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夜桜お蝶 艶劇乱舞「怪」  作者: 秋月瑛
黄泉の夏
14/22

【一之幕:春告げの夢】03

風哭きの社からの帰路――

お蝶と黒子は、社の裏手に続く獣道のような細い小道を見つけた。


地図にも載らぬその道は、雪に埋もれながらも、かすかに踏み跡が続いている。

まるで何者かがかつて通った記憶だけが、道の形を保ち続けているかのようだった。


「……こっち、誰かが通った形跡がありやすねぇ」


お蝶の声に、黒子は無言で頷き、影のように続く。


やがて、木立を抜けた先に、空が開けた。


そこは、吹きさらしの野であった。

雪原の中に突如として現れたその空間に、風の音が静かに吸い込まれる。だが、それ以上に目を引いたのは――


「花……?」


冷たい霧のなか、ひとつ、またひとつと、赤紫の花が開いてゆく。

その花弁は曼珠沙華にも似ていながら、より妖しく、より艶やかにして、どこかえんを孕んだ艶花。

常の陽のもとでは決して咲かぬ――命が絶え、魂が彷徨い、祈りにも届かぬ未練が、地を這うようにして昇華され、ひとつの“形”となったもの。


――骸花。


花弁は厚く、絹のような光沢を帯び、濡れたような艶をたたえて夜露に輝く。

中心には緋のように濃い黒紫の芯が脈打ち、まるで心臓のように脈動していた。

その周囲を、触手のように螺旋を描いて伸びる花柱が取り巻き、風にそよぐたび、誰かの声を吸い上げるかのように微かに震える。

咲く音さえ聞こえるような錯覚に陥るほど、花々はひとつの意思を持ったかのように呼応し、共鳴していた。


そして――そこは骸花の群生地。

山あいの谷間、忘れられた神域の奥深く。

人が踏み入ることも許されぬ、死者の夢の終わりにのみ拓かれる骸の野。


「……これは、ただの花畑やないわ」


一面に咲き乱れる骸花の群れは、まるで朱と紫の海。


「返して」「ここにいるの」「まだ……終わらない」

風にのって、誰のものとも知れぬ声が、耳の奥に染み込む。


月の光が届かぬ闇夜にあっても、骸花は自ら仄かな光を放ち、薄紅と紫の幻灯のように辺りを照らしていた。

それは神聖というにはあまりに妖しく、忌まわしいというにはあまりに美しい。

まさに“呪い”と“祈り”の狭間に咲く、禁断の華。


その中央――ただ一輪、白銀に染まった骸花が咲いていた。

まるで誰かの魂が、清められ、昇華され、最期の祈りとして咲いたかのように。


なぜ骸花は咲くのか?


ここは、命が終わり、想いが咲く場所。


お蝶が一歩踏み出すと同時に、風が凍るような音を立てて止まる。空気が変わった。何かが、ここに在る――。


突如として、地を這う呻き声が耳に届く。数知れぬ女たちの悲鳴、痛み、怒り、哀しみ……言葉にならぬ魂の叫びが空気を満たす。


風が鳴いていた。

それはただの山風ではなかった。

吹きすさぶ音のなかに、確かに――声が混じっていた。


「……かえして……おかあ……さん……」


微かな囁きが、木々の枝を震わせる。

風にのって流れる声は、まるで森そのものが泣いているような調べを孕み、耳の奥にじわりと沁み込んでくる。


「……あたし、まだ……生きたかった……」


それはひとりの少女の声。

いや、ひとりではない。

ふたり、みたり、十人、百人――

どれも名もなく、顔もなく、ただ悲鳴だけが重なり合い、山全体を軋ませるようにして木霊していた。


「やだ……いや……いたい……いたい、いたい……っ」


嬲られ、切り裂かれ、血を滴らせながらも声にならぬ呻きを上げた娘たち。

その叫びは骸花の根を這い、瘴気となって吹き上がり、やがて風と化す。

耳を塞ごうにも無駄なこと。

声は風に紛れ、脳裏に直接流れ込む。

そのひとつひとつが、痛みと絶望に満ちていた。


「……おねえちゃん……わたし……こわいよ……」


「どうして……どうして、わたしなの……?」


「みんな、いなくなる……次は……あたし……?」


祈りにも似たその声は、けれど決して救われることなく、永遠に同じ言葉を繰り返す。

風が鳴くたび、骸花が揺れる。

その揺らめきは、まるで花自身が呻いているようであった。


「……かえして……この身体、かえして……!」


「あたし……まだ、春を見てないの……っ」


その叫びは、かつて社に捧げられ、封じられ、忘れられた者たちの記憶。

誰にも届かず、祈りの場も与えられぬまま、供物とされ、ただ“春を呼ぶため”に屠られた少女たちの魂。


「うそつき……神さま、うそつき……!」


風が凪いだ刹那――

一瞬だけ、誰かの笑い声が、耳元で嗤った。


それは幼子のような、無垢な声色。

けれど、あまりに冷たく、あまりに壊れていた。


骸花の野に吹く風は、春の便りなどではなかった。

それは、過去の罪を吹き起こす“風哭き”――

語られぬ犠牲の呻きであり、決して鎮まりきらぬ怨嗟の連なりであった。


そして、声は次第に一つに重なっていく。


「――かえして……命を……春を……わたしの、生を……」


その声が、風となって、夜を裂いた。


 骸花の咲き乱れる野――そこはもはや現世ならぬ、黄泉の入り口であった。


 夜の帳が下り、月の光すら届かぬ闇の中、花々は風もないのに揺れていた。


 花弁は艶やかに濡れ、黒紫の色は血のごとく深く、妖艶に輝いている。


 その根元より、這い出すようにして湧き上がる瘴気――それは、闇色に咲いた骸花が呼び覚ました、犠牲となった少女たちの怨念であった。


 しん……と、空気が沈む。


 と、次の瞬間――


「かえして……」


「いたいの……」


「おかあ、さ……」


 風のような囁きが、耳の奥をなぞる。


「……ッ!」


 お蝶の肩が微かに揺れた。


 その声は、耳に響くのではない。

 魂を軋ませるように、心の底へ染み込んでくる。

 足元の骸花が一斉に呻き、無数の赤紫の花弁が空へと舞い上がった――


 瘴気が渦を巻き、空間がねじれる。


 やがて、そこから“それ”は現れた。

 少女たちの断末魔を縫い合わせたような、異形の存在。

 顔はなく、あるいは複数の顔が蠢いている。

 細く白い腕が何本もぶらさがり、全身は血に濡れた喪服のような布で包まれていた。


 その姿に、お蝶は薄く笑みを浮かべた。


「ふふ……おぞましくも、ようできた姿だねぇ」


 かんざしを抜き放ち、右手に妖糸を絡ませる。

 紅と黒の衣が風になびき、花の海のなかに一輪の艶が咲いた。


「来な――“春を食らう怨み”ども」


 次の瞬間、異形の群れが一斉に蠢いた。

 瘴気をまとった無数の腕が、お蝶に向かって襲いかかる!


 ひゅっ、と風を斬って妖糸が走る。

 一本、二本、十本――空間を操るような精妙な糸が、怨念の化身たちの首筋や関節に絡みつき、軌道を歪めて投げ飛ばす。


 ごぼ、と黒い体液を撒き散らし、ひとつが爆ぜる。


「甘いねぇ――あたしは花魁、けれど舞うだけじゃありゃしないよ」


 続けざまに投げ放たれるかんざしが、まるで流星のごとく夜を裂き、骸の腕を切り裂いていく。

 金属の閃きが花弁を散らし、血飛沫の代わりに魂の残響が弾ける。


「やめてぇぇぇぇええええ!!」


「いたい……いやぁぁああッ!!」


 声が風となり、周囲を渦巻く。


 その叫びは、まるで攻撃そのもの。

 脳を焼くような圧力が襲いかかるも、お蝶は一歩も退かぬ。


「泣くのは、ようござんす。けどね……それは生きてる娘の特権さ。あんたたちにはもう、涙を流す目もないじゃないかい――!」


 お蝶は地を蹴り、舞う。

 艶やかな着物が翻り、まるで空を斬るように妖糸が閃く。

 複数の化け物の脚を絡め取ったかと思えば、天井を貫く勢いでそのまま引き裂く!


 ズドンッ!


 地響きと共に、骸花の根が裂け、怨念が悲鳴を上げる。


 「みんな……みんな、ころされた……わたしも……ッ!」


 嗚咽が空に満ちる中で、お蝶は息一つ乱さぬまま、正面を見据えて言い放った。


「そんなに悔しいなら……自分の声で訴えてごらんな。人に喰らわれるためじゃない。あんたたちは、“生きてた”んだろう?」


 一瞬、風が止む。


 そして、最も大きな化身――まるで少女の姿を象った巨大な影が、ゆるりとお蝶に向かって這い寄る。


 お蝶はその真ん前に立ち、かんざしを掲げた。


「やはり、説得は無理でありんすか」


 糸が一閃。


 骸花の花畑が、咆哮とともに震えた。


 お蝶の動きは、艶やかでありながら殺意に満ちていた。

 蹴り、打ち、妖糸で縛り、かんざしで穿つ。

 だが、異形は切っても、斬っても、呻きながら再生を繰り返す。


 お蝶の背に月が昇り、無数の花弁が雪のように舞い落ちる。


 その花一枚一枚が、誰かの名残であり、誰かの涙であった。


 黒子は背の葛籠をそっと地に下ろし、雪に座したまま動かない。

 影のように、ただお蝶を見つめている。


 徐々にお蝶が押されはじめた。

 されど、黒子は未だ動かず。


 苦戦――否、そうではない。


 お蝶は知っていた。

 この異形は“敵”ではない。

 ただ、滅ぼすべき存在ではない。

 苦しみに囚われた魂の寄せ集め。


 黒子は未だ動かない。

 ここで葛籠を開けば、〈闇〉の力で消し飛ばすことはたやすい。


 されど、それは成仏ではない。

 永劫に苦しませるだけの、力による強制だ。


「あたいじゃ、まだ……あの子らを救えない」


お蝶の声が震える。

妖糸が異形に絡みつき、だが切る手は止められた。


魂を、穢れを、癒す力が、今の自分には足りない。

祈りでは届かない。

悼む心だけでは、救えない。


その刹那、異形の呻きが空を割り、骸花の花弁が散る。


「引くよ――」


お蝶は衣を翻し、黒子に退却の合図を送った。


黒子は何も言わず、葛籠を背負い直すと、お蝶の後を追う。


ふたりは再び森の闇へと姿を消す。

骸花の花畑には、ただ赤き花弁と、消えぬ嗚咽の気配だけが、いつまでも揺れていた。


――次こそは、この魂たちを、春へと還すために。

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