【一之幕:春告げの夢】02
老婆の祈る声を背に残し、お蝶と黒子は静かにその家をあとにした。
外は相変わらずの雪景色。
しかし、村の空気には微かなざわめきが生まれ始めていた。
遠く、広場の方から響く太鼓の音。人々の声。仄かな香の煙が、吹雪の合間を縫って漂ってくる。
何やら、村では“祭り”の支度が始まっているようだった。
お蝶は黒子とともに坂を下り、集落の一角に設けられた広場を見下ろす。
そこには村人たちが集い、薪を組み、布を結び、何やら大きな櫓のようなものを準備していた。
「……春告げの、祀り……?」
耳にしたのは、ふたりの若者が交わす言葉だった。
「今年は、無事に春が来るだろうかのう」
「巫女さまさえおれば……ああ、こはる様……」
お蝶は目を細め、懐から白銀の糸を取り出すと、指先でそっと宙に浮かべた。
風に乗る糸は音を拾い、まるで糸電話のように、村人たちの声を耳元へと誘った。
――今年の巫女は、こはるだったらしい。
――でも、こはるはもう……春に連れていかれた。
――儀式を終えぬまま、骸花も咲かず……このままじゃ村が……。
お蝶は唇を引き結ぶ。
「……巫女、こはる……春に連れ去られた……?」
こはるの名を、村人たちは畏れと悲しみの混じった声で口にしていた。
どうやら“春告げの祀り”とは、この村に春を呼ぶための祭事。
それが、ある“巫女”の存在によって成立するというのだ。
――口寄せ神楽は、巫女に選ばれた者が舞うと決まっておる。
篝火村に春を告げる――その名も〈春告げの祀り〉。
しかしその由来も本義も、村人たちは頑なに語ろうとはしなかった。
言い伝えについて訊ねても、曖昧に笑っては話を逸らし、年寄りは目を伏せ、若い者は首を横に振るのみ。
あたかも、それを口にすれば災いを招くかのように。
ならば、とお蝶と黒子は村に残された古い石碑をあたった。
だが、石面に刻まれていたはずの文様は、まるで意図的に削り取られたように歪んでいた。
風化ではなく――誰かが、その伝承の記憶を封じようとしたのだ。
その沈黙こそが、この村を覆う“闇”の証。
「……よっぽど、知られたうない何かが、隠されてると見えますなぁ」
お蝶は唇に笑みを浮かべながらも、目には険しさを宿していた。
そこでふたりは、祀りの準備が行われている社――風哭きの社――へと夜陰に紛れ忍び込むことを決意する。
凍てつく空気のなか、雪を踏みしめながら辿り着いた社は、既に祀りの支度が整えられていた。
堂内には、巫女装束が整然と掛けられ、真新しい白の衣と緋の袴が淡く燈された灯明に照らされていた。
壁際には、神楽面とともに、精緻な装飾が施された鈴――神楽鈴が置かれている。
お蝶は、巫女装束にそっと手を添え、眉をひそめた。
「……これは、今年の巫女の衣……こはるが着るはずだったものでしょうねぇ」
その言葉に、黒子が無言で頷く。
お蝶は神楽鈴へと手を伸ばした瞬間、身体がぞくりと総毛立つような妖気に包まれるのを感じた。
鈴の中に、澱のように沈む――強い〈念〉が宿っていたのだ。
「……この鈴、ただの神具やない……〈記憶〉が、染み込んでやす」
お蝶は懐から一本の糸を取り出す。
それは彼女が自在に操る妖糸――魂に触れ、過去の“残留思念”を紡ぐ糸。
鈴に絡めたその糸がかすかに震え、鈴の内より“音”が立ち上がる。
その音は、耳ではなく魂に直接触れてくる囁き。
お蝶の瞳が閉じられ、そこに〈記憶〉が流れ込んできた。
刹那、景色が滲む。
――視界が、夜の広場へと変わっていた。
夜、村の広場に火が灯された。
風のない静けさのなか、焚かれた薪の煙が真っ直ぐ天へ昇る。
その中央に据えられた円形の舞台――古木で組まれた仮の舞台は、村に伝わる祈りの場。
村人たちは言葉少なに、しかし確かに集っていた。
誰もが、胸のどこかで怯えているのが、空気の張り詰めに滲んでいた。
そして、静かに始まる。
口寄せ神楽。
それは、巫女が舞を通して“魂”と“記憶”を結ぶ古き祈りの儀。
今は廃れ、かつての意味を知る者も少ない。
だがこの篝火村では、春を呼ぶ唯一の手段として、今も形ばかりが伝え残されている。
祭壇の前にひとりの少女が立つ。
薄紅の衣をまとい、瞳を伏せたまま。
それは去年のこと。
舞台に立っていたのは、こはるではなかった。
名も知れぬ少女。
まだ幼さを残した顔立ちに、無理に化粧を施されたその姿は、どこか痛々しさすら漂っていた。
少女の身体は小刻みに震え、それを隠すように舞を始める。
笛の音が始まる。
やがて太鼓が、それに応じて打たれる。
巫女の舞が始まる。
腕を広げ、指先をそっと空へ差し出す。
旋回するようにひとたび舞えば、衣の裾が夜風に揺れ、焚き火の火花が一陣の春嵐のように舞い上がる。
その舞には、はっきりとした型がある。
一度、死者の名を唱える。
次に、骸花を想う旋律が重なる。
最後に、鬼へと祈りを捧げる。
「春を喰らいし鬼よ」
「願わくば、我らが骸を咲かせよ」
「その花を喰らい、春を呼びたまえ」
お蝶は舞台の端、仄暗い影に立っていた。
艶やかな着物の袖に妖糸を纏わせ、まばたきもせず、ただ舞を見つめる。
耳元で、無数の声がささやく。
――巫女は、春を呼ぶのではなく……春に喰われる……
――骸花が咲けば……春が来る……巫女の命で……
お蝶は目を見開き、冷気のなかに静かに立ち尽くした。
「……やはり、そうだったかい」
お蝶の瞳は、遠く過去を見つめるように細められていた。
「この祀りは、供養なんかじゃない。……命を喰らわせるための“生贄の舞”だよ」
黒子が静かに影から身を寄せる。
彼の瞳もまた、舞台を見つめたまま動かない。
巫女の舞は最高潮へと達し、炎の揺らめきが天を焦がす。
だが、その“祈り”の先にあるのは――
希望か、絶望か。
「さすれば、こはるが……“春を迎える供物”として選ばれた、ちゅうことですかい」
しかし、こはるは祀りの前に姿を消した。
いったいどこへ消えたのか。
儀式の幕は下りぬ。
だが、真実の舞は、これから幕を上げる。
「さぁて……この神楽に込められた“真実”、次は舞で暴いてみましょうか」
お蝶の目が、わずかに潤んだように見えた。
その胸中にあるのは、あの娘の名。
――こはる。
春告げの神楽は、哀しき魂を呼び起こす。
静かに、静かに、春が近づいていた。
やがて、それは“鬼”をも目覚めさせる。
神に捧げるはずの舞が、いつしか“贄”を選ぶ儀式へと変わったのならば――
その歪みを見つけ出し、暴くのが、お蝶たちの役目である。
お蝶が神楽鈴を懐に収めると、
――そこはすでに現実だった。
「口寄せ神楽」
それは古き巫女が神に捧げたという舞であった。
魂の声を呼び、記憶と記憶をつなぐ儀式。
その舞の中で、骸花は咲き、鬼は現れ、春は訪れる――そう伝えられている。
しかし。
その伝承の奥には、どうやら大きな誤解が含まれているようだった。
現在の村の伝承では、「骸花」は冬の化身。
それを“春を呑む鬼”が食らうことで、ようやく春が訪れるという。
だが、実際には――
「……骸花は、人の命と想いが咲かせる、鎮魂の花」
お蝶はそっと呟いた。
「その花を穢す者がいるとすれば……それは“春を呑む鬼”のほうさ」
こはるが選ばれた。
巫女として。
その魂が、いまも村のどこかに囚われている。
お蝶は踵を返す。
雪がまた、静かに降り始めていた。
「黒子、急ごうか。あの娘を、春の中から――救い出さなければねぇ」