愚かで甘ったれな私は、立派なお姉様の代わりに当主の座と婚約者を引き継ぐことになりました。【おまけを追加しました】
姉に振り回されてきた妹の、淡々としたはなし。
「ルイーゼは我が家の誇りだ」
いつもの朝食の時間。
新聞を読みながら、お父様が嬉しそうに笑う。
またお姉様の記事が載ったのだろう。
『勇猛果敢に戦地へと乗り込み、敵味方分け隔てなく救う、麗しき白衣の天使』
お姉様はそう言われている。
「本当に、ルイーゼは我が子とは思えないほどに立派な子ですわ。どうか無事に帰ってきてくれると良いのですけれど」
「あの子は神がこの世界に遣わした天使だ。この度もきっと無事に帰ってくるさ」
お母様もハンカチで目元を押さえながら、しみじみと同意する。母として子を案じる言葉に、父も目を細めながら祈るように呟いた。
「ええ、ほんとうに。お姉様には、神様がついてらっしゃいますもの。きっと、ご無事で帰ってらっしゃいますわ」
父母を励ますように口を開き、私はそっと手を合わせる。
「皆で祈りましょう、お姉さまの無事と、人々の安寧を」
おっとりと柔らかく告げれば、父母も表情を緩め、私を見つめた。
「そうだね、メアリー。そうしよう」
「本当にあなたは、優しい子ね」
いつもの褒め言葉に柔和な笑みを返し、私たちは食事から手を離して切に祈る。姉の無事を。
そして争いが早くおさまり、人々に平穏が訪れることを。
「お姉様は今、二つ隣の国にいるのですよね」
私が確認すると、父は心配そうに眉尻を下げて頷く。
「あぁ、あそこは代替わりしてから治安が悪化して、今は酷い暴動が起きているらしくてね。我が国を飛び出していったらしいよ」
「まぁ、恐ろしい」
気が遠くなりそうな母の横で、私はしみじみと呟いた。
「お姉様は、本当に勇敢な方ですわ」
お姉様は立派だ。
私も心底そう思っている。
けれど、天使というよりは、戦女神のようだけれど。
ルイーゼお姉様は、歴史ある伯爵家の令嬢でありながら明らかな異端だった。
五歳上の姉は幼い頃から才気煥発で、周囲の子供達から浮いていたらしい。私が物心ついた頃には、姉は既に子供の社交界からは飛び出して、大人……特に学術者たちと話すことを好んでいた。
私にとって、姉は最初から偉大なる大人だった。
姉は何事にも優れた才を発揮したが、特に熱中したのは医学者たちとの討論会だ。
とても子供とは思えない知識の広さと考察の深さ、先見性に、当時の医学界には衝撃が走ったらしい。
姉は定期的に彼らの集会に呼ばれるようになり、我が国の医学の現状を知ると、更に貪欲に知を求めた。家の力を駆使して国外まで手を伸ばして最新の情報を集めるようになったのだ。その情報は姉の手による選別を経て、惜しみなく我が国の医学界に提供された。姉のおかげで我が国の医学は一年の間に十年進んだと言われる。
「百年に一人の才媛」
「神が遣わせた、美しき知の女神」
そう呼ばれるほどに眉目秀麗で、溢れる才能に満ちた姉へは、王宮からのラブコールが止まなかった。
少し歳は離れているけれど、第二王子の婚約者にどうか、という誘いもあったほどだ。
当時、幼少の頃から姉を跡取りとして育ててきた両親は大いに慌て、身分が足りませんのでと断ろうとしていた。王子妃となるのは、一般的に侯爵家以上のお家柄だからだ。けれど。
「ルイーゼ自身の価値が、生まれつきの身分などを遥かに上回る」
「ぜひ王族に連なってもらいたい」
とても血統主義の王族とは思えないようなことを言って、王宮はずっと勧誘を続けていた。きっと姉を手中に、せめて国内に置いておきたかったのだろう。
そしてまた、我が国最先端にして、政治からの学問の自由と独立を謳う、聖リリアータ研究所からも、頻繁に勧誘があった。
「ルイーゼ嬢の力は、神から授かったものだ。王族として政務に翻弄されるべきではない。彼女は世俗に振り回されることなく、全人類のために研究を続けるべきだ!」
学問の神リリアータを祀る研究所は徹底した能力主義で、貴族だろうが王族だろうが、最初は研究室補佐員から始めさせると有名だ。
その彼らが、姉には特例として、入所したらすぐに研究室と複数の研究員を持つような地位を与えると、普通に考えたらとんでもない条件を出してきた。
姉が国立学園に在学中、王宮と研究所が姉を取り合い続ける事態になった。しかし、当の本人はどちらの誘いも歯牙にもかけなかったのだ。
「学会の相談役ですら雑務が多くて面倒なのに、王族になるなんて絶対にお断りだわ。研究所に入ったら内部の政治に巻き込まれるし、自分より年上の高慢な部下を統率するのも、権力争いもごめんよ」
姉は、象牙の塔からの熱心な勧誘も、王宮からの熱烈なラブコールも、全ての誘いをけんもほろろに断ったのだ。
「私は私の理想のために、私の道を行くわ」
そして姉は、学園を卒業すると、医学を学ぶのだと告げて、あっさり東国に留学してしまったのだ。
「いやぁ、驚いた。今更ですが、ルイーゼ嬢は只者ではありませんな」
「ここまでくると、気持ちが良い」
一切の世俗の価値観を振り払う姉の生き様は、「非常識な変わり者」「愛国心のない恩知らず」などと非難されてもおかしくはなかった。
しかし、前年の流行病の際に、姉が予測した対応策が抜群の効果を上げていたことで、姉の恩恵を受けた人間が多すぎたのだろう。
姉を非難する方こそが常識がないと言わんばかりの風潮で、社交界では好意的に受け取られた。
おそらくは、どこまでも謙虚に振る舞う平和主義な我が家の在り方も良かったのだろう。
もし私たちが、姉の業績をもって権力や名誉を求めようとすれば反感を買っただろうが、私たちは「変わり者の天才娘に振り回される、欲のない凡庸な伯爵家」であった。
だからこそ姉の縁者でありながらも、毒にも薬にもならない者たちだと、お目溢しをされていたのだ。
姉は、大陸一と呼ばれる外国の大学すらも飛び級で卒業して、数年で帰ってきた。
「東の医学は、やはり、この世界では最先端だわ。この国はまだ五十年遅れている。……でも、私が百年先の未来に連れて行ってみせるわ」
そんな傲慢な台詞を自信たっぷりに言い切り、姉はすべてのしがらみを放り捨てた。
自分自身の人脈と力を手に入れた姉には、もう貴族令嬢という身分など必要なかったのだ。
そして姉は、人の命を救うために、貴族の身分も家も捨ててこの国で初めての女性医師となった。
熱烈を極めた王宮からのラブコールを振り切り、医師として最も名誉と言われる王宮医としての招聘すらも断って、今日もより多くの命を救うために、姉は世界中を飛び回っている。
姉がしがらみ……我が家の娘という身分を投げ捨てた日のことは、今でも鮮明に覚えている。
あれは私が、姉が背負っていた全てを、手に入れることになってしまった日でもあるから。
「お父様、私を絶縁して下さいませ」
家を捨てると決めた姉は、潔く貴族の身分と名字を捨て、我が家と完全に絶縁することを選んだ。
「今後、私の選択や行動により、いかなるトラブルが起きようとも、この家に迷惑はかけませんわ。そのために、どうか私を絶縁してくださいませ」
夕食後の談話室でそう勇ましく告げる姉に、両親は泣いて縋った。しかし、姉の決意は固く、とてもではないが意見を翻しそうになかった。
「メアリー、メアリー。あなたもルイーゼをとめて」
「そうは言われましても……私には、お姉様を止めることなど」
泣きながら訴える母に、私は困り顔でテーブルに視線を落とした。
私が何を言ったところで、姉の意思は変わらない。いや、両親が泣いたところで同じだろう。そんなことは分かりきっているのに、優しくて情け深い両親はなんとか引き留めようとするのだ。
「理解してくれて嬉しいわ、メアリー」
「理解、と申しますか……」
姉から笑いかけられて、私は思わず言葉を濁した。
私は、姉の気持ちや、志の尊さなどを理解したわけではなかった。
ただ、姉という人をそれなりに理解している私には、姉の説得など完全に無理だと分かっていた。
だから、努力をする気になれなかったのだ。愁嘆場を演じたところで単なるセレモニーにしかならないと、分かっているのに。
けれど、だからと言って私は姉のために両親を説得したり慰めたりすることもできず、湿った空気の中でただ戸惑って座っていた。
「ふふ」
そんな私を、姉がくすりと笑う。
「あぁ、メアリー、あなたは昔から変わらないわね」
「お姉様?」
「分かっているのに分かっていない、その幼さが庇護欲をそそるのかしらねぇ」
「え?」
私を真正面から見つめる姉の、妙に柔らかい苦笑に戸惑った。
「ねぇ、メアリー」
「はい」
強い意志を秘めた呼びかけに、私は従順に「はい」と返す。
姉の瞳は何かを見極めるように、しっかりと私を見据えている。こんなにまっすぐ姉に見つめられるのは、何年ぶりだろうか。世界中を飛び回る姉と、しっかり時間を過ごしたことなど、ここ最近はなかったかもしれない。こんな時なのに、少しだけ嬉しくて、そう感じる自分と姉の関係性が切なかった。
「なんでしょうか、お姉様」
そう思いながらも、こんな妙な感傷は場違いで口に出せなかった。私は従順で物分かりのいい妹として、しっとりと姉を見返す。
「ふふ。ねぇ、甘ったれで可愛い、私のメアリー。この家くらいなら、あなたにも継げるでしょう?」
「……はい、ルイーゼお姉様」
そう冗談めかして笑う姉の言葉に、私は淑やかに頭を下げた。下げるしかなかった。
我が家で誰よりも賢く強い姉。
彼女の言うことは絶対だったのだから。
かくして、私は姉の代わりに、この伯爵家を継ぐことになった。
翌日には家族皆で王宮へ涙ながらに絶縁状を提出し、その瞬間から私は伯爵家唯一の嫡子にして歴史ある伯爵家の跡取りとなったのだ。
そして、その第一歩として私は、姉の婚約者であった人と婚約を結び直した。
「これからよろしくね、小さなレディ」
私を優しく見つめるのは、かつて熱い眼差しで姉を愛していた人。
姉の数少ない理解者であり、姉と相愛であったはずの人。
六歳下の私を、まるで実の兄のように慈しんでくれた人。
「よろしくお願いします、ロレンス様」
叶わぬ初恋で終わるはずだったのに。
今、この方は、私の婚約者だ。
***
「ルイーゼが、新たな医術のための魔道具を開発したらしい」
「自然界のエネルギーを元にした、画期的な仕組みですって。凄いわねぇ」
新聞を読みながら、父母は今日も姉を称賛する。戦場で姉の身に何かあった時に、我が家に累が及ぶことを懸念して正式に絶縁して以降、両親も姉の意思を尊重して、一切手出しはしていない。
だから、我が家と姉の間に連絡は途絶えているので、姉の状況は新聞を介してしか入ってこないのだ。
まるで他人のようだといつも思う。
いや、絶縁した今となっては、書類上は間違いなく他人なのだけれど。
久しぶりの夜会に出向けば、いつだって私たちの周りは姉の話題で持ちきりだ。
「なに!?開腹手術だと!?」
会場に入った途端に聞こえてきた言葉にため息が漏れる。今夜の話題は、姉が国内で初めて成功させた開腹手術についてらしい。私たちも今朝新聞で知ったばかりだ。
私はエスコートしてくれるロレンスを見上げた。彼も私を見て苦笑している。
きっと今日も姉について聞かれるのだろう。
「治癒エネルギーを注ぎ自己治癒力を高めるだけではなく、直接手を加えて臓器の損傷を修復するらしい」
「東の果てでは以前よりされていたと聞くが、我が国では初めてではないか?」
「ルイーゼ嬢は東で修練を積まれ、その経験をもとに、さらに改良されたらしいぞ」
「私は医学校の教授をしている友人から、もっと凄い話を聞いたぞ」
頬を興奮であからめた年配の紳士が、にやつきを抑えきれない様子で話題を提供する。
「なんとルイーゼ嬢は、微細な魔力操作によって、血液の流れを止めても心臓だけを動かすこともできるそうだ!」
「まさか!それは魔の領域だろう!?」
畏怖を交えた興奮が重なり、そこにまた別の一人が言葉を重なる。私も思わずロレンスと目を見合わせて驚きを共有する。そんな人間離れしたことが可能なのだろうか?と。
「それが本当らしい。ルイーゼ嬢は医師として外科処置に携わる中でそんな神のような仕業を思いつき、魔法理論学的にも可能にする方法を見つけたわけだ!今では、ルイーゼ嬢の弟子たちにも可能で、他国からも医学を学ぶために留学にくるほどだとか」
「はぁ、もったいない。それだけの新技術を独占しようとしないなんて!相変わらずルイーゼ嬢は、損得勘定というものがない方だなぁ」
我が国の専売特許にしてくれたら良いのに、と嘆いているのは、おそらく外交か経済の重鎮の方なのだろう。まだ社交界に出て日が浅い私はお見かけしたことがない方だから、よく分からないけれど。
「……お姉様らしいわ」
ぽつりと呟く。
姉は自分にしか出来ない手技というものを嫌っていた。修練さえ積めば誰もが可能なものでなければ意味がない、と言うのが、姉の信念だからだ。
王家がどれほど嫌な顔をしたとしても、姉は国内外問わず学びに来た者へ、技術と知識を惜しみなく与える。
今は大陸中に姉の弟子が散らばっていることだろう。
「ルイーゼ嬢の手術は、どの術式も東よりもはるかに成績が良いとか!ついこの間まで、我が国は医療が遅れていると言われていたのに」
「いやぁ、素晴らしい。どこまでも医神に愛されたお方だ!……おや、噂をすれば」
あぁ、とうとう見つかってしまったらしい。
恰幅の良い威厳ある紳士が、ひょいと眉をあげる。ひっそり会場に入り、目立たない場所に逃げ込もうとしていた私たちの名を呼び、声をかけた。
「久しぶりですなぁ、伯爵。良ければルイーゼ嬢の親として、ご感想をお聞かせ願いたい」
「はぁ、いやはや、私どもには、何がなんやら……」
両親は苦笑しながら、ご立派な人々の中に交じっていく。今日は姉の大ファンで、やけに姉の幼少期の話を聞きたがる侯爵様に加えて、噂話好きな公爵様までいらっしゃる。当分解放してもらえないだろう。
「お二人はしばらくあちらにいらっしゃるだろうから、僕たちは向こうに行こうか」
「ええ、ロレンス様」
同じことを考えているらしいロレンスと、私は若い人たちが集まる区画へ向かった。しかし。
「おいロレンス!久しぶりじゃないか、ちょっとこっちに来いよ!」
私の婚約者は、陽気な侯爵令息に声をかけられてしまった。
彼も姉のファンの一人だから、きっとまたロレンスから姉の話を聞きたいのだろう。我が家もロレンスの実家もしがない伯爵家、身分が上の方からのお誘いを無下にはできない。苦笑したロレンスは「今参ります」と返し、私を令嬢たちが集う場所へと導いた。
「少し行ってくるよ。……また後でね、メアリー」
「ええ」
ダンスを踊る間も無く、あっという間に引き離されてしまった私たちは、お互い小さくため息をついた。
「帰る前に一度くらい踊れるといいんだけれどね」
「いつものことですもの、仕方ありませんわ」
嘆くロレンスに私は柔らかく苦笑した。
半年前に私が十五歳を迎え、夜会に顔を出すようになってから、毎回この状況だから、もう慣れてしまった。
「まったく、僕みたいな面白みのない人間の話を聞いて、何が楽しいんだろうな。まぁ、彼らが聞きたいのは、僕の話ではないのだけれど」
普通ならば、年若い妹に乗り換えたと言われてしまいそうなロレンスも、姉が相手では「ルイーゼ嬢に捨てられた男」として面白がられているらしい。
おどけて嘆くロレンスに私はくすりと笑う。
「それは私も同じですわ。私の話を聞きたい人は誰もおりませんもの」
「ははっ、僕らはルイーゼのおかげで、人気者だね」
ロレンス様は姉の元婚約者、そして私は妹。
滅多に社交の場に出てこない私たちに対して、姉の話を聞きたいと望む人たちは多すぎるのだ。
「メアリー様、お姉様とはご連絡をとってらっしゃるの?」
「南の国の王から求婚されたという噂は本当ですの?」
令嬢たちの中に入れば、すぐに姉の話を振られる。ほとんどは私も知らない噂話についてだ。
「まぁ、今はそんなことが言われておりますの?」
私は目を丸くして、驚きを表した。
玉石混交の噂話の中で、若い彼女たちに人気なのは姉と他国の貴公子たちとのロマンスである。
姉をよく知る私は、全て作り話だろうと思っているが、わからない。姉は恋愛に溺れる人では決してないが、自分の存在を対価に、彼らと何かを交渉している可能性は十分にある。
「私にもさっぱり分かりませんの。お姉様は、家を出る時に私たちと縁を切ってしまわれたから……」
「まぁ、ご家族なのに!お手紙もありませんの?」
いつもの理由を口にすれば、いつものように芝居じみた悲嘆の声が返される。
「ありませんわ。姉と縁が繋がっていると、私たち家族や、この国にも累が及んでしまうかもしれないから、と」
私は悲しげに俯き、そっと小さく鼻を啜る。かすかに唇を震わせながら、姉がいる遠くの場所に思いを馳せているかのように窓の外へと視線を向けた。
「危険な地に赴く私は死んだと思ってくれと、たとえ人質となってもいかなる要求にも屈しないようにと、強く仰って……」
「まぁ……」
勇ましくも悲しい姉の訣別の言葉に、年若い少女たちは眉尻を下げて、か細い感嘆符を溢す。私は弱々しい笑みを彼女たちに向け、そして祈るように囁いた。
「でも私たち家族は、……いつも姉の無事を祈っておりますわ」
涙をほろりとこぼして、そっと絹で目元を押さえれば、周りの喧しい小鳥たちもしんみりと口元を抑える。共感力の強い少女たちの数人は、ともに涙を押さえながら頷いてくれた。
「えぇ、えぇ、ルイーゼ様はきっと今回もご無事にお戻りになりますわ。だって天使様がついてらっしゃいますもの」
「ありがとうございます。そう、願っておりますわ」
あぁ、今回も切り抜けた。
内心で安堵の息をつきながら、私は疲労感にそっと肩を落とす。
ルイーゼの妹として名を知られた私は、人の集まる場所に行けば必ず姉のことを尋ねられる。
けれど何を聞かれても、たいてい一つとして答えられないのだ。
だから私はこうして、話題を逸らして煙に巻くことばかりがうまくなる。
あぁ、疲れる。
無理だとは分かっているけれど、どうかあまり姉のことは聞かないで欲しい。
姉の考えていることなど、子供の頃から一度として、分かったことがないのだから。
しかし、悩み事と言えば姉の話ばかりだった平和な日々も、半年後には消え失せた。
ついに我が国でも、戦争が始まったのだ。
何十年にも渡り睨み合いが続いていた西国との国境が、ついに破られ、西との国境にほど近い我が伯爵領にも戦の火の手が迫っていた。
「メアリー、あなたは王都に残りなさい」
「え?」
旅支度を整えた母が青褪めた顔で告げた言葉に、私は絶句して凍りついた。
父は開戦の報を聞くと同時に、慌ただしく領地へ戻っている。きっと戦闘準備に追われているのだろう。
王都に残り、援軍を送ってもらうための根回しを整えた母も、これから領地へ戻るのだ。前線への後方支援と、そして、万が一の時は伯爵代理として領地を守るために。
「伯爵領のすぐ近くまで、敵軍は迫っていると聞きます。王都に残りなさい」
「そんな!」
生まれてから今まで、父母と離れたことのない私は激しく動揺した。なんの疑いもなく、両親と共にいるのだと思っていた。伯爵領に帰ったところで、私がなんの役にも立てないのだとしても。
「嫌です、お母様!私もともに帰ります!」
戦地となったとしても、父母と一緒にいる方が安心だと思った私は、まるで幼子のように母に縋った。けれど、いつも優しい顔で私を撫でてくれる母が、今回ばかりは厳しい顔で首を振ったのだ。
「なりません、危険です」
母はこれまで見たことがないほど真剣な目で私を見つめ、きっぱりと言い切った。
「我が家の血筋を絶やすわけにはいきません。そしてあなたが伯爵領に戻ったところで何も出来ません……いえ、むしろ、あなたを守るために余計な兵力を割かねばならなくなります」
「お母様……」
「あなたも貴族ならば、呑み込みなさい。あなたは王都で、我が国の勝利を信じ、祈りなさい」
母の強い眼差しに、私は呆然と呟き、そして必死に涙を堪えて頭を下げた。
「はい、分かりました。……どうか、ご無事で」
穏やかに笑っているだけだと思っていた母は、私の想像以上に貴族だった。
こうして両親は二人とも、今にも戦火が届きそうな伯爵領に戻った。二人がいなくなってから、私は必死に祈った。
我が軍の勝利を。
そして、なによりも父母の無事を。
「大丈夫かい?メアリー」
「ロレンス様」
ロレンスは、使用人を除いて、住む者が私一人になった王都の伯爵邸へ、しばしば様子を見に来てくれていた。
女学院も休校となり、引き篭もっていて私にとって、ロレンスの訪問が心の支えだった。
「最終学年なのに、学園生活が楽しめなくて可哀想に」
「……お友達とはまた、会えますから」
そう笑って慰めてくれるロレンスに肩を抱かれながら、私は小さく呟いて肩を落とす。
「あの、……伯爵領は」
「まだ火の手は届いていないらしいよ。辺境伯が踏ん張って下さっているからね」
私の不安に満ちた問いかけに、ロレンスは力強く保証してくれた。
「あぁ、よかった」
細い吐息が漏れる。
十五歳を迎えてデビュタントを終えても、まだ学生である私は、政治の世界には立ち入らない。何も知らず、毎朝新聞を見ながら怯えていることしかできないのだ。
「みんな……大丈夫かしら……」
私の愛する領地は大丈夫なのか、昔からお世話になっている使用人たちや騎士団のみんなは無事なのか、そして父母は。
そんな不安に押し潰されそうになりながら、日々祈るばかりの私を、ロレンスはそっと抱きしめてくれた。
「伯爵家の騎士たちは、とても優秀で勇敢だ。必ず君の領民も、お父上とお母上も守ってくれるさ」
そう囁きながら、情けなく泣く私の髪をロレンスは優しく梳いてくれた。
彼の腕の中の喩えようもない安心感に、私はひどい幸福感と、ときめく高揚を覚えた。
「ロレンス様……」
縋り付けば応えてくれるこの逞しい腕は今、私のものなのだ。
「小さな僕のメアリー、君は何も心配しなくて良い。来年の、僕らの結婚式のことでも考えていればいいのさ」
穏やかに微笑んで私に優しいキスをくれるロレンスにうっとりと見惚れる。ロレンスが大丈夫だと言ってくれるのならば、本当に大丈夫な気がした。
きっと我が国は戦いに勝利し、十六歳になった私は幸せな花嫁になるのだと。
「……愛しておりますわ、ロレンス様」
「僕もだよ、可愛いメアリー」
温かな腕の中で、全てを捨て去ってくれた姉に、私は初めて感謝した。
もともと芽吹いていた私の恋心は、不安な日々を癒し、私の心を守ってくれる優しい婚約者に向けて、ぐんぐんと育って行った。
たとえ家族が皆、私を置いて行ったとしても、ロレンスがいれば良い。
ロレンスが私を抱きしめてくれるのならば、どれほど恐ろしい状況でも耐えられると、私はそう感じていたのだ。
けれど、不意に数日間、ロレンスの訪問がない時があった。
心がざわざわと落ち着かず、眠ることもできなかった私は、数日ぶりに現れたロレンスに飛びついた。
「ロレンス様!よかった、どうなさったのかと」
「連絡できなくてごめんね、メアリー」
申し訳なさそうに告げるロレンスは、少しやつれた顔をしている。戦時中で、彼も貴族令息として忙しかったのかもしれない。そんな中でわざわざ来てくれたのだと思うと、なおさら喜びと愛しさが募る。
「いえ、きてくださいましたもの」
私は蕩けるように笑って、ロレンスに抱きついたまま告げた。
「お茶を用意しておりますの。一緒に」
「あぁ、ごめん、時間がないんだ」
「え?」
ロレンスの纏う空気がいつもとは違うことを感じ、私の心臓がドキリと鳴る。嫌な音を立てて早くなる鼓動は、続く言葉を無意識に予期していたのかもしれない。
「命令が下ったよ。明後日、私も王都を出る」
「そんなっ!?」
私は全身が冷たくなったような気持ちだった。
ロレンスは近衛騎士団の一員だった。
もっとも、平和な近年では、貴族令息の箔付けや名誉職のようになっていた近衛騎士だが、今回のことで一気に様相が変わった。
元から名前だけ所属していたような貴族の放蕩息子たちは次々と逃げ出し、また、不真面目であったり能力の足りない者も次々と騎士団から放り出された。
それなのに、真面目に訓練を続けていたロレンスは、戦力に足る要員として認められてしまったのだ。
「指揮官として行くんだ。名誉なことだよ、泣かないで」
「でも、だって……危険ですわ」
ポロポロと涙をこぼしながら、私はロレンスにしがみついた。戦地に近い伯爵領にいる両親のことも心配なのに、私の愛する婚約者は戦地そのものに行くと言うのだ。悲しまずにいられるだろうか。
ロレンスが死ぬかもしれないと思うと、恐怖に体が凍りつくようだった。
「ねぇ、愛しいメアリー」
ロレンスが大きな手で、優しく私の髪を梳りながら子守唄のように囁く。
「僕はね、我が国の民が少しでも守れるように、……ううん、王都で僕を待ってくれている君のために、行こうと思うんだ」
「私のため?」
私のためだと言うのならば、そばにいて欲しい。すぐ隣で悲しい時に肩を抱き、寂しい夜に抱きしめて欲しい。それが幼い私の本音だ。
「愛する人に危険が及ばないために、この身が役に立てるのならば、僕は喜んで向かうよ」
「っ、ロレンスさま……」
「どうか僕のために祈ってくれ、君の優しい祈りがきっと僕を守ってくれるよ」
ポロポロと泣きながら、私は涙に滲む視界でロレンスを見上げた。
「私の想いは、届きます、か?」
「あぁ、もちろん」
幼な子のように泣き続ける私を笑いもせず、ロレンスは愛しくてたまらないと言うように顔中に口付けを落として、涙を吸い取ってくれた。
「可愛いメアリー、泣かないで。大丈夫だよ。近衛騎士団に所属していて、しかも伯爵家の次男で君と結婚が決まっている僕は、現地に出向く貴族の中でもそこそこ上位にあたるからね。後方で指揮をするだけだから、そうそう死ぬことはないさ」
私を慰めるようにそうおどけると、ロレンスは幼子をあやすように、優しく私の額にキスを落とした。
「さぁ、笑って見送っておくれ。僕は君の笑顔を守るために、戦いに行くのだから」
「……静かだわ」
戦場に向かう騎士達を見送るパレードから帰宅した私は、沈痛な空気を湛えた屋敷でポツリと呟く。
両親は今、領民を守るために走り回っているのだろう。
婚約者は今、敵と剣を交えているのかもしれない。
けれど私は、守られた王都の安全な屋敷で一人泣き暮らすくらいしかできることがないのだ。
あぁ、情けない。
私は一人きりだ。
戦況を知るためには新聞を読むしかない私は、毎朝配達員が届けてくれるのをじりじりと待っている。
「お嬢様、届きましたよ」
「ありがとう」
侍女が持ってきてくれた新聞を、目を皿のようにして読み進める。
紙面が伝えるところによると、敵国との兵力は五分五分で、今は均衡が保たれ、国境は突破されていないらしい。と言うことは、きっと伯爵領はまだ無事なのだろう。
死者の数は日に日に増えているが、まだ貴族の死者はいないようだ。爵位を持つ家の人間が死んだ時は新聞の一面に載るから、ロレンスもきっと死んではいないはず。
「……よかった。ロレンス様はきっとご無事よね」
自分を言い聞かせるように呟き、私は今一番危険な場所にいる恋しい人を想ってため息をつく。
どうか無事に帰ってきて欲しい。いっそ怪我をして、戦力外になって帰ってきてくれないかしら、とすら思う。命に別状のない、ちょうどいい怪我をしてくれれば良いのだけれど。
「……あぁ、いけない。こんなこと、考えてはいけないわ」
己の身勝手で不謹慎な思考に、苦々しく顔を歪めて首を振る。
私は彼の健闘を信じて、無事を祈っていなければいけないのに。
必死に戦っているロレンスに申し訳がない。
「はぁ……」
己の身勝手さに重いため息を吐きながら、頁をめくると。
「え?……お姉様?」
白衣を纏い、凛々しく指示を飛ばす姉の写真が、大きく掲載されていた。驚いて見出しを読めば。
「『白き女神は王都にあり』……?お姉様、今は王都内にいらっしゃるの?」
記事によると、普段は戦場で傷ついた兵たちを治療している姉だが、今は王都の戦争による傷病者を治療する病院の責任者として働いているらしい。国王からの求めで、一時的に前線から王都に戻ってきているそうだ。
「前線にはお姉様の弟子たちが複数残って、王都に辿り着くまでの応急処置を施し、お姉様が王都の施設で手術や処置をしているのね……」
高度な医療が必要となる者たちを一人でも多く救うため、と書いてあるから、きっと毎日白衣を赤く染めながら、走り回っているのだろう。けれど。
「よかった……戦場よりも、きっとよほど安全だわ」
いつも危険な場所を駆けている姉のことは、考えまいとしても、いつも心配していた。新聞で姉の訃報を知るのではないかと怯えていたのだ。王都にいるのならば、むしろ普段よりも安心だと、私は肩の力を抜いて、久しぶりに笑みをこぼした。
それに王都内に姉がいる、いつでも会いに行けるという安心感は大きかった。
お姉様はいつだって強くて立派で、ほんの五歳しか上ではないのに私にとってはずっと大人だったから。
すぐ近くに庇護してくれる人がいるという安堵は、私の心を随分と慰めたのだ。
私はそれから静かに祈りの日々を送った。
騎士達の無事を祈って毎日刺繍をし、それを伯爵領に送るくらいしかできない。
毎日伝わってくる戦況はよくわからなかった。我が国の騎士団がもう少しで相手を押し返すと、そんなようなことばかり書いてあった。
「戦争なんて、はやく終わらないかしら」
重いため息をつきながら、私は憂鬱に新聞を折りたたむ。両親からは無事を知らせる手紙が来たけれど、一週間も二週間も遅れて届くから安心することは難しい。ロレンスからは余裕がないのか、ちっとも便りがない。
「でも、何かあれば連絡があるでしょうし……」
そう自分を言い聞かせながら、過ごしていた、ある日。
「…………え?国境が突破された?」
白黒の新聞の紙面で大きく主張する恐ろしい文言。伯爵領のすぐそばまで敵軍は迫ってきているという。
「そんな……え」
読み進めていた私は、思わず息を止めた。
だって、次の頁の生死不明者の一覧に。
「ロレンス……さま……」
愛おしい婚約者の名前が載っていたのだから。
「はぁっ……はぁっ……」
私は走っていた。
途中まで乗っていた馬車は、途中で車輪が壊れて動けなくなってしまったから、護衛騎士を一人だけ連れて、飛び降りた。
私の心情を慮ってか、そのままついてきてくれる騎士に甘えて、私は姉がいるはずの施設の門の中に飛び込んだのだ。
「お姉様っ」
「……メアリー?」
扉をあけ、制止の声を無視して駆け込めば、たくさんのベッドが並んだ広い空間の真ん中で、周囲に指示を飛ばす姉がいた。
「あなた、なんでここに」
一瞬驚きに眉を上げた姉は、周囲にいくつかの指示を告げてから、早足に私のところに来た。
「何をしにきたの」
「ロレンス様が……ロレンス様が、戦地で」
言葉に詰まれば、姉は静かな声で問いかけた。
「死んだの?」
冷静な声に、私は咄嗟に首を振る。
「い、いいえ、新聞の、生死不明者の欄に」
「それなら、まだ分からないわ。あなたにも私にも出来ることはない。屋敷に帰って大人しくしていなさい」
私の答えにひとつ息を吐くと、すぐに踵を返した姉を、必死に呼び止める。
「お姉様ッ」
「……なに?忙しいのよ、手短にお願い」
ちらりとこちらを見る目の淡白さに、私の中で焦燥が募り、涙が溢れそうになる。
「ど、どうかお屋敷に、帰ってきてくれませんか?」
「は?私はもう、伯爵家とは絶縁した身よ。おかしなことは言わないでちょうだい。……ロン、何?聞くわ」
私に遠慮しながらも近づいてきた白衣の青年に声をかけられ、姉はすぐに私から興味をなくした。
「お姉様っ」
それが悲しくて、私は必死に姉にとりすがった。
今の私には、姉しか頼れる人がいないのだ。
「お願いっ!お願いよ、お姉様!お屋敷に帰ってきて!お父様とお母様も伯爵領に戻られて、どうしていらっしゃるかわからなくて……ロレンス様の生死も分からないし、ひとりじゃ心細いの……っ。私のお願いを、一度くらい叶えてくれても良いじゃない」
「……馬鹿馬鹿しい」
泣きじゃくる私を一言で切って捨て、姉はあからさまな軽侮と苛立ちをこめて睨みつけた。
「そんなことでここに来ないで!私に屋敷に帰って何をしろと!?神様の像に向かって祈ったところで、時間の無駄よ」
「ひどいわっ!」
祈りを無駄と吐き捨てられ、私もカチンときた。私の祈りは届くと、ロレンスは励ましてくれたのだ。それを胸に、この不安な日々を耐えていたのに。
「お姉様はなんでそんなに冷たいの?お父様たちが心配じゃないの?ロレンス様は、お姉様の幼馴染でもあるのよ?……お姉さまには、人の心がないの!?」
「こ、の、愚か者ッ!」
私の幼稚な罵倒に堪忍袋の緒が切れたのだろう。姉は悪魔のごとく顔を歪め、私を真正面から怒鳴りつけた。
「人の心がないのはあなたでしょうッ!ここには、今!死にかけている人がたくさんいるのよ!?……この人たちから私を奪うことが何を意味するのか、わかっているの!?」
「……あ」
その言葉にハッとする。ぐわりと視界が揺れ、私が感じていた世界が崩れる。
キーン、と、目の回りそうな耳鳴りの後で、私には、それまで聞こえなかった音が聞こえてきた。
「う……うぅ……」
「み、ずを、くれ……」
「いたい……いたい……」
「あいたい……かぁさん……」
血の気のひいた顔をめぐらせれば、辺りからはうめき声や泣き声、悲鳴が聞こえてくる。
「うっ、くすりを……お、おたすけを貴族さま……ッぐぇっ、ぉえええッ」
そして私のもとへ這いずってこようとした片腕のない男は、数歩先で嘔吐して意識を失った。
「ジュリアン!……邪魔よ、どきなさい!」
「きゃっ」
駆け寄ることもできずその場に立ち竦む私を押しのけて、姉が素早く男の横に片膝をつく。
吐瀉物を避けて男を横たわらせ、痙攣する男に何かの薬を注射した。
「あぁ!あなたが興奮させるから!この人はもうすぐ処置の順番だったのに、無理して動くから……チッ!出血が悪化してるわ。早く処置室へ!」
「お、おねえ、さま……」
貴族令嬢にはあるまじき舌打ちも、この現場では適切だった。チッという音一つに重い悔恨と激しい苛立ちを放り込み、姉はすぐに次なる一手を考え、止まることなく動き出す。
「ご、ごめんなさ」
「うるさいわ、帰って」
伸ばした手はぴしゃりと拒まれる。けれど動揺する私は、そのままオロオロと立ち尽くした。
「で、でも、私のせいで」
「何もできないくせに、居るだけで邪魔だとわからないの!?いい加減にして!」
殴りつけるような怒声に、頬を張られたかのように脳がぐわんと揺られた。
「ここは私の戦場なの!なるべく多くの人を生きてここから帰すために、私は私の全てを懸けて戦っている真っ最中なのよ!くだらない感傷で邪魔しないでちょうだい!」
「あ……」
言葉を返すこともできず、私は喘ぐように苦い空気を呑む。
その通りだ。
私は、一体何を考えていたのだろう。
王都の中ならば安全だと、姉も王都にいるのだと、それしか見えていなかった。
ここが……戦場と地続きのこの施設がどういう場所なのか、ちっとも分かっていなかったのだ。
「あのね、愚かなメアリー。私はあなたと違って、この人たちを救うことが出来るかもしれないの」
出来る、と言い切らない姉の潔癖な誠実さが、より私の胸を抉った。
「あなたには、人間に見えていないのでしょうけれどね。この人たちも、みんなあなたやロレンスと同じ人間なのよ」
「そんな、こと……」
否定の途中でくちごもる。
ないとは言えない。さっきまで、私は彼らの姿など見えず、声も聞こえていなかったのだから。
「みんな、貴族たちの指揮で突撃させられて、訳もわからず戦争の前線に引っ張り出されて、大怪我を負っているのよ。この人たちには、何の罪もないのに!」
「あ……」
自分は後方にいる指揮官だと語っていたロレンスを思い出す。
そしてやっと気がついた。
貴族が後方にいるのならば、きっと貴族ではない平民の兵士たちが前線に出ているのだ。
そんな簡単な理屈が、なぜ私はわからなかったのだろう。
「この人たちはみんな、誰かの夫で、誰かの恋人で、誰かの息子で、誰かの大切な人なの。分かるかしら?守られた花園で育った、愚かな子」
私は戦争が始まっても、安全な王都の屋敷で神に祈り、少々清貧に努めるだけで、大して変わりなく暮らし続けている。
恐ろしくて醜い現実など、かすりもしない世界で。
そんな私を知っているのだろう。
姉は忌々しそうに私を睨みつけた。
「そんな綺麗な格好で、膝をついて服を汚す気もないくせに、ここに来ないでちょうだい!」
「おね……さま……」
「甘ったれたお嬢様。いつだって自分のことしか見えていない、あなたのそういうところが本当にイライラして仕方ないわ!」
燃えるような怒りの瞳に射抜かれて、呼吸もできない。
「メアリー、邪魔よ。今すぐ帰りなさい」
血と吐瀉物に汚れた白衣を纏いながら、姉は強い眼差しで私を見つめて言い放つ。
「私はここに来た人たちを、一人でも多く生かさねばならないのよ」
どこまでも誇り高く、まるで本物の女神のように。
「申し訳、ありませんでした……」
誰一人聞いていない謝罪を呟き、深々と頭を下げてから、私は施設を後にした。
後ろを静かについてくる護衛騎士以外に、とぼとぼと歩く私を気にする人はいない。
あの場所で、私は気を遣うべき高位貴族令嬢ではなく、外部からの迷惑な侵入者でしかない。
花畑と地続きだからと勘違いして戦場に紛れ込んだ、場違いな蝶々だ。
「……ご、めんなさい、おねえさま」
情けなくて、悲しくて、みじめで、涙が次々と溢れてくる。
なぜ姉と私は、見えているものが、見えている世界が違うのだろう。同じ家で同じ両親の元に生まれ、同じように育ったはずなのに。
姉に言われるまで、私は足元に寝転んでいる人たちの悲鳴も呻きも聞こえなかった。人間は、認知していないと認識できないのだろう。
いつもいつも、何も見えず、聞こえず、理解せず。
姉の邪魔ばかりして、失望させて。
あぁ、恥ずかしい。
十五歳にもなって、なんてみっともない。
甘やかされた愚かなお子様だ。
伯爵家の跡取りでありながら、一人で留守番すらもできないのだから。
「っ、こんなんじゃ、だめなのに」
こんな私はとてもじゃないけれど、ロレンスに釣り合う大人の女性とは言えない。
だからかつて姉を愛していたロレンスは、いつも私を守るべき子供のように扱うのだ。
こんな守られて当然だと思っている私のようなコドモは、きっと女として愛してもらえないだろう。
ふらふらと王都の屋敷に帰り着いてからも、私は数日間泣き暮らした。
そしてひたすらに神へと祈った。
何か出来ることはないかと考えたところで、無能な私には、それしか出来ることがなかったからだ。
一ヶ月後、停戦協定が結ばれたと言う報が入った。
王都は安堵に沸いた。
両親からは連絡があり、後処理をしたら一、ニヶ月後には帰れるだろうとのことだった。
「よかった……お父様、お母様……」
ほろほろと安堵の涙を流す私の肩を抱いてくれる人はいない。私は一人、肩を震わせて手紙を抱きしめ、神に感謝を捧げた。
「ロレンス様……」
婚約者の安否を伝える連絡はまだない。
けれど私はただ無事を信じて、ロレンスのために刺繍を続けた。
姉には無駄と切り捨てられたけれど、祈りは届くと、ロレンスは言ってくれたのだから。
そして、停戦が報じられた一週間後。
「ただいま、私の小さな恋人さん」
「……ロレンス、さま」
私の元に現れたのは、左腕が痛々しい包帯で包まれた、愛おしい婚約者だった。
「ご無事だったのですね……」
「あぁ、多少怪我はしたけれどね。ちゃんと生きているよ」
「あ、ああ!ああぁっ!よかっ、よかった…!」
多少というには大怪我であったけれど、生きていたということに安堵して、とてつもなく嬉しくて、私はそのまま泣き出してしまった。
「そうして心から心配して、無事を喜んでくれるあなたがいるのが、僕はとても幸せだよ」
頑是ない子供のように泣きじゃくる私に、ロレンスは嬉しそうに頬を緩め、そして右腕で強く抱きしめてくれた。埃の匂いがする。実家に戻る前に、こちらに寄ってくれたのだろう。その優しさに、ますます涙が溢れた。
「あぁ、神に感謝いたします」
そう呟いた私に、ロレンスはくすりと笑い、私の頬を突いた。
「僕が帰ってこられたのは、メアリーのおかげだよ」
「え?」
意図を理解できず首を傾げる私に、ロレンスは優しく笑みを深める。
「メアリーの元に帰りたいという願いがあったから、僕はこの場所に帰って来られたんだ」
「そんな……私は王都で泣いていただけです。何もできませんでした」
「そうかい?僕の夢には君が出てきたよ。君の祈りが届いたのかと思っていたけれど」
冗談まじりに告げられた言葉にほんの少し心が明るくなる。けれど、私の祈りにそんな力があるのだろうか。私にはそうは思えなかった。
「きっと違いますわ、私にはなんの力もございませんもの。私はただの……愚かで甘ったれた、貴族のお嬢さんですわ」
「おや、またお姉さんに何か言われたのかい?」
ひどく落ち込んでいる私に、勘のいいロレンスが問いかける。
いや、昔から私が落ち込むのは姉絡みが多いからだろう。
実際にほとんどその通りなので、私は反論もできず、力なく肩を落として首を振った。
「いいえ、身に染みて再認識したのです。これまでずっと何もかもお姉様に全てを任せきりで、私には貴族の自覚もありませんでした」
「まぁ、君はまだ学生だ。仕方ないよ」
慰めの言葉に、子供だから仕方がないのだと言われた気がして、なおさらに落ち込んだ。だって、姉は私の年齢よりも幼くても、ずっと昔から大人だったのだから。
「でも、姉はずっと昔から、強く貴き者の義務と使命を理解しておりました。私だって、姉と同じように学んでいたはずなのに、情けなくて……」
「うーん、ルイーゼはちょっと特殊だからなぁ」
苦笑するロレンスの言いたいことも分かる。天才の姉と比べるなということだろう。けれど、振り返ればやはり、私は怠惰で無責任だったと思えるのだ。
「当主教育も、両親は私と姉に同じものを施してくれました。……それなのに、きっと優秀な姉が跡を継ぐのだと思い込んで、私は真面目に当主となる教育を受けていなかったのです。だから、今更慌てて学び直しているのですわ。どうしようもない愚か者です」
両親だってもちろん優秀すぎる姉に期待していた。けれど父母はとても常識的な人たちだったから、私たちを大きく区別することはなかったのだ。二人とも女の子だから、どちらが嫁ぐか分からないと、同等の教育を施してくれた。それを無駄にしたのは私だ。
「たとえそうだとしても、メアリーは放り出さず、ちゃんと学び直しているじゃないか」
「放り出すだなんて、出来るはずないではありませんか」
「それがね、世の中にはたくさんいるんだよ?義務を放り出す、身勝手な人と言うのが」
面白がるように、ロレンスが笑う。
そして、内緒話のように声を顰めて続けた。
「実はね、……君のお姉様もその一人なんだよ?」
「え?」
あまりにも思いがけない言葉に、私は驚いて目を見開く。姉のことを身勝手だなどと、考えたことはなかったのだ。あれほど、己に与えられた使命というものに、忠実で誠実で情熱的な人はいないだろうに。
「彼女は己の才覚と信念に基づき、天命だと言って、貴族の、この家の当主となる義務を手放した。メアリーに押し付ければ良いと考えて」
穏やかに告げられた冷たさを纏う言葉に、ふるりと背が震える。私はそんな風に考えたことはなかった。いつだって、姉は誰よりも強く、正しい人だったはずだ。
「そ、そんな…お姉様は、いつだって強く正しく、人を救うことを使命としていました。立派な方ですわ」
姉を否定されることが恐ろしく、私は拙い言葉で言い募った。姉を否定してしまったら、これまで信じてきた世界が崩れてしまうような気すらしたのだ。
私の困惑と焦燥に、ロレンスは柔らかく眉を落とし、厳しかった表情を和らげた。
「たしかに強く正しい。けれどルイーゼは、あらゆる人間に優しいからこそ……本当ならば最も大切にするべき身内には、優しくない人だったと思うんだ」
「ロレンスさま……」
悲しげな言葉にいくつもの過去が思い当たり、私は静かに息を呑む。
「ルイーゼははっきりした使命感を持って、他の人には出来ない尊い仕事をしている。それはわかっているけれど、……ねぇ。彼女を大切に思う周りの人間は、悲しい思いをすることも多かっただろう?」
苦笑するロレンスに同意することもできず、私は小さく俯きながら、昔のことを思い出した。
姉は常に己の信条のままに行動した。
姉は誰にも相談せず留学を決め、家族の誕生日や祝い事よりも学会や研究会を優先したし、親族の葬儀でも戦地から戻らない時もあった。
ロレンスに対しても同様だ。
一般的な婚約者との行事を無意味と切り捨てて軽んじ、急病人があればロレンスとの約束を反故にすることも多かった。
「ルイーゼだから仕方ないと、次第に僕らもみんな受け入れていたけれど、ただ見守っているしかないのは辛かったよね」
しみじみと続けられる言葉に、私は無言をもって同意する。
どれだけ涙ながらに止めても、私たちの心配を歯牙にもかけず危険な場所に駆けていってしまう姉を見送るのが、私は何より辛かった。
「ルイーゼがあまりにも規格外だから、うっかり気づかないけれど、わりと僕たちって振り回されてきたんだよ?」
おどけて言うロレンスに、私は少し考えてから小さく頷いた。
確かにそうかもしれない。
普通ならば非難されるだろう姉の振る舞いも、その行動の全てが人の命を助ける尊い役目のためであったから、私たちは口にはできなかった。
特に婚約者のロレンスは姉に振り回されることが多かったのだろう。
けれど姉の婚約者であり、理解者でもあったロレンスは、その状況を甘受し、むしろ姉を応援すらしていたように見えた。
しかしロレンスだって、寂しくないわけではなかったのだろう。
婚約者がいるから、他の女性を誘うことも叶わず、いつだって一人で出向く夜会やお茶会、学園のパーティー。そんな日々に、虚しさを感じないわけがない。
「……ロレンス様、寂しかったのですか?」
「ふふ。まぁ、メアリーが居てくれたから平気だったけれどね」
ぽつりと尋ねれば、ロレンスは笑って答えた。
私は時折姉の代わりに、小さなパートナーとして務めていたのだ。未来の義妹として。
それでロレンスが、少しでも慰められていたのならば嬉しい。
そう思って表情を和らげれて見上げれば、ロレンスはとても愛おしそうに私を見つめていた。
「そうやって僕の心を思い遣ってくれるメアリーが、僕はとても愛おしいんだよ」
ちゅ、と愛らしい音をたてて、私の額に口付けが落とされる。ロレンスは過去を思い返すように、静かな顔で続けた。
「理想が高く、気高く、それ自体はとても美しい。けれど周りの、近しい人を苦しませる人でもあった。君やご両親は、ルイーゼのために何度も泣いただろう?逆に、君はご両親やルイーゼを泣かせたことがあったかい?」
「それ、は……」
たしかに、私は親を泣かせたことはない。それは当たり前だと思っていた。むしろ、私には親の言うことを聞くくらいしか出来ないのだと、自嘲していたのに。
「大切な人を泣かせたくない、そのために夢や希望を諦めるとしても、それはとても美しく素敵な、愛のある行動だと僕は思うんだよ」
「……私の場合は、ただ何も考えず、父母の言うままに生きてきただけです。そんな立派なものじゃありませんわ」
「ふふ、それが一般的には優しくて良いお嬢さんだと言われるんだけれどね。それじゃあメアリーには意味がないのかな?……仕方ない、少し説明を変えようか」
卑屈な私のために、ロレンスはゆっくりと語ってくれた。
彼がこれまで口にしなかった本心を。
「僕はね、ルイーゼのことはとても尊敬しているけれど、でも、……彼女と夫婦となり、家庭を築くことは出来ないと前々から思っていたんだ」
「え?」
思いがけない言葉に戸惑う。私の目から見て、姉とロレンスは相思相愛だったのだ。
ロレンスと話している時の姉は生き生きと輝いていたし、姉を見つめるロレンスの瞳にはいつだって情熱が焦がれていた。
私を見つめるロレンスの瞳には浮かんだことのない熱が。
「……ロレンス様は、お姉様のことを、その」
「ああ、好きだったよ。けれど、……僕には無理だと思った。彼女の死をも恐れぬ生き方は、僕には耐えられない」
口籠った私に微笑して、ロレンスは肯定し、同時に否定した。
姉という人を、その生き様を含めて、丸ごと愛することはできなかったと。
「ルイーゼは千人の命を助けるためならば我が身を、いや、我が子であっても犠牲に出来る人だ。彼女は本当に、とても強く、尊く、得難い人だと思う。……けれど僕は、そんなルイーゼと家庭を築くことはできないと思ったんだ。僕は、千人の他人よりも一人の愛する人を守りたいと思ってしまう凡人だからね」
「そ、れは……普通のことですわ、きっと」
どう反応して良いのかわからず、うまく言葉が出てこない私に、ロレンスは自嘲まじりに続けた。
「もちろん僕も貴族として、そして領主としての責任は果たすつもりだ。必要とあれば僕だって我が身を差し出すし、場合によっては我が子を人質として差し出すだろう。けれど僕は葛藤し、ひどく苦しみ、泣きながら神を恨むだろう。でも……おそらくルイーゼはその時に、葛藤しないと思うんだ」
「そんな……」
確信しているかのように語られたロレンスの言葉に、私は言葉を失ったが、同時に納得もしていた。たしかにロレンスの言う通りだと思ったのだ。
目から鱗が落ちたような気分だった。
家族として盲目的に愛し、信じている私たち家族が見てきた姉と、婚約者という立場からロレンスが見てきた姉は、随分と違う形だったらしい。
「ルイーゼは、その行動が最大多数の最大幸福につながるのであれば、それが正しいと考えるからね。彼女の揺るぎなさ、それが僕のような俗人には理解できないんだ。……これが、僕がルイーゼからの婚約破談の申し入れを受け入れた一番の理由だよ」
幼い頃から多くの時をともに過ごし、おそらくは姉の最大の理解者でもある私の婚約者は、そう言って悲しく笑った。
「ロレンス様……」
なんと言えば良いのか分からず、私は名前を呼んだきり押し黙った。気の利いたことが言えない己の不甲斐なさを噛み締める。
またしても自己嫌悪に襲われている私に、ロレンスは苦笑した。
「あぁ、こんな言い方じゃ伝わらないよね。……ちゃんと言わなきゃ」
小さく呟き、ロレンスはしっかりと真正面から私を熱く見つめ、そして優しく囁いた。
「今、僕がこの世で誰よりも愛しているのはメアリー、君だよ」
「っ、ロレンス様?」
唐突な愛の言葉に、私は動揺する。こんなにはっきりと告げられたことはなかった。いつだって幼い子供をあやすような、大人と子供のような対応しか、されたことがなかったのに。
「僕を愛し、僕の愛を受け取ってくれて、僕の愛するものをきちんと愛してくれる君が、僕はとても愛おしいと、そう思っているんだ」
淡々と、しかし切々と、ロレンスは私に語りかける。優しい熱を帯びた瞳に囚えられ、私は顔が熱くなるのに、視線を外すこともできなかった。
「歴史に名を残すような偉大な発明をしなくても、数多の人命を救わなくとも、身近な数人を幸せにするだけで、人生の価値はある。僕はそう思うよ」
「ロレンス、さま……っ」
ぽろり、とまた新しい涙が零れ落ちる。
私は、ずっと姉と自分を比べて自信がなかった。
唯一無二の姉の代わりにはなれなくても、この家の娘として伯爵家を継ぐことくらいなら出来るかもしれないと思ったのに、結局ひとりで留守番すらできない為体で、私は打ちのめされていたのだ。
「ほ、んとう、ですか?……私にも、価値はあるのでしょうか?」
「あぁ、もちろんだよ」
力強い肯定の言葉に涙が溢れて止まらなくなる。
何も成せず、誰の役にも立たない自分には、価値などないのではないかと思っていたのに。
私の愛する人は私に価値があると、私を愛していると言ってくれるのだ。
「あぁ、メアリー、そんなに泣かないで?言葉が足りなくてごめんね」
泣きじゃくりながら首を振る。私が卑屈だったのがいけないのだ。
でもそう訴えても、ロレンスは「そんなことはないよ」と優しく笑うだけだ。
「お互いに言葉が足らなかったんだと思う。僕たちにはもっと互いに心を通わせあい、想いを伝える時間が必要みたいだね。でも大丈夫、時間はたっぷりあるから」
何度も繰り返し私の髪を撫でながら、ロレンスは私の耳元に甘く囁いた。
「僕とメアリーは、もうすぐ夫婦になるんだからね」
「……はい。きっと私は、世界で一番幸せな花嫁ですわ」
戦地から帰ってきてくれた恋人に、私は泣きながら笑顔で頷いた。
「愛していますわ、ロレンス様」
穏やかで幸せな家庭を、私はこの愛しい人と築いていくのだと、確信して。
***
「……悪かったわね」
「構わないよ」
淡々と、そして唐突に告げられた言葉に、僕はおかしさを噛み殺してさらりと返す。
「あの子、泣いていたでしょう?」
「泣いていたね。もう少し言葉を選べば良いのに」
可哀想なくらい落ち込んでいたことを思い出して、少しばかり非難する。すると目の前の美しい顔が気まずげに歪み、視線が逸らされた。
「イライラしてしまったのよ。身勝手だから」
「ふふっ」
その短い言い訳に、思わず吹き出した。
僕の小さな恋人は確かに無知で少々考えが足りないかもしれないが、身勝手ではない。身勝手なのはむしろ。
「たしかに、君はいつも身勝手だね」
「……うるさいわね」
本人もよく分かっているだろう。
天使やら聖女やらと呼ばれている目の前の女性は、僕から見れば大層身勝手で傲慢なおひとだ。
「まぁ、歴史に残る偉人というのは、総じてどこか身勝手なものだからね」
「あら、嫌味かしら?」
長い付き合いの気安さで、僕はくすくすと笑いながら軽口を叩いた。
「まさか、ただの本音だよ」
「どうだか」
包帯を巻き直しながらジロリと僕を睨むのは、白衣を纏う元婚約者だ。今は患者たちも落ち着いているらしく、わざわざ軽傷の僕の処置を請け負ってくれたのだ。
きっと、妹のことが気になっていたからだろう。時たま垣間見られるそんな人間臭さが、外に知られる豪胆さや、あまりにも輝かしい業績と乖離していて面白い。
伯爵家とその領地を、まるっと任せてしまえるくらいには、ルイーゼはメアリーを評価し、信じているのだ。自己評価がやけに低いメアリーには、ちっとも伝わっていないようだけれど。
「賞賛をこめて言っているのさ。君に救われる人は多い。それこそ数えきれないほどに」
「ええ、そうよ。私は医師になるべくして生まれたのだもの」
高らかに歌い上げるように、ルイーゼはかつて僕に婚約の破談を申し入れてきた時と同じことを言った。
「私は、かつて救えなかった人たちを救うためにこの世に生を受けたのよ」
「かつて?……君が昔言っていた前世とやらの話かい?」
懐かしい昔話に、僕は首を傾げる。
「えぇ。私は前世も医者だったわ。とってもポンコツで使えない医者」
「君が?ポンコツ?」
「前世の私は、今ほど能力が高くなかったの」
「信じがたいなぁ」
「ふふ、でもそうだったのよ」
昔から二人だけの時に見せる悪戯っぽい表情で、ルイーゼが笑う。
「前世じゃ毎日寝る時間もなく仕事に追われて、なんで医者になんかなったんだろうって思っていたけれど、うっかり死んでこちらの世界に生まれてみたら、前世の知識が物凄く使えるじゃない!びっくりしたわ」
目をキラキラさせて続けるのは、かつて彼女が生きたという世界での物語だ。僕には御伽話にしか思えないそれを、ルイーゼは事実として懐かしそうに語る。
「それで思ったの。……あぁ、この世界で多くの人を救うために、前世で私はあの学びを得たのだ、って」
「うーん、僕にはやはり、何を言っているのかよくわからないや」
「ふふふっ、良いのよ。聞いてちょうだい。……他に話せる相手もいないのだもの」
家族にすら伝えていないという彼女の昔話は、ひどく奇怪だ。たしかに敬虔な彼女の家族には受け入れ難い話だろう。
そんな話を聞かせてもらえる程度には信頼を勝ち得た己に、僕は満足している。
「私の業績は、私の力ではないわ。魔法でもお告げでも何でもない。前世の知識を持ち込んで、この世界の科学や医学の進歩を無視して、私のやりたいように……それこそ身勝手をしているだけよ。でも、神様が私をこの世界に放り込んだのならば、それが神の意思だと信じているの」
強い決意と確信を秘めた目で、ルイーゼは言い切る。見ている僕も、きっとその通りなのだろうと思った。こう言う時のルイーゼはまるで、神様そのもののように、光り輝いて見えるから。
「だから私は、一人でも多くの、たくさんの人を救いたいのよ。身近な人を幸せにするだけでは満たされない。なすべきことが分かっているのに、なせるだけの力があるのに、それを無視して生きていくなんて……ありえないわ」
「そうだね。昔から何度も聞いていたから、よく知っているよ」
人を救いたい。
それがルイーゼの原動力だ。
彼女が願うのは『人を救うこと』の一点のみだ。
たとえ戦場で捕虜となったとしても、敵国で傷ついた人々を救い続けるだけ。
彼女にとってはその地がどこであれ、関係がないのだから。
「助けたい、救いたい、私にはそれができるのに!前世には出来なかったことも、魔法があるこの世界なら出来る。救うことができる!それなのに、それをしないだなんて……そんな飢餓感に震えながら生きていくことはできないわ」
「飢餓、ね……」
善意でも、慈悲でもない。彼女にあるのは、人を救いたいという欲望と飢餓だ。清々しいほどにグロテスクなそれを、彼女は追い求める。
「言葉が激しいかしら?」
「いや、君の生き様をよく表していると思うよ」
「何よそれ」
鮮烈に笑うルイーゼに、幼子のまま大人になったような、狂人の純粋さを感じる。
彼女は決して己を偽らない。
偽る必要がないと信じているから。
「君は欲深い人だからね。その欲が、人を救いたいという、我々人類にとって正しく明るい未来を導くものでよかったよ」
「ふふ、破滅に導く情熱だとしたら、あなたが討ち取ってくれるでしょう?」
「幼馴染を手にかけることはしたくない、気をつけて生きておくれ」
「ええ、肝に銘じるわ。……さて、終わりよ」
処置を終えたルイーゼがあっさりと席を立つ。
「あの子のことは任せたわ。……家族を泣かせようと、誰に何と言われようと、私は私の正義を行く。そう決めているの。私の幸せはこの道の先にあるのだから」
「……そうだろうね。君はそういう人だ」
愛する人を、愛してくれる人を苦しめ泣かせようとも、自分の道を歩まずにはいられない。
きっと英雄となるのは、君のような人なのだろう。
けれど僕は、愛する人に英雄となって欲しいのではない。
「僕はメアリーと平凡で幸せな家庭を築いていくよ」
「ふふ、それがお似合いね」
ルイーゼが楽しそうに笑い、僕も笑い返す。
「僕らは凡人だからね」
僕は、愛する人には僕だけを見つめ、愛して、微笑んで欲しいのだ。
そして僕も、相手を守り、愛し、何不自由のない日々の中で笑っていてほしいと願うのだ。
何か偉大なことを成さなくてもよい、幸せに平凡に暮らしてくれたら、と。
幸いにも貴族として生まれただけの凡人である僕が人生に望むのは、それだけ。
とても平凡で、けれどとても得難い幸福だ。
「お幸せに、かつての婚約者さま」
「あぁ、もちろん。これからもよろしく、未来のお義姉さま」
初恋であった、気高い人と握手する。
振り向くことなく颯爽と去っていく君の頭の中には、きっともう僕の姿はない。
「ルイーゼ、君に神の守護と幸運を」
君は僕を戦友にもしてくれないけれど、幼馴染として、君の未来を祈ることだけはさせてくれ。
どこまでも気高い君の幸福はきっと、この国の美しい未来に繋がっていくのだろうから。
*** おまけ1『親の心、子知らず』 ***
「おぉ!なんと!」
「あら、ルイーゼの記事ですか?また何かの勲章を?」
夫の様子からして悪い話題では無さそうだと思い、おっとりと尋ねた私に、彼は興奮気味に告げた。
「ルイーゼが結婚するらしいぞ!」
「へ?」
『白き女神、南の島国に永住か』
そんな見出しの記事に書かれていたのは、我が国の誇る知の女神たるルイーゼ、つまりは私たちの娘が、南の島にてしばし羽根を休めるという情報だ。彼の地には美しい王があり、ルイーゼはその男性と大層親密なのだとか。
「このまま落ち着いてくれたら良いのだが」
「遠いですけれど、戦のない豊かな楽園と言われておりますものねぇ」
「平和が一番だからなぁ」
しかし。
そんな私たち夫婦の願いも虚しく、数日後に記事は誤報だと判明した。
「勘違いでしたわねぇ」
「あぁ……」
ルイーゼはその地の風土病の研究と治療のために留まると表明したのだ。結婚の気配など全くなかった。
いたく気落ちして力なくソファに項垂れる夫に、私は苦笑を向けた。
「どうか元気を出してくださいな」
「うーん」
呻いて天井を見上げる夫の顔に浮かぶのは、自嘲だ。
ここ数日はどこでもルイーゼのことを聞かれ、いつも以上に気苦労の多い日々だったからか、疲労の色も濃い。
「はぁ……愚かなことだなぁ。私たちがあれやこれや考えたところで、あの子はひょいと飛び越えてしまうのに、ついつい思い悩んでしまうんだから」
「あんなとんでもない娘でも、親からしたらただの子供ですからねぇ」
親とはそういうものだ。
私だって、これで落ち着いてくれたら、と願わなかったわけではない。ただ私は、夫よりもルイーゼに普通の娘としての考えを期待していないから、そこまで落ち込んでいないだけだ。
「元気にしていると良いのだが」
「もう随分と会っておりませんものねぇ」
夫のポツリとした呟きに、私もため息まじりで頷く。
「メアリーの結婚式にも帰ってきませんでしたし」
「必死になって伝手を辿って招待状を送ったのに、絶縁したのだから、とか言って来なかったなぁ」
空笑いする夫の言葉に、去年の暮れの騒動を思い出し、私は苦笑いする。
妹の結婚式にも参加しないのだ。
ルイーゼはもう戻ってくるつもりはないのだろう。
「メアリーも寂しがってましたわ」
「うん。でもまぁ、……ルイーゼの考えも分かるからなぁ」
しみじみとした夫の呟きに、私も同意をこめて頷く。
「ルイーゼが来てしまったら、主役がルイーゼになってしまいますものね」
「その辺も気にしていたんだろうな」
「ルイーゼもあの子なりに、メアリーのことを大切にしていますから。メアリーの晴れ舞台を邪魔したくはなかったのでしょう」
親族だけの挙式ならともかく、関係のある貴族のお歴々も招いての式だった。
メアリーの結婚式なのに「ルイーゼが出席するならば呼んでくれ」と、ウキウキした顔で随分なことを言ってきた公爵様もいたほどだ。
ルイーゼの判断は正解だったと言えるだろう。
「また機会があれば、花嫁姿の絵でも見せてやろう」
壁に飾られた結婚式の絵を見上げて言う夫に、私はくすりと笑った。
「いつになるかわかりませんけれどねぇ。その頃には孫が生まれているかも」
「でもまぁ、ルイーゼが結婚するよりは早いんじゃないか?」
「ふふ、それはそうでしょうねぇ」
少し投げやりな夫の台詞に、私は思わず吹き出す。そして自己嫌悪も合わさってか、随分と落ち込んでしまった夫を慰めた。
「親としては、危ない目に遭わず、穏やかな幸せを得てほしいと願ってしまうのは、当然のことですわ」
「あぁ。だが、あの娘の幸せを考えれば、引き留めることも出来ないしなぁ」
「言っても聞きませんしねぇ」
いつも新聞でしか分からない娘の現在に、私たちは冷や冷やしている。戦地を飛び回る娘がどうか無事でありますようにと、祈らない日はない。
「あの子の無事を祈り、いつあの子が疲れて帰ってきても良いように……私たちが出来るのはそれだけだな」
「ええ」
世間で女神と呼ばれている、もう一人の私たちの可愛い娘。
あの子とは、もうどちらかが死ぬまで会えないかもしれないと覚悟している。けれど、娘の死に顔は見たくないので、出来れば私たちより長生きして欲しいものだ。
そして願わくば、時には疲れた羽根を休めに帰ってきて欲しい。
書類上は絶縁しても、ルイーゼは私たちの娘なのだから。
「娘の道を受け入れるのも、親の役目ですわ」
「辛いなぁ」
「そうですねぇ」
夫と我が子について語り合い、午後のひとときを穏やかに過ごす。
私はこんな幸せを愛おしく思うから、つい娘にもと、願ってしまうけれど。
「でも、親と子は違う人間だからな。生き方や幸福を決めることは出来ないものなぁ」
「そうですわ。私たちがあの子を愛していると、いつ帰ってきても良いのだとだけ、伝わっていればそれで良いのです」
無駄だと分かっても、娘を引き留めた日のことを思い出す。
止められると思ったわけではない。
けれど、どれほど非凡な娘でも、私たちが親としてあの子を愛していることが伝わっていれば良いと願ったのだ。
ただの子供として、ルイーゼを愛しているのだと。
「……ねぇ、あなた」
「ん?」
顔を上げれば、私の目に映るのは世界を守り支えて下さる、創世神様の像だ。
それを見上げて私は微笑み、夫に声をかけた。
「私たちは今日も神に祈りましょう。可愛い娘たちの幸せを」
「そうだな」
柔らかに笑って同意した夫とともに神の像の前に膝をつく。
静かに目を伏せて、私は心から神に願った。
どうか私たちの可愛い娘が満たされて、彼女たちらしい幸せな人生を全う出来ますように、と。
それが親である私たちの、唯一の望みなのだから。
*** おまけ2『天才令嬢と凡人婚約者の破談の一幕』 ***
予想はしていたけれど、それが告げられたのは唐突だった。
「正式に絶縁しようと思うの」
「は?」
婚約者とのいつものお茶の席。
輝く金髪をざっくりとひとつに纏め、飾り気のない姿をしたルイーゼは、僕にあっさりと告げた。
「もう伯爵家令嬢として得られるものはないわ。むしろ邪魔になるだけ。だから、私は名字のないただのルイーゼになる」
「本気かい?」
「ええ」
まじまじと見つめながら問いかけると、ルイーゼは淡々と頷く。既に決めたのだろう。僕に渡されたのは、決定事項の事後報告であり、意見は求められていないらしい。
「さんざん利用し尽くした後に、随分だなぁ」
「利用できるものを利用するのは、当然じゃない。みんなやっているわ?」
非難がましく眉を顰めれば、ルイーゼは悪びれることもなく飄々と嘯いた。
「程度問題だろう。君のやり方はやりすぎでは?伯爵家の財も人脈も絞り尽くしたくせに」
「あら、私は程度をわきまえていたと思うけど?それを言うならば、私が学問のため……学術書を買い漁ったり留学のために消費した金額より、あなたのご実家のお姉様たちがお茶会やら夜会やらで浪費した金額の方が高くないかしら?」
まぁ確かに、宝飾品やドレスには各家で膨大な予算が注ぎ込まれている。我が家の姉たちは格上の侯爵家に嫁ぐことが決まっていたため、色々と妥協が許されず物入りだったこともあり、一時期は家計が火の車になったこともある。だが。
「一般的な貴族令嬢にとって、茶会や夜会は仕事なんだよ。度を越さない限り、あれは経費だ」
「へぇ、じゃあ私の場合は?」
おかしそうに尋ねてくるルイーゼに、僕は呆れと諦念をこめて吐き出した。
「……まぁ医学の発展、つまりは国益に期するわけだからね。なんなら全人類のための投資だよね。一伯爵家ではなく国に出してもらいたいよ」
僕がため息混じりに言えば、そうきたか、と呟いてルイーゼがコロコロと笑う。
「ふふ、でも父も母も、きっと苦笑しながら出してくれるわ。ルイーゼはこれにしかお金を使わないから、と言って」
「君のご両親の寛大さは異常だ。感謝するべきだよ」
この規格外でとんでもない少女を、ただの娘として愛している彼女の両親の気苦労を思いやり、僕は何度目かのため息を溢した。
巷では聖女などと呼ばれるルイーゼよりも、彼らの方がよほど聖人君子と呼ばれるのに相応しいのではと、僕は思っている。
「ええ、心から感謝してるわよ。私の羽をむしったり、翼を折ろうとする愚かな親じゃなくてよかったわ」
「感謝の仕方も傲慢だ」
皮肉を絡めてしか感情を吐露できないルイーゼの子どもっぽさは、僕には頭痛の種だった。こういうところからトラブルやすれ違いの芽が出るというのに。
「まぁいいじゃない。私の名声のおかげで、今や我が伯爵家は乗りに乗っているのよ?」
「結果論だな」
「経営がノリノリなのは悪いことじゃないでしょ?」
悪意がない、それどころか善意だけの発言だと分かってはいるが、相変わらず誤解を生みやすい少女である。
ルイーゼはたしかに情緒的な駆け引きが要求される女性たちの社交界よりも、学術的な根拠に基づいて判断し、理屈と論理で回っていく医学の世界の方がよほど生きやすいのだろう。
「まぁとにかく、そういうことだからあなたとの婚約は破談にさせて欲しいの」
「くくっ。はぁ……まぁいつかはこうなると思っていたけれど」
あっさりと告げられた破談の申し入れに、僕は苦笑するしかない。
一呼吸分の沈黙に、勝手に切り捨てられた己の身への憐憫をこめて、僕はルイーゼを見返す。
「君は相変わらず身勝手だね」
「何度も言うけれど、私は医者になるために生まれたの。女伯爵として生きるより、その方がみんなにとって良い選択でしょう?」
「みんな、ねぇ」
「あなたにはメアリーの方がお似合いよ。メアリーもあなたに憧れているみたいだし」
図々しく言い切る幼馴染は、本気でそう信じているのだろう。まぁ僕もそれが妥当だとは思うけれど。
「六歳も上だぞ?今はそうでも、学園に入ったら年が近くてもっと素敵な人を見つけるかもしれない」
まだ小さなメアリーを思って僕が忠告すれば、ルイーゼは眉を吊り上げて反論した。
「だからじゃないの!変な虫がつかないように、さっさとあなたと婚約しておくべきだわ!まぁあの子は共学の王立学園ではなく、女学院に入れるように両親には言っておくけれど」
「君もなかなか過保護だよなぁ」
相当わかりにくいけれど妹を溺愛しているルイーゼは、己の認めた男以外をメアリーに近づけたくないらしい。そのルイーゼが認めた男が僕であるというのは、悪くない気分ではあるが、メアリーの意思を確認しないのはやはり問題だと思う。しかし。
「私の妹だってだけで手を出そうとする屑がたくさんいるから、仕方なくよ」
苦虫を噛み潰した顔で憤慨するルイーゼの意見に、僕は頷かざるをえなかった。
「まぁ確かに。ルイーゼのファンが、御しやすそうなメアリーを狙うのは十分考えられるな。というか、すでに茶会ではよく見られる光景だよ」
「なんですって?」
「『あのルイーゼ嬢も、幼い頃はこんな感じだったんですか?』とか言いながら寄ってくる奴らがいるんだよ。まぁ『全然似てません、顔も雰囲気も声も性格もまるっきり違いますねぇ』て言ってるけど」
最近メアリーと連れ立って出向いた際によくあるトラブルを伝えると、ルイーゼは美貌を悪魔の如く歪めた。
「……許し難いわね、偶然を装い断種させてしまいたいわ」
「やめろ、公爵家断絶は大問題だ」
「公爵家なのね……ふふ、なるほど……?」
「余計な情報を漏らしてしまった……」
魔女のような微笑みを浮かべて妙な空想に耽っている幼馴染を視界から外す。
今のはなかったことにしよう。公爵家のお家問題など、僕の心配することではない。
「まぁいいわ、あとは全部あなたに任せるから」
「え?本気かい?婚約も?」
あっさりと思考を切り替えたらしいルイーゼが僕に告げた。全部、という台詞に、僕が何度目かの確認をすれば、ルイーゼはにっこり笑って言い切った。
「あの子は私の意見に反対しないわ」
「本当に傲慢で勝手な姉だな!」
呆れて僕が喚くと、ルイーゼはしゃあしゃあと続ける。
「いいのよ、あの子の方が伯爵家の当主は向いているわ」
「まぁ君には向いていないよね」
「あなたの妻も、メアリーの方が適任よ」
「いや、生まれた順で決まってただけの爵位はともかく、婚約に関してはまずはメアリーの意見を聞きなよ。相性とかあるだろ!?」
常識人を自認する僕がこんこんと言い聞かせても、ルイーゼはさっぱり聞く耳を持たない。
「メアリーのこともよろしく頼むわ。あなたならうまくやってくれるでしょう」
「いやだから、そこだけはメアリーの確認をとってくれよ!姉のおさがりを押し付けられるのは可哀想だろう?」
何度言って聞かせても同じ台詞を繰り返す、物分かりの悪い幼馴染に、僕は頭を抱えた。ルイーゼは自分が絶対に正しいと信じて疑っていない。本当に厄介なやつである。
「もうっ、自信がない人ねぇ!俺が幸せにしてやる、くらい言ったらどうなの?あの子のこと可愛がってるくせに」
「可愛がっているからこそだよ!」
「大丈夫よ、あの子の初恋はあなたなんだから。なお今も恋心は継続中みたいよ」
「子供の初恋なんて当てになるか!後からオジサンはイヤとか言われたらどうしてくれる!」
「言われないように頑張りなさいよ、せいぜい年上の魅力を磨きなさい」
「くぅうう!」
可愛いメアリーに嫌われず、憧れの人で居続けるために、今後は相当頑張らねばなるまい。
頭を抱えて呻いている僕を、ルイーゼは面白そうに見下ろしていた。
「じゃあ話はこれで……あ。そういえば、はい」
言いたいことだけ言ってお茶会を終わらせようとしたルイーゼが、何かを思い出したように呟き、ポケットから小さな瓶を取り出した。
「え?なんだこれ」
瓶の中でキラキラと光る白い粉に、僕が首を傾げていると、ルイーゼはあっさりと告げた。
「万能傷薬よ。まだ開発途中だけれど」
「へ!?伝説のエリクサーみたいな!?」
「そんなわけないでしょ」
仰天して問返せば、呆れた顔で首を振られる。
「ざっくり言うと、傷が膿むのを抑える薬。怪我そのものより、感染で命を落とすことの方が多いから」
「はぁー」
「基本的には強すぎる抗生剤だから、無駄に使いすぎると耐性ができて酷い目に遭うからね。いざという時だけ使いなさい」
使い方を説明して僕に瓶を渡したルイーゼは、なんとなく満足そうである。
「よくわからないけれど、ありがとう。でもなんで?手切れ金?」
「人聞きが悪いわね、せめて慰謝料と言って。……まぁそれは冗談として」
軽口を叩き合った後、ルイーゼはやけに真剣な顔をして僕を見た。
「あなた、やけに熱心に近衛騎士団で訓練してるじゃない。そのうち駆り出されるわよ」
「はは、手抜きしろって?」
常に全力投球なルイーゼを揶揄うように聞けば、ルイーゼは嫌そうに眉を顰めた。
「そうは言わないけれど、不思議に思ってはいるわ。別に出世したいわけでもないくせに」
「まぁ、君の婚約者としては、それくらいできないとね」
「あら、私の婚約者として?その心は」
「僕の婚約者はあまりにもご高名だから。隣に立つには必要かなって」
一応僕は、救世主と崇められている天才令嬢の婚約者だったわけで、何か一つくらい得意なことがあってもいいかなと思ったのだ。少なくとも最初の動機はそうだった。
そう思い返していた僕の目を見据えて、ルイーゼは口角を緩めながら問いかけた。
「本心は?」
「君と喧嘩になった時のためさ」
「ふふふっ」
僕の返答がお気に召したらしいルイーゼが声をあげて笑う。令嬢らしからぬ、けれどルイーゼらしい裏表のない笑い声だ。
「あなた、女の子に対して武力に訴える気なのね」
「口では勝てないからね」
剽軽に返した僕に、ルイーゼはゆるりと目を細めて尋ねた。
「じゃあ、もしもの時は、私を討ち取ってくれるのね?」
「まぁ……いざという時はね」
「ふふっ、あはは!頼もしい幼馴染がいて幸せだわ」
先ほどよりも更に楽しそうに笑い転げる幼馴染に、僕は複雑な気分である。
そんな日は来ないと思うし、来ないで欲しいと願っているけれど、猪突猛進な幼馴染の未来はどう転ぶか分からないから。
もしも彼女が道を外れた時は、彼女の友人であり、おそらくは数少ない理解者でもある僕が止めなければ。
それくらいの覚悟でいるのだ。
……だというのに。
「さて、円満破談が済んだわけだし、お開きにしましょうか」
そう自己完結すると、ルイーゼは、さっさと片付けを始めた。
胸のつかえがおりたと言わんばかりの晴々とした顔をしている幼馴染に呆れ果てる。
まったく、こっちの気も知らないで。
「君は本当に勝手だなぁ!」
十五歳にはちょっと可哀想だなと後から思ったりしました。
読み返してみるとほとんど恋愛要素がないので、カテゴリーを「異世界恋愛」から「文芸 ヒューマンドラマ」に変更しました。カテゴリをよくわかっておらずすみません。
誤字報告ありがとうございました。心より感謝申し上げます。
2024.8.2
たくさんの方に読んで頂けて大変嬉しく動揺しております。
お礼を込めて、蛇足かもしれませんが、両親視点のその後のお話を少しだけ追加しました。
***
おまけ2本追加しています。
こちらに掲載の両親視点のその後のお話と、ロレンス視点の過去のお話の他、新キャラも出てくるルイーゼメインの番外編を書きました。
もしよろしければ、上のシリーズか下のリンクからどうぞ。