春涙 2
昼過ぎ、列車を降りたテアとディルクは、そのまま馬車をつかまえ、教会のある村の近くまで今度は馬車に揺られた。
それからは、徒歩である。
小さい村だから、教会までそう距離はない。
何度目かの訪問となるディルクは迷わずまっすぐに教会を目指し、テアはそれに続いた。
村人たちも毎年のことなので、すれ違う度、白い制服姿の二人に挨拶をしてくれる。
何度目かの来訪であっても、ディルクの美貌には慣れないらしく、何秒か固まる者がいれば、遠くから熱く見つめる視線も多々あったりしたが。
「ここだ」
と、ディルクが指差す。
家々がまばらに立ち並ぶところから少し外れた場所に、その教会はあった。
ああ、とテアは質素な佇まいのそれを目の前に、目を細める。
村の様子を見た限りではそう感じ入ることもなかったのだが、この建物は、おぼろげな記憶の中にあるものだった。
もう何年も経っているのに、あまりに変わっていないように感じる。
ぼんやりとした記憶の中の像が、鮮明によみがえってきて。
――私は昔、ここに来た。母と共に、ここにいた……。
でも、今は。
「……テア? 疲れたか?」
「いえ、大丈夫です」
ほんのわずかな時間であったが足を止めてしまっていたテアは、同じように少し先で足を止めて振り返ってくれるディルクに、急ぎ足で追い付いた。
「神父様に挨拶したら少し休憩させてもらって、それから打ち合わせをしようか」
「はい」
頷くテアの視線の先で、教会の扉が開かれる。
そこから現れた一つの人影に、テアはわずかに目を見張った。
優しげで、穏やかな風貌の、老年の男性が、テアたちに目を留める。
「神父様だ」
ディルクがテアに耳打ちして、二人はその人の元へ向かった。
ゆっくりと近付きながら、テアは思う。
この人も変わっておられない、と。
真っ白な髪は短くすっきりと整えられ、背筋の伸びた痩身は簡素で清潔感のある司祭服で包まれている。
笑みの浮かぶ目尻と口元にはいくつもの皺が刻まれて。
歳月を感じた。
もうここにはいないかもしれない、と思っていたから、テアは良かった、とただ思った。
「――お久しぶりです」
先にそう挨拶の言葉を口にしたのは、ディルクだ。
その声には、敬意の色がある。
「久しぶりです、ディルク君。今年もありがとう」
ゆっくりと丁寧な発音で告げて、司祭はテアの方へ視線を移した。
その目は一層細められ、彼はにこりとテアに笑いかける。
「……お久しぶり、で間違いないしょうか? テアさん、でしたね。ますますお母君そっくりになられた」
その言葉に、テアは目を見開いた。
それは、隣に立つディルクも同様で。
「……正直、覚えていただけているとは思っていませんでした。お久しぶりです、神父様」
そして、そう、テアはそっと微笑んで返したのだった。
暖かくなってきたとはいえまだ寒さの残る中だ。
中へと促す司祭の案内で、テアとディルクは教会の奥の部屋に通された。
三人は小さなテーブルを囲んで座り、助祭の男性が茶を淹れてくれている間にと、司祭が一番に口を開く。
「それでは改めて。私はこちらの教会で司祭を務めています、クレメンス・フォルトナーです。この度はこんな田舎まで……と言えば怒られてしまいそうですが、わざわざ足を運んでいただき、ありがとうございます」
「シューレ音楽学院ピアノ専攻科一年、テア・ベーレンスです。こちらこそ、こちらの演奏会で演奏させていただけること、とても光栄に思います」
改めて二人は互いに自己紹介し、微笑みを交わした。
「二人は、以前にもどこかで?」
ここまでそれを聞くのを我慢していたディルクは、二人に視線を向けながら尋ねる。
「随分昔のことですが、母と二人で数日の間ここでお世話になったことがありまして……」
それで、とディルクは納得の表情になった。
「カティアさん……と言いましたね。ご息災ですか?」
「いえ、その――」
テアは言葉を濁した。
「母は、二年前に……」
「そうですか……。彼女の魂が神の身元で安らかにありますよう――」
司祭は十字を切り、少々暗くなった雰囲気を払拭するように笑う。
「ですが、シューレに入学していたとは、喜ばしい驚きです。お母君もさぞかしお喜びのことでしょう」
「はい」
テアが朗らかに返事をしたところで、温かい茶が運ばれてきた。
三人は礼を言ってティーカップに手を伸ばし、話を続ける。
「今年は、ライナルト君は来られなかったのですね」
「ええ、あいつには別の予定が入ってしまったようで……。申し訳ないと、子どもたちによろしくと言付かっています」
「いえ、学院の生徒さんですから春休みでも何かとあるでしょう。子どもたちはがっかりするでしょうが……」
それは村の子どもたち、というニュアンスのみで語られたものではなかった。
教会では、孤児や、それぞれの事情により親と暮らせない子どもたちを預かっているのだ。
親に会えない、会えてもごく偶にであるという彼らは、他の子どもたちよりも余計に、村の人間とは毛色の異なる学院の生徒が、ある意味では彼らのために、毎年訪れるのをとても楽しみにしているのである。
去年、一昨年と続いてやって来たディルクとライナルトは、更に他とは一線を画した存在であったが、恐れ入るより強く興味を持たれ、二人も子どもたちに快く付き合ったので、二人は人気のお兄さんなのだった。
「それで、早速なのですが、明日の演奏会の打ち合わせに入ってもいいでしょうか。なるべく早く子どもたちにあなた方を紹介しないと、彼らはいまかいまかと待っているはずなので……」
クレメンスは申し訳なさそうな、子どもたちを慈しむような微笑で告げる。
それなら先に子どもたちに挨拶した方がいいのでは、とテアは首を傾げた。
ディルクは苦笑しながら、経験者として彼女の疑問に答えてやる。
「多分紹介してもらった後、俺たちはそのまま子どもたちの遊び相手だ。夜は早いし、子どもたちに付き合っていたらくたくただ。今の内に考えておくべきことを考えておいた方がいい」
なるほど――、とテアは頷いた。
「まあ、打ち合わせと言っても、ここの演奏会はそう堅苦しいものではありませんので……。曲目と演奏順を決めて、曲によってちょっとした演出を加えてみたり、割と大雑把に考えています。本番も子どもたちの様子を見ながら臨機応変にしていただいて構いません」
「お前が酒場で演奏していたのと同じようなものと考えてもらえればいいと思う。あれよりはフォーマルに近いがな」
「ああ……、何となく分かりました」
むしろそういう形式の方が、テアが積んできた経験上やりやすい。
「俺の方は、今年の演奏曲はこういうものを練習してきたのですが――」
ディルクの上げた曲目に、クレメンスもテアもなるほどと頷いた。
「二曲は毎年人気のものですから、今年も盛り上がりそうですね。後のものも有名で短い曲で、皆喜ぶと思います。テアさんの方は……」
「私も親しみのありそうな曲をいくつか……」
自分なりに考えてきたテアだったが、初参加なので、これで良かったのだろうかと自信が持てない口調になるのは仕方のないことだっただろう。
「それから、ウェルナーの『野ばら』はどうかなと、少し練習はしてきたのですが……」
「それは、もしかして……」
「ええ、私が伴奏も歌もやりますけれど――、皆さんにも歌ってもらえるかなと思いまして」
「それは良いアイディアですね」
クレメンスがそう言ってにっこりと笑ってくれたので、テアはほっとした。
「お前の歌を聴くのは、そういえば初めてだな」
「実はそんなに自信があるわけではないのですが……、ローゼには合格をもらっているので、多分大丈夫だと……」
「楽しみだよ」
小さくなって言うテアを、少しからかうように、けれど本心からディルクは笑う。
「そうだ、もしお前がいける曲があるなら、何曲か一緒にやらないか? 連弾もいいかもしれないな」
「え……っ」
ディルクの提案にテアは若干不安そうな表情になるが、それは前向きな意思から来るものらしかった。やってみたいが、明日が本番でいけるのだろうか、という躊躇いが見える。
「……お二人は、学院でもかなり親しいのですね」
そんな二人の様子を見ていたクレメンスは、微笑ましげに口を挿んだ。
テアとディルクは、そう言えばと顔を見合わせる。
「……神父様にはお伝えするのが遅れました。実は、俺とテアは学院でのパートナーなんですよ」
「もしかすると……、あのニュースにもなっていた――、学院祭のコンサートでディルク君と演奏していたのは、テアさんだったのですか?」
当時クレメンスも新聞を読んで、しかも覚えていたらしい。
何となくテアはプレッシャーを感じてしまったが、ディルクは明快に頷いた。
「そうです」
「それはそれは――ますます明日が楽しみになってきますね」
にこにことクレメンスは笑みを深くする。
そんな風に言われてしまえば、余計にデュエットをやらないとは言いづらい。
二人はクレメンスを交えて最終的な曲目を決めていきながら、共に演奏する曲も決定した。
「それでは、演奏順ですが――」
そして、そうクレメンスが言いかけた時である。
「神父様ー、お話まだ終わんないのー?」
突然、三人の子どもたちが部屋の中に侵入してきた。
さらにドアの外に、部屋の中を見守る複数の小さな影がある。
やれやれ、とクレメンスはいつものことのように困った笑みを浮かべた。
「……部屋に入る前にはちゃんとノックをしなさいと、いつも言っているでしょう? お客様がびっくりされます」
「ごめんなさい」
窘めるクレメンスの言葉に、子どもたちの良い返事が重なる。
「いつも返事だけはいいんですから、君たちは……」
「だって、ずっと待ってるのに全然出てこないんだもん。皆お客さんのこと待ってるって、神父様も知ってるだろー?」
「ええ。ですが私たちも話しておかなければならないことがあるのですよ。もう少しだけ、お待ちなさい」
「えー」
唇を尖らせた子どもたちに、テアは思わず笑みを零した。
本当に楽しみにしていてくれたのだな、と分かって。
「それじゃあ、私だけでも先に行きましょうか」
テアは立ち上がって、そう言っていた。
「ですが……」
「演奏会はお二人が慣れているでしょうし、演奏順などお任せして間違いないでしょうから。私は決まったことを後で聞かせてもらえれば、その通りやれますので」
クレメンスは逡巡したが、ディルクは少し考えたものの、鷹揚に頷いた。
「……分かった。それならそうしようか」
表情を明るくしたテアに、ディルクは続ける。
「打ち合わせもそんなに長くはかからないだろうから、俺も終わったらすぐに行こう。明日のことについては、就寝前までに伝えるようにするよ。明日は朝から簡単だがリハーサルもあるし、お前ならそれでいけるだろう。ただ、それができる体力は残しておいて欲しいところだな」
「善処します」
冗談っぽく付け加えたディルクに、テアは笑って頷き、子どもたちの方へ歩み寄っていく。
子どもたちは「やった」と言いたげに頷き、満足そうに笑うと、テアの手を取った。
「じゃあ、お姉ちゃん、行こー」
「お姉ちゃん名前なんて言うの?」
早速彼らはテアを質問攻めにし、じゃれつきながら、賑やかに部屋を出ていく。
そんな子どもたちを見るテアの眼差しは、嫌がる風でもなく優しげで、何か眩しいものでも見つめるようだ。
それを見送り、子どもたちがテアを連れ去った無邪気な手際に、ディルクとクレメンスは顔を合わせて苦笑した。
「……それでは、明日のことを早急に決めてしまいましょうか」
「子どもたちの無尽蔵な体力に彼女が負けない内に、ですね」