邂逅 3
さすがにコンクール本選直前ともなると忙しさがこれまでの比ではない。
そう思って、エッダは小さな溜め息を吐いた。
明後日にコンクール本選を控えた放課後。
生徒会役員としての仕事がとりあえず一段落したエッダは、休憩と称しいつものように迷いなく森の方へ足を向ける。
今日のこの時間は、フリッツもまたそこで練習をしているはずだった。
涙を見られてしまった痛恨の邂逅の後も、何故かフリッツと会っていることを、自分でもエッダは不思議に思う。
あの後――、ここへ来るのは控えようと考えたのだが、既にここに足を運ぶことは彼女の中で当たり前のことになっていて、泉の館を出ると無意識に足を向けていた。
ベンチに座ってからようやく、来てしまったと我に返ったのである。
先日の出会い以前にフリッツと鉢合わせすることはなかった。彼が気まぐれでこちらに来ない限りは会うことはない、前回が例外だったのだと、来てしまった以上すぐに戻るのも癪に障る気がして、腰掛けたままでいたのだが。
するとそこに、フリッツが現れたのである。
エッダは気まずい思いで彼に挨拶したが、その後返ってきた言葉は予期しないものだった。
エッダのアドバイスのおかげで二次審査に通ったと。ありがとう、と、彼はそう感謝の言葉を告げたのである。
正直、エッダとしてはそんな大層なアドバイスをした覚えはない。
ずっと聴いていてひっかかっていた箇所を指摘しただけである。
あんなことくらいで、と思ったが悪い気はしなかった。
そして、納得した。
なるほど、あの音の持ち主はこういう男なのかと。
それまでエッダはフリッツのことをさほど気にかけていなかった。
せいぜい、貴族のくせにテア・ベーレンスとよく一緒にいる気の弱そうな変な青年、という認識だった。
結構酷い認識具合だったが、この一連のことがきっかけになり、エッダは彼に少し興味を持ったのである。
さらにその後日。
フリッツはやはり森の中での練習を続けていた。
二次審査から本選までそう日がない。彼が非常に熱心に練習しているのは、目の前で見ずとも同じ森の中で聴こえてくる音からエッダには分かりすぎるほどに分かった。
しかしどうやら、苦戦しているようである。
これまではその音色に癒されることの多かったエッダだが、今度は苛々し始めた。
そこはそうではないだろう。ああすればきっと自分の音を生かした演奏ができるはずなのに。担当教員は一体何をしているのか。
そんなことを思っている内に、今度はエッダの方がフリッツが練習している場所に赴いていた。
フリッツは最初驚いていたようだったが、エッダが怒涛のように楽譜を指して述べ出せば、真剣な眼差しになって彼女の言葉を聞いた。
そこで彼がただ唯々諾々とエッダの言葉通りにするのではなく、自分なりにその意味を咀嚼し、納得できないことがあれば議論する姿勢を見せたので、エッダはさらにフリッツの評価を上げた。
それから、毎日のようにエッダはフリッツの練習を見ている。
これは礼のようなものなのだ、とエッダは思っていた。
フリッツはエッダがずっと彼の演奏を聴いていたことなど知らない。
だがエッダは、その音で心を落ち着かせることができていた。
フリッツはエッダが練習に付き合ってくれることに対し感謝しつつも不思議に思っているようだが、エッダにはそういう理由があったのである。
それは、彼女が自分自身を納得させるための建て前や言い訳だったのかもしれないが――。
そして、今日もエッダは人気のない森の中へと足を踏み入れる。
まだ仕事も残っているから、少し前までと同じようには、彼のために長い時間をとれない。が、コンクール直前で、既に指摘することはほとんどないくらいになっているから、構わないだろう……。
そんなことを思いながら。
しかし、いつもの場所へ足を向けて、彼女は怪訝な表情を浮かべずにはいられなかった。
普段ならば、休憩時間もそこそこにオーボエを手放さないフリッツが、両手を空にして項垂れたままベンチに腰掛けていたからである。
何かあったと言わんばかりの姿に、エッダは静かに近付いて行った。
「……今日は練習しませんの?」
「エッダ……」
弱々しい微笑を浮かべ、フリッツはエッダを見上げた。
あまり顔色も良くない。
エッダは眉を顰めた。
「……せっかく来てくれたのに、ごめん。なんか、音、全然出せなくなっちゃって……。さっきも練習室で伴奏者に追い出されちゃってさ。今、なんとかしようとしてた」
「なんとかなりそうですの?」
「分かんない……」
首を振ったフリッツの隣に、遠慮もなくエッダは腰掛ける。
フリッツに拒絶の空気はない。
さてどうしたものかとエッダは考え、少しの時間二人の間には沈黙が降りた。
「少しはましになったと思ってたんだけど……、僕、やっぱり全然変わってないや」
やがて、先に口を開いたのはフリッツだ。
それはエッダに聞かせるものというより、自分を責める独り言のようであった。
「あれくらいのことで委縮しちゃうなんて……、馬鹿みたいだって、分かってるのに」
そう呟いた彼の瞳から、意識せず、透明な滴がぽろりと落ちていく。
エッダはそれを驚きの気持ちで見つめ、黙ったままハンカチを差し出してやった。
男性が泣くところなど、そうそう見ることはない。
普段の彼女であれば、自身がまず涙など見せたくない性分であるので、何を泣いているのかと叱責するか軽蔑するかするところだが、この時は何故かそういう気持ちにならなかった。
「……ありがと」
フリッツは少し躊躇ったが、素直に感謝して真っ白なそれを受け取る。
「この前と反対だね」
「……それは言わない約束でしてよ」
少し笑ったフリッツだが、少し刺々しくなったエッダの返答にまた黙った。
「……答えたくないなら構いませんけれど、」
気を取り直して、エッダは淡々としながら突き放すでもない調子で問う。
対人慣れしているエッダは、こういうことにも慣れている。
落ち着いていて頼りになると思わせる雰囲気は、相手に話しやすさを与えていた。
「何があってそんなにあなたは――小さくなっているんです?」
フリッツ自身は委縮という言葉を使った。
エッダの印象も、そうだった。
いつになく彼が、弱々しく、縮こまっているように感じ、だから「小さくなっている」と形容したのだ。
フリッツもそれを否定せず、少しの間迷うように沈黙していたが、やがて言った。
「僕の兄さん……、君も知ってるだろう?」
「ハインツ・フォン・ベルナー伯爵ですわね」
もちろん、知っていた。
ベルナー家といえば、オイレンベルク家と同様長く続く貴族の家柄であるが、ただ古いだけで政への発言力は弱い、財力にも恵まれていないというのがこれまでの評価であった。
しかし、父親から爵位を継いだハインツは、わずか数年でベルナー家のそんな評価を覆すに至る力を見せつけた。政治への参加に関してはあと一歩古参の者に及ばずというところであるが、領地経営は巧みで、現在のベルナー家の資産は先代の時代の何倍にもなっていると言われる。
幼い頃から鋭才の持ち主と言われ、爵位を継ぐ以前より注目されていた人物だ。
二十九という年齢でいまだに独身であり、高い能力を持ち容貌も悪くないため、年頃の娘からの見合い話は事欠かないらしい。実を言えば、エッダがこのまま退学でもすれば、結婚相手の候補に彼の名も挙がるだろう。
そんなハインツが、年の離れたフリッツの兄である。
だが、エッダはその人物を好印象で覚えていない。
顔を合わせたのはほんの数回であるが、あまり長く話をしたいとは思わなかった。
危険な男だ、と感じたのだ。
事実、彼は有能な半面、目的のために手段を選ばない、非情なところがあるという。
そんなハインツがフリッツの実の兄とは、正直あまり信じられない。
印象が違いすぎるのだ。
「うん。その、兄さんがさ……、コンクール本選、聴きにくるんだって」
だからどうしたとエッダは言いたくなったが、フリッツの表情が暗過ぎて言えなかった。
なので、無難に考えられる答えを返す。
「結果が悪ければ退学とでも言われましたの?」
「そこまでは言わなかったけど……。兄さんは、僕のことなんてどうでもいいんだ。ベルナー家の汚点になるようなことをしなければね。だから言われたのは、『家の恥になるような演奏はするな』とか、そういうことだけ」
言いそうだ、とエッダはハインツの顔を思い浮かべて思った。
フリッツの口ぶりからするともう少し何か言われたようだが、彼の顔色を見るに思い出したくもない言葉だったのかもしれない。
「もともと音楽にも、教養以上には全然興味がない人で……、今回だって付き合いでしょうがなく来ることに決めたんだって……。あの人にとっては、僕なんか虫けらみたいな存在で、音楽だって、そんなに大したものじゃなくて……、分かってるんだ。だから、気にする必要なんかないって。ああそうって、それだけで済むことなんだって。でも――怖いんだ。僕は、あの人が、怖いんだよ!」
溜まっていた思いをぶちまけるように、フリッツは声を荒げた。
そう言えば、とエッダは思い出す。
ベルナー家の兄弟の噂話。
兄は何でも完璧にこなせる鋭才。
しかし、弟は大した取り柄もなく、ごくごく普通なのだと言う。
比較される兄弟。
兄を讃える声と、弟を嘲る笑い声。
嘲笑にずっと、彼は小さくなってきたのだろうか。
そして、そんな彼に対し、兄はきっと、優しくなどなかったのだろう。
冷たく、見下げてきたのだろう。
彼も、最初は追い付こうとしたのかもしれない。
けれど追い付けず。
落胆して、絶望して、笑い者になって。
その兄も、手を差し伸べてくることはなく。
無能だと、そんな風に告げたかもしれない。
おそらく、ずっと、ずっと、くじけさせられてきたのだろう――。
だから、今こうして、先ほどよりさらに小さくなって、彼は肩を震わせている。
「ここに来て少しは変われたと思ってた……。でも、ちょっと言われたくらいでこんな風になるなんて、やっぱり僕は駄目なんだ。兄さんの言うとおりだ。僕なんかが本選に出るのだっておこがましいくらいで……、入賞とかそんなの、できるわけないのに、こんな、全部全部無駄だったんだ……!」
その言葉に、エッダはかちんときた。
まだ何かうだうだと言っているフリッツを遮り、エッダはにこやかに告げる。
「……少し黙って、歯を食いしばりなさい」
「え」
フリッツがその言葉に従うのも見届けず、エッダは立ち上がると彼の頬を平手打ちした。
痛そうな音が響くが、演奏に支障があっては困るので、一応彼女も手加減している。
ベンチから落ちるほどではなかったが、頬と精神に衝撃を受け、フリッツは目を丸くしたまま絶句し、エッダを見上げた。
何をするのかと怒るような余裕も与えず、エッダは口を開く。
「全部無駄と仰いましたわね? あなた、それは私の助言も全部無駄だったと言うことなのかしら?」
エッダはうっすらと微笑みすら浮かべて言ったが、目は全く笑っていなかった。
うっかり失言してしまった己に、フリッツは蒼くなる。
「エエエエエッダ、」
「あなたが自分に自信を持てないことは知っていましたしよく分かりましたわ。ですが、私までいっしょにしないでいただきたいですわね。あなたのお兄さまが何を仰ったのか存じませんけれど、見下げ果てたとしてもあなたに関してのみ、私のことは何も仰ってませんわよね? この際あなたが自信喪失するのは勝手にやってくだされば結構。ですが私があなたと過ごした時間や助言まで無駄だなんて仰るならば、容赦しませんことよ? 私、無駄なことはしない主義ですの。その私が無駄な助言をしていたと? 無駄な練習を、演奏をさせていたと? そんなこと、あるはずがないじゃありませんの。私が関わった点くらいは、自信を持っていて頂かないと困りますわ。あなた、私にそんなに信用ありませんの? 信用のない相手にこれまでアドバイスされていたと? そういうことだったのですか?」
それにフリッツはぷるぷると首を横に振るしかできない。
「分かっているなら、私がアドバイザーだったとそのことに胸を張っていればよいのですわ。あなた自身がどうでもいい人間でも、あなたの練習に付き合った私はそうではありません。従って、無駄なことなど何もないのですわ。ここに私がいることがその証。お分かりかしら? いいえ、当然分かっていましたわよね」
もちろんです、と言わんばかりに今度は首を縦に振るフリッツ。
「それでは今日の練習を始めましょうか。本選はもうすぐですものね。さあ早く準備なさい」
反論を許さない調子で、毅然とエッダはオーボエの入ったケースを指した。
フリッツは気迫のありすぎるエッダの様子に逆らえるわけもなく、借りたハンカチで顔を拭うと、今度はそれをとりあえずしまい、準備を開始する。
兄とは違う意味で、エッダが恐ろしいと思うフリッツであったが――。
――僕の気持ちも、努力も、無駄なんかじゃないんだって、励ましてくれたんだよね……。
そんなことを思いながら、楽器の準備を整えたフリッツは立ち上がった。
――うん。僕自身は、やっぱり駄目駄目なのかもしれない。兄さんを見たら、また卑屈になっちゃうかも……。でも、僕の音楽は、もう、僕だけのものじゃないんだ。だから、きっと――
リードに唇を近付ける前に、フリッツはようやく明るい笑みを見せた。
「エッダ、あのさ……」
「なんです?」
「うん、……ありがとう。僕、その、頑張るから」
「――当然ですわ」
エッダはそっけなく返したが、この男はこういうところが、と胸の内だけで呟いて、
「さあ、始めて下さい」
奏でられたオーボエの音に、満足気に瞳を閉じた。