春涙 3
「……では明日は、この流れでいきましょうか」
「そうですね。大丈夫だと思います。テアには後で俺が話しておきましょう。その時何かあれば、明日のリハーサルの際に調整すれば問題ないでしょうし――」
言って、ディルクはカップに少しだけ残っていた茶を飲み干した。
テアが部屋を出ていってから、まだそう長い時間は経っていない。
ディルクもクレメンスもこの演奏会に関わるのは毎年のことなので、打ち合わせも素早く済んだのだ。
「申し訳ありません、焦らせてしまったようで」
「いいえ、今回のこれは子どもたちに喜んでもらうためのものですから。それに、聴衆のことを知ることも大切です」
ディルクは軽く笑って、窓の外に目を向けた。
そこから、外で子どもたちが楽しそうにはしゃぎながら遊んでいる姿が見えるのだ。
その明るい声につられるように、クレメンスもディルクと同じ方へ首を動かす。
小さな窓の向こうには、子どもたちと同様に無邪気に笑っているテアの姿も見えていた。
先ほどテアが自ら進んで自分が行くと言った時もそうだったのだが、子どもたちに馴染んでいるその姿に、ディルクは少し、意外の念を持つ。
これまでに見たことのなかった、彼女の一面を知った気がした。
テアと出会ってからもう何ヶ月と経つというのに、衒いのない、それこそ子どものような、あんな笑顔を見るのは初めてではないだろうか。
いや、テアの入寮当初、早朝から練習室を使えると知った時や、学院の練習室の予約ができなかった時に泉の館のピアノを弾いていいと言われた時、その喜びの表情がこれに近かった、とディルクは思い出す。
というより、テアが心の内を晒すのはピアノに関すること、ピアノの前でだけのような気がして、少しディルクは落ち込む。
テアが感情を表に出さないというわけではないが、普段から彼女は冷静で、感情を表すにしろどこか控えめなのだ。
それが悪いというのではない。ディルクはそんなテアも好ましいと思う。
だが、もっと、もっとと望んでしまうのだ。
欲が深くなっているのだろうか――と、ディルクは軽い自嘲を覚える。
「……まさか、あの時のあの少女がこんな形で再訪してくれるとは、思ってもいませんでした」
クレメンスのその独り言のような呟きに、ディルクは司祭の方に視線を戻した。
彼は、どこか遠い眼をしていた。
懐かしむような……、痛ましそうな、目だ。
ディルクは、ローゼに聞いたテアの過去の話を思い出した。
クレメンスが知るのは、ローゼに出会う前のテアとその母親なのだろう。
一体どんな母娘だったのだろうか……。
「そんなにテアは――、彼女の母親に似ているのですか?」
「……ええ、そうですね」
ゆっくりと、思い出すようにクレメンスは答えた。
「さすがにそこまで記憶がはっきりしているとは申せませんが、それでも、よく似ている、と感じました。とても美しい人でしたよ。印象的で……。あの時もテアさんはピアノを弾いていかれました。その隣で、テアさんのお母君――カティアさんがテアさんに合わせて歌を……。二人ともとても楽しそうで、それをよく覚えています」
そういうところは、昔から変わらないのだな、とディルクは笑った。
「俺も……、会ってみたかったと思います。テアの、母親に――」
言って、ディルクは立ち上がった。
そろそろテアに合流しよう、と思ったのだ。
しかし彼がクレメンスにそれを告げる前に、目の前のクレメンスが不思議そうな声を上げた。
「……おや?」
クレメンスの視線は窓の外を向いている。
ディルクもまたそちらを見ると、いつの間にか子どもたちとテアの姿がなくなっていた。
どこへ、と気にする間もなく、賑やかな声がまた部屋に近付いてくるのが分かる。
今度は何だろうかと、二人が部屋の中で待ち受けていると、今度はちゃんとドアがノックされた。
「神父様、入ってもいいですか?」
「どうぞ」
今度は少し丁寧に、それでも元気な声で告げられたそれに、クレメンスは穏やかに返す。
「お邪魔しちゃってごめんなさい、神父様」
少し年長の少女が、大人びた調子で、けれどどこか悪戯っぽいものを含んだ声で、一番に部屋に乗り込んできて、そう言った。
「ちょっとした罰ゲームで、すぐに出ていきますから」
その後ろからテアが、他の子どもたちに背を押されるようにして入ってくる。
「ほ、本当にやるんですか?」
「当然だよ、テアお姉ちゃん!」
「そうだよ、負けたんだから罰ゲームやらなきゃ!」
「せめて他のもので……」
「だーめ! 一番に勝った人の言うことはちゃんと聞かなきゃ」
どうやら子どもたちとの遊びの中で負けて、罰ゲームをやらされることになったのはテアらしい。
困ったように抵抗するテアと、楽しそうに笑いながらも罰ゲームを強制する子どもたちのやりとりを、ディルクは面白そうに見守った。
外で遊んでいる光景を見ていた時も思っていたが、この短時間でかなり打ち解けた様子である。
それにしても、一体どんな罰ゲームなのだろうか。
テアは嫌がっているというより困っているようであるが、子どもたちがクレメンスの前でそんなにひどいことをやらせるということはないだろうし、わざわざこの部屋に来てというのは、と考えてみる。
クレメンスも、テアと子どもたちの様子から口を差し挟む必要はないと感じているのか、黙って推移を見守る姿勢だ。
「うう……、それじゃあ、やります……けど、」
テアは助けを求めるような、何か懇願するような上目遣いで、ディルクを見上げてきた。
――その表情は、反則だろう……。
呻くように内心で言いながら、努力して平静を装うディルクだが、そのために助け船を出すタイミングを逃していた。
「あの、ディルク、先に謝っておきます。すみません……」
どうして謝られなければならないのか――、ディルクはさらに困惑した。
「あの、少しだけ協力をお願いしてもいいですか……? すぐ、一瞬で、終わりますので」
「ああ……、?」
罰ゲームに協力とは一体なんぞやと首を傾げつつ、ディルクは了承した。
いっそ断った方が、もしかしたらこの場合テアには親切だったのかもしれないが――。
「ええと、それでは……、少しの間、目を閉じていただいても……?」
「構わないが――、一体どんな罰ゲームなんだ?」
とうとうディルクはそれを口にしてしまった。
それにテアは妙に焦った様子で、力説する。
「いえあのっ、ディルクは目を瞑ってそこに立っていていただければそれでいいので!」
こんな調子のテアはまた珍しい、と彼女の勢いに押されるように、ディルクは分かったと目を閉じた。
何故か子どもたちが固唾を呑み、ディルクは閉ざされた視界の中、世界がぼんやりとした闇と静けさに包まれたような感覚を覚える。
何が起こるのかと、目を開けていい瞬間をディルクが待っていた、時――。
柔らかい衝撃が、彼の頬に触れた。
「きゃあ」という子どもたちの嬉しそうな悲鳴。
反射的に、ディルクは目を開けてしまう。
至近距離に、テアの顔があった。
その顔は、首筋まで赤く染まっているようで……、驚いたようなディルクと目が合うと、テアはぱっと身を翻してしまった。
「ご協力ありがとうございましたこれで失礼します! さあ皆さんいつまでもお邪魔していてはいけません罰ゲームはこれで終わりましたし行きましょう!」
捲し立てるように早口で言って、今度はテアが子どもたちの背を押すように部屋から出ていく。
最初に入ってきた少女が最後まで残って、「お騒がせしました」とにっこり笑って言った。
「またあなた方は御客人をからかって……。さっきの罰ゲームは……」
「負けた人は、教会の中で一番好きな人にキスするっていう罰だったんですよ。お姉さんはここに来るのは初めてだから……、一番って言ったらお兄さんしかいませんもんね」
全く、とクレメンスは肩を竦めた。
「次からはあまり困らせるようなことを言ってはいけませんよ」
「はーい。失礼します」
少女は軽やかに笑って、部屋のドアを閉めて行った。
それを見送り、残されたクレメンスは、謝罪の言葉を口にしようとディルクを振り返ったが、結局何を言うことも叶わなかった。
ディルクは片方の手のひらで顔を覆い隠し、イスに沈みこんでいる。
ただ、隠されていない両方の耳が、先ほどのテアと同じくらい赤くなっていて、その心情を露わにしていたから。
何も言わず、クレメンスはディルクの肩にそっと触れるにとどめ、部屋を出るタイミングを逸した彼を急かすようなこともせずにいた。
「――カップを一度片付けてきます」
それだけ告げて、クレメンスは三人分のカップを持ち、部屋を出る。
少しの間だけでも一人にしてくれた、司祭のその気遣いを、ディルクは有り難く思った。
完全にクレメンスには気付かれただろうが、彼はそれを他言するような人ではない。
それにそれよりも、頬に残った感触が熱く、ディルクの感情を揺さぶって。
この程度のことで――というにはこの一連の出来事はディルクにとっては衝撃が大きすぎたが――こんなにも動揺してしまうなんて、とディルクは嘆息する。
予期せぬことだった、というのが余計に動揺を煽ったのだろうが、まさかテアから頬とはいえキスをされる、なんて――。
先に罰ゲームの説明を受けずにいて良かった、と熱を放散させるようにディルクは考えた。
そうしたら、もっと困ったことになっていたかもしれない……。
今からまたすぐにテアと顔を合わせるのに、いつも通りでいられるだろうか。
悩みながらも、手のひらの下、頬に受けた感触を忘れることはできそうにないと、ディルクはそれだけを確信していた。
ピアノの音が、優しく切なく響く。
教会の聖堂に、ディルクはそっと、足を踏み入れた。
夕食をとった後、明日の演奏会について打ち合わせをしようと、ディルクはここでテアと待ち合わせの約束を交わしていたのだ。
明日のことについて書いたメモをディルクが部屋に取りに行くのを待つ間、テアは堪えかねたのだろう。
いつものように彼女が奏でるのは、「月の光」だ。
だが今日は一段とその旋律が、悲しげな寂しげなものを宿しているように感じて、ディルクは眉を曇らせた。
春休みが始まるよりも少し前から、だろうか。
時折テアは、こんな風にピアノを鳴らすことがあった。
まるでそれは、泣いているようにも聴こえて……。
エンジュのリサイタルに出演することになった時と雰囲気が少しだけ似ているような気がしたが、何かあったのかと、ディルクは聞けないでいた。
おそらくテアも、率直に聞いたところではぐらかしたのではないだろうか。
それに、ディルク自身も、どこまで踏み込んでいいものかと、悩んでいるところだった。
パートナーとはいえ、あまりに親身であると感じられるような振る舞いをするのは好ましくないと考えてしまい、どこまで近付いていいのかと、線引きが難しいのだ。
彼女に頼りにされることを願っているのに、身を尽くして彼女に手を差し伸べることが許されないとは、なんという矛盾だろうか――。
ディルクはどこかやりきれない思いで、ピアノを弾くテアを見つめていた。
やがて曲が終わり、余韻が聖堂に響く。
鍵盤から指を離し、ようやくテアは他の人間の気配に気付いたらしい――、振り返った彼女は、ディルクと目が合い少し頬を赤らめた。
ディルクもそれにつられるように熱を感じ、さりげなくテアから視線をそらす。
あの後、はしゃぎまわる子どもたちの中にディルクも加わったが、やはりテアとはどこかぎこちなくなってしまった。それでも子どもたちに振り回されている間はそう気にせずにいられたのだが、こうして一対一で向き合っていると、意識されてしまう。
特にどうとも思っていない相手であれば、子どもたちにやられたなと、笑い飛ばせもしたのだろうが……。
「……今日は疲れたんじゃないか?」
テアの方へ近づいていったディルクは何とか平常心を心がけ、いつも通りに口を開くことに成功した。
「そう、ですね――。いつもは使わない筋肉を使った気がします。明日の演奏に差し支えないといいんですけど……」
テアもディルクにならって、いつものように返す。
「実は俺もそれが少し心配だ」
ディルクはそう冗談っぽく言ったが、結構本気の心配だった。
毎朝のジョギングを習慣として、その他にも身体を鍛えるトレーニングを怠らないディルクだが、やはり子どもの相手はまた違うらしい。
「皆さん本当に、元気ですよね」
テアは疲れたというより、感心したように呟く。
「驚くくらいな。だが、俺も子どもの頃は毎日あちこち遊び回っていた気がする」
「そうなんですか?」
「結構やんちゃだったな……。呆れられそうだから、詳しくは言わないでおくが」
「やんちゃなディルク、ですか」
そう言えばライナルトの話で聞いた昔のディルクはなかなかに破天荒だったと、テアは思い出して笑った。
「是非聞いてみたいですが……」
「まあ――、またの機会があればな」
ディルクははぐらかすように答え、二人にいつも通りの空気が戻ってきたようで少しほっとしつつ、本題に入ることにする。
「とりあえず今は、明日のことを話そうか」
「はい」
誤魔化すようなディルクの態度に、テアは小さく笑いを零しながら頷いた。
ディルクは持ってきたメモをテアに手渡し、テアは立ち上がってそれを受け取る。
「明日の演奏順と流れはこの通りだ」
ちょうどこの聖堂がステージと客席として使われるので、実際にどう動くのか示しながら、ディルクは説明した。
「……以上かな。お前の方で気になったことはあるか?」
「いえ……大丈夫です。問題ない、と思います。ただ、その……」
「うん?」
「二人で合わせることになった曲の練習に……付き合っていただいてもいいですか?」
その申し出に、ディルクは破顔した。
「もちろんだ」