二人 4
フリッツは他の生徒の驚き顔など気にも留めずに走っていた。
テアが良くない雰囲気の生徒たちに声をかけられていたとエンジュに教えられ、誰か呼んでやれと助言されて、フリッツはその言葉のままに動く。
このまま自分が直接助けに行きたいと思うが、上手い形でテアを助けられる自信がフリッツにはなかった。
だからフリッツは、思いついた、たったひとりの人間――ディルクの姿を求めて駆ける。
やがてフリッツは、泉の館に向かうディルクとライナルトの二人を見つけた。
「ディルクさん!!」
フリッツが駆け寄っていくと、ディルクは驚いた顔で振り返った。
「お前は――フリッツ・フォン・ベルナーか……? 久しいな。どうした、そんなに慌てて」
ディルクは数年前まで、他の貴族と顔を合わせる機会を今よりずっと多く持っていた。
フリッツとも何かのパーティで数回だけだが言葉を交わした覚えがある。
「あの、テアが……!」
「テアがどうかしたのか?」
途端に、ディルクは厳しい顔になった。
フリッツは、エンジュに聞いた話を繰り返す。
不穏な雰囲気の女生徒にテアが連れて行かれたことを。
「杞憂ならいいんですけど、やっぱり何かありそうで……」
「ああ。伝えてくれてありがとう。テアがどこに連れて行かれたかは分かるか?」
「サイガ先生が漏れ聞いた感じだと、はっきりはしないんですけど、講堂の裏手の林の方じゃないかと……」
フリッツの言葉に顔を顰めたのは、その場にいたライナルトも同じだった。
「何とも穏やかならぬ場所に行くじゃないか。ディルク、私は他の役員にお前が遅れることを伝えておこう。それでいいか?」
横からそう言ってくれた親友にディルクは頷く。
「ああ、頼む。先にお前が話し合いを進めておいてくれ」
フリッツにもう一度礼を言うと、ディルクは早速目指す方向に走って行った。
「……テア、大丈夫でしょうか」
自分が付いていったとしても、役に立てることはおそらくそうない――。
悄然とそう判断したフリッツは、ディルクと共に駆けていくことはできなかった。
「そんな顔をしなくても、ディルクに任せておけば間違いはないだろう。多分ディルクはテアを泉の館につれてくるだろうから、心配ならいっしょに泉の館で待つか? さすがに会議には参加させられないが、茶くらいだせる」
「あ……、それじゃあ……すみません、泉の館で待っていてもいいですか。テアが無事なのを見たら帰りますから」
「それでは行こうか」
恐縮しながら、フリッツはライナルトに従った。
――テア……。
もっと自分が強かったなら、ディルクのように力強く駆けだしていけるのに、とフリッツは自分の無力さを悔やんだ。
一方、レッスン後五人の女生徒に囲まれたテアは、講堂の裏手に連れてこられていた。
木々が暗く生い茂るそこは、何とも言えない雰囲気がある。
――講堂の裏はこのようになっていたのですね……。人があまり近付かない場所だから手入れが頻繁ではないのでしょうか……。
フリッツやディルクの心配とは裏腹に、テアはエンジュの予想通りどこかのんびりとした心境だった。
練習室の予約取り消しのように隠れてこそこそされるよりは、はっきりしていて好ましいとすら思う。
「さて、テア・ベーレンスさん」
「はい」
「用件を単刀直入に言わせてもらいますわね。ディルク様とのパートナーを解消してください」
予想通りに過ぎる言葉を投げられて、テアは首を振った。
これへの答えは、最初から決まっている。
「申し訳ありませんが、それはできません」
きっぱり言うと、女生徒たちの殺気が増した。
「どうしてです? あなた、本気で自分がディルク様にふさわしいとでも思っているのですか? 平民のくせに……。ここに入学してきたのも、何か汚い手でも使ってきたのでしょう」
そう言う彼女は、貴族のようだった。
彼女のように、テアの入学は不正なものだったのではないかと噂をする者がいると、テアは知っている。
今までこうした世界とは離れて暮らしていたテアが、由緒ある学院に入学できるなど、何か裏があるに違いない、ということらしい。
「そうです。あなたのような方がディルク様のパートナーだなんて……おこがましい」
「特別入学を許されたからといって、何か勘違いなさっているのではなくて?」
女生徒たちはテアへの不満をまくしたてる。
テアはそれに対して一々反論したりはしなかった。
例えテアが何を言っても、その言葉を彼女たちは自分が聞きたいようにしか聞かないと、分かっていた。
「もともと、あなたのような平民とディルク様とは口もきけないような間柄だというのに。あの方は本来ならフォン・シーレを名乗るほどのお方……。もう少し身分をわきまえるべきです」
顔色を変えることなく佇んでいたテアだが、 フォン・シーレの名には、さすがに静かに衝撃を受けた。
フォン・シーレ――それは皇族が名乗る姓である。
ディルクがそれに連なる系譜だと聞いて、ようやくテアは思い当たった。
ライナルト・フォン・シーレ。皇帝の、第二皇妃の息子。
ディルク・フォン・シーレ。皇帝の、第三皇妃の息子。
彼らが皇族であることを放棄したのは何年前のことになるだろうか。
今までにない事態に、世間はセンセーショナルにわいた。
国中その話で溢れ返りそうだったと、テアは当時のことを思い出す。
「アイゲン」の姓の意味をテアはようやく察した。
それは、皇族であることをやめた皇族のための姓なのだ。
フォン・シーレは皇位継承権を持つべき人間が使うものだから。
なんて鈍い、とテアは自身を評した。
ライナルトは自分たちのことを異母兄弟だと言っていたのに、どうして思い当らなかったのだろう。
ローゼにあまりにも自然にライナルトを紹介されたからか。
平民である自分にあまりにも自然に話しかけてくれたからか。
皇帝には三人の息子がいるが、三人とも優秀と評判で、親たちはそれにあやかり同じ名前を付けたがったから、違和感を覚えなかったのかもしれない。
ライナルトは大したことはないと言ったが、大したことのない話ではなかったのだ。
おそらくライナルトもディルクも大げさに騒がれたくなくて、わざわざテアに打ち明けたりしなかったのだろう。
テアは衝撃から冷めて、ディルクとライナルトのことを思いやった。
そして、女生徒たちの言葉が途切れたところで、テアは静かに口を開く。
「……共に音楽を楽しむのに、平民も貴族も関係ないでしょう。ふさわしいとかふさわしくないとか、そういうことは関係なく……、あの方は私のピアノを認めてくださった。だから私は、あの方とパートナーとしてやっていこうと思います」
テアの金の瞳が眼鏡の向こうで凛と見つめてくるのに、束の間女生徒たちは怯んだ。
「何て生意気な……!」
「どうしてこんな人をディルク様はお選びになったのでしょう」
「そんなの決まっています。この女があの方を誑かしたんですわ」
――私があの方を誑かす……?
何を言ってもこうした反応が返ってくるだろうとは思っていたが、誑かすという発想はテアにはなく、唖然とする。
ディルクはテアなどに誑かされるような人ではない。
そういう考えこそ、ディルクを侮辱しているのではないか……、テアは思った。
「あなたのような方には……、罰が必要ですわね」
絶句しているテアの髪を、不意に一人がぐいと引っ張り、テアは顔を顰める。
予期しない衝撃に、眼鏡が地面に落ちた。
「……っ」
「ピアニストの指を傷つけるのは止めておいてあげましょう。顔……は大事になりそうですわね」
「何を……」
テアは、一人が持つハサミに目をやった。
これはまずい状況になってきた、と思う。
彼女たちに手を出すかどうか、テアは迷った。
テアとて「クンストの剣」であるモーリッツのところで暮らして長い。ローゼほど武術に長けるわけではないが、護身術程度なら扱える。
なので、少し乱暴にすればこの手から逃れられるのだが、それをやるとまた大騒ぎになりそうで、踏み切れない。
テアが手を出せば、彼女たちはこれ幸いと騒ぎたて、テアを退学にまで追い込もうとするだろう。
それはさすがに困る。
まだまだ学びたいことがあるし、何よりテアを学院に入学させてくれた「おじさん」に申し訳が立たない。
「ディルク様をこれ以上誑かすことがないように、髪を切って差し上げますわ。短い髪なんて、不格好なだけですものね」
血を流すようなことは余りにも大事になる。保身のためにも、彼女たちはただテアをみすぼらしく見せてディルクの失意を誘因し、自らの不満を晴らそうと、そういうつもりらしかった。
――髪くらいなら……、いえ、よくありません……。
髪を切るくらいで彼女たちの鬱憤が晴れるならそれでいいかと一瞬テアは思ったが、ふとあることに思い当って駄目だと首を振った。
「止めてください、」
抵抗の言葉に、女生徒たちは優位を疑わず笑う。
「皆さん、ちゃんとこの方を抑えていてくださいね」
「ええ」
テアはもがいたが、さすがに四人に抑えつけられて身動きが取れない。
ハサミの刃が光った、その時。
「テア!」
一瞬、誰もが幻聴だと思った。
しかし、彼女たちに近づいてくるのは紛れもない――ディルク・アイゲンだ。
女生徒たちの手から力が抜け、小さく震え出す。
テアは地面に膝をつき、大きく息を吐いた。
「お前たち……、彼女に何をしようとしていた」
「あの、ディルク様、これは……」
真っ青になった彼女たちは、言葉を失い立ち尽くした。
ディルクは険しい顔で、彼女たちを一瞥する。
その威圧感に、ハサミを持っていた生徒は思わずそれを取り落とした。
そのハサミを見て、ますますディルクは顔を険しくする。
「ハサミなど持って……、こんなところで何をしていた?」
「それ……は、」
「答えられないようなことをこそこそとするくらいなら、泉の館に来ると良い。生徒会役員がいくらでも話を聞く」
「は……、はい……」
「こんなものを持ち出してくるのはもう止めろ。その暇があるなら練習室で自分を高めることだ。分かったな」
女生徒たちはこくこくと頷いた。
「では、もう行け」
厳しい口調を崩さずにディルクが言うと、女生徒たちは涙ぐみながら駆け足で去って行った。
それを見送りもせず、ディルクはテアのところに近づく。
テアを見下ろすディルクにはすでに怒りの表情はなく、気遣わしげな色があるだけだった。
彼は膝をつくテアと目線を合わせるようにかがみこむ。
「テア、大丈夫か?」
「はい……。また助けられてしまいましたね。ですが、どうしてここに?」
眼鏡のないテアの美貌に見上げられ、ディルクは一瞬息を呑んだ。
が、すぐにテアの質問に答える。
エンジュが目撃し、フリッツが伝えてくれたことを言うと、テアはそうでしたか、とどこか申し訳なさそうに呟いた。
「……彼女たちは、一体お前に何を?」
「大したことでは……」
「ハサミを持ち出して来て、大したことではないと? お前の髪を切ろうとしているように見えたが……」
見られていたのならそこは隠しだてをしても無駄かとテアは頷いた。
「はい。良かったです、間一髪で切られなくて……」
「髪を切ろうなどと……ひどいことをする」
「ええ……、収入が馬鹿にならないんですよね」
「収入?」
しみじみと呟かれて、ディルクは困惑の表情を浮かべた。
「……あ、そうですよね、さすがにあなたは髪を売ったりなんてしないでしょうから……」
「髪を……売る?」
「はい。髪というのは意外に良い値で売れるんですよ。長ければ長いほどいいんです。だから、もう少し伸ばしてから売ろうと思っていて……。良かったです、本当に」
彼女はディルクとは違うところで安堵している。
ディルクは何とも言えない気分になった。
「……こんなことを聞くのは失礼かもしれないが、テア、お前はそんなに金に困っているのか?」
「そうですね、今はそれほどでもないのですが……」
ぽん、とディルクはテアの肩に手を置いた。
「今はそうでもないんだな」
「はい……?」
「それならば頼む、ぎりぎりになるまで、できればその髪は切らないでほしい」
「え……」
ディルクの意図が分からなくて、テアは不思議そうに首を傾げた。
ディルクは、このように自分の意見の押し付けになるようなことは言いたくないと思いながら、懇願せずにはおれなくて、口を開く。
「短いのも似合うとは思うのだが……」
ディルクはふと手を伸ばして、テアの髪を一房手に取った。
その仕草がとても丁寧で、テアはどきりとする。
不意に近くなったディルクの温度を感じた。
「俺はお前の髪がとても綺麗で……、好きだと思う」
初めて触れたテアの髪は、ディルクの予想よりもずっと柔らかで滑らかだった。
そうだ、これが本音だ、と言ってしまってからディルクは自覚する。
「だから、できればこのまま……」
「……は、い……」
ディルクの視線を熱く感じ、テアは頬を染めて俯く。
彼女は髪を切るまい、と心に誓った。
しばらくディルクは手の中の手触りを楽しんで、やがて解放した。
「ではこの場所から退散しようか」
「はい……」
ディルクはテアを助け起こすと、ハサミと眼鏡を拾い、テアに眼鏡を渡してやった。
「泉の館へ行くか?」
「はい」
「俺はこれから会議だ。一緒に行こう」
二人は並んで、泉の館へ向かい歩き出す。
「……彼女たちは、俺のせいでお前にああいうことをしたのだな」
確認ではない、確信の言葉でディルクは言った。
「ディルク……」
「すまなかった。……俺は、こういうこともあると分かっていてお前にパートナーの申し込みをしたんだ」
ディルクが自分を責めているのがテアには分かった。
そんな風に思うことはないのだ、とテアは強く手のひらを握る。
「いえ、それは私も分かっていたことですから。双方にかかるリスクを承知の上で、承諾したのです。ディルクと昨日のような演奏がしたいと、そう思って……」
「テア……」
「だから、謝らないでください。私は気にしていません。それよりも、あなたが助けに来てくださったことが嬉しかったです。本当に、ありがとうございました」
そう言って穏やかに微笑むテアは、木漏れ日の下で美しかった。
「……お前は、俺が思うよりずっと強いのだな……」
ディルクはぽつりと呟く。
聞き取れなかったのだろう、テアは不思議そうな顔をしたが、ディルクは同じ言葉を繰り返しはしなかった。
「……それではテア、改めてよろしく頼む。またこれから互いに色々あるかもしれないが……、パートナーとして支え合い、お互いに高みを目指そう。最上の演奏ができるように尽くそう」
「はい」
ディルクの言葉に、テアは力強く頷いた。
彼女が理想の音の持ち主で良かった、とディルクは思う。
――いや、テアだからこそ、あの音が出せるのだな……。
ディルクは自覚せず、優しい瞳でテアを見つめていた。