春涙 4
翌日行われた演奏会は、大成功と言っていい結果だった。
子どもたちも楽しんでくれていたし、聴きに来てくれた村の大人たちもそれは同じようだった。
輝くような笑顔を眩しく思い出して、テアは微笑する。
懐かしい教会への一泊二日の短い滞在は既に終わり、テアはディルクとまた、列車の中で目的地へ向かっている。
太陽は昇りつめ、頂点から少し沈み始めたくらいの時刻で、清々しい午後の風が、開いた窓から流れ込んできていた。
その風を吸いこんで、母もこんな気持ちだったのだろうかと、テアは考える。
無邪気にテアの手を引いて笑った、子どもたち。
その温もりは、まるで元気づけてくれるような温かさで……。
『――テア、テア、私はね、テアがいるから、テアが、いてくれるから、こうして――』
優しい面影がくれた言葉を思い出す。
昔もらったものを返しに行ったつもりだったのに、また何かをもらってしまったような気がする、とテアは思った。
もらうばかりで、少しは、返せたのだろうか……。
――ディルクにも、そう。
思ったところで、テアははたとそれに思い当たった。
「……そう言えば、ディルクはこれからどちらに向かわれるのですか?」
今更なその質問に、ディルクは少し苦笑する。
「お前と同じだよ。ブランシュ領だ」
「え……」
テアは驚きに目を見開いた。
当初からその予定だったのなら、当然ローゼは承知していただろうに、何も言っていなかったからだ。
「ちょっとした用があってな。先に着いているはずのライナルトとも、合流するつもりでいる。明日にはまた発たなければならないが」
「春休みなのに、忙しいですね……」
「せっかくの長い休みだからこそ、だな」
言って、ディルクは笑う。
ディルクのことだから、全て音楽のための行動なのだろう、とテアは尊敬の念を強くした。
だが同時に、ローゼの沈黙に不審を覚えずにはいられない。
春休みになって先にブランシュ領に帰ったローゼは、別れの時も『待っていますから、気をつけて帰って来てくださいね』と、気遣う言葉をくれ、演奏会への応援もしてくれたが、ライナルトやディルクのことには全く触れなかったのだ。
何かおかしい、と思う。ローゼのことだから、悪いことを考えているわけではないだろうけれど……。
そう考えて、テアは目を伏せる。
この時テアは、ローゼだけでなくディルクも積極的に話そうとしなかった、という事実に疑問を抱いて当然だったのだが、無意識化で彼女はそれを避けたようだった。
至るに避けたい答えがそこにあるのを、意識せずとも、分かっていたのかもしれない。
そのせいか否か、テアは何となく落ち着かなくなった。
何よりもうひとつ、テアには心を揺らす理由があったのだ。
――ディルクが、ブランシュ領に。
あそこには、母が眠っている……。
それがとても特別なことのように思われて、テアは神経が高ぶるのを鎮めるように、深く息を吸って、吐いた。
けれど、それに引きずられるように、目を逸らしていた事実がまた、テアに重くのしかかってくる。
――あれから、もう、二年。
そう、この春で、母カティアがなくなってから、丸二年が経つのだった。
そのことを考えると、テアの胸はすっと冷えるような感覚に襲われる。
まるで、母を亡くした直後のような……、堪え切れない絶望感、狂ってしまいそうな孤独感、それらに感情を支配され、崩れ落ちてしまいそうになるのだ。
もう二年が経つというのに、母の死という事実にひどく動揺してしまう自分が、テアにはおかしく思える。
もう受け入れたはずなのに。
例え肉体は眠りに落ちてもう二度と目覚めなくても、母の心は常に"ここ"に、共にいてくれていると、分かっているはずなのに……。
それでも、胸は塞いで。
テアがこの春休みに演奏会へ向かうことを選択した理由の一つには、それも含まれていたのかもしれなかった。
少しの時間だけでもいい、考えたくない事実から、目を逸らしていたくて……。
「――テア?」
気遣わしげな呼びかけに、テアははっと顔を上げた。
「は、はい」
「……疲れたか?」
「いえ――」
浮かない表情になってしまっていた、とテアは口の端を上げる。
心配は、かけたくなかった。
「大丈夫です。ディルクこそ、お疲れではないですか? 移動続きで、演奏会に子どもたちの相手もして……」
「それはお前も同じだろう。俺は慣れているからまだ平気だが……」
「そうですね……、疲れていないわけではないのでしょうが、それよりも楽しくて、元気を分けてもらったような気がしています。それに、ブランシュ領ではローゼがきっとおいしいものをつくって待ってくれているはずですから。ローゼの手料理は格別ですから、食べたらすぐに疲れもなくなりますよ」
「それは楽しみだ」
ディルクはそう応じて、そう言えば、とテアに問いかけた。
「テア、お前はあまり料理はしないのか?」
「え……、っと、ですね」
その質問にぎくり、とテアは肩を揺らす。
しかし見栄を張ったところで仕方がないので、正直に白状した。
「……私、料理は駄目なんですよ……」
「そうなのか?」
意外そうにディルクは目を見張る。
テアは恥ずかしげに目を伏せつつ、小さく答えた。
「はい。料理だけではなくて、裁縫とか、そういうのも……。料理は包丁を持てば指を切ってしまうし、ただ焼くだけでもいつも焦がしてしまうし、……ローゼからはもう一種の才能だと言われてるんです。母もそうだったので、二人してローゼにお説教されたこともありました。頑張っても家事の腕を上げる前にピアノを弾けなくなる手になるから絶対に調理場に立ってはいけない、皿の片付けも割ってしまうから駄目、繕い物で針を持つのも厳禁だと……」
そこまでひどいのか、と思えば逆に一度見てみたいような気もしたが、確かにピアノを弾く手が傷つくのは困るので、ディルクはその好奇心をしまっておくことにした。
しかし――。
「……ディルク、あの、あんまり笑わないでください。結構気にしてるんですから」
「いや、すまない、つい……」
つい口の端が上がるのを堪え切れないディルクを、テアは少し睨みつけ、逆に問い返す。
「ディルクはどうなんですか?」
「俺か?」
笑いを落ち着かせながら、ディルクも素直に答えた。
「まあ、ローゼの域には遠く及ばないが、家事は一通り教わったよ。早い内から城を出ることは決めていたから、何でもできた方がいいだろうと思ってな」
そう言えばディルクは元皇子だったのだった、とそのことをうっかり忘れていたテアは若干質問を返したことを悔いた。
だがディルクは気にした風もなく笑っている。
それにほっとしながら、テアは世の不公平を嘆いた。
「……神様がいるなら、ひいきですよね。二物も三物も……」
「ん?」
「いえ、私ももっと器用になりたいなと思いまして……」
「十分器用だろう、お前ほどのピアニストが何を言っているんだ」
気にすることはないと笑うディルクに、テアもまあいいか、と思えて、つられるように笑う。
この時ディルクが、それなら将来に備えてもう少し家事の腕を磨いておいた方がいいかと、ちらりと、しかし割と本気で検討し始めたことを、彼女は知らなかった。
――やはり何かあったのだろうか……。
間もなくブランシュ領に到着する、という頃だった。
ぼんやりと物思いにふけっている様子のテアを横目で見守りつつ、ディルクは考える。
他愛もない話をしている間は特に変わった様子も見せなかったテアだが、居心地の悪くない沈黙に入り、窓の向こうを見つめるテアの瞳は、ブランシュ領へ近づくほどに曇っていくようだ。
教会にいる間、演奏会の最中は、子どもたちに囲まれていたこともあってか、いつもより元気なようにすら見えていたのだが……。
こうした時覗くのは、昨夜「月の光」を奏でていた時のような、憂いのある表情。
何か悩みがあるのかと、いっそ聞いてしまえればと思う。
だが聞いたとして、彼女はそれに答えてくれるだろうか。
テアは全てを自分の内に抱え込むタイプだ。
誰かに心配をかけまいと、抱えるものが重い時ほど何も言わない。
それを無理に聞こうとするのは、逆に彼女の負担になるのではないか……。
それはそれで考えすぎのようにも思えるが、何となく無遠慮に立ち入ってはいけない雰囲気であることに変わりない。
――ローゼのたくらみが上手くいけば……、どうだろうな。
たくらみ、などと言ってしまってはローゼに怒られるかもしれないが。
実は、ディルクがブランシュ領へ立ち寄ることになったのは、ローゼに頼まれたから、だった。
ライナルトがブランシュ領へ先に向かったのも、彼らの将来に向けて、という理由が一番だが、二番手に来る理由はローゼのその計画の準備を手伝うため、なのだ。
『テアの誕生日なんですよ』
ローゼに打ち明けられたのは、春休みが始まるよりも随分前のことである。
春休みの一日を指して、ローゼは言った。
そして、この日は何が何でも予定を空けてブランシュ領に来るように、ディルクに要請してきたのだ。
ローゼは、テアのために、サプライズの誕生日パーティを開くつもりでいるのだった。
その協力者兼招待客として呼ばれたのがディルクでありライナルトであり、その他驚きのゲストであったりする。
ディルクがテアにブランシュ領へ行くことを問われるまで告げなかったのは、そういう理由があった。
テアは、他人からの敵意には敏く、好意には鈍感だ。
今回のことは気付かれない方に分類されそうだが、念のため、触れないように気をつけていたのである。
様子を見る限り気付かれていないようだが、テアは隠し事をしようと思ってする時、巧みに隠してしまうので、完全にそうだとは言い切れない。
ローゼの気持ちを慮って知らぬふりをしているのかもしれない。
けれどローゼは、結構な自信で、それなのにどこか浮かない顔で、テアはその時が来るまで気付かないと思う、と言った。
『テアは、あんまり自分の誕生日が好きじゃないみたいなんですよね……』
だから、誕生日を祝うという方向に思考がいかないらしい。それも自分の誕生日に関してのみで、ローゼなど身内の誕生日は笑顔で祝うのだそうだが。
そう、言葉を濁すようにローゼは言い、その理由も彼女は把握しているようだった。
何故、と聞きたい思いもあったが、軽々しく触れてはいけないように思い、その理由を追究しなかったディルクだが、テアの誕生日を祝うことに否やがあるはずもない。当然とばかり、ローゼの提案には二つ返事で頷いて、予定は空けておいた。
しかし、テアがこうして沈んだ表情を見せるのも、自身の誕生日のことが関係しているのだろうか。
そこまで誕生日が憂鬱というのも解せないように思うが、実はディルク自身も、そんなに誕生日がめでたいものだとは思っていなかったりする。
大切な身内からおめでとうと言われれば嬉しいと感じるし、昔と比べれば今はそんな悪感情も薄れてきているが、幼少の頃はとにかく面倒だったものだ。
毎年毎年誕生日には盛大なパーティが開かれたが、それも要はこの国の繁栄を見せつけるためのもので、本心からディルクの誕生を祝ってくれた者は一体どれだけいたのか。
もう開催しなくていいとずっと思っていたし、むしろ誕生日休みが欲しいくらいだったのだが、それも公務の一環だと、逃げることは許されなかった。
自身の利益ばかり考えて近付いてくる大人たちをあしらうのが誕生日なら、そんな日を祝う必要はない、と思っていた。
それに何より、ディルクが生まれた日というのはつまり、彼女がますます権力に近付きその欲望を肥大させる原因となった日とも言えるわけで……。
テアの憂鬱に引きずられるようにディルクも溜め息を吐きそうになって、慌てて脳内から苦悩の種を追いやる。
今は自分の誕生日のことはどうでもよく、テアのことを考えよう、と。
自身の誕生日をあまり肯定的に捉えていないディルクであったが、テアの誕生日というのは、そんな彼にとっても特別な日だった。
誰よりも大切に想う相手が、この世界に生を受けた日が特別ではないなど、そんなことがあるだろうか。
だから、自分のことは棚に上げて、ディルクは思ってしまう。
できれば誕生日に、彼女に笑顔でいて欲しいと。
サプライズが成功するように、ディルクは祈った。
そんな二人を乗せた列車は、速度を落とし始めている――。




