【一之幕:春告げの夢】03
風哭きの社からの帰路――
お蝶と黒子は、社の裏手に続く獣道のような細い小道を見つけた。
地図にも載らぬその道は、雪に埋もれながらも、かすかに踏み跡が続いている。
まるで何者かがかつて通った記憶だけが、道の形を保ち続けているかのようだった。
「……こっち、誰かが通った形跡がありやすねぇ」
お蝶の声に、黒子は無言で頷き、影のように続く。
やがて、木立を抜けた先に、空が開けた。
そこは、吹きさらしの野であった。
雪原の中に突如として現れたその空間に、風の音が静かに吸い込まれる。だが、それ以上に目を引いたのは――
「花……?」
冷たい霧のなか、ひとつ、またひとつと、赤紫の花が開いてゆく。
その花弁は曼珠沙華にも似ていながら、より妖しく、より艶やかにして、どこか艶を孕んだ艶花。
常の陽のもとでは決して咲かぬ――命が絶え、魂が彷徨い、祈りにも届かぬ未練が、地を這うようにして昇華され、ひとつの“形”となったもの。
――骸花。
花弁は厚く、絹のような光沢を帯び、濡れたような艶をたたえて夜露に輝く。
中心には緋のように濃い黒紫の芯が脈打ち、まるで心臓のように脈動していた。
その周囲を、触手のように螺旋を描いて伸びる花柱が取り巻き、風にそよぐたび、誰かの声を吸い上げるかのように微かに震える。
咲く音さえ聞こえるような錯覚に陥るほど、花々はひとつの意思を持ったかのように呼応し、共鳴していた。
そして――そこは骸花の群生地。
山あいの谷間、忘れられた神域の奥深く。
人が踏み入ることも許されぬ、死者の夢の終わりにのみ拓かれる骸の野。
「……これは、ただの花畑やないわ」
一面に咲き乱れる骸花の群れは、まるで朱と紫の海。
「返して」「ここにいるの」「まだ……終わらない」
風にのって、誰のものとも知れぬ声が、耳の奥に染み込む。
月の光が届かぬ闇夜にあっても、骸花は自ら仄かな光を放ち、薄紅と紫の幻灯のように辺りを照らしていた。
それは神聖というにはあまりに妖しく、忌まわしいというにはあまりに美しい。
まさに“呪い”と“祈り”の狭間に咲く、禁断の華。
その中央――ただ一輪、白銀に染まった骸花が咲いていた。
まるで誰かの魂が、清められ、昇華され、最期の祈りとして咲いたかのように。
なぜ骸花は咲くのか?
ここは、命が終わり、想いが咲く場所。
お蝶が一歩踏み出すと同時に、風が凍るような音を立てて止まる。空気が変わった。何かが、ここに在る――。
突如として、地を這う呻き声が耳に届く。数知れぬ女たちの悲鳴、痛み、怒り、哀しみ……言葉にならぬ魂の叫びが空気を満たす。
風が鳴いていた。
それはただの山風ではなかった。
吹きすさぶ音のなかに、確かに――声が混じっていた。
「……かえして……おかあ……さん……」
微かな囁きが、木々の枝を震わせる。
風にのって流れる声は、まるで森そのものが泣いているような調べを孕み、耳の奥にじわりと沁み込んでくる。
「……あたし、まだ……生きたかった……」
それはひとりの少女の声。
いや、ひとりではない。
ふたり、みたり、十人、百人――
どれも名もなく、顔もなく、ただ悲鳴だけが重なり合い、山全体を軋ませるようにして木霊していた。
「やだ……いや……いたい……いたい、いたい……っ」
嬲られ、切り裂かれ、血を滴らせながらも声にならぬ呻きを上げた娘たち。
その叫びは骸花の根を這い、瘴気となって吹き上がり、やがて風と化す。
耳を塞ごうにも無駄なこと。
声は風に紛れ、脳裏に直接流れ込む。
そのひとつひとつが、痛みと絶望に満ちていた。
「……おねえちゃん……わたし……こわいよ……」
「どうして……どうして、わたしなの……?」
「みんな、いなくなる……次は……あたし……?」
祈りにも似たその声は、けれど決して救われることなく、永遠に同じ言葉を繰り返す。
風が鳴くたび、骸花が揺れる。
その揺らめきは、まるで花自身が呻いているようであった。
「……かえして……この身体、かえして……!」
「あたし……まだ、春を見てないの……っ」
その叫びは、かつて社に捧げられ、封じられ、忘れられた者たちの記憶。
誰にも届かず、祈りの場も与えられぬまま、供物とされ、ただ“春を呼ぶため”に屠られた少女たちの魂。
「うそつき……神さま、うそつき……!」
風が凪いだ刹那――
一瞬だけ、誰かの笑い声が、耳元で嗤った。
それは幼子のような、無垢な声色。
けれど、あまりに冷たく、あまりに壊れていた。
骸花の野に吹く風は、春の便りなどではなかった。
それは、過去の罪を吹き起こす“風哭き”――
語られぬ犠牲の呻きであり、決して鎮まりきらぬ怨嗟の連なりであった。
そして、声は次第に一つに重なっていく。
「――かえして……命を……春を……わたしの、生を……」
その声が、風となって、夜を裂いた。
骸花の咲き乱れる野――そこはもはや現世ならぬ、黄泉の入り口であった。
夜の帳が下り、月の光すら届かぬ闇の中、花々は風もないのに揺れていた。
花弁は艶やかに濡れ、黒紫の色は血のごとく深く、妖艶に輝いている。
その根元より、這い出すようにして湧き上がる瘴気――それは、闇色に咲いた骸花が呼び覚ました、犠牲となった少女たちの怨念であった。
しん……と、空気が沈む。
と、次の瞬間――
「かえして……」
「いたいの……」
「おかあ、さ……」
風のような囁きが、耳の奥をなぞる。
「……ッ!」
お蝶の肩が微かに揺れた。
その声は、耳に響くのではない。
魂を軋ませるように、心の底へ染み込んでくる。
足元の骸花が一斉に呻き、無数の赤紫の花弁が空へと舞い上がった――
瘴気が渦を巻き、空間がねじれる。
やがて、そこから“それ”は現れた。
少女たちの断末魔を縫い合わせたような、異形の存在。
顔はなく、あるいは複数の顔が蠢いている。
細く白い腕が何本もぶらさがり、全身は血に濡れた喪服のような布で包まれていた。
その姿に、お蝶は薄く笑みを浮かべた。
「ふふ……おぞましくも、ようできた姿だねぇ」
かんざしを抜き放ち、右手に妖糸を絡ませる。
紅と黒の衣が風になびき、花の海のなかに一輪の艶が咲いた。
「来な――“春を食らう怨み”ども」
次の瞬間、異形の群れが一斉に蠢いた。
瘴気をまとった無数の腕が、お蝶に向かって襲いかかる!
ひゅっ、と風を斬って妖糸が走る。
一本、二本、十本――空間を操るような精妙な糸が、怨念の化身たちの首筋や関節に絡みつき、軌道を歪めて投げ飛ばす。
ごぼ、と黒い体液を撒き散らし、ひとつが爆ぜる。
「甘いねぇ――あたしは花魁、けれど舞うだけじゃありゃしないよ」
続けざまに投げ放たれるかんざしが、まるで流星のごとく夜を裂き、骸の腕を切り裂いていく。
金属の閃きが花弁を散らし、血飛沫の代わりに魂の残響が弾ける。
「やめてぇぇぇぇええええ!!」
「いたい……いやぁぁああッ!!」
声が風となり、周囲を渦巻く。
その叫びは、まるで攻撃そのもの。
脳を焼くような圧力が襲いかかるも、お蝶は一歩も退かぬ。
「泣くのは、ようござんす。けどね……それは生きてる娘の特権さ。あんたたちにはもう、涙を流す目もないじゃないかい――!」
お蝶は地を蹴り、舞う。
艶やかな着物が翻り、まるで空を斬るように妖糸が閃く。
複数の化け物の脚を絡め取ったかと思えば、天井を貫く勢いでそのまま引き裂く!
ズドンッ!
地響きと共に、骸花の根が裂け、怨念が悲鳴を上げる。
「みんな……みんな、ころされた……わたしも……ッ!」
嗚咽が空に満ちる中で、お蝶は息一つ乱さぬまま、正面を見据えて言い放った。
「そんなに悔しいなら……自分の声で訴えてごらんな。人に喰らわれるためじゃない。あんたたちは、“生きてた”んだろう?」
一瞬、風が止む。
そして、最も大きな化身――まるで少女の姿を象った巨大な影が、ゆるりとお蝶に向かって這い寄る。
お蝶はその真ん前に立ち、かんざしを掲げた。
「やはり、説得は無理でありんすか」
糸が一閃。
骸花の花畑が、咆哮とともに震えた。
お蝶の動きは、艶やかでありながら殺意に満ちていた。
蹴り、打ち、妖糸で縛り、かんざしで穿つ。
だが、異形は切っても、斬っても、呻きながら再生を繰り返す。
お蝶の背に月が昇り、無数の花弁が雪のように舞い落ちる。
その花一枚一枚が、誰かの名残であり、誰かの涙であった。
黒子は背の葛籠をそっと地に下ろし、雪に座したまま動かない。
影のように、ただお蝶を見つめている。
徐々にお蝶が押されはじめた。
されど、黒子は未だ動かず。
苦戦――否、そうではない。
お蝶は知っていた。
この異形は“敵”ではない。
ただ、滅ぼすべき存在ではない。
苦しみに囚われた魂の寄せ集め。
黒子は未だ動かない。
ここで葛籠を開けば、〈闇〉の力で消し飛ばすことはたやすい。
されど、それは成仏ではない。
永劫に苦しませるだけの、力による強制だ。
「あたいじゃ、まだ……あの子らを救えない」
お蝶の声が震える。
妖糸が異形に絡みつき、だが切る手は止められた。
魂を、穢れを、癒す力が、今の自分には足りない。
祈りでは届かない。
悼む心だけでは、救えない。
その刹那、異形の呻きが空を割り、骸花の花弁が散る。
「引くよ――」
お蝶は衣を翻し、黒子に退却の合図を送った。
黒子は何も言わず、葛籠を背負い直すと、お蝶の後を追う。
ふたりは再び森の闇へと姿を消す。
骸花の花畑には、ただ赤き花弁と、消えぬ嗚咽の気配だけが、いつまでも揺れていた。
――次こそは、この魂たちを、春へと還すために。