二 黒猫がいる鍛冶屋
カーシマ質店を出た後、リタがマルコの家にたどり着いた頃には、すっかりと日が暮れてしまっていた。
マルコの家は木造の二階建てで、一階は仕事場、二階が住居という造りになっているようだ。
まだ寝るには早い時間のはずだが、家の中に灯りは見えなかった。
リタは玄関の扉を何度か叩いてみたが、応答はない。
「師匠、まだ帰ってないのかな……」
一階の仕事場——鍛冶場には扉がなく、外から丸見えの状態だった。
好奇心を抑えきれず、リタはそっと足を踏み入れた。
薄暗い部屋の中に、月明かりがぼんやりと差し込んでいる。
目が慣れてくると、部屋の様子がわかるようになった。
奥にある炉は冷えており、その側にはふいごと水桶、金床、足踏み式の回転砥石などが備え付けられている。周囲の壁や棚には、鎚や火鋏など鍛冶仕事のための道具類がきちんと整理され、並べられていた。
道具はどれも使い込んだ様子が見て取れるが、きちんと油を引いて手入れがされており、大切に使われていることが素人目にもよくわかった。
トッテンポットの仕事場はこの何倍もの広さがあった。道具類も新品のようにぴかぴかのものばかりだったが、床に無造作に投げ出されているものも多くあり、あまり大切にはされていない様子だった。
リタにはマルコの仕事場の方が居心地が良く、好ましく思えた。
エウラリオの店で見たマルコの革エプロンが壁に掛かっている。
無数にある焼け焦げや傷が、鍛冶屋という仕事の激しさを物語っていた。
もっとよく見ようと、リタが近づいた時、
「ひッ!」
リタの足――ふくらはぎのあたりに、モサモサとした感触が――
「なっ、なにっ……」
後ずさろうとして足がもつれ、尻餅をついてしまう。
「……ったたたた」
痛む尻をさすっていると、“それ”の正体がわかった。
マルコが拾って育てているという黒猫だ。
確か名前は――
「フェロ……君、フェロでしょ?」
リタが問いかけると、猫は〈そうだ〉とでも言うように、短く喉を鳴らした。
「待って、いいものあげる……」
肩から提げた鞄をごそごそと探る。
目当てのものはすぐに見つかった。
「はい、これ。お近づきの印」
リタが手のひらに乗せてフェロに差し出したのは、一片の干し肉だった。
旅の携行食として持ち歩いているものだ。
フェロはフンフンと匂いを嗅いでから、顔を上げてリタを見る。
「どうぞ」
なおもリタの顔をじっと見つめていたフェロだが、害はないと判断したのか、ぱくりと干し肉にかぶりついた。
「……おいしい?」
「みゃ~お」
どうやら気に入ってもらえたようだ。
「僕もおなか空いちゃった……」
エウラリオにもらった飴は、とっくに食べ尽くしていた。
フェロの隣に座って、一緒に干し肉を噛む。
「君のご主人様は、まだ帰ってこないのかな?」
「…………」
干し肉に夢中なフェロは、返事をしない。
「はぁ……疲れた。エウラリオさんのお店から師匠の家まで、ほとんど街を横切っちゃったもんなぁ……ふあ……ぁ……すごく眠い……ねぇフェロ、ここで寝かせてもらってもいいかな?」
「……うみゃ」
「ありがと……これ、食べていいよ」
二口ほどかじった干し肉をフェロに与えると、リタはもう目を開けていられなくなった。
どこかで犬が遠吠えをしていた。
◇ ◇ ◇
キン、キン……キン、キン……キン、キン……
「う……な、なに……」
金属が打ち合わされるような音で、リタは目を覚ました。
あたりはすっかり明るくなっている。
フェロはどこかへ消えていた。
「他人の家に忍び込んでおきながら高いびきとは、ずいぶんと肝の太い泥棒だな」
「しっ、師匠! おはようございます!」
炉の前で槌をふるうマルコの姿を認め、リタは慌てて居住まいを正す。
「リタとか言ったな……どうしてオレの家がわかった」
「はい、あの……エウラリオさんが教えてくれました」
「ち……あいつ、余計なことを」
「師匠、何かお手伝い出来ることはありませんか」
「だから弟子は取らねぇって言ってるだろ」
鎚を振るいながら、面倒くさそうにマルコが言う。
「掃除でも洗濯でも、何でも言いつけて下さい!」
「……人の話を聞いてるのか」
「あ、ご飯つくりましょうか。こう見えて、料理は得意なんです」
「メシを作るだぁ?」
マルコの腹の虫がぐぅっと鳴いた。
「お台所借りますね!」
「あ……おいリタ! 勝手なことをするな――」
マルコが止める間もなく、リタは家の中に入っていった。
すぐに、台所のあたりが騒がしくなる。
「……まったく……あの強引さはどっから来たんだ……親の顔が見てみたいよ…………あぁ、死んだって言ってたっけ、あいつの親父……そうか、死んじまったのか……」
しばらくすると、マルコのいる鍛冶場にもおいしそうな香ばしい匂いが漂ってきた。
マルコの腹の虫が、一段と騒がしくなる。
フェロがやってきて、
「みゃう」
と短く鳴いた。
食事の準備ができたと、マルコを呼びに来たらしい。
「あいつ、フェロを手懐けやがった……」
フェロは警戒心が強く、自分の他には誰にも懐かなかったはずなのに――
槌をふるう手を止め革エプロンを外すと、マルコは家の中へ入っていった。
マントを脱いで旅装を解いたリタは、さらに小柄で華奢な印象だった。
襟元に小さなフリルがついたリネンのシャツ、花柄の型押しをした薄手の革ベスト、膝上のキュロットスカートからすらりと伸びた色白の脚。足の甲からふくらはぎまでを何本もの細い革紐で編み上げる凝った作りのサンダルを履いていた。
リタの格好を見たマルコは、わずかに目を細める。
「……お前、女だったのか?」
「いえ、男です」
「そうか」
「あの……僕の格好ってその……やっぱりヘン、ですか」
「変じゃねぇよ。男にしては珍しいなと思っただけだ」
「よかった、師匠がそう言ってくれてホッとしました」
「だから、俺はお前の師匠じゃねぇっての」
食卓に用意されていた食事は――野菜のスープとパン、厚めに切ったベーコンを焼いたものに目玉焼きが添えてある。
普段は外食ばかりのマルコの家には、フェロの餌以外にろくな食料がない。
「食材はどうしたんだ」
「ここへ来る途中に買っておきました」
「なぜ」
「弟子にしてもらえるまで、家の外で暮らそうかと思って」
「……迷惑な話だな」
家の前で寝泊まりしているリタの姿を想像して、マルコはうんざりした。
「おかげで、なけなしのお金も使っちゃったし、僕はいよいよ文無しです」
「その割には嬉しそうじゃねぇか」
「師匠のごはんを作らせてもらえましたから!」
「今回だけだ……弟子にはしないからな」
「そんなぁ……ごはんを作れば弟子も同然、じゃないんですか」
「そんな言葉はない」
「まぁまぁ、冷めないうちにどうぞ。ほら、フェロも」
リタは、小皿に取り分けた食事をフェロの前に置く。
「……リタ、突っ立ってないでお前も食べろ」
「いいんですか?」
「お前の金で買った食料だろ」
「では、ご相伴にあずかります」
リタは、ちゃっかりと用意していた自分の分の皿を食卓に持ってくる。
「調子のいい奴め……」
マルコがベーコンにかぶりつく。
香ばしい香り、カリッとした歯ごたえ、噛むとジューシーな肉汁が口いっぱいに広がる。
「どうですか、お口に合いますか?」
「…………」
ベーコンを咀嚼し飲み込むと、卵に取りかかる。
「玉子は端の方を少し焦がしちゃったんですよね。ここの竈って、使いづらくて」
「…………」
なおも無言で食べ続けるマルコの様子を、リタは息を詰めて見守る。
やがて、マルコが食事を終えた。
皿の上の料理は、綺麗になくなっている。
「あの……か、片付けますね」
「……火加減はいいな」
「は……はいっ!」
不安げだったリタの表情がぱっと明るくなった。
鼻歌交じりに食器を片付け始める。
(うちの竈は癖のあるつくりで、火をおこすのも、一定の火力を維持するのも難しいはず――それなのにあいつ、初見で使いこなしやがった……)
フェロを足元にまとわりつかせながら食器を洗うリタを、マルコは考え深げに見つめていた。
◇ ◇ ◇
リタの淹れた茶を飲み終えると、マルコは仕事に戻った。
おそるおそる後を付いてくるリタを強いて止めはしない。
扱いの難しいあの竈をすぐに使いこなしたリタに、マルコは興味が湧いていた。
仕事を再開したマルコの手元を、鍛冶場の隅にしゃがみ込んだリタがじっと見つめている。
やがて作業に没頭すると、マルコはリタの存在を忘れた。
あれほど騒がしかったリタのおしゃべりも、ピタリと止んだ。
キン、キン……キン、キン……キン、キン……
鍛冶場の炉から生じる熱気を、外からの風がかき回す。
その中に、マルコの振るう鎚の音だけがリズミカルに響いている。
「ふぅ……」
鍛冶場に夕日が差し込む頃になって、ようやくマルコの手が止まった。
ふと気づけば、傍らにリタが立っていた――水で濡らして硬く絞った手ぬぐいと、冷たい茶の入ったカップを手にしている。
「どうぞ」
「……おぅ」
差し出された手ぬぐいで汗をぬぐい、カップの中身を飲み干す。
冷たい茶が、渇いた喉に心地良い。
「リタ……なぜ鍛冶屋になりたい」
「父の跡を継ぎたいんです」
「だからって、なにもオレに弟子入りしなくたっていいだろう」
「父が目標としていたのが、師匠が打った剣だとわかったので」
マルコは、エウラリオの店でのやりとりを思い出した。
軽はずみなことを言ったものだ——と、後悔した。
「……なぁリタ、あの話は嘘だよ、嘘。お前をからかおうとして、口から出任せを言ったんだ」
「いいえ、本当です」
「……根拠は?」
「僕は人を見る目があるんです」
自信満々に言い切るリタ。
そこには、何の根拠もない。
「そんなのただの思い込みじゃねぇか」
「とにかく、僕はあなたの弟子になると決めたんです!」
「勝手に決めるな……はぁ……なんだってオレはまた、あんなつまらねぇ話をしちまったんだろう……」
ピシャリと額を叩き、マルコは天を仰ぐ。
「お願いです! 弟子じゃなくてもいいから、ここに置いてください。僕、ちゃんとした鍛冶屋になるまで、帰るところがないんです」
「故郷があるじゃねぇか」
「父が死んでしまったいま、村に僕の居場所はありません」
「どういうことだ」
「僕の……見た目のせいで、僕は皆に避けられているんです」
リタの声が小さくなり、唇を噛んで俯いてしまう。
「鍛冶屋になると人が寄ってくるのかよ」
「はい。村には鍛冶屋が一軒しかありませんでしたから、鍛冶屋になれば僕は皆に必要とされる存在になれるんです」
「そういうことなら、弟子入りするのはオレじゃなくてもいいだろ。言っとくけど、オレは贋作専門の鍛冶屋だぞ?」
「エウラリオさんのやかんを修理してましたよね」
リタは顔を上げた。
声に力が戻ってくる。
「鍛冶ギルドの手前、表向きは普通の鍛冶屋の顔をしておく必要があるんだよ」
「プロの質屋さんを欺くほどの剣を打てるんだから、凄腕なことは間違いありません」
「贋作鍛冶屋なんて、胸を張って他人に言えるような仕事じゃないんだぞ?」
「僕に言ってるじゃないですか、胸を張って」
「一般的なことを言ってるんだ」
「お願いします! 僕の師匠はマルコさんしかいないんです! お願いします! お願いします!」
這いつくばって床に額を打ち付けるリタを、苦い顔のマルコがじっと見つめる。
ふと、何かを思いついたように立ち上がったマルコは、赤々と燃える炉のそばから、真っ赤に焼けた鉄のコテを取り上げた。
「リタ、顔を上げろ」
「やった! 弟子にしてくれるんですね!」
「いいや、これを見ろ」
「それは……」
「鍋の取っ手や包丁の柄なんかに押すための焼き印だ。リタ……オレはお前の覚悟の程が見たい。身体のどこにでもいいから、この焼き印を自分で押せ。それができたら弟子のことは考えてやる」
「わかりました」
マルコから手渡された焼き印を、リタは左手の甲に押しつける。
じゅぅっという音と共に、肉の焼ける臭いが……してこない――
「あ、あれ……熱くない……痕も残らない……師匠、これって……」
戸惑い顔のリタが、焼き印とマルコの顔を交互に見やる。
リタの勇気――というより無謀さに、マルコはすっかり毒気を抜かれていた。
少しくらいは迷ったり、無理だと弱音を吐いたりするかと思っていたのだ。
「フン、ためらいもせずに押しやがった……いいよ、ここに置いてやる。ただし、弟子としてじゃねぇぞ。雑用係としてだ。それでいいな」
「はいっ! あ……師匠のことはなんとお呼びすれば……できれば、その……弟子として認められなくても、たとえ雑用係でも、“師匠”とお呼びしたいのですが――」
「どうせ、駄目だと言っても無駄だろうが……好きにしろ」
「ありがとうございます! 僕、師匠の期待を裏切らないよう、精一杯頑張ります!」
「はなから期待などしてねぇよ」
「あ、そういえば師匠」
「なんだよ」
「僕、焼きごてを押しつけたのに、どうして火傷しなかったんでしょうか」
「よく見ろ、それは魔法の灯りだ」
「魔法の……」
リタが手にしたままのコテをよくよく観察すると――確かに、熱を感じられなかった。先端のぼうっと赤く光る部分におそるおそる手をちょん、と触れてみると、
「あっ、熱くない!」
「やかんの修理代の代わりに、エウラリオがよこしてきたガラクタだ」
「ガラクタって……魔法の灯りなんて、すごい価値がある品物じゃないですか」
「確かに物珍しくはあるが、照明にするには光が弱いし、何の役にも立たない代物だぞ……まぁ、いま初めて役に立ったがな」
「ははぁ……」
しきりに関心して、“魔法の焼きごて”をためつすがめつしているリタを尻目に、マルコは太いため息をついた。
「はぁ……どうしてこんなことになっちまったんだか……おい、リタ!」
「はいっ!」
「いつまでもそんなガラクタで遊んでないで、後片付けを手伝え」
「わかりました!」
炉の火が消されると、そばでまどろんでいたフェロが抗議の声を上げた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
【次回予告】
雑用係となったリタは、毎日忙しく働いていた。
そんなある日、マルコに贋作の依頼が舞い込んでくる。
ところが、話し合いの場となった酒場でリタが揉め事に巻き込まれてしまう!
次回、「喧嘩なら買ってやる」「密談」 どうぞお楽しみに!