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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第10楽章
96/135

真実 2



寒いと感じるほど、空に雲のかかる午前だった。

五月半ば。

この時期のクンストは、寒暖の差が激しい。

暖かい時は半袖でも大丈夫なくらいだが、寒い時はマフラーなどの防寒具さえ必要となる。

授業を終えて講義棟を出たテアは、冷たい風を感じて制服の上から腕をさすった。

早く建物の中に入ってしまおうと、目的の場所である図書館へ早足で向かう。

この後の一時間は空きコマで、昼休みを挟んでエンジュのレッスンがあるが、昼食にはまだ早い時刻だ。

先の授業の教師は毎回レポート課題を出すので、この授業の後はすぐに図書館へ向かい、昼食までレポートにとりかかるのが、今期の彼女の習慣だった。

その途中で警備員とすれ違い、軽く挨拶をかわす。

もう少しで行われる入学試験のために警備を増員したという話を、テアは先日学院長本人の口から聞いた。

「あしながおじさん」への手紙を届けてもらおうと、書いた手紙を渡しに行ったのだ。

その時の話によると、どうやら過去に何者かが入学試験の問題を手に入れようとしたり、職員や生徒に探りを入れようとしたり、色々とあったらしい。

それを聞いて、大変だと思うと同時に、もう入学から一年経とうとしているのか、と感慨深くなったものである。

とはいえ、テアが受験したのはこの五月に行われる一般入学試験とはまた別の特別入学試験だったのだけれど。

入学する前は、本当にこんな穏やかな(彼女の場合他生徒に比べ穏やかならぬ事態が多すぎたのだが、本人の感覚としては十分に穏やかだった。ブランシュ領にいた時よりは騒がしいという認識である)学生生活が送れるなど到底信じられなかったのに。

危険な兆候があればすぐにでも退学するつもりで、そうなる可能性の方が大きいと思っていた。

後見人やその協力者の力を信じていなかったわけではないが、「敵」の力もその思いも、決して小さいものではないと、彼女は知っていたから。

それが今では、もう少しで何もかもを隠さなくてよくなるのだ。

テアが諸々の事情を気にせずコンクールに出場できたのも、その一歩。

まさか本当に入賞者として名を呼ばれるとは思わず、表彰式では喜ぶより先に大丈夫だろうかと心配になったものの、それでもやはり、自分の演奏が認めてもらえたことは何よりの喜びで、嬉しかった。

これからも、ピアノを弾いていきたい。

テアはその思いを強くしていた。

このまま、音楽の世界で、生きていきたい。

――そうすればまた、あの方とも一緒に音楽をやれるだろうか……。

そのことも、考える。

パートナーであるディルクとは、コンクールでも共に練習を重ね、演奏を共にした。

いつでも、例外なく、彼と奏でることのできる音楽には夢中になってしまうものがある。

また次を、と望んでしまう。

だがこれからますます、彼との時間は少なくなっていくだろう。

彼はどんどん前へ進む。

己の道を突き進んでいく。

卒業こそもう少し先の話だが、夢を叶えるため、ディルクは既に精力的に動き出していて、テアもそれを知っている。

距離は開くばかりのような気がした。

けれど彼の背を見守り続けて終わるつもりは、今のテアにはなかった。

自分自身の道を進んでいくことで、テアは彼に追い付きたいと、そう思っている。

今はまだ遠いけれど。

いつかきっと、とそう未来を思えるようになった。

――全てに決着がついて落ち着いた時には、この気持ちを告げることも、許されるだろうか……。

ぼんやりと図書館の扉をくぐりながら、テアはそっと息を吐く。

冷たい空気の遮断された図書館内は、温かく感じた。

少し浮ついた気分でいたテアだったが、扉の側にも警備を任された男性が立っていて、緊張感を取り戻す。

図書館内を警備員が巡回しているのはしょっちゅうのことだが、こうして常駐していることは今までになかった。

テアの行く先行く先で、警備員の制服姿が目につく……。

もう一つ、気掛かりな学院長の言葉をテアは思い出した。

気をつけるようにと、言われたのだ。

『学院内ではもう滅多なことは起こらんだろうが……。外に出る時はローゼと一緒にでかけるようにしてほしい』

『……彼らが、また何か?』

『いや。……ただ、少し気になることがあってな。杞憂だと思うが、用心に越したことはない』

『はい』

『私もしばらく学院を留守にする。……何かあった時には周囲を頼るのを躊躇わないように』

それが数日前の話だ。

学院長は既に遠方へと旅立っている。

一体学院長は何を懸念していたのだろうか。

彼がはっきり否定したということはオイレンベルクに関わりがあることではないのだろうが、それでは何であろうかと、テアは考える。

少なくとも学院内でのテアの生活は、学院長も言った通り順風満帆だ。

嫉妬の視線はあれども、侮る視線はもはやない。

今までのことがあるから気まずい雰囲気は残っているものの、十分すぎるほどにテアはこの学院という場所に受け入れられていた。

逆に百八十度態度を変えてすり寄ってくるような輩がいなくもないが、テアは相手にしていないし、ローゼの威嚇でそういう連中はすごすごと引き下がっている。

分からない、とテアは思った。

ただ、学院長がはっきりと告げなかったことが気にかかる。

余程漠然とした予感のようなものだからか、もしくは。

テアの身近な人物に関わることだからなのではないか……。

だからこそ、口を噤んでいたのでは……。

そう考えてしまえば、テアも落ち着いてはいられなくなる。

心臓が嫌な音を立てそうになる。

ふう、とテアは深呼吸して気持ちを落ち着けた。

あまり浮ついているのも良くないが、答えが分からぬことで疑心暗鬼になり無暗に緊張していても疲れるだけだ。

要はこれまで通り用心していればいいのだろう――。

そう結論付けて、テアは目的の書架へ向かった。

毎日のように通っている図書館だ。蔵書は多く、それを納めるための場所も広いが、テアはほぼその全容を把握していて、足取りに迷いはない。

さて、と書架に辿り着いたテアは、並ぶ本を見上げた。

レポート課題の内容を頭に浮かべながら、背表紙のタイトルを左から右へ確認していく。

良さそうだと判断したものを書架から引き抜き、内容を確認するためページをぱらぱらとめくれば、余計なことは頭から消えていった。

何度かそれを繰り返し、使えそうな二冊を彼女が選んだ時だ。

テアの向かう棚と背中合わせに設置されている向こう側の棚の前に、一人の生徒がやってきた。

書棚は背面に板が固定され塞がれているものではなく、向こう側が素通しになっているもので、ちょうど本を手にとって空いた隙間から向こう側の相手と目が合い、テアは思わず息を呑む。

予期せぬ人物、だった。

エッダ・フォン・オイレンベルク――。

因縁のある彼女と、まるで鏡合わせのように書架を挟んで相対する。

テアは緊迫感を持ってわずかの隙間から相手を見つめた。

例の勝負以来彼女は約束を守り続けている。

もしこの遭遇が偶然であるならば、彼女は不自然にならない程度にすぐここから立ち去るはずだが、そうしない。彼女がここにいるのは狙ってのことなのかと見当をつけるのは、テアにとって容易いことだった。

何より彼女は、珍しく一人だ。

周囲には他の生徒もいない。

この空間には、テアとエッダの二人きり、と言ってよかった。

「テア・ベーレンス……、さん」

一体どう呼んだものかと迷うように、エッダは唇をほとんど動かさない囁き声で告げた。

「……こうして向かい合うことが許されないとは分かっています。けれど、約束をこの時だけないものとしていただきたいのです」

「……何故です」

殊勝にも見えるエッダの様子に、テアは反発を覚えるより困惑した。

傍から見れば、エッダは熱心に本を探しているように映るだろう。

だが、探るようにも見える眼差しがじっと見つめて離さないのは、テアだった。

これまでと異なる視線に、テアはややたじろぐ。

そんなテアに気付いてか気付かないでか、エッダは彼女に返答するより先に、警戒のこもった声で告げた。

「……壁に耳あり――、誰に見られているか、聞かれているか分かりません。先ほどのように本を選びながら聞いてください」

妙だ、と感じながら、その言葉に反対する必要も感じず、テアはその通りにまた一冊、本を書棚から抜き取った。

あの約束がある限り、エッダがテアといるところを誰かに見られたくないのは、分かる。

だが、それがあるにしろ、彼女の様子はただならぬように思えた。

まるで――第三者にそうと気付かれる可能性を考えているというより、もとより誰かに監視でもされているようではないか。

「……先ほどの問いですけれど、詳しくはお話しできませんの。ただ……、私は、あなたに確実にこれを届けなければならなかったのです」

エッダは言うと、抜き出した本を書架に戻すと同時に、本に重ねる形で白い封筒を棚に差入れ、向こうの棚からも取れるように押し出した。

本を一冊元に戻したようにしか見えない動作で、テアの目の前の本と本の間に、手紙を差し込んだのだ。

何故こんなことまでして、とテアは怪訝に思いながら、先ほど手に取った本を戻し、手紙を間に挟んだ二冊を同時に取り出した。

その動作をさりげない様子で見届け、エッダもまた本を手に取り、字面を追うふりで目を伏せながら続ける。

「誰にも知られるわけにはいかなかった。ですから、人も介さず、メールボックスを利用することもできませんでした」

「……」

「差出人の名をここで口にすることはできません。無論、私ではありませんわ。その内容も、全く私の預かり知らぬところです。本来ならば、私とて、こんな役目を引き受けたくなどなかった……」

それが一体どういうことか分かるかと、問いかける目でエッダはテアに視線を向けた。

テアは厳しい眼差しで、それに応える。

声には出さず、唇だけ彼女は動かし、エッダは憂いを込めた瞳でそれに頷いた。

「……私が言えたことではないかもしれませんが、気をつけなさい」

危険だと、教える言葉。

それを発したエッダは、忌々しげにテアの手元の手紙を見つめていた。

「――それでは」

長居したくないのだろう、エッダはカムフラージュにか一冊だけ本を抱え、その他の本はきれいに並べ直してから、何事もなかったようにその場から去った。

彼女と言葉を交わしていたのは、ほんの数分程度のことだっただろう。

だがそれをとても長く感じ、疲労を覚えてテアは息を吐く。

しかし緊迫感は消し去れなかった。

腕の中に、本と共に抱えられた手紙。

気をつけなさいと、二人からもらった言葉。

ほとんどレポート課題のことは頭から飛んでいたが、何とかもう数冊資料を手に取り、テアはそれを借りるためカウンターへ向かった。

貸出手続きを終えて図書館を出ると、寮の自室へ戻る。

手紙が気になって、平然と図書館でレポートに手をつける気になれなかったのだ。

だからといって図書館で手紙を開封するなど、万一誰かに見られてしまうことを考えればもっての他である。

ローゼは授業中で部屋にはいない。ひとりの部屋でテアは鞄を定位置に置くと、まるで爆発物でも扱うような手つきで手紙を開けた。

それに目を通すテアの顔つきは、だんだんと強張っていく。

文面は長いものではなく、読み終わるのに時間はかからなかったが、テアの視線は何度も便箋を往復した。

やがて暗記するほどにそれを凝視した後、テアはその手紙をいっそ握りつぶしてしまいたい衝動を堪え、元の通りにそれをたたみ直した。

「……ピアノ、」

ピアノが弾きたいと、思った。

だが、今はそれでは駄目だ。

考えなくてはならない。考えなくては。

テアはようやくそこで、椅子に腰掛けた。

手紙を机の上に据える。

両肘を机につき、組んだ手の甲の上に額を乗せて、彼女は瞳を閉じた。

エッダの慎重過ぎる様子も、ただならぬ事態を告げていた。

だが、ここまで来てこんなことが起こり得るとは――。

すぐにでも、相談できる誰かに、協力者に、このことを伝えなくてはならない、と思う。

しかし学院長は出張中だ。

直接「あしながおじさん」に連絡をとるわけにはいかないし、他の協力者へのアクセスも難しい。

まさか、とテアは慄然とした。

狙ったのだろうか。狙われたのだろうか。

学院長の、不在時を。

そうだとすれば……。

テアは奥歯を強く噛みしめながら、考えた。

どうする、と問いかける。

いや、テアにできることは今、ひとつしかない。

手紙に書かれていることに従うしかない。

そして、一体誰がこの手紙の送り主で、一体何を狙ってこんな手紙を出してきたのか、明らかにし、口止めしなくてはならない。

手紙の送り主は――。

母と過去に縁があった人物だと、自称していた。

シューレ音楽学院コンクールでテアを見、娘だと分かったらしい。

母と知り合いであったと、その真偽は分からない。

だが、母とよく似た容貌のテアを見て母のことが分かったということは、真実性が高いということ。

その人物がいつ頃の母を知っているのかが問題だが、テアをその時まで知らずにいたのなら、母がオイレンベルクだった頃と考えられる。

母がカティア・フォン・オイレンベルクであったと知っているのだとすれば……。

それを迂闊に他に漏らされれば、これまでの全てが水の泡になってしまう。

エッダは差出人について言えないと言った。手紙にも名は書かれておらず、イニシャルだけが几帳面な字で書かれていた。

H・V・B、と。

貴族であることは間違いない。だが、テアに心当たりはなかった。

エッダと接点があるらしいということは、それなりに力のある貴族だと考える方が自然だが……。

母は何か、言っていただろうか。

動揺する頭で思い出そうとしてみても、無駄だった。

だからまずその答えを、テアは手に入れなければならない。

もし手紙に書かれてあるのが、昔の母を知っていると、それだけならば、ここまで深刻にならなかったかもしれない。

問題は、その後の文面にもあった。

手紙の文章自体は、丁寧で礼儀正しく、誰が読んでも当たり障りないと感じられるように書かれてある。

例えば、こんな風に。

『母君との昔話や、私の知らない貴方方の話を、水入らずでお話ししたいと切に願う所存です』……。

そして、日曜日に迎えを寄こすと、送り主は告げていた。

それは、テアの返事も求めず、一方的に。

その上『水入らずで話したい』と――つまり、一人きりで来いと、相手は要求しているのだ。

真実母の知り合いで、過去を懐かしく思い出しテアと語らいたいと思ったならば、エッダを介する必要はなく学院のテア宛に手紙を送るのが普通であるし、懐かしいから会いたいと訪ねてくればいいだけだ。

それをせず、エッダを"脅迫"してまで、彼女以外の誰にも知られないようにこの手紙を届けさせた。

一体何を目的としているのだろう。

エッダと同じように脅迫でもするつもりなのか。しかし、一体テアに何を差し出せと言うのだろう。回りくどい手段を用いてまで接触してくるほどのものを、テアは持ち得ているだろうか。

他が求めるようなものを、何か手にしているのなら、それは唯一、彼女の側にいてくれる人々だ、とテアは思う。

彼らが仮に何も持たなくてもテアはそう思っていただろうが、何故かテアの周囲には「力」を、何らかの影響力を持った人間が集まっている。

ディルクやライナルト、ローゼもそうだし、学院長や「あしながおじさん」もそうだ。

そうしたテアの人間関係は把握されている、と悪い方へ考えていた方がいいだろう。

どこまで知っているのかは分からない、それも知る必要があるだろうが、わざわざ学院長の不在を狙ってきたことから――偶然ではない、とテアは直感で答えを得ていた――、それは窺える。

だが、彼らに絡んだ要求を相手が考えているとして、それは相手にとってあまりにもハイリスク・ハイリターンではないだろうか。

まさかこれで本当に昔話をして終わり、ということはないだろうが……。

テアは頭を悩ませたが、やはりその答えは相手に確認するしかないと、改めて結論するしかなかった。

あのエッダを駒のように手足として使ってきたことから考えて、並々ならぬ相手だと思えば余計に、早計な判断をするわけにはいかない。

テアは顔を上げ、今度は手の甲の上に顎を乗せる姿勢になった。

この手紙を手渡してきたエッダのことを思い浮かべる。

もし手紙の主が、テアのことをカティア・フォン・オイレンベルクの娘と確信しているならば。

エッダ・フォン・オイレンベルクを脅迫した、その内容も分かるような気がした。

彼女は、知ってしまったのかもしれない。

先ほどテアを見つめていた、あの瞳。

疑念と、戸惑い。

テアは問うような瞳を思い出し、首を振った。

――違う。私は……、私は、テア・ベーレンス。それ以外の何者でもない――

テアは手紙を手に取り、恐ろしいものを封印するかのように、引き出しの奥深くにしまう。

その代わりのようにテアが制服のポケットから取り出したのは、彼女がいつも身につけている懐中時計だった。

時刻を確認すれば、針は昼休みに入っていることを知らせている。

エンジュのレッスンの前に昼食をと思っていたが、食堂へ足を向ける気にならず、そのままテアは懐中時計を胸元でぎゅっと大切に握りしめた。

――お母さん、……お父さん。

「やっぱり嵐の前の静けさ、だったんでしょうかね」

苦笑を浮かべ、テアはひとりごちる。

だが、簡単に嵐に飛ばされてやる気は、彼女にはなかった。

あともう少しなのだ。

彼女の母が願ってやまなかった、本当の自由が、あと少しで、手に入るはずだから。







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