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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第10楽章
98/135

真実 4



その日、フリッツは一人で街に出ていた。

もともとは友人と二人で買い物をする予定だったのだが、相手に急な予定が入ってしまったため一人で来たのだ。

それなりの家柄に生まれついたフリッツであるが、テアの友人であるだけあるのか、供も連れず一人で街を歩くのにも抵抗らしい抵抗はないらしい。

その彼が、買い物を済ませた後、昼食をとった軽食屋から出てきて、「あ!」と声を上げそうになったのは、視界の中に親しい友人の姿を認めたからだった。

テア・ベーレンス。

彼女と会う時はほとんど制服姿なので、その私服姿に動揺を覚えながら、フリッツは声をかけようとした。

けれどできずに、フリッツは上げかけていた手を下ろす。

それは、テアの雰囲気が常とは違い、どこか声をかけづらかった、というのもあるが、それ以上に――。

「あれ、なんで……」

テアが、ある馬車に乗り込んでいく。

それが訝しく感じられて、フリッツは呟いた。

テアが馬車に乗ること自体がおかしいのではない。

テアの乗り込んだ馬車がおかしいのだ。

「あれ、うちの御者だ……。馬車も紋章、外してあるけど……うちの? どういうこと?」

硬い表情のテアと、よく知る実家の馬車。

フリッツは不可解に思うと同時に胸騒ぎを覚え、何を考える前に咄嗟に辻馬車を捕まえていた。

前の馬車を追いかけてほしいと頼めば、御者は訳知り顔で頷き、そういうことなら任せてくれと、少しばかり距離を空けて先行する馬車の後を追う。

御者がどうしてそんなに楽しそうなのか分からないが、上手く後をつけてくれるのを有り難く思いながら、フリッツは考えた。

しばらく後を追ってみれば、馬車の行く先がベルナー家の別荘のひとつがある方角だということは分かりすぎるほどに分かって、フリッツは眉根を寄せる。

――テアは何も言ってなかったよね……、誰からも何もそういうことは聞いてない……。

「兄さん――」

フリッツは呟いた。

あの別荘は兄のお気に入りで、フリッツはあまり使わせてもらったことがない。

フリッツだけでなく、あそこに立ち入ったことのある人間は少数だろう。

そんな場所を、ベルナー家の他の人間が他者を招くのに使うなどとは考えられないから、間違いなくテアは兄に会うために別荘に向かっている。

だが、何故。

二人は知り合いだったのか?

けれどテアから兄の名を聞いたことはないし、逆もまたしかりだ。

大体兄は自分に利益のある人としかまともに相手をしない。無駄が嫌いな人だからだ。

そんな兄が、一学生でしかないテアと、一体どういう理由で会うつもりでいるのか。

音楽には興味のない兄がピアニストであるテアと会う、というのは釈然としない。

それならば他に理由があるはずだが――それは一体何であろうか。

兄への恐怖心、先入観からか、フリッツには嫌な予感しかしなかった。

頃合いを見計らい、別荘から少し離れた場所でフリッツは馬車を降りる。

健闘を祈る、と御者に告げられたが、一体何だと思われていたのだろうか。

分からないが、何となく励まされた気持ちで、フリッツは自分の足で馬車を追った。

予想と違わず、馬車は別荘の敷地内へ進んでいく。

使用人や警護の面々に見つかれば追い返されることは間違いないので、フリッツは勝手知ったる何とやらで、隙をつくように裏手に回りこんだ。

木や茂みの緑の間を体を小さくしながら抜け、フリッツが葉だらけになりながら顔を出したのは、庭である。

客であるテアを通すならば庭に面した応接室にするだろう、というフリッツの考えは当たっていて、彼がこっそりと建物の方へ近づけば、大きな窓から兄と向かい合うテアの姿が見えていた。

大窓の方にいては見つかる可能性が高いと思い、フリッツは応接室の小窓の方へじりじりと近付く。

換気のために開けられた小窓はレースのカーテンで覆われていたが、室内の声が細々ながら聞きとれた。

――盗み聞きとか、僕、何やってるんだろ……。

自己嫌悪にかられるフリッツだが、それでも止めようと思わなかったのは、いざとなればテアを守りたいと思ったからだった。

兄が、フリッツに対する時のような態度や言葉をテアに向けるのではないかと、政敵に対するように彼女に臨むのではないかと、彼は心配していたのだ。

よく聞こえないからと息を詰めるようにして二人の声を追っていたフリッツだったが、ある兄の言葉に思考を凍りつかせた。

『――私と、結婚してください』

――え……、けっこん、結婚って、兄さん!?

それだけはよく聞きとれたフリッツは、愕然と兄の言葉を反芻する。

さらに続いた愛の告白のような言葉にフリッツは赤くなったが、話が進むにつれて顔は血の気を失い青白くなっていく一方だ。

――オイレンベルク家に連なる……。

――あなたのお父上は……。

――カティア……。

嘘だ。

まさか、そんな。

テアが。

兄さん。

一体、何を、考えて。

求婚だって?

兄さん、それは。

脅迫じゃないのか。

テア。

テアは、ずっと黙って。

いや、それは。

それよりも。

テアは、ディルクさんが、好きなのに。

兄さんが、テアを、苦しめようと、

――それは、駄目だ。

兄を止めなくてはならない。

フリッツは立ち上がろうとした。

その時だった。

「……それで、どうしてお前がここにいる? フリッツ」

――ば、ばれた……!?

フリッツはおそるおそる振り向いた。

そこには、彼の兄が氷点下の空気を纏って立っている。

それに反射的に怯みそうになりながらも、この時フリッツは兄に立ち向かうように身体にぐっと力を入れた。

立ち上がって、兄と正面から対峙する。

「こそこそと盗み聞きか。伯爵家の人間がする真似ではないな」

「……っ、兄さんの方こそ、あんな……、脅すみたいなこと言って、恥ずかしいと思わないの!?」

「お前が何を聞いていたか知らないが、私は彼女を気に入り求婚しただけだ。何をそんなにいきり立っている」

この兄は、とフリッツは腹を立てた。

分かっていてこういう言い方をするのだから、我が兄ながら本当に性格が悪い。

「ああ――、お前は彼女に惚れているのだったか。忘れていた。悪いな、彼女の所有権は私のものだ」

「……っ!」

フリッツは逆上した。

おそらく人生でこんなに怒ったことはない、というくらいに彼は憤激していた。

図星を指されたことよりも、兄が「所有権」という言葉を使ったことが許せなかった。

「テアは物じゃない! その言葉は取り消せ! さっきテアに向けた言葉だって、許されることじゃない! 彼女に謝れ!」

「……全く、お前は昔から変わらないな、フリッツ。お前の言葉に私が耳を傾ける価値はない」

「兄さん――」

フリッツは声を震わせた。

その彼の腕を、いつの間にか近付いてきていた使用人が掴む。

「申し訳ありません、フリッツ様――」

「え、ちょっと……!」

「フリッツ、当主に逆らった仕置きだ。一週間あちらの別荘で謹慎していろ。一週間経てばこちらの決着もついている。それまで大人しくしていることだ」

「兄さん……!」

フリッツは兄を睨みつけたが、申し訳なさそうにしている使用人を無理に振りほどくこともできなくて、腕を引かれるまま兄から遠ざけられるしかない。

「兄さんが……、いくらあんな手段を使っても、テアは兄さんのものにはならない! 僕には分かる……、だって、テアは屈しない。落ち込むことはたくさんあったはずなのに、テアは笑って、何があってもピアノを弾き続けてたんだ。テアは強い。だから……!」

冷ややかな眼差しを送ってくる兄を憎くも悲しくも思いながら、フリッツは声を上げる。

遠ざかっていく兄に届いたのかどうかは、分からなかった。








悪い夢を、見ていたような気がした。

太陽が昇り始めるまであとわずかという、未だ暗い朝。

目覚めたテアは、重たい身体を感じていた。

寝不足だと分かっていたが、もう一度眠る気にもなれず、目を閉じても眠れないだろうことははっきりしていたので、ゆっくりと身を起こす。

枕元には眼鏡と懐中時計が並んでいて、テアはそっと、冷たい銀の輝きを手にした。

いつでも近くに置いて手放さないその懐中時計を、テアはぎゅっと胸の上できつく握りしめる。

昨日の真新しい記憶が、一人の男の言動が、鮮明に思い出されて、テアを苦しめた。

ハインツ・フォン・ベルナー。

昨日、彼のところから解放されてずっと、テアは考えている。

彼の目的と、それへの対抗を。

ずっと昔、彼は母カティアと親しくしていたのだとテアに教えた。

それはおそらく本当のことで、彼はカティアを慕っていたのだろう。

だが、カティアは彼の目の前から突然に姿を消した。

テアを産むため、テアをオイレンベルク家から守るために。

だから彼は、カティアを奪ったテアを苦しめ、傷つけたいのだ。

そのために彼が選んだ手段が、求婚。

力づくで縛り付けるようなやり方を、快く思うはずがない。

彼はそれを無理矢理自分の側に留め置いて、そうすることでテアをいたぶるつもりでいる。

同時に彼は、テアをカティアの代わりにしようとしている。

カティアによく似た人形として、テアを隣に置いておこうと思っているのだ……。

彼と話をしていた時間自体は長いものではなかったけれど、テアにはそれが分かった。

表面で微笑みながら、暗く揺れていた彼の瞳が、そうと教えたのだ。

あの瞳を何よりも、テアはよく知っていた。

――あれは、私の……。

過去に引き戻されそうになって、テアは首を振った。

今はこれからのことを考えなくてはならない。

あの人のことを守ることを、考えなくては……。

苦悩の表情で、テアは一人の顔を脳裏に浮かべた。

テアが苦しめば、あの人も苦しむ。

ハインツの求婚は、もう一人、彼が憎悪して止まないだろうあの人への復讐も、間違いなく兼ねていた。

復讐を目的とした求婚など受けなければいいと、拒絶を選ぶのは簡単だ。

しかしもしテアがそれを選んだなら……、ハインツはカティアとあの人とテアのことを、公にするつもりでいる。

それも、海外のメディアを使って。

優しさともとれる言葉の裏側にあったのは、テアへの脅迫。

国内のメディアには最初から圧力がかかっていて、隙を見つけることは難しい。

だが、海外であれば話は別だ。

彼はそこを突いてきた。

もし彼がそれを実行すれば……。

テア自身が騒がれるのはいい。

だが、あの人にはかなりの打撃になるはずだった。

復讐のための報道の内容は、容赦ないものだろう。

あの人がずっとこれまで努力して築き上げてきたものが、全て崩れ落ちてしまうかもしれない。

オイレンベルク家も、その権威を失いかねない。

テアにとっては潰えようと構わないオイレンベルク家だが、カティアにとっては生まれた家だ。

何より、その機に乗じて政敵につけこまれたり、四大貴族の一とも呼ばれるオイレンベルクが失墜し、政治バランスが崩れ国内が混乱すれば……、最悪の事態ともなりかねない。

あの男は、全てを分かった上で、テアが否の答えを返せばそれをするつもりでいるのだ。

情報を漏らしたことが知られれば、自分自身でさえ危うくなるかもしれないというのに。

そして、あの男に何かあれば、その弟であるフリッツにまで累は及ぶ。

彼はテアがそこまで考えることもおそらく分かっているだろう。

あの男は、実の弟までも人質として考えている。

彼を拒絶した時のリスクは、あまりにも大きかった。

大切な人たちのことを考えれば、答えはイエスしかない。

だが――。

嫌だ。

子どものようにそう思ってしまって、テアは口元を歪ませた。

例え一時のことでも、嫌だ。

テアの心は、そう告げている。

だが、大切な人たちを守るためには、そんなことは言えない。

どうすればいいのだろう。

足下が真っ暗で、見えない。

――怖い、

お母さん、とテアは心の中で呼んだ。

あなたなら、どうしただろう。

自分の子どもと愛した人を守るために行動したあなたなら。

イエス、と返して大切な人たちを守る選択肢を選ぶのだろうか。

それとも。

ノー、と答えて、自分の愛したものを選ぶ選択肢をとるのか。

「……お母さん、」

小さく掠れた、縋るような声が、沈黙の中に吐き出される。

答えが返って来ないことが、つらくて、さびしくて、かなしかった。

あの男も、こんな空虚な思いを持っているのだろうか。

それを埋めたくて、テアに手を伸ばしてくるのだろうか。

だが、テアにその空虚は埋められない。

彼が求めているのはあくまでカティアであり、テアではない。

それを彼は分かっているのだろうか……。

テアは溜め息を吐いて、喉元まで込み上げていた涙の気配を振り払った。

同じ部屋で眠っているローゼを起こさないよう静かに身支度を整え、部屋を出る。

こういう時、彼女の目的地は非常に分かりやすい。

言うまでもなく、テアが足を向ける先は、ピアノが置かれる寮の練習室だ。

懐中時計を開いて見れば、ぎりぎり解錠の時間になるくらいだったので、安心して向かう。

廊下に出れば、先ほどよりも太陽が高い位置まで上っていて、窓から朝陽が差していた。

暗いものが胸を覆ってさえいなければ、とても気持ちの良い朝だ。

空は青く、緑は爽やかで、光がきらきらと眩しい。

光の眩しさに目を細めつつ、テアは寮の共同棟へ歩を進め、窓の外から中へ視線を移した。

――あ、

と思って、立ち止まったのは、その時視界にパートナーを見つけたからだ。

どうやら日課のジョギングから帰ってきたらしい、ディルクがそこにいた。

彼もすぐにテアに気付いたらしく、近付いてくる。

「テア」

なんて、眩しいのだろう。

テアは思いながら、朝の挨拶を口にした。

「おはようございます、ディルク」

「ああ、おはよう。早いな」

「少し早く目が覚めてしまって……。ディルクこそ、今日は一段と早くないですか?」

「早い時間から予定が入っていてな」

「最近、随分と忙しそうですね……。食堂でもお会いしませんが、ちゃんと食事はとられてます?」

「大丈夫だよ。体調管理はちゃんとしているつもりだ」

テアは幾分かその言葉を信じられなかったが、少なくとも今目の前にいるディルクは言葉通り元気そうなので、それ以上言葉を重ねることはしなかった。

コンクールも終わり、必要な単位をほとんど取ってしまっているディルクは、授業やレッスン以外の時間を、夢を実現するための準備にあてている。

最近はそれで学院にいない時間も多いようで、生徒会長を務めていた時よりもずっと忙しくしている様子のディルクを、テアは少し心配していた。

会う時間が減って寂しいとも感じていたけれど、それはただのわがままだと思っていたので、表には出さない。

ただ、会える時間が以前より少なくなっていたからこそ、こうして会えると、胸に込み上げる嬉しさは倍だった。

「俺のことより、お前の方こそ……」

テアが目に焼き付けるようにして見上げていると、ふとその視線の先のディルクは心配そうな顔つきになって、テアの方へ手を伸ばす。

「少し顔色が悪いが」

確かめるように頬に触れられて、テアの顔に熱が集まった。

「……熱があるんじゃないか?」

「いえ、」

多分それは違う熱です、とは言えず、テアは首を振る。

そして、ディルクの手が離れそうになって、テアは咄嗟に上から重ねるようにディルクの手をとっていた。

「テア……?」

不思議そうな声をかけられ、テアははっとする。

一体自分は何をやっているのだろう、と激しく動揺しつつ、今度はその手を離した。

「あああああの、すみません! ちょっと、ええっと、寝ぼけていた、みたいで!」

うろたえて弁明しながら、テアは一歩後ろに下がった。

弱くなっている。甘えたくなっている。

それを自覚する。

これ以上ディルクの側にいては、駄目だ。

「この後も予定があるんですよね……、引き止めてすみませんでした。私もピアノを弾いて目を覚まして来ることにします」

言って、ディルクの返答も待たずにテアは練習室へ駆けこもうとする。

――が。

「テア!」

その手を、今度はディルクから掴まれた。

テアは振り向けない。

けれど、振りほどくことも、しなかった。

できないのだ。

「……久しぶりに、お前のピアノを聴かせてもらえないか? お前さえよければ、その後に一緒に朝食をとろう。最近こうして話す機会もなかったから……、」

「あの、でも、予定があるのでは……?」

断ろう、と思った。

「ゆっくり食事をとるくらいの時間はある。駄目なら最初から誘わないさ」

けれど。

ゆっくりと振り向いたテアは、頷いていた。

テアの見上げる先で、ディルクが優しく微笑む。

――この人だったら、良かったのに。

ディルクが相手だったなら、どんなに卑怯な策略をめぐらされても、自ら望んでその手に落ちたことだろう。

――私はそのくらい、この人のことが、好きだ。

眩しい、とテアはまた思った。

太陽よりもずっと。

心の中の暗い澱みが照らされて、消えていくような気さえした。

手のひらの温もりに、泣きそうな気持ちになる。

――私は、

第三の選択肢を、選びたい。

選択肢は、二つきりではない。




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