偽りの春 序幕
代官所にまつわる黒き噂は、女郎仲間の間で広く囁かれていた。
誰もが知っていることだが、口に出してはならぬ禁忌。
行方不明になった女郎たち。
その行方が辿れるのは、あの忌まわしき場所、代官屋敷の中だけ。
しかし、代官所と名指す者は一人もおらず、口をつぐむ者ばかりだった。
女郎屋の遣り手婆に問いただしても、逃げた、急死した、借金を返し終えたから村に返した、などと言うばかり。
それにしても、代官所や代官という言葉が一度も出てこないのは、どうしたことか。
――そこには仄暗い闇がある。
その晩、お千佳はその場所へと連れて行かれた。
場所すら知らされぬまま、強引に。
これまで代官の相手を何度もしてきたが、この屋敷に呼ばれたことは一度もなかった。
消えた女郎たちは、ことごとく代官に目を掛けられた者たちであり、今やその道を歩んでいる自分もまた、同じ運命を辿るのではないかと、薄々感じていた。
恐れが胸にこびりつき、足を震わせる日々を過ごしていた矢先、遂にその場所に連れて来られてしまったのだ。
廊下を歩くお千佳は、首元がむず痒くなり、指先で軽く押さえた。
そこには、小さな痣がひとつ。
代官の吸い寄せるような接吻で、つけられた青い痕だ。
心なしかその痣も、いっそう鮮やかに感じられる。
前を歩いていた女、紺色の着物を纏ったその者が歩みを止め、振り返った。
面長の顔に切れ長の目が鋭くお千佳を睨む。
「奥の間で、お代官様がお待ちじゃ。粗相のなきよう、気ぃつけるんじゃぞ」
その声に逆らえぬお千佳は、ただ黙ってその言葉を飲み込む。
思い浮かぶのは、故郷にいる母と妹の顔。
あの日、故郷を離れたときのこと。
きっと二人は、幸せに暮らしているはずだと信じている。
その信念だけが、今の自分を支えている。
襖の奥からは静寂が漂っていた。
代官屋敷の中で、静まりかえった空気が胸に重くのしかかる。
お千佳はひと息を飲み、ゆっくりと襖を開けた。
奥の座敷には、すでに代官が酒を嗜んでいる姿があった。
干からびた枯れ木のように痩せこけた顔が、冷たくお千佳を見つめた。
「近う寄れ。晩酌を所望いたす」
声さえも枯れ、まるで空気さえも渇ききったようなその言葉。
年齢は相当なものだろうが、毎晩のように酒を浴び、若い女郎を貪るように抱きしめる代官。
その姿からは、どうしても想像できなかった。
あの枯れた躰に、どうしてそんな体力が残っているのだろうか。
お千佳は無言で代官の横に座った。
杯を取り、酒を注ごうとしたその瞬間、代官の枝のような指が、無遠慮にお千佳の腰を這った。
その指の感触に、不快感を覚えながらも、お千佳は杯を注ぎ続けようとした。
だが、代官は突然、覆いかぶさるようにして、お千佳の肩を掴んだ。
男の眼は、今まで見たことのない狂気を湛えていた。
ぎらつく眼差し、そして剥き出しの黄色い歯。
――醜悪な顔が嗤っている。
「お代官様っ!」
思わず叫んでしまうお千佳。
しかしその声も、次第に恐怖に包まれ、無力なものとして消え去る。
代官の躰は、まるで獣のように重く、お千佳の上に覆いかぶさる。
その瞬間、お千佳は着物を乱し、必死に逃げようとした。
だが、代官の力強い手が足首を掴み、振り返る間もなく、襖を倒し、床に転倒してしまう。
暗闇の中に広がる布団、そして代官のひどく冷えた指が、お千佳の太腿を這い上がる。
「お代官様、どうか……おやめくだされ!」
お千佳は必死で抗うが、代官は力任せにその足を引き寄せ、布団の上に無理矢理投げ飛ばす。
そして野獣のように襲い掛かってきた。
「いやぁぁぁぁぁっ!」
その叫びが、屋敷中に響き渡る。
廊下でその声を聞いた紺色の着物の女は、口紅を歪ませ、艶やかな笑みを浮かべた。