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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第10楽章

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真実 1



春の午後の日差しが、窓から柔らかく差している。

その光景とは対照的に感じる難しい顔つきで、シューレ音楽学院学院長マテウス・キルヒナーは、学院長室の椅子に深く凭れていた。

思慮深いその目が貫くように見つめる先は、来客を見送ったばかりの扉。

先ほどまで言葉を交わしていた来客――、ハインツ・フォン・ベルナー伯爵の油断のない瞳を思い出し、マテウスの眉間にさらに皺が寄せられる。

伯爵が会見のアポイントを申し入れてきたのは、シューレ音楽学院コンクールが無事に終了した直後のことだ。

彼の弟がこの学院で学んでいることは当然マテウスも承知するところで、その弟――フリッツ・フォン・ベルナーに関係することで話があるのかと思っていたのだが、蓋を開けてみれば全く予期せぬ話を持ちかけられた。

彼曰く、『いつも弟がお世話になっております。……本日伺ったのは、こちらの学生のピアニストに後援を申し出たいと思ったからなのです。テア・ベーレンス嬢、と仰いましたか。恥ずかしながら、先日初めてこちらのコンサートに足を運びまして……。そこで彼女の演奏を聴き、是非とも応援したいと考えた次第です。弟も世話になっていると聞き及んでおります。十分な支援ができると自負しておりますが、いかがでしょう』

その言葉に疑いを挟む余地は、ないはずだった。

ベルナー家の資産事情についても、マテウスの知るところである。

フリッツの入学に際して、多額の寄付金も頂いている。

演奏者一人のスポンサーになるなど難しいことではないだろうし、その申し出におかしいところはなにもない。

だが、マテウスが長年この職を務め培ってきた勘が、警鐘を鳴らしていた。

何かが妙だと、告げていた。

とはいえ、伯爵に感じるところがなくとも、この話を受けるわけにはいかないのだ。誰が相手であっても、そうなのである。

実際のところ、これ以前、学院祭コンサートの後にも、テアには何件かそういった話があったのだが、全て丁重に断っていた。

今回もそれは同じだ。ハインツに限らずこのような申し出をしてくる相手は出てくるだろうが、全て断らざるを得ないのである。

それは全て、テアの抱える事情のために。

だからマテウスは、幾度か繰り返してきた台詞をまた告げることとなった。

『とても有り難い申し出です。他の生徒であればお受けしていたと思います。しかし、申し訳ないのですが、彼女に関してはスポンサーを欲していないのです。いえ、そちらには何の問題もありません。ただ……、気を悪くされないで頂きたいのですが、彼女は応援してくださる気持ちを多大に受け取りすぎる傾向があるのです。人前であれだけ堂々としていた彼女がと思われるかもしれませんが……。どうも、たくさんのお金を出してもらい応援してもらって、それなのに失敗したらどうしよう、とプレッシャーになるようですな。そうなると、あんな演奏が逆にできなくなってしまうのです』

真実が全くゼロというわけではないが、嘘八百を並べる口調に澱みはない。

彼は基本的に誠実な男だったが、必要であればいくらでも偽りの笑顔を浮かべ偽りの言葉を吐くことができた。

『しかしそれでは、今後の演奏活動にも支障があるのでは?』

『ええ、幸い彼女も自覚して克服しようと現在、その解消に努めています。なので、お願いできるなら彼女のそれが治った後に改めて、と』

『その克服のためにも、小額でも送りたい……、というのもご迷惑でしょうか』

『そうですな、こちらとしては本当に有り難いのですが、彼女も悪く言えば頑固な性格で、良く言えば真面目なのですな。きちんと克服して自信を持って演奏できるようになるまではやはり申し訳ないと言うのです。あれだけの演奏をする彼女ですが、自分自身に厳しいと申しますか、随分と過小評価で、こんな自分よりも、他の優れた演奏家にもっと手が差し伸べられるべきだと、そうも考えているようで』

『なるほど……。すると、彼女自身は現時点で困っているということはないのですね』

『ええ、それは。そうした要因が彼女の今後の活躍を妨げることはないとだけはお伝えできます』

『それならば安心しました。では……一度、お会いしたいというのも、無理な相談でしょうか』

『そう……ですな。面会の場でしたら、私の立ち会いのもと学院内に設けることが可能です。演奏を望まれるのであれば、そちらは彼女の担当教官の許可が必要になるのですが、現在教官の許可は出ておりませんので、申し訳ありませんがお断りせざるを得ません。学院のイベント等で自ら発表する分は構わないのですが、まだ招かれるには早いとの判断なのです』

『分かりました。またそちらの手を煩わせるのはさすがに忍びない。残念ですが、今回は潔く諦めることにします』

『わざわざ足を運んでいただいたというのに、申し訳ない』

『いいえ。こちらこそ、お時間をいただいて感謝しております』

そのようにして、会見自体は穏やかに終わりを告げた。

何度反芻してみても、そう気にすることはなかったはずだと思うのだが、一体何がこんなにも気にかかるのだろうか。

テアが関わっているから、慎重になっているのか。しかしこれまでの申し入れで、このような引っかかりを感じたことはなかった。

それとも、ハインツに関するあまり良くない噂が、妙な勘繰りをさせるのか。

マテウスが考え込んでいると、茶を淹れるため席を外していた秘書が部屋に戻ってくる。

机に置かれたティーカップに礼を述べて、彼は先ほどの会見時にも後ろに控えていた秘書に告げた。

「ハインツ・フォン・ベルナー伯爵について知りたい。頼めるか」

「はい」

「……そうだな、どんな些細なことでも、テア・ベーレンスに関わることがあればすぐに報告を」

「かしこまりました」

万事心得ている様子で、秘書は淡々と頷く。

「しかし……、困ったな。来週から出張か」

「護衛の手配をいたしますか」

「……それが必要になるほどの事態にはならんと思うが……。まず彼女自身が拒むだろうし、ローゼがいるからな。さりげなく注意はしておこう。念のため、警備態勢を厳しくしておくか」

「入学試験前で警備の方は既にぴりぴりしているようですが、徹底させましょう」

「頼む」

長年マテウスの右腕を務めている男は、彼が言葉を費やさずともその意を汲み取ることに長けているようだ。

そんな秘書が淹れた紅茶はまさしくマテウスの好みそのままで、口をつけたマテウスはほんのわずか表情を和らげる。

「……何もなければいいんだがな」

軽い口調ではあったが、どこか切実な願いの含まれる独り言だった。






こういう場所は久しぶりの気がする、と思いながら、エッダ・フォン・オイレンベルクは爽やかな白ワインを一口含んだ。

首都の南、シューレ音楽学院とは宮殿を挟んでほぼ対角線上に位置する街に、彼女はやって来ている。

もちろん学院は休日で、授業を休んで来ているわけではない。

母方の従兄弟の息子、つまりは従甥の誕生日パーティに招待されたのだ。

この時のために用意してあった深紅のドレスは、彼女に良く似合っている。

結い上げた髪の下からは項が覗き、何とも言えない色香が漂っていた。

会場に入った瞬間から、その美貌に男性陣の目は釘付けであったのだが、エッダはグラスを持ったまま、たった一人で庭園にいる。

親馬鹿ならぬ祖父馬鹿とでも言うものか、「子どもはいいぞ、結婚はまだしないのか」と、母方の伯父がやたらとパーティ参加者の男性を紹介してくるので、うんざりしたのだ。

誕生パーティと聞いていたが、お見合いも兼ねていたのではなかろうかと疑ってしまうほどに、独身男性でいっぱいだった。

伯父の顔を潰すわけにもいかないので表面上はにこやかに対応していたのだが、さすがの彼女も耐えかねて逃げ出してきたというわけである。

幸いこの邸には何度も足を運んでいたから、逃げ場所に迷うこともなかった。

他に誰もいない、木漏れ日の差すベンチに腰掛ければ、気持ちもほぐれてくる。

庭園には色とりどりの花が咲き乱れており、それを眺めていれば、いつの間にかグラスも空になっていた。

そして。

しばらくここにいたいのが本心だが、このまま姿を見せずにいるわけにはいかない、とエッダが立ち上がるタイミングを先延ばしにしていた時である。

「――美しい、庭ですね」

そう声をかけられ、エッダは顔を上げた。

会場の方から歩み寄ってくるその人物を、彼女は知っている。

ハインツ・フォン・ベルナー伯爵。

若きベルナー家の当主。

フリッツ・フォン・ベルナーの兄。

そう言えばこの人物も来ていたのだったかと、内心で彼女は眉を顰めていた。

とはいえ無視するわけにもいかず、エッダは立ち上がる。

「たくさんの蜂たちが、花を探していましたよ」

気障な台詞だ、と思った。

しかし、表面上は愛想良く微笑んで返す。

「ごきげんよう、ハインツ卿。お久しぶり……、という挨拶で間違っていませんかしら」

「ええ、お久しぶりです、エッダ嬢」

顔は笑っているが、目の奥は笑っていない。

それは、お互いさまだった。

「私も蜂の一匹として、あなたを探していたのですよ」

初心な女性であれば、ここで頬を染めるくらいしたかもしれない。

ハインツは長身で、端正な目鼻立ちをしている。

鋭利な印象もあるが、微笑んでいればそのマスクは魅力的に映るだろう。

理知的で落ち着いた態度には、頼りがいも感じられる。

しかしエッダには、どうにも彼が胡散臭く思えて仕方なかった。

信用も信頼もできない、と感じるのだ。

当主として家を支えるその力量は評価しているが、人間として受け付けない。

――同類に向ける嫌悪なのかもしれませんけれど……。

自嘲気味にエッダは思い、表情を崩さずに返した。

「あら、私、ハインツ卿に叶うような蜜を持っているかしら」

ハインツはそれには微笑むばかりで答えず、

「先に、蜂らしく花粉をお届けしましょう。まず一つ、お礼を言いたいのです。シューレのコンクールでは、随分弟が世話になったようですね。不肖の弟の面倒をみてくださって、感謝しています」

その言葉に、エッダはほんのわずか肩を揺らした。

フリッツがこの兄に話したとは思えない、一体"誰"からそれを聞いたのかと、不快な思いが胸にわく。

エッダがそう思うことはおそらく、この目の前の男には予測できたはずだが、他意はないとばかりに笑うだけだ。

一体この男は何がしたいのか、とエッダは考えを巡らせた。

伯父や従兄弟に頼まれてエッダを探しに来たという風ではない。。

何か目的があってここにいるのは間違いないが、一体それは何であろうか。

この機会にオイレンベルクとの縁を強くする気なのか、それとも全く違う意図があるのか……。

「ハインツ卿にお礼されるようなことをした覚えはございませんわ。私は学院では役員という責任ある立場にありますし、他生徒の力になるのは当然のことですもの」

エッダは動揺など微塵もないように、無難に返した。

「素晴らしい。責任感が強く、立派に役目を果たされる、あなたにはその実力がある。加えてその類稀なる美しさ……。どんな女性もあなたには敵わぬでしょう」

見え透いた世辞と、そこまでは聞き流せた。

しかし。

「あなたを選ばないなど、ディルク殿下の目は曇っていらっしゃる」

かっと頭に血がのぼった。

何でも知っているとでも言いたげなハインツの顔を、エッダは思わずきつく睨みつける。

「いえ、ディルク殿下を騙すほど、彼のパートナーが謀るに長けていたということでしょうか」

感情を抑えようとしながらもエッダが声を上げる前に、ハインツが続ける方が早かった。

「……なんですって?」

「蜂が運ぶ花粉が一粒とはあり得ない。そういうことです」

「――彼女の何を知っていると仰るのです?」

問えば、相手の笑みは深くなった。

「彼女は自らを私生児であると言い、蔑まれながら同情を買っている。それは事実ですが真実とも言い難い。彼女は周囲を欺いている」

この男は一体何を告げようと言うのか――。

その先を、何故だろう、聞いてはいけないような気がした。

だがエッダは彼を止められず、目の前の男も、止める気はないのだった。

「彼女の母親の名を教えて差し上げましょう」

ハインツは一度言葉を切り、はっきりとした発音でその名を呼んだ。

「カティア・フォン・オイレンベルク」

頭に上っていた血が、一気に下がっていく。

真っ白になった頭で、エッダは茫然と男が告げた名を脳内で復唱した。

――カティア・フォン・オイレンベルク。

まさか、と思う。

信じられないと。

この男は一体何を言っているのだろうか。

「……叔母様は病で若くして亡くなったと聞いております。幼い頃から身体が弱く、子どもを産むなど……」

一部何とか冷静になった頭で、エッダは返す。

動揺を隠せずにいたが、それを気にすることは、今は不可能だった。

「ええ、ですが間違いなく、彼女が母親です。父が身元の定かでない男だった上、未婚の内にできた子どもだった故に、オイレンベルク家はカティアとその娘の存在を隠した。カティアの写真も肖像画も、だから、残されていないのではないですか?」

そうだ、それはずっと、エッダもおかしいと思っていた。

だが、病弱な彼女の負担になるから、写真も撮らず絵も描かせなかったのだと聞いて、それに納得していたのだ。

「……それは、彼女がそうであることの証明にはなりませんわね。もし本当だったとしても、何故オイレンベルクが隠してきたという事実を卿が知っているのです? もっと明確に証を示して下さらなければ、名誉棄損と訴えられても仕方ない内容でしてよ」

「さすが……、オイレンベルク家の方ですね」

その言葉には、わずかの賞賛と、まごうかたなき皮肉が込められていた。

「正直申しまして、確たる証拠はありません。ですが、私は知っているのです」

ほんのわずか、思い出すような、懐かしむような色が、彼の瞳によぎる。

それにエッダが気がつくことは、なかったのだけれど。

「カティア・フォン・オイレンベルクを。閉じた箱庭で、ほんのわずかの使用人と以外誰にも会わずにいた彼女を。彼女の娘は、カティアに生き写しなのです」

「それだけでは……」

「ええ。先日初めて彼女を目にし、それから調査を始めましたが、残念ながら確固たるものは見つかりませんでした。ですが、ブランシュ家が預かった母子が驚くほど似通っていたという証言はとれました。親子なのだからおかしくもないことと誰もが言うでしょう。しかし私にとっては、それこそが欲していたことだった」

「……卿以外に、叔母様を知っている方は?」

「オイレンベルク家でもごく一握りの人間しか彼女のことを知りません。彼らに話を聞ければいいのですが、さすがにそれは……。何より関係者であれば、決して口を開くことはしないでしょう。ですが、彼女がそうであると考えれば説明がつくことも多い。ブランシュ家が二人を保護していたその理由もそうです」

「……オイレンベルクが二人を預けたということですか」

「普通の母子家庭であったならどこかの施設を紹介するなりなんなりできたでしょうが、それをしなかった、いえ、できなかったのでしょう。現にブランシュ家の後継者は今も彼女の側で彼女を守っている。その理由は――」

「彼女がオイレンベルクの血を引くから、ですか」

わずかにハインツは顎を引き、同意を示した。

確かに、とエッダは再び働きだした頭で、考える。

もし本当にテア・ベーレンスがカティア・フォン・オイレンベルクの娘であるならば。

彼女に関する情報が手に入れられなかったのも頷ける。

テア・ベーレンスが自身について黙することが多いのも、そう。

何故ならば、オイレンベルクにとって、それは、ひどい醜聞だ。

貴族にあって、全くないことというわけではない。

だがやはりそれは忌避されること。

その上、オイレンベルク家の中でも、他でもないカティアという女性が渦中の人となれば、さらに話はまずいことになる。

彼女は……、生まれつき病弱であるということがなければ、皇帝の妃の一人となっていたかもしれない女性だったから――。

下手に話が広がれば、事はオイレンベルク家だけでは済まなくなる。

悪い方へ悪い方へと転がれば、国さえ揺るがすことに――。

そこまで思い至ってようやく、その最悪の可能性が目の前にいることにエッダは気付いた。

「――仮に、卿の仰ることが真実だとしましょう。彼女が叔母様の娘だと知って……、あなたは一体、どうするのです?」

問う声は落ち着いていたが、化粧の下でエッダの顔色は悪くなる一方だった。

「花粉を代償に、頂く蜜を欲張ることはしませんよ」

囁くように、ハインツは要求を口にする。

「――この手紙を、彼女に渡して頂きたいのです」

内ポケットから白い封筒を取り出し、彼はそれをエッダに差し出した。

「……わざわざ私に頼まずとも良いのでは?」

「色々と事情がありましてね。これが最良の手段であると考えたのです。もちろん、内密でお願いします。もし誰かに何かをお話しになるようなことがあれば……、先ほどの内容を全て公にします」

「――!」

エッダは顔色を失い、絶句した。

目の前の男が一体何を考えているのか、分からない。

そんなことをすれば、この男とてただでは済まないかもしれないのに。

「……確たる証拠はないと仰いませんでした? そんな内容をいたずらに誰かに告げたところで……」

「思ってもいない強がりですね。確たるものがなくとも信憑性は十分にある。巧みに煽ればいくらでも信じる人間はいます」

この男は、とエッダは怒りと恐れを同時に抱いた。

全て計算した上で、エッダに話したのだ。

この手紙を誰にも知られずにテア・ベーレンスに渡す、ただそれだけのために。

「……ああ、ただ、ほんの少しディルク殿下にほのめかす程度なら、口を噤んでいるとお約束しますよ」

狡猾で卑怯で嫌味な男の台詞に、エッダは冷たい一瞥で返し、差し出された手紙をやや乱暴に、二本の指で掠め取るように受け取った。

「――せいぜい甘い蜜を堪能なさることです。それに満足してもう二度とこちらには飛んでこないで頂きたいですわ」

これ以上男の顔は見たくなかった。

エッダはくるりと踵を返し、早足で歩み去る。

残された男は変わらず微笑みを浮かべていたが、その瞳の奥にある色は、狂気と執着を内包して見えた。




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