【二之幕:供花の谷】01
その夜――
お蝶と黒子は、篝火村の外れに佇む一軒の古宿へと身を寄せた。
道中、雪は途切れることなく降り続き、村の家々を覆う白は、かつての時を沈める棺のようであった。
その中で、この宿だけが奇妙に灯りを保っていたのは、かつてこの村が栄えていた名残であろうか。
だが、今や誰が住まい、誰を迎えているのか――その影すら見えぬ。
宿の門口に立ち止まり、お蝶は木造の佇まいをじっと見つめる。
屋根には厚く雪が積もり、柱には長年の風雪に晒された色褪せと亀裂が刻まれていた。
白粉の下の面に薄く影を宿し、そっと呟く。
「……なんやろなぁ。ここもまた、何ぞ……抱えとるような匂いがいたしますわ」
背後から吹き抜ける風が、朱の振袖を揺らし、どこか懐かしい雪の匂いを連れてくる。
その匂いは、まるで“過去”の衣の裾を引くようであった。
ぎぃ――
木戸を開けた音が、静寂を裂く。
灯籠に照らされた薄明かりが、二人を迎え入れる。
室内は簡素にして古びており、帳場の影には誰の気配も感じられない。
それでも火は絶えておらず、まるで“主なきまま、役目だけが残された”ような風情があった。
「誰ぞが待っていたような……それでいて、もう随分と、待たれてへんような……そんな空気やねぇ」
お蝶はそう囁くと、ゆるりと歩みを進め、奥の間へと踏み入る。
調度は古び、炉には微かな灰の残り香。
壁に掛けられた古絵図は色を失い、誰が描いたとも知れぬ風景が虚空を見つめていた。
黒子は黙して従い、葛籠を部屋の隅に下ろすと、扉の脇へと控える。
彼の沈黙は、この宿の気配と同化するように静かで、だが確かに、“何か”を警戒していた。
お蝶は、炉の傍らに膝をつき、少し息を吐く。
そしてゆるりと立ち上がり、窓辺へ向かうと、降りしきる雪を見やった。
「……今宵は、何かが、目覚めそうでなりませぬ」
その声には、艶も余裕もなく、ただ静かな覚悟がこもっていた。
かつての“こはる”の名、骸花の咲く野での異形、断たれた神楽の伝承。
すべてが雪の下に埋もれているのではなく、まだ眠っているにすぎぬのだ。
それを掘り起こすには、ここに宿る“過去”を知らねばならぬ――。
お蝶は窓に手を触れる。冷たい硝子が、掌を通して心に伝う。
「……きっと、春は来る。けれど、ただの春じゃない――誰かの痛みを越えてこそ、咲く春や」
その囁きは、自身に向けた誓いのようでもあり、闇の向こうの誰かへ届く祈りのようでもあった。
静けさが、再び部屋を満たす。
雪は止まぬまま、夜は深まってゆく。
篝火村の沈黙の奥、何かが、目を覚まそうとしていた。
――静寂の宿に、灯がひとつ、ほのかに揺れていた。
湯気の立ちのぼる湯釜のそば、藍染の薄衣をまとった女将がひとり、黙々と手を動かしていた。
その背は骨ばり、痩せ細り、灯火が照らすその姿はまるで“影”のよう。
頬はこけ、目元は落ち窪み、言葉少なに長い時を沈黙と共に過ごしてきたことが、ひと目で知れた。
その手が、何かを炊く音と、わずかに湿った木の軋みだけが、しんしんと降る雪の夜に響いていた。
戸が控えめに開かれ、お蝶と黒子がその場へ足を踏み入れたとき、女将はその気配にようやく気づいたように、わずかに肩を震わせた。
けれど、言葉はない。
ただ静かに、機械仕掛けの人形のように身を起こし、膳の支度へと移る。
ひとつ、ひとつ――無駄のない所作。
だがその背からは、どこか“怯え”に似た気配が滲み出ていた。
まるで、過去に焼き付けられた何かを忘れられず、なお今を生きることにためらっているような……。
お蝶は、その様を静かに見つめていた。
そして、そっと口を開く。
「……お心遣い、かたじけのうござんす」
優しく、相手を傷つけぬよう、あくまで丁寧に。
その声音には、花魁としての艶を抑え、ひとの心を探る繊細な響きが込められていた。
女将はゆるりと顔を上げる。
その瞳は虚ろで、まるで別の時代、別の場所を見ているかのようだった。
「……遠方より……お越しで……ござんすな」
かすれた声。
音の一つひとつが、石を吐き出すように重たい。
その口元は動いても、心までは決して届いていない。
それでも、礼だけは形式として口にするあたりに、かつての“女将”の面影が残っていた。
しかしそれ以上は、何も語られなかった。
手元に戻った女将の指は、なおも器を拭い続ける。
まるで、時を戻そうとでもするかのように――。
お蝶は微笑を浮かべ、ほんの少し身を傾けて言葉を継ぐ。
「ええ、少しばかり道のりが長ゅうござんした。けんど……こちらのお宿、静かで風情がござんすねぇ」
まるで、何気ない旅人の世間話のように。
だが、その言葉には探るような糸がひそんでいた。
この女将の沈黙の奥――それが、篝火村に積もる“過去”とつながっている気がしてならなかったのだ。
黒子は一歩下がった位置で黙して立ち、何も言わず。
その沈黙すら、この場の一部となる。
ふと、女将が小さく首を傾けた。
だが、視線はやはりお蝶を見てはいない。
代わりに、どこか遠い記憶の中にある“誰か”の姿を、心の内に浮かべているようだった。
――この宿もまた、なにかを喪ったのだ。
お蝶は静かに膳の前に座り、黙してその沈黙に寄り添った。
言葉は、焦らずともよい。
雪はなお降り続けている。
その白さが、すべてを隠すように村を包みながら、明かされぬ記憶をそっと照らしていた。
膳の並ぶ音が、静けさの中に微かに響く。
灯の光は淡く、座敷の壁に揺れる影を映し出していた。
その中で、女将は黙々と動いていた。
まるで“何か”を振り払うように、無言のまま器を置き、布巾で端を拭い続ける。
お蝶はその姿を見つめながら、膝を正す。
膳の香りは慎ましく、だがどこか胸の奥を締めつけるような、哀しみを帯びていた。
言葉は、そっと、やさしく――。
「ようこそと仰ってくれたこと、嬉しゅうござんす。……けんど、この宿の空気は、どこか、よう哀しゅうて……」
その声には、氷解を促すような、ゆるやかな熱がこもっていた。
女将は応えることなく、ただ器を並べる手を止めぬ。
それでも――
沈黙の奥で、何かが少しだけ軋んだような気配があった。
やがて、膳をすべて並べ終えたそのとき。
女将の手がふと止まり、ゆっくりとした動作で、炉の側に腰を落とす。
そして、ぽつりと、呟いた。
「……春が来るたびに、娘がひとり、消えるのです」
その言葉は、まるで宿の空気ごと凍らせるかのように、張りつめていた。
お蝶は一瞬、息を呑んだが、すぐに視線を落とし、慎重に言葉を選ぶ。
「それは……何者かが、娘御たちを攫うのでござんすか?」
声は穏やかでありながら、核心に踏み込む鋭さを含んでいた。
女将の背がわずかに揺れ、震える指先が膝の上で絡んだ。
「……“春を呑む鬼”がいると申します。むかしから、あの山に……」
その言葉の響きは、もはや迷信や噂の域を越えていた。
まるで幾度となく耳にし、そして幾度となく失ってきた者の声。
「けど……その名を口にすれば、祟りがある。……だから皆、黙って祈るしか……」
女将は顔を伏せる。
目は見えずとも、その瞼の奥にどれだけの涙が閉じ込められているか――お蝶には、わかった。
しばしの沈黙ののち、お蝶がそっと言葉を継いだ。
「……あの祭壇。やっぱり、ただの飾りやない……誰ぞの無事を祈るための、もんでござんしたか」
真実を探る言葉でありながら、それはあえて“知らぬふり”をした優しい嘘。
けれど、その嘘に女将の手が止まり、かすかに背を向けたまま声を落とす。
「……何も……求めてはおりません。ただ……祈ることしか……それしか、出来ないのです」
それはあまりにも静かで、あまりにも深い声。
春を喪い、娘を喪い、時を喪った者だけが辿り着ける声だった。
そしてその夜、お蝶はふたたび、炎の揺らぎの中に沈む女将を見つめながら、ひとつの決意を深めた。
「……なら、うちらが確かめてみせましょう。春が、なぜ喰われるのか。誰が喰うのか……そして、あの娘が、今どこにいるのかを」
女将は何も答えなかった。
ただ、静かに炉の灰がぱちりと弾けた音だけが、部屋の隅に転がっていった――。
宿の囲炉裏には、ぱちりと小さな火が灯っていた。
湯気の立つ釜の音だけが静寂を刻む中、女将は薄くなった唇を震わせていた。
「……昔、この村には“鬼”に抗おうとした者たちもおりました」
ぽつりと漏れた言葉は、まるで凍てつく夜に灯された松明のように、部屋の空気を一瞬で変える。
お蝶は、静かに息を詰めた。
女将はしばし言葉を探すように目を伏せ、そして吐息のように続けた。
「……けれど、みな……」
言葉はそこで途切れ、彼女は深く息を吸い込んだ。
まるで、胸の奥底から沈んだ想いを掘り起こすように。
「みな、より大きな祟りを招いたのです」
その一言は重く、まるで石を投げ込んだかのように、場の静けさを波立たせた。
お蝶と黒子は言葉を交わさず、ただその声に耳を澄ます。
女将は続ける。
「だから今では、誰も口にせず、誰も抗おうとはしません。そうするより他、ないのです……」
それは諦念ではなく、恐怖そのものだった。
お蝶は目を細め、あえて低く、静かな声で尋ねた。
「……春が来るたび、娘が消える。いったい、何がその春とともに現れるのでござんしょう」
女将は答えず、小さく首を振るばかり。
「それは、わかりません。ただ、春になると、何かが村を訪れる……皆、それを“鬼”と呼ぶしかないのです」
まるで、名を与えることでしかその存在に形を与えられぬかのように。
その語り口には、伝承にすがるしか術のなかった人々の切実さが滲んでいた。
お蝶は俯きかけた面を上げ、虚空へ目を向けた。
「鬼が……春を呑む……」
それはただの言葉ではない。
目の前で語られた記録であり、現在進行形の祟りである。
村の者たちは、抗わず、忘れず、ただ耐え忍ぶ。
春がもたらすのは、温もりではなく喪失。
その季節をただ、恐怖とともに待つしかないのだ。
黒子の瞳が、じっと女将を見つめる。
彼の目は、冷ややかでありながらも、観察の鋭さを光らせていた。
恐怖の正体を、決して逸らさぬ姿勢がそこにあった。
お蝶は、女将の前に膝を寄せる。
「……その鬼とやら、いまだ山の奥に棲みついておる、ちゅうことでありんすかえ?」
女将は顔をこわばらせながら、恐る恐る頷いた。
「そうさねぇ……。山のもっと奥深く、人が近づかぬ場所があってね、昔からそこには“鬼”が住んでるって言い伝えがあるんだよ。けれど、誰も確かめに行った者はいない……皆、戻らないから」
その言葉には、古の封印のような重みがあった。
“誰も戻らない”――それが、すべてを物語っていた。
お蝶はしばらく沈黙したまま、女将の顔をじっと見つめていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「鬼が……春を喰う、てわけでありんすねぇ……」
その言葉は、ただの問いではなく、問いかけに名を借りた覚悟のようでもあった。
女将はもう、それに応えることはなかった。
ただ俯いたまま、火の揺らぎのなかに、その身を溶かしてゆくようだった。
窓の外では、静かに雪が降り積もっていた。
その白さはあまりに静かで、まるで過去の罪を塗り隠そうとするかのように。
囲炉裏の火は細く灯り、湯釜の音がかすかに響く。
雪の降りしきる夜の静けさの中で、女将は膝に置いた手をぎゅっと握り締めた。
「どんな鬼かは……わからないんだよ」
言葉の端が震え、吐息のように洩れたその声には、長年胸に押し込めてきた恐怖と諦めが滲んでいた。
「ただね、春になるたびに、娘がひとり、またひとりと消える。……もう、何十年も、ずっと」
お蝶は思わず身を乗り出し、低く問い返す。
「何十年も、でありんすか……?」
女将はゆっくりと頷いた。
「最初の年は、ただの不幸だと……誰もがそう思った。でも、次の春も、その次も。毎年、春が来れば娘がいなくなる。……皆、分かってるのさ。鬼の仕業だって。でも声を上げる者は……もう、誰もいない」
その声音には、深い無力感が宿っていた。
言葉のひとつひとつが、名もなき娘たちの命を弔うかのように、重く沈んでいく。
しばしの静寂。
雪の音さえ遠のいたような静けさが、部屋を包む。
女将は目を伏せたまま、ぽつりと続ける。
「“春を呑む鬼”と呼ばれておるよ。……あれは春とともに現れ、骸花を咲かせ、命を喰らう者だって……そう言い伝えられてきた」
お蝶はそっと目を細めた。
「骸花……」
それは、魂が春へと昇華する花。
命の終わりが生み出す、優しき終焉の象徴のはず――
それを喰らうというのか。
女将の声は、ますます低くなった。
「誰も鬼の姿を見たわけじゃない。でもね……春が近づくと、あの山の方から何かが来る気配がするの。何か、大きな、得体の知れないものが……」
「山に入っちゃいけない。昔、それに抗おうとした者がいたけど……皆、祟りを受けたの。娘だけじゃない。家族も、家も……みんな壊された」
その声は、擦れた薪のように脆く、胸を刺すほど切実だった。
お蝶はゆるりと立ち上がり、女将をまっすぐ見つめた。
「けれど……あたしらは、行かねばならぬ気がいたしんす」
女将の顔が驚愕に染まり、かぶりを振る。
「駄目だよ……! お願いだから、あの山には近づかないでおくれ……!
もう、誰にも……同じ思いは、させたくないんだよ……」
掠れたその叫びは、嗚咽にも似ていた。
お蝶は、女将の手をそっと取る。
「そのお気持ち、しかと受け止め申した……けれど、誰かが踏み出さなければ、春はいつまで経っても祟りのままどす」
その言葉に、女将は目を伏せ、もう何も言えなかった。
ただ、小さく震える肩が、長年抱えてきた痛みと恐怖を語っていた。
黒子は何も言わぬまま、静かにお蝶の隣に立つ。
その影はひとつ、凍てついた宿の灯火のなかに、深く揺れていた――
囲炉裏の火は細く揺れ、室内には湯の立つ音と、遠くから届く雪の気配だけがあった。
言葉は尽き、時間はどこか遠くを流れているようで、お蝶も黒子も、ただ静かに座していた。
やがて、湯釜の音にまぎれるように、女将がぽつりと問いかけた。
「……どうして、こんな村に?」
その声音は、あまりに素直だった。
長い会話の果てに、ようやく絞り出された本音。
春に祟られ、誰もが口を閉ざすこの村に、なぜ訪れたのか――。
お蝶はふと顔を上げ、その問いを正面から受け止めた。
静かに、花のように微笑む。
「……ただ、来てみとうなっただけでありんす」
言葉はあくまで淡々と、されどその奥には、揺るぎない意志と、消えることなき灯火が宿っていた。
表情に浮かぶのは、懐かしさにも似た柔らかな光と、心の奥底に沈む覚悟。
「春を迎えられるなら、きっと何かが変わる。……そう思えたんでありんす」
女将は、その言葉に目を伏せる。
長年の沈黙のなかで忘れかけていた、誰かの言葉のように、それは静かに彼女の心に届いた。
やがて、微かに笑むような、けれど笑いには至らぬ声で女将が呟く。
「……変わる、ねぇ……」
それは嘆きにも似た響き。
けれどお蝶は、まっすぐに、かすかに目を細めて言葉を返す。
「ええ、きっと変わりんす。……変えねばならぬ、と、わちきは信じておりんす」
その一言に宿るのは、過去と未来の狭間に立つ者の覚悟。
ただ希望を語るだけではない、踏み込んだ者にしか帯び得ぬ確かな強さ。
女将は小さく息を呑み、深く目を閉じた。
その傍らで、黒子は動かない。
ただ静かに、その空間すべてを見守っていた。
彼の沈黙は、言葉よりも雄弁に、相棒の決意と、これから訪れる闇を見据えていた。
雪は止む気配なく、宿の外に降り積もる。
けれど、部屋の中には――
春を呼ぶ者の、静かな光が、確かにあった。