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夜桜お蝶 艶劇乱舞「怪」  作者: 秋月瑛
黄泉の夏
15/22

【二之幕:供花の谷】01

 その夜――

 お蝶と黒子は、篝火村の外れに佇む一軒の古宿へと身を寄せた。


 道中、雪は途切れることなく降り続き、村の家々を覆う白は、かつての時を沈める棺のようであった。

 その中で、この宿だけが奇妙に灯りを保っていたのは、かつてこの村が栄えていた名残であろうか。

 だが、今や誰が住まい、誰を迎えているのか――その影すら見えぬ。


 宿の門口に立ち止まり、お蝶は木造の佇まいをじっと見つめる。

 屋根には厚く雪が積もり、柱には長年の風雪に晒された色褪せと亀裂が刻まれていた。

 白粉の下の面に薄く影を宿し、そっと呟く。


「……なんやろなぁ。ここもまた、何ぞ……抱えとるような匂いがいたしますわ」


 背後から吹き抜ける風が、朱の振袖を揺らし、どこか懐かしい雪の匂いを連れてくる。

 その匂いは、まるで“過去”の衣の裾を引くようであった。


 ぎぃ――


 木戸を開けた音が、静寂を裂く。

 灯籠に照らされた薄明かりが、二人を迎え入れる。

 室内は簡素にして古びており、帳場の影には誰の気配も感じられない。

 それでも火は絶えておらず、まるで“主なきまま、役目だけが残された”ような風情があった。


 「誰ぞが待っていたような……それでいて、もう随分と、待たれてへんような……そんな空気やねぇ」


 お蝶はそう囁くと、ゆるりと歩みを進め、奥の間へと踏み入る。

 調度は古び、炉には微かな灰の残り香。

 壁に掛けられた古絵図は色を失い、誰が描いたとも知れぬ風景が虚空を見つめていた。


 黒子は黙して従い、葛籠を部屋の隅に下ろすと、扉の脇へと控える。

 彼の沈黙は、この宿の気配と同化するように静かで、だが確かに、“何か”を警戒していた。


 お蝶は、炉の傍らに膝をつき、少し息を吐く。

 そしてゆるりと立ち上がり、窓辺へ向かうと、降りしきる雪を見やった。


 「……今宵は、何かが、目覚めそうでなりませぬ」


 その声には、艶も余裕もなく、ただ静かな覚悟がこもっていた。


 かつての“こはる”の名、骸花の咲く野での異形、断たれた神楽の伝承。

 すべてが雪の下に埋もれているのではなく、まだ眠っているにすぎぬのだ。

 それを掘り起こすには、ここに宿る“過去”を知らねばならぬ――。


 お蝶は窓に手を触れる。冷たい硝子が、掌を通して心に伝う。


 「……きっと、春は来る。けれど、ただの春じゃない――誰かの痛みを越えてこそ、咲く春や」


 その囁きは、自身に向けた誓いのようでもあり、闇の向こうの誰かへ届く祈りのようでもあった。


 静けさが、再び部屋を満たす。

 雪は止まぬまま、夜は深まってゆく。

 篝火村の沈黙の奥、何かが、目を覚まそうとしていた。


 ――静寂の宿に、灯がひとつ、ほのかに揺れていた。


 湯気の立ちのぼる湯釜のそば、藍染の薄衣をまとった女将がひとり、黙々と手を動かしていた。

 その背は骨ばり、痩せ細り、灯火が照らすその姿はまるで“影”のよう。

 頬はこけ、目元は落ち窪み、言葉少なに長い時を沈黙と共に過ごしてきたことが、ひと目で知れた。


 その手が、何かを炊く音と、わずかに湿った木の軋みだけが、しんしんと降る雪の夜に響いていた。


 戸が控えめに開かれ、お蝶と黒子がその場へ足を踏み入れたとき、女将はその気配にようやく気づいたように、わずかに肩を震わせた。


 けれど、言葉はない。

 ただ静かに、機械仕掛けの人形のように身を起こし、膳の支度へと移る。

 ひとつ、ひとつ――無駄のない所作。

 だがその背からは、どこか“怯え”に似た気配が滲み出ていた。


 まるで、過去に焼き付けられた何かを忘れられず、なお今を生きることにためらっているような……。


 お蝶は、その様を静かに見つめていた。

 そして、そっと口を開く。


「……お心遣い、かたじけのうござんす」


 優しく、相手を傷つけぬよう、あくまで丁寧に。

 その声音には、花魁としての艶を抑え、ひとの心を探る繊細な響きが込められていた。


 女将はゆるりと顔を上げる。

 その瞳は虚ろで、まるで別の時代、別の場所を見ているかのようだった。


 「……遠方より……お越しで……ござんすな」


 かすれた声。

 音の一つひとつが、石を吐き出すように重たい。

 その口元は動いても、心までは決して届いていない。

 それでも、礼だけは形式として口にするあたりに、かつての“女将”の面影が残っていた。


 しかしそれ以上は、何も語られなかった。


 手元に戻った女将の指は、なおも器を拭い続ける。

 まるで、時を戻そうとでもするかのように――。


 お蝶は微笑を浮かべ、ほんの少し身を傾けて言葉を継ぐ。


「ええ、少しばかり道のりが長ゅうござんした。けんど……こちらのお宿、静かで風情がござんすねぇ」


 まるで、何気ない旅人の世間話のように。

 だが、その言葉には探るような糸がひそんでいた。

 この女将の沈黙の奥――それが、篝火村に積もる“過去”とつながっている気がしてならなかったのだ。


 黒子は一歩下がった位置で黙して立ち、何も言わず。

 その沈黙すら、この場の一部となる。


 ふと、女将が小さく首を傾けた。

 だが、視線はやはりお蝶を見てはいない。

 代わりに、どこか遠い記憶の中にある“誰か”の姿を、心の内に浮かべているようだった。


 ――この宿もまた、なにかを喪ったのだ。


 お蝶は静かに膳の前に座り、黙してその沈黙に寄り添った。

 言葉は、焦らずともよい。


 雪はなお降り続けている。

 その白さが、すべてを隠すように村を包みながら、明かされぬ記憶をそっと照らしていた。


 膳の並ぶ音が、静けさの中に微かに響く。


 灯の光は淡く、座敷の壁に揺れる影を映し出していた。

 その中で、女将は黙々と動いていた。

 まるで“何か”を振り払うように、無言のまま器を置き、布巾で端を拭い続ける。


 お蝶はその姿を見つめながら、膝を正す。

 膳の香りは慎ましく、だがどこか胸の奥を締めつけるような、哀しみを帯びていた。


 言葉は、そっと、やさしく――。


「ようこそと仰ってくれたこと、嬉しゅうござんす。……けんど、この宿の空気は、どこか、よう哀しゅうて……」


 その声には、氷解を促すような、ゆるやかな熱がこもっていた。


 女将は応えることなく、ただ器を並べる手を止めぬ。

 それでも――

 沈黙の奥で、何かが少しだけ軋んだような気配があった。


 やがて、膳をすべて並べ終えたそのとき。


 女将の手がふと止まり、ゆっくりとした動作で、炉の側に腰を落とす。


 そして、ぽつりと、呟いた。


「……春が来るたびに、娘がひとり、消えるのです」


 その言葉は、まるで宿の空気ごと凍らせるかのように、張りつめていた。


 お蝶は一瞬、息を呑んだが、すぐに視線を落とし、慎重に言葉を選ぶ。


「それは……何者かが、娘御たちを攫うのでござんすか?」


 声は穏やかでありながら、核心に踏み込む鋭さを含んでいた。


 女将の背がわずかに揺れ、震える指先が膝の上で絡んだ。


「……“春を呑む鬼”がいると申します。むかしから、あの山に……」


 その言葉の響きは、もはや迷信や噂の域を越えていた。

 まるで幾度となく耳にし、そして幾度となく失ってきた者の声。


「けど……その名を口にすれば、祟りがある。……だから皆、黙って祈るしか……」


 女将は顔を伏せる。

 目は見えずとも、その瞼の奥にどれだけの涙が閉じ込められているか――お蝶には、わかった。


 しばしの沈黙ののち、お蝶がそっと言葉を継いだ。


「……あの祭壇。やっぱり、ただの飾りやない……誰ぞの無事を祈るための、もんでござんしたか」


 真実を探る言葉でありながら、それはあえて“知らぬふり”をした優しい嘘。

 けれど、その嘘に女将の手が止まり、かすかに背を向けたまま声を落とす。


「……何も……求めてはおりません。ただ……祈ることしか……それしか、出来ないのです」


 それはあまりにも静かで、あまりにも深い声。

 春を喪い、娘を喪い、時を喪った者だけが辿り着ける声だった。


 そしてその夜、お蝶はふたたび、炎の揺らぎの中に沈む女将を見つめながら、ひとつの決意を深めた。


「……なら、うちらが確かめてみせましょう。春が、なぜ喰われるのか。誰が喰うのか……そして、あの娘が、今どこにいるのかを」


 女将は何も答えなかった。

 ただ、静かに炉の灰がぱちりと弾けた音だけが、部屋の隅に転がっていった――。


 宿の囲炉裏には、ぱちりと小さな火が灯っていた。

 湯気の立つ釜の音だけが静寂を刻む中、女将は薄くなった唇を震わせていた。


「……昔、この村には“鬼”に抗おうとした者たちもおりました」


 ぽつりと漏れた言葉は、まるで凍てつく夜に灯された松明のように、部屋の空気を一瞬で変える。


 お蝶は、静かに息を詰めた。


 女将はしばし言葉を探すように目を伏せ、そして吐息のように続けた。


「……けれど、みな……」


 言葉はそこで途切れ、彼女は深く息を吸い込んだ。

 まるで、胸の奥底から沈んだ想いを掘り起こすように。


「みな、より大きな祟りを招いたのです」


 その一言は重く、まるで石を投げ込んだかのように、場の静けさを波立たせた。

 お蝶と黒子は言葉を交わさず、ただその声に耳を澄ます。


 女将は続ける。


「だから今では、誰も口にせず、誰も抗おうとはしません。そうするより他、ないのです……」


 それは諦念ではなく、恐怖そのものだった。


 お蝶は目を細め、あえて低く、静かな声で尋ねた。


「……春が来るたび、娘が消える。いったい、何がその春とともに現れるのでござんしょう」


 女将は答えず、小さく首を振るばかり。


「それは、わかりません。ただ、春になると、何かが村を訪れる……皆、それを“鬼”と呼ぶしかないのです」


 まるで、名を与えることでしかその存在に形を与えられぬかのように。

 その語り口には、伝承にすがるしか術のなかった人々の切実さが滲んでいた。


 お蝶は俯きかけた面を上げ、虚空へ目を向けた。


「鬼が……春を呑む……」


 それはただの言葉ではない。

 目の前で語られた記録であり、現在進行形の祟りである。


 村の者たちは、抗わず、忘れず、ただ耐え忍ぶ。

 春がもたらすのは、温もりではなく喪失。

 その季節をただ、恐怖とともに待つしかないのだ。


 黒子の瞳が、じっと女将を見つめる。

 彼の目は、冷ややかでありながらも、観察の鋭さを光らせていた。

 恐怖の正体を、決して逸らさぬ姿勢がそこにあった。


 お蝶は、女将の前に膝を寄せる。


「……その鬼とやら、いまだ山の奥に棲みついておる、ちゅうことでありんすかえ?」


 女将は顔をこわばらせながら、恐る恐る頷いた。


「そうさねぇ……。山のもっと奥深く、人が近づかぬ場所があってね、昔からそこには“鬼”が住んでるって言い伝えがあるんだよ。けれど、誰も確かめに行った者はいない……皆、戻らないから」


 その言葉には、古の封印のような重みがあった。

 “誰も戻らない”――それが、すべてを物語っていた。


 お蝶はしばらく沈黙したまま、女将の顔をじっと見つめていた。


 やがて、ぽつりと呟く。


「鬼が……春を喰う、てわけでありんすねぇ……」


 その言葉は、ただの問いではなく、問いかけに名を借りた覚悟のようでもあった。


 女将はもう、それに応えることはなかった。

 ただ俯いたまま、火の揺らぎのなかに、その身を溶かしてゆくようだった。


 窓の外では、静かに雪が降り積もっていた。

 その白さはあまりに静かで、まるで過去の罪を塗り隠そうとするかのように。


 囲炉裏の火は細く灯り、湯釜の音がかすかに響く。

 雪の降りしきる夜の静けさの中で、女将は膝に置いた手をぎゅっと握り締めた。


「どんな鬼かは……わからないんだよ」


 言葉の端が震え、吐息のように洩れたその声には、長年胸に押し込めてきた恐怖と諦めが滲んでいた。


「ただね、春になるたびに、娘がひとり、またひとりと消える。……もう、何十年も、ずっと」


 お蝶は思わず身を乗り出し、低く問い返す。


「何十年も、でありんすか……?」


 女将はゆっくりと頷いた。


「最初の年は、ただの不幸だと……誰もがそう思った。でも、次の春も、その次も。毎年、春が来れば娘がいなくなる。……皆、分かってるのさ。鬼の仕業だって。でも声を上げる者は……もう、誰もいない」


 その声音には、深い無力感が宿っていた。

 言葉のひとつひとつが、名もなき娘たちの命を弔うかのように、重く沈んでいく。


 しばしの静寂。

 雪の音さえ遠のいたような静けさが、部屋を包む。


 女将は目を伏せたまま、ぽつりと続ける。


「“春を呑む鬼”と呼ばれておるよ。……あれは春とともに現れ、骸花を咲かせ、命を喰らう者だって……そう言い伝えられてきた」


 お蝶はそっと目を細めた。


「骸花……」

 それは、魂が春へと昇華する花。

 命の終わりが生み出す、優しき終焉の象徴のはず――


 それを喰らうというのか。


 女将の声は、ますます低くなった。


「誰も鬼の姿を見たわけじゃない。でもね……春が近づくと、あの山の方から何かが来る気配がするの。何か、大きな、得体の知れないものが……」


「山に入っちゃいけない。昔、それに抗おうとした者がいたけど……皆、祟りを受けたの。娘だけじゃない。家族も、家も……みんな壊された」


 その声は、擦れた薪のように脆く、胸を刺すほど切実だった。


 お蝶はゆるりと立ち上がり、女将をまっすぐ見つめた。


「けれど……あたしらは、行かねばならぬ気がいたしんす」


 女将の顔が驚愕に染まり、かぶりを振る。


「駄目だよ……! お願いだから、あの山には近づかないでおくれ……!

 もう、誰にも……同じ思いは、させたくないんだよ……」


 掠れたその叫びは、嗚咽にも似ていた。


 お蝶は、女将の手をそっと取る。


「そのお気持ち、しかと受け止め申した……けれど、誰かが踏み出さなければ、春はいつまで経っても祟りのままどす」


 その言葉に、女将は目を伏せ、もう何も言えなかった。

 ただ、小さく震える肩が、長年抱えてきた痛みと恐怖を語っていた。


 黒子は何も言わぬまま、静かにお蝶の隣に立つ。

 その影はひとつ、凍てついた宿の灯火のなかに、深く揺れていた――


 囲炉裏の火は細く揺れ、室内には湯の立つ音と、遠くから届く雪の気配だけがあった。

 言葉は尽き、時間はどこか遠くを流れているようで、お蝶も黒子も、ただ静かに座していた。


 やがて、湯釜の音にまぎれるように、女将がぽつりと問いかけた。


「……どうして、こんな村に?」


 その声音は、あまりに素直だった。

 長い会話の果てに、ようやく絞り出された本音。

 春に祟られ、誰もが口を閉ざすこの村に、なぜ訪れたのか――。


 お蝶はふと顔を上げ、その問いを正面から受け止めた。

 静かに、花のように微笑む。


「……ただ、来てみとうなっただけでありんす」


 言葉はあくまで淡々と、されどその奥には、揺るぎない意志と、消えることなき灯火が宿っていた。

 表情に浮かぶのは、懐かしさにも似た柔らかな光と、心の奥底に沈む覚悟。


「春を迎えられるなら、きっと何かが変わる。……そう思えたんでありんす」


 女将は、その言葉に目を伏せる。

 長年の沈黙のなかで忘れかけていた、誰かの言葉のように、それは静かに彼女の心に届いた。


 やがて、微かに笑むような、けれど笑いには至らぬ声で女将が呟く。


「……変わる、ねぇ……」


 それは嘆きにも似た響き。

 けれどお蝶は、まっすぐに、かすかに目を細めて言葉を返す。


「ええ、きっと変わりんす。……変えねばならぬ、と、わちきは信じておりんす」


 その一言に宿るのは、過去と未来の狭間に立つ者の覚悟。

 ただ希望を語るだけではない、踏み込んだ者にしか帯び得ぬ確かな強さ。


 女将は小さく息を呑み、深く目を閉じた。


 その傍らで、黒子は動かない。

 ただ静かに、その空間すべてを見守っていた。

 彼の沈黙は、言葉よりも雄弁に、相棒の決意と、これから訪れる闇を見据えていた。


 雪は止む気配なく、宿の外に降り積もる。


 けれど、部屋の中には――


 春を呼ぶ者の、静かな光が、確かにあった。

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