【一之幕:春告げの夢】01
きしり――と、雪が鳴いた。
ひと足、またひと足。踏みしめるごと、凍てつく白にしずくのような音が落ちる。
風の音すら凍る深山の路に、二つの影が、まるで幻のごとくゆるやかに進んでいた。
一つは、紅の振袖に黒羽織、白粉の面に艶を湛えた、花街の色香も凍りつくような女姿。
その歩みは、芝居でも踏んでいるかのように大仰に、されど優美にして艶やか。
振袖の裾が、雪に触れてはさらりと流れ、舞う雪さえも一瞬、ためらいを見せるように空へと消えてゆく。
艶姿の名は、お蝶。
世に名を知られた花魁――とは言うものの、ただの艶ではない。
その言の葉は、まるで台詞のように格調高く、歩みのひと振りにすら、操りの気配がどこかちらつく。
まるで、誰かの手が時折、背に触れているような、あるいは、言葉の奥に、何か別の者の声がひそんでいるような――。
その芸は人か神か、夢か幻か。
見る者の心が揺らいだその刹那には、もう次の姿が雪を滑ってゆく。
お蝶の歩みに寄り添うのは、一片の影。
黒き装束に身を包み、雪をも欺く無音の歩み。
すっぽりと頭巾をかぶり、顔かたちはおろか、性別すらもあいまい。
衣の裾は風をも裂かず、足音も雪に吸われて、まるで影が這うかのごとく静か。
名を黒子という。
言葉を口にすることはなく、ただ黙して、お蝶の影に従う。
その身からは、熱も声も感じられず、ましてや瞳の色も、その奥の思いも見えはしない。
ゆえにこそ、その沈黙がなおさら、底知れぬ意図をにじませる。
風のない坂を登るふたりの後ろに、ただ白き雪が静かに降り積もる。
それはまるで、二人の歩みが、時を断ち切る鎌となり、世界に裂け目を穿つようにも見えた。
ふと、お蝶が立ち止まり、天を見上げる。
「……あら、奇麗な花が咲いていやすよ」
小さく、微笑を含んだような声。
されど視線の先にあるのは、吹き溜まりに首をもたげた、ひとひらの赤き草――この季には花など咲かぬはず。
誰かを呼ぶような、誰かに応えるような、口寄せの舞が始まるのは、いつもこういう静けさの中。
この坂を越えた先に、春を呑む鬼がいる。
眠る里、凍れる夜、そのモノノケの名をまだ知らぬまま、ふたりの影は進む。
春まだ遠き雪の峠に、骸花ひとひら、咲いていた。
雪は、なおも止む気配を見せなかった。
峠を越え、なお深く分け入ったその先、ようやく白き帳の切れ間より、ひっそりと村の影が覗いた。
――篝火村。
地図にも名の載らぬ、雪深き山中の寒村。
谷の奥底に沈むようにひっそりと佇み、まるで時の流れを閉ざすかのように冬を抱いたまま、春さえ届かぬ地。
白い息が空に溶ける。
風も音も途絶え、村はまるで永い眠りに沈んだようであった。
屋根には幾重もの雪が積もり、しなった梁が今にも軋みそうに身を沈めている。
空は低く垂れ、雲は山と空の境を消し去り、人の気配をさらに希薄にさせていた。
風が通らぬせいか、炭を焚いた細い煙が、家々の屋根から上がっては空に昇りきらず、凍てつく空気の中に留まっている。
その光景を、遠く峠の尾根から見下ろし、お蝶は足を止めた。
「……ここが、篝火村かえ」
その声は、氷を割るほどの鋭さもなく、ただ静かに、けれど確かに雪の空気を震わせた。
懐かしさを帯びた響きは、まるで時の彼方から呼ばれた名に応えるようであった。
お蝶の眼差しは、村の屋並みに留まらず、その奥へ――
記憶の影に棲む何かを見透かすように、遥かなものを射抜いていた。
「春だというのに、雪は深ぇ……屋根が重たそうに沈んでやすねぇ。まるで、時を止められた村のようだわ」
唇に微笑を浮かべながら呟いたその声に、返る言葉はない。
黒子は、ただ隣に立ち、黙している。
頭巾の下に隠された瞳が、何を映しているのか、それは誰にも分からない。
けれど、確かに同じものを、同じ重みで見つめていた。
村のはずれ、わずかに煙が立ち昇っている。
だがそれは命の気配というより、忘れられた記憶の残り香のように、空に届くことなく沈んでいるだけだった。
お蝶は白き指先をそっと宙に伸ばし、舞い落ちる雪を掬う。
「ふふ……まだ、春を拒んでいるような、そんな空気ですこと。まるで、過去が村を呑んでしまったようで……」
その声は誰に語るでもない。
けれど確かに、村の沈黙とどこか響き合っていた。
そしてふたりの影は、音もなく雪を踏みしめながら、静かに坂を下る。
篝火村は沈黙の中に閉ざされていた。
迎える者はなく、告げる鐘も鳴らぬ。
陽は傾き、空は薄紅に染まりはじめていた。
春の声など、ここには届かぬとでも言うように、白雪はなお厚く降り積もり、屋根という屋根を鈍く押し潰していた。
煙突から昇る煤煙すら、どこか淀んだ空へと吸い込まれてゆく。
その様を見下ろしながら、お蝶はふと足を止め、ぽつりと呟いた。
「……どうにも、妙じゃねぇか」
その声は風に紛れながらも、冷気を裂いて黒子の耳へと届く。
言葉にできぬ違和感。
踏みしめる雪音すらも吸い込まれるような静けさの底に、何かが蠢いている気配。
お蝶はじっと雪を見下ろした。
足元に刻まれた踏み跡は、獣か人か見分けもつかぬまま途中で消え、村へとは続いていない。
「まるで……生き物の気配が、せんじゃないか」
雪がすべてを覆い、隠している。
だが、その奥底に、何かが潜んで息を殺しているようにも見えた。
「……春とは、ここにはまだ訪れておらぬのね」
お蝶の声が、絹のようにやわらかく響き、その響きが村を包む霧のような空気に溶け込んでゆく。
ひとひら、またひとひらと雪が舞い落ちる。
封じられたものが目覚めを待つように、あるいは、何かが目覚めぬように祈っているように。
お蝶は、唇の端で再び呟いた。
「……春」
その一言は、空気の鍵を外すかのように、深く、静かに沈んでゆく。
「この村には、もう長らく春が訪れておらぬのかもしれない」
黒子は言葉を発さず、ただ隣に立ち、共に村の気配を見つめていた。その沈黙が、かえって多くを物語っていた。
「それにしても……この静けさ」
お蝶の視線は、村の入り口へ向く。
「誰もおらぬ。焚き火もない。犬の声ひとつせぬ……まるで、時が止まったようだわ」
その声音には、警戒と、わずかな怯えが滲む。
けれど、お蝶はすぐにその感情を押し隠し、凛とした声で言い直した。
「……恐れているのではない。あたしは、確かめたいだけさ」
黒子に視線を向けたお蝶の瞳には、過去を見据える者の厳しさと、未来へ踏み出す覚悟が宿っていた。
「この村に、何が残っているのか――それだけを、ね」
黒子はわずかに頷き、視線を村へ戻す。
その刹那、風の奥からかすかな音が耳を打った。
風か、獣か、あるいは――声か。
お蝶はふっと微笑んだ。
その微笑みにも、決して拭いきれぬ影が潜んでいる。
「行こうか。夜になる前に、宿を見つけねぇと……冷えるよ」
ふたりの足は、ついに篝火村の雪へと踏み入れた。
それはまるで、封印された記憶の扉を開けるように。
足音は、音もなく、村の静寂へと染み込んでいった。
篝火村の入口に吊された注連縄が、風にあおられていた。
かつては神を迎える清らかな標であったものも、今では色も力も抜け落ち、ただ垂れ下がるばかり。
まるで忘れられた神の名残が、そこに形だけ残されているかのようだった。
微かに揺れる縄の音は、長き沈黙に沈んだ村の呻きのように聞こえた。
「……こんなにも荒れ果てていたかえ」
お蝶が呟いたその声には、かつて見た景色との違いに対する痛みが滲んでいた。
その視線の先には、村の奥、一本の古びた杉の大木がある。
「まるで、見捨てられた村の墓標のようやねぇ……」
彼女は足を止め、その幹をじっと見つめる。
深く裂けた樹皮の隙間は、まるで何かが潜んでいるような不穏な気配を湛え、杉は軋むたびに過去の声を洩らす。
「……不吉な気配がするわ」
この地を護るはずだった神木は、もはや祟りの依代と化していた。
「神木の残響、やろか……けれど、もう崩れかけとる」
お蝶はふっと笑みを浮かべるが、それは冗談ではない。
哀しみと畏れが混ざり合った微笑だった。
「それでも……何かが、眠っとる気がするわ」
彼女は再び歩を進める。
村の中には、人の気配があった。
だがそれは、明るさも、活気もない。
まるで人々が、何かを避けるように、息を潜めて暮らしているようだった。
窓の奥から誰かがこちらを覗いている――が、その目には表情がなく、ただ虚ろ。
生きているというより、生かされている。
「……どうして、誰もこちらを見んのかしら」
お蝶の呟きには、苛立ちにも似た不安が滲んでいた。
まるでこの村全体が、何かに押し潰され、生気を失っている。
ふと、村の奥に目をやると、崩れかけた古寺が見えた。
かつて祈りの声を受け止めたであろうその場所は、今や過去を封じた石の箱のように、息を潜めている。
「この村……囚われとるわ。何かに」
お蝶の声は低く、冷たい。
「忘れられた何か……恐ろしいもんが、今もここに息づいとる」
窓越しの人々は、ただ外を見ているのではない。
目だけを動かし、声も、感情も持たず、何かを恐れるように身じろぎもしない。
「……うちらは、いったい何を探っとるんやろね」
お蝶は空を見上げた。
白い風が髪を揺らし、吐息が空へと消えてゆく。
「でも……きっと、何かが残っとるはず。見つけ出さな、あかん」
その声には、凛とした決意が宿っていた。
お蝶の瞳は、村に満ちる沈黙と虚無を突き破ろうとする光を湛えていた。
雪が深くなるにつれ、ふたりの足音は次第に沈黙へと溶けていった。
霧のような白い寒気が村を覆い、空気はさらに重く淀んでいく。
そのなかで、お蝶はふと背に視線を感じ、振り返った。
しかし、目が合うことはない。
ただ、家々の奥にひそむ人影の気配が、ひたひたと心を打つ。
言葉にならぬ想いが、虚ろな目越しに確かにこちらへと届いていた。
お蝶はわずかに肩をすくめ、小さく呟く。
「……どこかで、あたしらを待っとる者がおるのかもしれへんね」
その声は、風に乗って静かに広がる。
遠くの誰かに、あるいは過去に眠る記憶へと届くことを願うように。
立ち止まったまま、視線を伏せて言葉を続けた。
「あたしらがこの村に来た理由、それは……きっと、偶然なんかやあらへん」
歩みを再開すると、その足音が、先ほどよりも深く雪を踏みしめた。
「ここには……解かんならん謎がある。それを知るために、あたしらはここにおるんや」
お蝶の瞳には、薄暗い空の下でも消えぬ意志が灯っていた。
真実の中心へと向かうその歩みは、揺るぎなく、確かだった。
しばしのあいだ、ふたりは無言で村道を歩き続けた。
ただ足音だけが、静寂に滲むように響いていた。
村人たちは気配を潜め、家々の窓から、影のように双つの背を見つめていた。
それは恐れか、それとも……何かを託す期待なのか。
やがて、お蝶がふと足を止めた。
風に揺れる赤き袖が、雪の中で淡く舞う。
その視線の先にあったのは、一軒の古びた家だった。
他の家々が雪に埋もれて沈黙しているなかで、その家だけが、どこか異質な空気を纏っていた。
「……なんやろなぁ、あの家。どこか……違うような気ぃ、せぇへんか?」
お蝶は小さく、けれど真剣な声音で呟いた。
微かに黒子を見やる横顔には、艶やかな微笑の影に、不安の色が揺れていた。
「門もすっかり錆びついて……長いこと、誰も通っとらん証拠やろね」
そう言って、お蝶は扇子を指先で撫でるようにひと振りし、囁くように続ける。
「せやけど……なんや、妙やわ。あのお家の奥……誰ぞの気配が、微かに漂う気ぃするんや」
冷たい風が、音もなく吹き抜ける。
けれど、お蝶の言葉が空気を裂いたかのように、その場の緊張が高まる。
「ただの風やあらへん……何か……何かがおる。あの奥に、息を潜めてなぁ……」
扇を閉じ、胸元に収める。
彼女の瞳は、まっすぐに家の扉を射抜くように見据えていた。
そして、ふいに踏み出す。
「行きまひょ」
その声には、覚悟と決意が滲んでいた。
「恐れてばかりじゃ、真実には辿り着かれへん。……せやろ?」
お蝶の後ろ姿は、赤き装いを雪に映し、凛と背筋を伸ばして歩を進める。
その歩みの先、朽ちた家の扉が、静かにふたりを迎えようとしていた。
それは、封じられた過去の扉。
いま、音もなく開かれようとしていた。
ふたりは、古びた門の前に静かに立ち止まった。
その場所に漂う空気は、まるで時の流れが止まってしまったかのように凍てついていた。
お蝶は深く息を整え、慎重に一歩を踏み出す。
その刹那、門の隙間から微かな音が漏れ聞こえた。
――かすかに物を動かす音、あるいは遠くから響く囁き声のような、それは聞き取れぬほど淡く、しかし確かに存在していた。
吸い寄せられるように、お蝶の足はその家へと向かっていた。
踏みしめる雪の音は、ひとつひとつが耳に心地よく響いたが、その内側では不安がじわじわと広がっていた。
家の奥から響いてくる声は、柔らかく、切実な響きを帯びていた。
まるで、何かを強く願い祈るような、言葉にならぬ想いが、音となって空間を満たしていた。
お蝶はその声に導かれるように、静かに歩みを進める。
やがて、木造の扉がわずかに開き、そこから漏れ出す灯りが、薄暗い室内に揺れる影を映し出していた。
かすかな風が、家の中から吹き出してくる。
それは鈴の音のような、澄んだ響きをかすかに孕んでいた。
扉の向こう、祭壇の前に、ひとりの老婆が膝をついて祈っていた。
その背は丸く、身じろぎもしない。
両の手を胸元で組み、瞼を閉じたまま、深く静かな祈りを捧げていた。
お蝶は、その姿に目を奪われた。
時を超えてそこに留まり続けているような、厳かな重みを湛えた姿。
細身の肩は震えていたが、その瞳は遠いどこかを見据えていた。
しんとした空気の中で、なぜかお蝶は違和感を覚えた。
それが何であるか、まだ掴めずにいた。
そのとき、老婆の唇がかすかに動き、言葉とも吐息ともつかぬ声が、風に乗ってお蝶の耳元へ届いた。
「……“こはる”を、どうか……どうか、返しておくれ……」
その名に、お蝶の目が大きく見開かれる。
――こはる。
胸奥に、確かな記憶がよみがえる。
出会いは秋の嵐の夜。
山中の庵での短い逢瀬。
二度目の出会いは、再び嵐の夜。
女郎屋から逃げ出した少女を、悪漢から救い出した。
そしてその後、かどわかされ、燃える屋敷の中から命懸けで救い出した少女――それが、こはるだった。
雪のように白い肌、怯えた瞳、名を呼び、そして去り際に告げたあの言葉。
――お蝶さま。旅の途中に、わたしの村へお寄りくださいませ。母も、村の皆も、きっと心より歓迎いたします。
あの娘だ。
あの“こはる”だ。
「……あの娘……こはるに、なにかあったのかい……?」
震えるような声が、唇からこぼれる。
もとより、この村に立ち寄ったのは、ふとその約束を思い出したからだった。
だが、近づくにつれて風に混じる奇妙な噂、肌に忍び寄る異変――それらに導かれるように、お蝶は吹雪の中、この村へと足を向けた。
お蝶は、すぐさま老婆に身を寄せた。
「おばあさま……こはるは、いずこに? おられるのかい?」
老婆の肩にそっと手を添え、問いかける。
しかし、老婆はうなだれたまま、うわ言のように呟くばかりだった。
「……こはる……春に、連れていかれて……骸花に……春……」
言葉は混濁し、焦点の合わぬ目が宙をさまよう。
問いは届かぬまま、心はすでに遠きところにあるようだった。
「おばあさま……こはるは、生きておるのですか?」
問いかけに応じる返答はなく、空虚な響きだけが残る。
お蝶は唇を引き結び、痛みを押し殺すように息をのむ。
「……この村で、何が起きたのか……こはるに、何が……」
想いが、重く胸を満たしていく。
かつて救った命。
その後の道を見届けられなかった悔い。
今、再びその名を呼ばれたことの重みが、鋭く胸を刺す。
「こはる……」
その名を、そっと呟く。
雪が舞い、お蝶の肩にひとひら止まった。
老婆は祈るように、何事かを口の中で唱え続けていた。
こはる――その名が、凍てついた村に確かに生きている。
お蝶は目を伏せ、深く息を吐いた。
まだ、遅くはない。
この村の闇の中にこそ、あの娘の手がかりがある。
あの春が、まだ――どこかに。