れもない。あるのは、ただ真実を見届けようとする者の矜持のみ。


 そして、黒子と静かに視線を交わすと、ふたりの間に言葉はもう不要だった。


「どんなに長い夜でも、越えねばなりません。答えは、きっとあの先にあるんやろうて」


 窓の外は、雪が舞い、風が凍る。

 されどその白き帳の向こうに――真実は、きっと待っている。


「今は、明日を迎える覚悟を整えましょ」


 お蝶はそっと身を起こし、静かにその場を離れた。


 それは、春を取り戻すための、一歩でだった。

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