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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第9楽章

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邂逅 1



「大丈夫かい?」

「……はい?」

最初、エッダ・フォン・オイレンベルクはそれが自分に向けられた言葉だと気付かなかった。

気付かず、しまった、と思った。

――私としたことが……。

そんな思いを顔に出さず、上手く取り繕おうとしたが、相手の言葉の方が早い。

「顔色が優れないようだけど」

「そんなこと……」

そう笑って、エッダは頬に手を当てる。

春休みも明けた、四月の放課後。

彼女は泉の館で生徒会役員としての仕事をしていた。

シューレ音楽学院コンクール(学院での通称は院内コンクール)が開催される中、通常業務に加え、役員にはコンクールに関連した仕事が加わっている。

それ故、エッダだけではなく、他のメンバーも毎日のように泉の館に集まる日々だ。

その日もそうで、エッダに気遣わしげな声をかけたのは、同じく仕事をしていた新生徒会長だった。

「仕事の方はもう大分片付いてるし、今日はもう上がるといいよ。明日は先生方とのミーティングもあるし、無理をして明日に差し支えがあった方が困るから。他のメンバーも早めに上がらせるし」

彼がこういう言い方をしたのは、エッダに負担をかけないためだろう。

他の役員も、気遣わしげな顔で、同意するように頷いている。

新生徒会長のこういうところが、おそらくディルクが彼を推した一番の理由なのだろうと改めて考えつつ、あえて逆らう理由も見つからなかったので、エッダは素直に従うことにした。

「……それでは、申し訳ありませんが今日は先に失礼いたします」

「ああ、今日はゆっくりしてくれ。これからまた忙しくなる」

苦笑気味に、重すぎない労わりの声がかけられる。

エッダは、今度は無理をせずに微笑んで頷き、退出した。

最近は確かに根を詰め過ぎていたと、その自覚はある。

今朝からあまり顔色は良くなかった。明るめの化粧で傍からは気付かれないようにしたはずなのに、見破られてしまうとは。

――私も、まだまだ……。

最近、そう思えるようになった。

泉の館から出、エッダは一人、歩いて行く。

付き人はいない。

生徒会役員に就任してから、放課後仕事をする間のみ、エッダは供の者を遠ざけるようにしていた。

表向きは、他の生徒会役員がエッダほどの出自ではないので、身分を強調するような振る舞いを避け、他メンバーに配慮するためという風を装っているが、実際のエッダの理由は異なる。

彼女は、少しでも多く、一人でいられる時間が欲しかったのだ。

四大貴族の家系に生まれた彼女にとって、誰かが側にいることは当然のことであり、付き人は空気のような存在である。

だがそれは「空気のような」であってイコール空気ではないのだ。

やはり、本当に一人でいる時とは異なるのである。

だから、遠ざけた。

今のように、一人の時間を少しでもつくるために。

そう、帰るそぶりを見せておいて、エッダが向かうのは迎えが待っている門の方ではなく、泉の館の北側、小さいものの森林公園と形容していいだろうそこであった。

シューレ音楽学院の敷地は広大だ。

その中には憩いの場所も多々含まれていて、その内の一つである。

木立の中にベンチが複数置かれているだけのような場所ではあるが、きちんと整備されていて、くつろげるような空間になっている。

居心地の良い空間であるが、泉の館の方へ足を向ける人間が少ないため、あまり使われていないようだ。

最近――特に春休みが明けてから、エッダは度々この木立の中に足を踏み入れていた。

彼女には、静かな場所で、たったひとり、落ち着いて考えたいことがあったのだ。

この若干の体調不良とて、元はといえば、その考えごとのせいである。

だから、早々と帰路につくよりはと、エッダは指定席となっているベンチに腰を下ろした。

近くに、他に人の気配はない。

だが――そう遠くないところから、演奏の音が聞こえていた。

オーボエの音だ。

いつも、というわけではないが、ここに来るようになってから、頻繁に聴いている音である。

エッダの他にももう一人、ここを落ち着く場所として利用している生徒がいるらしい。

だが、これまでにその姿を見たことはなかった。

エッダとは異なる方から入って来て、少し離れた場所に落ち着き、また同じように出て行っているのだろう。

――誰なのかしら……。

落ち着く音だと、いつも思う。

だから気になっていた。

練習している曲目からして、十中八九、コンクール参加者だ。

仕事の関係上、調べようと思えばすぐに答えを知ることは可能である。

けれど、エッダはいまだにそれを明らかにしていなかった。

何故かと問われれば、彼女に明確な理由はない。

ただ……、こうして聴くことができれば、それで良かったのだ。

少なくとも、今のところは、そうだった。

しかし、ふとその音が途切れ、待ってみてもその音が聞こえないと、唐突にエッダは不安に襲われる。

演奏者は、今日は帰ってしまったのかもしれない。

少し休憩しているだけなのかもしれない。

それだけのことだ。

それなのに、見捨てられたような気持ちになる。

情緒不安定になっている己をエッダは自覚していて、自嘲気味に笑った。

あれから、生徒会役員に就任できた時から。

ディルクに、想いを受け入れてもらえなかった時から。

ずっと、エッダの心は、定まらない揺れ動く大地の上に立っているかのようだった。

傍から見る分には、変わったことなど何もなかったように見えているはずだ。そうなるように苦心して通常通りを装っているので、そうでなければ困ると言った方が正しい。

何かあったのかと、そんな風に尋ねられたくなかった。心配されたくなかった。

弱さを露呈するには、彼女のプライドは高すぎた。

けれど、強がれるのは人前でだけで。

辛苦に押しつぶされそうな心は悲鳴を上げて、その叫びを涙として彼女の外に溢れさせる。

泣きたくなど、ない。

あれからどれだけの日々を重ねたというのか、そろそろ落ち着いてもいいはずなのに。

涙は抑えようもなく、エッダはハンカチを取り出してそっと目元にあてた。

この弱さを忌々しいと思う。

同時に、簡単にこの涙が尽きてしまうのも嫌だと彼女は思った。

まるで、ディルクへの想いがその程度のものだったのだと言われるようで。

彼の側にいるために重ねてきた日々が、大したものではなかったと言われるようで。

――ディルク様、私は一体、どうしたら……。

この想いを捨てきれない。

本当は彼を、諦めたくない。

隣に立つ男性は、彼以外に考えられない。

けれど、それでも、今ではもう分かっていた。

彼にはたったひとり、心にすまわせることを許した人がいて。

そこにエッダの入る余地はないのだと。

分かっていた。

彼の隣にいられないのなら、もうここに、学院にいる意味もないのかもしれない。

だが、後一年は責任を持って生徒会役員を務めるべきだと、ここにいる。

けれどそれも、言い訳なのだろう。

嘘ではない、そう思っているのも本当のことだ。

でもそれだけではなくて、あと少しだけでも彼を見ていたいというのが、本音。

学院を出ればもう、ディルクに会う機会はほとんどなくなってしまう。

それに――、父は、オイレンベルクの娘が嫁ぐに相応しい相手を選び、結婚を進めるだろうから。

もちろん、オイレンベルクに生まれた者として、覚悟しなければならないと分かっている。

だが今は到底、受け入れられない。

受け入れられるはずもない――。

胸が痛くて、嗚咽が零れ出しそうで、エッダはゆっくり息を吐いて、何とか感情を宥めようとした。

そして、彼女が何度目かの溜め息を吐き出した時である。

かさり、と茂みの葉が揺れ音を立てた。

はっとエッダは顔を上げる。

「――あ、」

そこには、オーボエを手にした男子生徒が一人、立っていた。

驚いた顔で、エッダを見つめてくるその相手の名を、彼女は知っている。

フリッツ・フォン・ベルナー。

初対面、ではない。

社交界で、何度か顔を合わせたことのある相手だった。

学院で言葉を交わしたことはなかったが、彼が一人の女生徒と――ディルクのパートナーであるテア・ベーレンスと共にいることが多かったから、顔だけは見ることの多かった相手である。

そのフリッツに涙を見られた、とエッダは蒼くなりそれから、羞恥に赤くなった。

普段通りの彼女であったならばどうとでも釈明しただろうが、その時はフリッツの顔を見、連鎖式にテアを思い出しディルクを思い出し、とても平静ではいられず。

エッダはくるりとフリッツに背を向けると、逃げるように木立の中へ駆け出していた。






――な、どうしてあの方追いかけてくるんですの……!?

咄嗟に走り出してしまったエッダだが、この行動の方が余程自分らしくないとすぐに気付き、けれど急に立ち止まるわけにもいかず、ちらりと後ろを振り返って目を見開いた。

何故かフリッツが追いかけてきているのである。

「ちょっと待って……!」

と叫んでいるが、聞こえないふりでエッダは走り続ける。

普段通りを装って取り繕うには今はまだ動揺し過ぎているし、わずかであっても泣いた跡が残っているかもしれないと思えば、いくら涙を目撃された後とはいえ――いや、だからこそ――止まれるはずもない。

どうして追いかけてくるのか知らないが、彼が諦めるまで逃げ続ける。

そう決断したエッダは、走るペースを上げた。

そしてそこから、二人の追いかけっこが始まった。

森の中から出てしまえば他の生徒に見られてしまう可能性があるので、エッダはそこから出ようとせず、二人は木立の中を走り回る。

しかし、単純な男女の体力差というものがあって、それも長くは続かなかった。

フリッツが諦めるより先に、エッダの体力が限界に達したのである。

もともと体調が万全というわけでもなかったから、彼女が根を上げるまでにそう時間はかからなかった。

荒い息を吐きとうとう立ち止まらざるを得なくなったエッダは、だんだんと距離を縮めていたフリッツに向かって恨めしげな視線を向け、取り繕うことも忘れて声を上げる。

「どうして追いかけてくるのです……!?」

「なんでそんなに逃げるの……!?」

そんなエッダの言葉に、同様に呼吸の乱れたフリッツの台詞が重なる。

「……あなたが追いかけてくるから、」

「……待ってって言ったのに君が走ってっちゃったから、」

「……」

「……」

「……」

「……ええっと、ごめん」

先に逃げ出したのはエッダの方だったが、そこでようやくフリッツはエッダが彼の前から遁走しようとした理由に気が付いたらしい、ばつの悪そうな顔で謝った。

「ハンカチを、落としてったから……。その、困るだろうと思って……」

申し訳なさそうに言って、フリッツはエッダの落とし物を差し出した。

どうやら、フリッツと遭遇し驚いて、いつの間にか手の中から落としていたようだ。

その程度のことであんなにずっと追いかけてきていたのか、とエッダは脱力してしゃがみこむ。

「それならそうと、早く仰ってください……」

走る間にどうして追いかけてくるのか結構真剣に悩んでいたというのに、その答えがこれとは。

「ごめん、つい必死で……」

はぁ、とエッダは溜め息を吐いた。

躊躇いがちにフリッツはオーボエを小脇に抱え、空いた手を彼女に差し伸べる。

「その……、大丈夫?」

その問いに、エッダはどきりとした。

それに二重の意味を聞きとったからだ。

だが気付かぬふりで、彼女は淑女らしくその手を取った。

「――ええ。……とりあえず、礼は言っておきます」

もう完全に涙のことはばれている。

まっすぐに見つめ返すことはできないが、それでも少しばかり開き直って、エッダは告げた。

「うん……ごめん」

どこまでも申し訳なさそうなフリッツの手から、ハンカチを受け取る。

全く、なんて善良な男なのだろう。

エッダはそんな感想を持って、受け取ったハンカチを握りしめた。

「その、」

何を告げようと思ったのだろうか――、彼女にしては珍しく、あまり考えないままに口を開く。

何かもっと別のことを告げようとした、けれどエッダが言った言葉は、次のものだった。

「……今日のこと、誰にも言わないで下さいます?」

「うん、もちろんだよ」

こくこくとフリッツは頷く。

それを簡単に鵜呑みにするには、エッダには様々な経験がありすぎたが、何故か目の前の彼のことは信用してもいいように感じた。

ずっと、彼の演奏を聴いてきたからだろうか。

そうだ――、ずっと聴いてきた、あのオーボエは、彼の演奏だったのだ……。

それを改めて思えば、複雑な感情が込み上げてくる。

まさか、この男が奏者だったなんて――と。

「それなら構いません。……紳士として当然のことでしょうけれど」

少しばかり言葉が辛くなるのは、見られたくない涙を見られてしまったせいだろうか。

けれど、目の前の人の良さそうな顔が申し訳なさげに眉を下げているのを見れば、罪悪感のようなものが胸にわいた。

「……それではお礼に、ひとつアドバイス差し上げます」

「え?」

フリッツが目を丸くするのも構わず、エッダは続ける。

「三十小節目」

「えっ」

思い当たる節があるのだろう、さらに彼は上ずった声を出した。

「あなたが表現したいことは分かっている……と思います。けれど、少し柔らかくし過ぎです。逆にもう少し強く……そう、あそこは強調した方が、ずっと良くなると思いますわ」

「エッダ、」

「もう帰ります。それでは、ごきげんよう」

ここに来てようやく、自分を取り戻したかのように、エッダは毅然と踵を返した。

フリッツはもう追いかけて来ない。

だが、彼の声だけが、彼女の背に追い付いた。

「あ……ありがとう! やってみるよ」

その言葉に、引き結ばれた彼女の唇が、緩やかに弧を描く。

醜態を晒してしまって、全く自分は何をしているのだろうと思ったけれど、不思議と悪い感情は残らなかった。




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