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短編2

つつぬけ聖女様

作者: 猫宮蒼



 聖女は神の愛し子である。

 聖女が健やかに暮らしている国はある程度の平穏が約束されている。


 それはたとえば実りであったり、魔物や魔獣といった人間たちにとって危険な生き物が近づいてこなかったり。

 逆に聖女が不幸な状態であると、国は荒れると言われていた。


 その国の天候は荒れやすく、作物の育ちも悪い。

 また災害などもしょっちゅう起きるのだと言われていた。


 聖女が神の愛し子であるのは確かだが、しかし聖女の存在はハッキリ明かされていなかった。


 聖女らしい証があるわけでもない。

 この子が聖女だと告げられるわけでもない。


 それゆえに、人間からすると誰が聖女なのか――聖女というくらいなのだから女である事くらいしか、わからなかったのである。


 聖女を騙る者も過去にはいた。

 私が聖女で、私が幸せになれば国は豊かになるわ!

 そんな風に自信満々に言い出した女など、普通は誰も信じない。


 けれどもその時国は荒れていた。

 天候は不安定で大雨が続き、作物は大雨のせいで根腐れを起こす程水浸しになり、町や村といった人が暮らす場所にやたらと魔物や魔獣が現れ荒らしていったり。

 悪い事が続きすぎて、聖女だと名乗った相手をもてなせば、この状況を脱する事ができるかもしれない……!

 と、藁にも縋る思いで信じてしまったのである。


 実際その女は偽物だった。


 ご馳走に、ワイン。美しいドレスに装飾品。

 できる限りの贅沢をさせたけれど、しかし国は一向によくならなかった。

 国を騙した女は当然処刑された。


 そうでなくとも国が大変な時にやらかしているのだ。

 人々の心にも余裕がない時に。


 まだ人々の心にゆとりがあるのなら、もしかしたら命までは奪われなかったかもしれない。

 タイミングの悪い時にやらかしたせいで、女は民から大顰蹙を買った。

 普通に斬首刑や絞首刑であればまだ楽に死ねたかもしれないが、その時の偽聖女は火炙りになりながら、大勢の民から石などを投げつけられ死ぬまで苦しんだという。


 死ぬ前に贅沢をしてみたかった、という望みがあったとしても流石に苦しみぬいて死ぬ事を考えると、あまりにもチャレンジャー。


 それ以降、聖女を自称した場合、まず必ず聖女である事を証明せよ、という法が作られた。

 幸せになればおのずとわかる?

 幸せの定義とは?

 贅沢をさせてちやほやすれば必ずしも幸せになるとは限らないし、それで偽物だった過去があるのだ。

 それ以外の方法で示す事ができなければ、問答無用で偽物だと断じて処罰する。


 そういう風になってしまったのである。



 とはいっても、大勢には関係のない話だ。

 何故って大勢の人間は聖女ではないのだから。

 身近にもしかしたら聖女がいるかもしれないが、ほとんどの者はその事実に気づく事もない。

 ただ、もし聖女だったなら。

 相手を虐げたりした場合、それが影響して国に災いが……なんて事になるかもしれないから、意味もなく人を傷つけてはいけませんよ、という教えだけは広まる形となっていった。



 そうやって皆が皆、老若男女問わずお互いに気遣って尊重しあう事ができれば理想ではあったのだけれど。


 悲しい事にそう簡単にはいかなかった。



 聖女は虐げられていた。

 聖女――メルルは伯爵家で暮らしているが、貴族令嬢として蝶よ花よと大事に育てられてきたわけではなかった。

 父は伯爵だけれど、母は屋敷で働くメイドだった。

 伯爵夫人が妊娠中、性欲を抑えきれず内心ちょっといいなと思っていたメイドに手を出した。

 一応避妊したつもりでいたが、不完全だった。

 結果、メイドは身籠ってしまったのである。

 夫人は夫の浮気に怒りを覚えたものの、しかしその時点で妊娠中だったこともあり、その時に自分が相手をできなかった、という事もあってメイドに関しては殺したりはしなかった。

 夫人は伯爵の事を愛していたので、他の女に手を出したという事実に怒りしかなかったが、メイドから誘ったわけではない、という点でメイドは命だけは助かったのである。


 もしメイドから誘っていたなら間違いなく縊り殺していた。


 メイドは伯爵の愛人的立場になってしまい、生まれた子は使用人として扱われた。


 ただ、経緯が経緯だったこともあって、夫人の心証は最悪だったし、夫人が生んだ正当な伯爵家の子供たちにとってもメルルという存在は虐げても良い存在だと思われていた。


 虐げるといっても、イライラした時にちょっと小突いたり、叩いたり、水をかけたりといった、一つ一つは命に係わるものではない。

 仕事が遅いといって食事を抜いたり、どれもがちょっとした嫌がらせの範疇ではあった。


 愛人的な立場になったメルルの母であったが、こちらも別に伯爵家の中で立場を得たわけではない。

 夫人が夫の相手をできない時に、都合よく扱われるようになったに過ぎない。


 メルルの母は本当は職を辞して屋敷を出るつもりであったけれど、しかしメルルは半分とはいえ伯爵の血を引く子だ。何かに使えるだろうという事で結局母もメルルも見逃してはもらえなかった。


 母がメルルに使用人としての仕事を教えていたが、他の使用人たちは大っぴらに手助けもできず、屋敷の中でメルルは母だけが頼れる存在だったのだけれど。


 心労からか、メルルの母が倒れそのまま帰らぬ人となってしまった時、メルルは十歳だった。

 どうにかして伯爵家から逃げ出そうとしながらも、もし逃げ出せばメルルはともかく母は確実に殺されるのがわかりきっていたせいで、逃げるに逃げ出せなかった。そんな心許せる存在もいない中、メルルを育ててきたのだ。むしろ十年よく頑張ったと言えるだろう。


 大っぴらにとはいかなくても、それでもメルルの至らぬ部分をサポートして庇ってくれていた母が亡くなってから、メルルへの風当たりはより厳しくなった。


 どうしてこんなにメルルに対してあたりが強いのか、というのは母が死ぬ前に教えてくれたからメルルは自分の生い立ちも知っている。

 むしろ知った上で下手な事はしないように、と言われていたのだ。

 軽率に逃げ出そうにも、失敗すればきっと次はない。


 どうしても耐えられなくて逃げ出すと決めたとしても、機会を見誤ってはダメよ、というのが母の残した言葉である。


 母が死んだ事に悲しくて泣き暮れたかったけれど、生憎そんな暇は与えてもらえなかった。

 次々押し付けられる仕事。

 メルル一人じゃ到底こなせないようなものも、夫人や子供たちは容赦なくメルルに押し付けた。

 他の使用人たちにも命じて、決して余計な手を出してはいけないとまで言って。


 働いても働いても終わりが見えず、メルルは毎日ふらふらになりながら、それでも懸命に働いていた。

 一応最低限の食事は与えられたし、睡眠も許されてはいた。

 いた、けれど。

 使用人というより完全に奴隷かそれ以下の扱いだったと言えよう。



 そうして毎日仕事に追われ、母が死んでから二年の月日が経過していた。

 肉体的にも精神的にも限界ギリギリになって、いっそ死んだらお母さんのところに行けるかなぁ……なんて思うようになった頃、メルルは異変に気付いた。

 怪我をした際、痛いのは嫌だなぁ、と思ったのが切っ掛けだっただろうか。

 痛みが僅かに薄れたのである。

 それから心の中になんとなく思い浮かんだ言葉を言えば、怪我はもっと痛くなくなった。


 メルルはそれが聖女に与えられた力だと、この時確信したのである。


 メルルも一応聖女という存在について知らされてはいた。

 いたけれど、怪我の治りをちょっと早くする魔法が使えたからといって、これが聖女の証になるかはわからなかった。

 何故って魔法を使う事ができる者は他にもいたからである。

 これはただ魔法を使える人と思われる可能性が高く、聖女だとは言い切れない。


 下手に魔法が使える事が伯爵家の人間に知られたら、今以上に使い潰される事がわかっていたので、メルルは決して魔法を人前で使うような事はしなかった。


 聖女が健やかに暮らしていれば国は豊かになっていく。

 けれどメルルはとても健やかとは言い難い生活を送っているわけで。


 あぁ、そっか。

 だから最近不景気がどうとかいう話が聞こえてきたのか……と納得はしたけれど。


 どうにかしようにも、メルルは自由に屋敷の外に出られない。助けを外に求める事ができないのだ。

 それでもどうにか外に出たとしても、外のどこをどう行けば逃げられるのかもわかっていない。

 逃げたつもりで伯爵家のご近所をぐるっと回るだけだった、なんてオチは避けたい。


 助けを求めるにしても、この屋敷の使用人たちもメルルとは直接かかわらないよう言われている。


 時折こちらを可哀そうに……という目で見てくる人はいたけれど、助けたらその人も酷い目に遭うのだろうとメルルはわかっていたので縋る事はしなかった。

 積極的にメルルを虐げてくるような事がなかっただけマシだった。


 屋敷の中の人たちには頼れない。

 けれど、外に出て助けを求める事もできない。


 どうしたらいいだろう……と考えて、悩んだ末に。

 聖女の力で何かできないだろうか、という考えに行きつくのは、ある意味で仕方のない事と言えた。


 聖女が神の愛し子だというのなら。

 せめて神様、どうかこの現状を打破する何か……なんでもいいので何か、お願いします……!

 健やかに暮らすと国が豊かになると言われても、現状これじゃ健やかにとか無理すぎます……!

 見知らぬ人までこのままじゃ不幸な事になってしまう……!


 自分が不幸だからって、見知らぬ人まで巻き込みたい気持ちはないんです神様……!


 結局メルルにできたのは、寝る前にどうにか神様にお祈りするくらいだった。



 だがその結果、メルルは救われる事となった。


 ある日、伯爵家に教皇と王の代理として王子、宰相と数名の騎士が押し寄せてきたのである。


 聖女を騙るのは罪だけれど。

 同時に聖女を害するのもまた罪であった。


 聖女が聖女として判明していない時点で意図的に虐げるつもりがなかったとしても。

 そもそも誰が聖女かわからないのでむやみやたらと人を傷つけるような事はしてはいけない、という教えが広まっているというのに、伯爵家の者たちはメルルを虐げて過ごしていた。


 罪人でこの対応が当然である、というのならまだしも、メルルが悪い事をしたわけではない。

 貴族が平民を同じ人とみなしていない事はあるけれど、だがあまりに虐げるような事ばかりしていては、領地から民は逃げ出しやがて労働階級の者たちが消え、そうなれば領地経営などできなくなってくる。

 王とて導く民がいなければ王を名乗ったところで無意味なのだ。

 貴族が優遇されがちなのは確かだが、だからといって王が民を蔑ろにするような事になれば、いずれ国そのものがなくなるわけで。


 メルルは伯爵家で虐げられていた。

 もう少し成長すればどこぞの家に売られるように嫁がされたかもしれない。


 そのつもりがないのなら、伯爵の血を引いているといっても、メルルの母は没落した元貴族。実質平民となった女の子供だ。

 メルルに貴族の血が流れているからとて、それを担ぎ上げて利用しよう、と考える者など現れないであろう身分でしかない。

 邪魔なら、母親もろとも屋敷から出ていかせるべきだった。


 伯爵家の者たちは、皆捕らえられた。

 罪状は聖女を迫害した罪。

 聖女である、と知らなくとも、誰が聖女かわからない以上むやみやたらと人を虐げてはいけない、という法があるのに彼らはそれを無視していた。

 たとえばこれが、あまりにも仕事ができない使用人に対して罰していた、というのであれば多少は許されたかもしれない。

 金を横領しただとかの犯罪を犯していたのであれば、罰を与えたのだという言葉も通っただろう。

 意味もなく虐げる事は禁じられていても、罪人に優しくする義務まではないのだから。


 罰を与えるにしても罪の重さに合っていればよかった。

 しかしメルルは――彼女自身が明確に何か罪になるような事をしたわけではなかった。


 妻が妊娠していたから性欲を発散できなかったからとて、使用人に手を出した伯爵が元凶と言えばそうではある。

 メルルの母にとっては望まぬ妊娠だったが、しかし生まれてきた子をそれでも彼女なりに慈しみ育てていた。そして母を死に追いやる事になったのは、伯爵夫人やその子供たちがメルルと合わせてじわじわといたぶっていたからである。



「そんな……アレが聖女だとでも!? 一体どこにそのような証拠があるというのです!?」


 往生際悪く、伯爵夫人はそう叫んだ。

 夫人は気づいていない。

 屋敷から外に出された事のないメルルが外に助けを求める手段などあるはずがないというのに、それでも彼らがやってきたという事のおかしさに。

 他の使用人がそれとなくメルルの存在を漏らした、というのも考えられるが、しかし伯爵家の使用人が、伯爵が手を出したメイドの生んだ子に関して話して、その子供があまりよろしくない目に遭っていると言ったところで。


 本来ならば王族が出てくることなどないのだ。


「証拠か……この場で物理的に出すのは無理だけど」

「でしたら!」

「でも、きみたちが聖女にやった事のすべて、私たちは知っているんだ」


「……え……?」


「聖女の奇跡じゃよ」


 教皇がなんとも言えない表情を浮かべて言った。

 虐げられている聖女は外に助けを呼ぶ事もできない状態だった。

 故に助けを求めるにしても、それは簡単な話ではない。


「きみは、自分が聖女だという自覚があったね?」

 王子に言われ、メルルはそっと頷いた。

 自分から聖女を名乗る度胸まではなかった。自分が聖女だという自覚はあるけれど、それを他者に理解させるとなると難しかったから。

 そうでなくとも、仮にこの屋敷の中で自分が聖女だ、などと言ったところで。


 決して夫人は信じなかっただろうし、その子供たちも夫人が信じなければ同じように信じる事はなかっただろう。伯爵に関しては、メルルと接する事がほとんどなかった。

 メルルの母が生きていた頃は母親の事を道具のように使っていたけれど、その娘であるメルルとは言葉を交わすような事もなかったのだ。

 もし仮に、伯爵の性欲を処理する際、母が死んだあとメルルが後釜に……などとなっていたなら間違いなく夫人の悋気は爆発しメルルは殺されていたかもしれない。

 それ以前に、まともな食事などほとんど与えられず、いつも残り物を少しだけ、時にはそれすら抜かれるような状態のメルルの見た目はガリガリで伯爵が女と見るにはとてもじゃないが無理であったので。


 そういう意味ではメルルは命拾いしたと言える。

 下手に伯爵がメルルに関心を持っていたなら、メルルは夫人によってもっと酷い目に遭わされていた。


 どちらにしても、この屋敷の中でメルルが接することができる相手に自分が聖女だなどと言うだけ無駄なのであった。


「我が国に奴隷制度は存在しない。またこの少女は犯罪者でもない。

 故にこの家での扱いは不当である。

 聖女じゃなくても問題だ、という事で君たちは裁きを受ける事になる」


 すっと王子が片手を軽く上げれば、騎士たちは慣れたように伯爵や夫人、子供たちを捕らえ連行した。

 使用人たちはその光景を顔色悪く見送るしかなかった。

 逃げたところで、それは余計に自らの罪になる。反射的に逃げ出したい衝動に駆られてはいたけれど、王子や教皇といった大物が出てきた時点でそんなことをすれば後がないのだ。


 使用人たちは真っ青な顔をして、震える事しかできなかった。


 伯爵家の人間が連れていかれた後、それから使用人たちも連行されていく。



 使用人たちに関しては、夫人が手回しをしてメルルと関われないようにされていたため直接何かをしたわけではない。

 メルルの境遇が不憫で助けたい、と思っていた者もいたけれど、万一バレたら自分たちも酷い目に遭う。

 それもあって、ほとんどの者はただ見守るだけだった。

 そっと手を貸そうにも、夫人や子供たちがメルルと関わるのはいつどういった状況で、と決まっていたわけではない。

 今なら大丈夫だろうと思って声をかけようとした者もいたけれど、そういう時に限って邪魔が入ったりして、いつなら絶対邪魔が入らない、と言える機会がなかった。


 仮に手助けできたとして、もしそれを他の使用人が見て夫人へ報告されてしまえば。

 紹介状なしで屋敷を追い出されるかもしれない。

 メルルの状況は不憫で何とかしたい気持ちはあるけれど、だがそれでも、自分の人生を賭けてまで……とはならなかった。


 使用人同士、休憩中に世間話をするにしても、メルルの事は下手に話題に出せなかった。

 彼女に対して同情的な態度をとった事で、もしメルルに何らかの――誰かの手助けがあったような痕跡があれば。

 自分が何もしていなくとも、あの人が手助けしたのでは? なんて言われて夫人の怒りを買うかもしれなかったのだから。


 自分と家族の生活と、メルルを天秤にかけた場合どうしたって自分たちに傾く。


 心の中では何とかしたいと思ったところで、使用人たちは何もできなかった。

 それに、恐れもあった。メルルとあまり関わらないようにされていたため彼らはメルルがどういう子であるかもよくわかっていない。もし、こっそりと手助けをしたとして。

 向こうもそれを黙って受け取るだけならいいけれど、この人は自分を助けてくれる人だ、と思われて懐かれるような事になってしまえば。ましてや、メルルがうっかりそれを口に出すような事になってしまったら。

 そうなればやはり、メルルも使用人もただでは済まなかっただろう。

 メルルが絶対にそんな事をしない、と断じる事ができる程彼らはメルルの事を知らないし、それ故に不憫ではあるし助けたい気持ちはあってもどうにもできなかったのである。


 そういう意味では使用人たちへの罰はそこまで重いものではなかった。

 助けたかったけれど、何もできないというジレンマ。

 彼女が聖女だという事を知って驚いたけれど、これでメルルが無事に保護されると知った彼らは皆一様に安堵していた。

 どうにかしたいと思っていても結局は何もできず見捨てたようなものだ。

 それが罪であるのなら、と使用人たちは罰を受ける事を潔く受け入れた事で、結果的に罰は軽いもので済んだとも言う。


 もし見苦しく言い逃れをしようとしていたら、もう少し罰は重いものになっていたかもしれない。


 使用人たちは軽い罰で済んだが、しかし伯爵夫妻とその子供たちはそうではなかった。


 伯爵はメルルに対してあまり関わらなかったといっても、元凶であることに変わりはない。

 彼がメイドに手を出さなければメルルは生まれてこなかったけれど、しかしメイドに手を出したことで夫人は行動に出たのだから。

 夫人にしてみれば、メイドの存在は夫を奪った相手である。一度目は自分の妊娠中だったからともかく、それ以降伯爵はメイドを愛人扱いしていたのもあって夫人にとっては憎い相手であった。メルルの母が自分の立場を脅かすとは思っていなかったが、夫人にとっては視界の隅を飛び回る鬱陶しい羽虫であったのは間違いない。


 そして、そのメイドが生んだ子メルルも。


 半分は伯爵の血を引くとはいえ、思いあがるような事になられては困る。

 立場をわからせてやらなければ……!

 そういう思いがあったのは確かだった。


 メルルの母もメルルも、どちらも思い上がるような事はなかったけれどそれでも人の心というものはいつ変わるかわからない。

 しおらしくしていても、心の中まで本当にしおらしいかなんて夫人にはわからなかった。

 徹底的にわからせてやらなければならない……! そういう気持ちが夫人にはあった。


 愛する夫に裏切られた気持ちもあったし、憂さ晴らしにはちょうどいい相手だったのだ。



 殺していないとはいえ、だから何をしてもいいというわけではない。


 そんな夫人の姿を見て、子供たちもメルルには何をしてもいいと思うようになっていったのだから。


 メルルを虐げる事でストレス解消していたのかもしれないが、そうやってもしメルルが死んだ後、その矛先が平民に向かうようになれば。

 伯爵家の領地からは民が逃げ出す事もあるだろう。

 そうなれば領地は立ちいかなくなる。労働者がいなくなれば、伯爵家もいずれは困窮するというのに。


 勿論、貴族相手に失礼な態度をとった平民を不敬だとして処罰する事もあるかもしれない。

 だが、そうでもないのにただ気まぐれで民を虐げる事など許されてはいなかった。


 夫人の行いは、結果的に子供たちに悪影響を与える事になってしまったのである。


 伯爵は自分が悪いとは思っていなかった。ただメイドに手を出しただけ。その後だって追い出したりせず子供も屋敷で面倒を見ていた、というのが彼の言い分だった。

 働かせてやっているのだから給金もあったし、生活に不自由はなかったはずだとも。


 しかしメルルの母親は夫人によってメルルと同じく屋敷から自由に出入りできなくされた。閉じ込められていたのである。故に給金が支払われていたところで使う事は難しかった。

 どうしても必要な買い物に関して、メルルの母は他の使用人に頼む事ができていたが、母が死んだ後メルルは徹底して他の使用人と接触できないようにされていたし、挙句給金すら支払われていなかった。


 当主でありながら屋敷の中の事を把握できていない、管理不足、能力がない、伯爵自身の言い分はそういった判断をされる結果でしかなかった。


 夫人だってそうだ。

 彼女は最後まで自分は悪くないと言っていた。悪いのはメイドに手を出したあの人と、あの人に目をかけられたからとのうのうと屋敷の中でのさばっていたメイドだと。そのメイドから生まれた子には、自分の立場を勘違いさせないための躾しかしていないのだと。


 けれど夫人の言い分もまた、自分に都合のいいように言っているだけだった。

 子供たちは母がやってたから、そうしていいものだと思っていた、と悪い事をしている自覚さえなかった。


 最終的に伯爵家は取り潰される事となった。

 聖女を虐げていた、という事実は既にそこそこ広まってしまっている。

 家があっても悪名の高さで存続させてもこの先何代にも渡り肩身の狭い思いをするのが目に見えているし、そうでなくとも伯爵家の子供たちに嫁や婿が来る事も、また子供たちが他の家へ嫁ぐ事も難しい。どこかから養子を迎えるにしても、聖女を虐げていた家、という事でそんな家を継ぐために養子になるという選択をする者もいないだろう。


 家がなくなるという事で、伯爵夫妻は食い下がっていたけれど。


 メルルには躾しかしていないのに何故! と夫人が金切り声を上げていたけれど。


 教皇がメルルにしていた事を事細かに挙げて、ではこれはすべて偽りだとでも? と問えば。


 あまりにも詳細に知られすぎていた事実に、夫人は黙り込んだ。

 自分がメルルに向けて言った言葉も、子供たちがメルルを玩具にして甚振っていた時の事も。

 何もかもが知られていたのである。


 どうしてそれを……っ、と夫人が口にしてしまった事で。

 言い逃れはできなくなってしまった。



 聖女である事が判明したメルルはどうなったかと言えば。

 伯爵家がなくなった事で、ひとまず神殿で預かる事となった。


 そうしてそこで暮らす事数日、教皇は特に何も起きていないことにホッと安堵の息を吐く。



 メルルの状況を知ったのは、夢の中だった。


 メルルが恐らく物心ついた頃からだろうか。

 彼女が夫人や子供たちによって虐げられている光景が、毎夜毎夜夢に出てくるのである。

 最初は何事かと思ったが、日に日にどんどんハッキリと虐げられている光景に変わるのだ。

 幼いころの記憶は朧気であったようだが、最近の事になれば克明で最初はどこかぼやけた様子の室内も、夫人や子供たちの声も、新しい夢になるとくっきりはっきりしていたのである。


 教皇は神のお告げか何かだろうか……それにしても……この娘を救わねばならないとして、果たしてどこの誰なのか……と悩んでいたところ、他にも同じ夢を見ていた者たちの存在を知り、協力してメルルの捜索にあたったのだ。


 最初のころの朧気な人物では誰なのかもわからなかったが、ハッキリしてくるにつれ、同じ夢を見ていた王妃からあれって伯爵家の……と名が出た事で、伯爵家の内情を探る事となった。

 夢があまりにも鮮明だからとはいえ、それでも夢は夢だ。

 現実には起きていない出来事の可能性もあった。


 だから調べる時は細心の注意を払っていたのだが。


 夢の内容が間違いなく事実であるという確証を得る事になってしまった。

 それでなくともメルルの状況は決して健やかに過ごしているとは言い難く、またそれを裏付けるように国内の情勢は最近荒れつつあったのだ。


 不作。川の氾濫。大雨による土砂崩れ。街道にあった橋の崩壊など。

 一つ一つは偶然だろうと思えるようなものでも、あまりにも頻度が多くこれは聖女が関係しているのでは……? と考えるのは当然の流れで。

 そこに更に一部の権力者たちが同じ夢を見るという始末。


 これどう考えても聖女だな……となったのは言うまでもない。



 聖女について、知られている事はあまり多くはない。


 ただ健やかに、幸せに暮らしていれば国も安定するという確かな事と、不幸であればそれは周囲にも影響を及ぼすという事。


 まさかこうして夢で助けを求めるかのように状況を伝えてくるなど誰も知らなかったのだ。


 夢に見た一部の貴族は、我が子がこんな目にあっていたらと考えて、ついでに夢の中でみた伯爵夫人のあれこれに怒りを募らせてもいた。


 メルルの前で、彼女はどうせわからないだろうと他の貴族たちへの不満も口に出していたのである。

 やれどこぞの家のご夫人はドレスの趣味が悪いだとか、自分の方が美人なのにあれは勘違いしているだとか。

 子供たちもそんな夫人と同じように、よその家の子を貶すような事をたくさん言っていた。


 メルルはその話題に出た人の事など何も知らない。

 けれども夢で見た中には、当事者もいた。


 夢の中の事とはいえ、もしあれが本当だったら……と考えて静かな怒りを育てていたご夫人や令嬢、令息たちはそれなりにいたのである。



 伯爵家が仮に取り潰されていなくとも、夢の中で暴露されたあれこれによって敵を作りすぎた伯爵家はそう遠くないうちに潰されていたことだろう。



 取り潰されたけれど、あまりにも多くの貴族に喧嘩を売るような形でもあったので、どちらにしても先はないかもしれないが。


 家が取り潰されたとはいえ、夫人は実家に帰るという選択肢もあった。

 けれど実家を継いだ兄はきっとそれを許さないだろう――何せ兄に対してもボロクソだったので――兄はメルルの夢を見ていなかったようだけど、他の貴族が噂話として話題に出したので兄はそこまで言うような妹が出戻ってきたとしても受け入れないと決めていた。


 今更平民として働くにしても無理だろうし、最終的に夫人は戒律の厳しい修道院へ送られそこでの奉仕活動を余儀なくされたし、子供たちも別の修道院で修道女や修道士として生きていくしか道がなくなってしまった。

 何故って下手に他の貴族の目に触れる形になれば、間違いなく潰されるからだ。


 世俗から離れる事でしか、生きる道がなくなってしまったのである。

 プライドの高い夫人や子供たちにとっては、生きているだけでもありがたい事だけど今までの生活との落差にさぞ屈辱を感じている事だろう。


 伯爵だった男に関しては、修道士ではなく別の仕事が与えられた。

 とはいっても、労働環境は劣悪でやはり今まで貴族として生きてきた彼には耐え切れないかもしれないが。

 少なくとも、この先一生メルルと会う事はない。


 それだけは確かである。



 神殿で暮らすようになったメルルは、最初こそ戸惑いを感じていたようだがそれでもゆっくりと時間をかけて人並みに感情を出せるようになっていった。

 母が育ててくれていたとはいえ、母が死んだ後はメルルを虐げる人としか関わらなかったので、心は死んだようになっていたし、言葉だって一定のものしか口から出したことはなかった。下手に反応を示すとますます夫人や子供たちが手を出すようになるので、メルルはなるべく無感情でいるしかなかったのだ。

 ずっと閉じ込めていた気持ちを、それでもようやく少しずつ表に出せるようになるまでに長い時間がかかってしまったが。



「おじいちゃん」

「なんじゃいメルル」

「見て、綺麗に咲いた」

「おう。見事なものじゃな」


 神殿の庭の片隅で花を育てたい、とメルルが口に出すまでに、二年がかかっていた。

 自分の望みを言葉にすることすら以前は許されなかったから、環境が変わったとはいえ中々言えなかったのである。

 教皇はメルルの望みを叶えるべくどんな花を育てたいのか、育て方は知っているかとあれこれ手を貸して、そうして後はメルルが困っていそうな時だけ口を出す事にした。


 慣れない作業に最初こそ苦労していたとはいえ、それでもメルルにとってそれは一つの安らぎだったのだろう。

 結果として花は綺麗に咲いた。

 聖女が健やかに暮らしていれば、作物だけではなく他の植物だってすくすくと育つようになる。


 メルルが育てた花は、まさしくそれを証明するかのようで。


「メルル、お前さん今……いや、なんでもない」

「……私、今幸せだよおじいちゃん」


「そうか」


 てっきり一時的な預かりになるかと思っていたメルルは、教皇をおじいちゃんと呼ぶ程に慕うようになった。


「儂も、今幸せじゃなぁ」


 数年前に病で妻を失って、子も事故で亡くしてしまった教皇にはもう家族と呼べる者はいなかった。

 けれども、孫がいたならきっとこんな感じだったのだろうな、と思える程にメルルが懐いてくれたので。

 きっと寿命がくる頃には、思い残す事もなく逝けるだろう。そんな風に思う。


「へへ、そっか……」


 教皇の言葉にメルルが笑う。

「とりあえずは、ひ孫の顔がみたいのう」

「うーん、それはまだ難しいかな。長生きしてねおじいちゃん」

「ほっほ、そればっかりはわからんのう」

「もー」


 ぷぅ、と頬を膨らませるメルルに、ここに来た当初の暗さはない。


 そこにいるのは、誰がどう見ても孫と祖父でしかなかった。


 聖女は健やかに暮らしている。

 ついでに、彼女の平穏でありきたりな幸せは、時々他の誰かの夢の中にあらわれるけれど。


 彼女が幸せである事を証明するその夢は、見た者の気持ちを少しだけ暖かくさせるのであった。

 愛し子が助けを求めてるからなんとかしなきゃ! でも直接関与はできないんだよなぁ……とりあえず他の人間に動いてもらお→なんか幸せになったっぽいから良かったなぁ。

 すっかり一段落したつもりの神様は忘れていました。

 メルルの日常を夢で周囲に知らせっぱなしだという事を。


 とりあえずメルルが結婚して子供作るような頃には思い出してお知らせ夢アワー解除してくれるといいですね(∩´∀`)∩


 次回短編予告

 聖女として召喚された少女は帰れなかった。

 帰りたい。けれど帰れない。

 そんな思いは、別の神のところへと届いてしまった。

 多分バッドエンド。


 次回 同じことを、同じように

 たとえその先が破滅だったとしても。


 投稿 五日以内にできたらいいな

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― 新着の感想 ―
神にすべて筒抜け メルルが現状に怨み骨髄になって、「神様、こんな酷い国、亡ぼして下さい」なんて祈っていたら……恐ろしい
流石にそのうっかりは······! できれば聖女ちゃんがお年頃になる前には気づいたってください神様!w
私生活の垂れ流し生配信とか。有料配信にしないと。 おい、神。切り忘れ配信とか処刑レベルやぞ。 聖女を虐げた不敬一家、命取らないとか'やさしいせかい'だなぁ。 それはそうと、修道院て寄付をする後ろ盾な…
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