春涙 1
春か、とテア・ベーレンスはひとりごちた。
まだ肌寒さはあるが、それでも少し前までの厳しい寒さとは明らかに違っていて、外の草木は少しずつ色とりどりに花を咲かせ始めている。
冬の間眠っていた動物や虫たちも活発に動き始める、温かく明るい始まりの季節。
けれど――、テアはそんな春が好きではなかった。
幼い頃からそうだったが、二年前からますます嫌悪するようになった。
昔はまだ、この季節を一方で嬉しいと感じる気持ちもあったのに。
今はただただ、憂鬱だった。
この時彼女は一人だったから、余計にその思いを強く胸に感じたのだろう。
そう、テアは一人、列車の二等車の窓際の座席に座っているのだった。
シューレ音楽学院では、既に春休みが始まっている。
テアの親友であるローゼは、領地で用があるからと、春休みが始まるといち早くブランシュ領へ戻ってしまった。
本来ならばテアもそれに同行するはずであったのだが、テアは地方の教会へ赴き、子どもたち向けの演奏会で演奏することを決め、ローゼとは日程をずらしてブランシュ領へ入ることにしたのである。
この列車にテアが乗っているのは、その教会へ向かうためだった。
――覚えておられるだろうか……。
窓の外に視線を向けながら、ぼんやりとテアは思い出す。
あれはいくつの頃だっただろうか。
母と共に、数日の間だけだったが、小さな教会に世話になったことがあった。
母もテアも、しつこい逃走劇のおかげで食事もままならず、飢えと疲れでぼろぼろだった。
その教会は山の麓の村、山から下りてすぐの場所にあり、それを目にしたテアたち親子には、その小さな佇まいが、まるで本当の神の家のように見えたものである。
その、ひっそりとした佇まいの教会の司祭は、穏やかな物腰の、とても優しい人だった。
疲れ果てたテアたち親子に、何の躊躇いもなく手を差し伸べ、水と食事と、温かな毛布を与えてくれた。
テアは神など信じていない。けれど、その司祭とその厚意には、感謝の祈りを捧げずにはいられなかった。
もう何年も経っているから、司祭の面影はテアの中でおぼろげである。
まだ彼がそこにいるかも分からない。
けれど、何か恩返しができるのなら……。
少しでも、何か出来ることがあるのなら、とテアは足を運ぶことに決めたのだった。
そうしてテアが物思いにふける内、周りの座席も埋まって行く。
そろそろ発車時刻だ。
もう一人の演奏者も既に列車に乗り込んでいるのだろうかと、テアは周囲に視線を向けながら思った。
学院は大から小まで様々な演奏機会を生徒に提供しており、今回の演奏会もその一つ。
この教会の演奏会は毎年恒例のものらしい。生徒二名を募集していた。テアが知った時、一名は既に決定していたようだが、一名は空きがあったので、テアはそこに滑り込んだのである。
この演奏会による報酬はないが、交通費は学院から出る。テアともう一人も同じ列車のチケットをもらっているはずなので、この二等車に乗っているのは間違いない。金があって、一等車を望むような価値観の持ち主でなければ、だが。
もう一人がテアへの反感の強い人間でないといい、と彼女は若干心配に思っていた。
エンジュのリサイタル、学院祭のコンサート、とどめの学期末試験。
それらによってテアのピアニストとしての実力は証明され、今では陰口も嫌がらせもほとんどなくなった。
ライバル視はより強くされるようになったが、それは光栄なこと。
だが、エンジュを師に持っていること、ディルクとパートナーであるという点に対する嫉妬とやっかみが消えてなくなったわけではない。
そんな負の感情を持つ人間と協力して良い演奏会をつくりあげなければならないとなると、精神的にきつい。
ステージは地方の教会、聴衆は子どもたち、そういう演奏会に自主的に参加しようとする人間が、テアの心配するような人間ではないと考えたいのだが……。
そんなテアの小さな不安は、彼女が懐中時計で時刻を確かめたその時、かけられた声によって、杞憂になった。
「――テア?」
驚いたようなそれに、テアは顔を上げる。
「ディルク……」
驚いたのは、彼女も同じで。
テアは、ヴァイオリンケースを持ったパートナーがそこにいるのを、目を丸くして見上げたのだった。
まさかの偶然の一致で、テアとディルクは同じ演奏会に参加を希望していたのだった。
あの時の学院長の態度はそういうわけだったのか、とテアは演奏会への参加希望を学院長に相談しに行った時のことを思い出す。
テアが学院外で一人行動することに対し、反対されるか、護衛をつけることを強制されるのではないかと思い、その覚悟もして赴いたのだが。
テアが告げた内容に学院長は目を見張り、次いで満面の笑みで「何も心配せず行ってくると良い」と返してくれたのだ。
その時は、違う要因があってそういう態度だと思ったのだが、学院長は知っていたのだろう。
ディルクがテアより先に、同じ演奏会に参加を希望していたことを。
陰ながらでも護衛をつけられるのではないかと思っていたが、そうではなく、学院長はディルクがいるから大丈夫だと考えたのだろう。テアもそれは何より心強いことだと思うけれども、それならば教えてくれれば良かったのにとつい恨みがましく考えてしまう。
学院長は「あしながおじさん」と同じで、結構茶目っ気のある人だから、二人が示し合わせたわけではなく、同じ演奏会に申し込んだのを面白がったのかもしれない。
テアとて、ディルクが演奏会に参加すること自体は聞いていた。
けれど、それがどのような内容のものなのか、どこで開催されるものなのか、その詳細までは知らなかったのだ。ディルクも言わなかったし、テアも尋ねなかったから。
もともと、ディルクが春休みに演奏会へ赴くことを聞いて、テアも参加者応募の掲示を見に行ったのだ。その時に聞くことはできたし、ディルクも答えるのを嫌がったりはしなかっただろう。
そうと分かっていて尋ねなかったのは、聞いてしまえばディルクが行く先についていってしまいそうな自分がいることを知っていたからだ。知らなければ、そうしないでいられる。
少し前まで盛り上がっていた、二人の交際云々の噂話を蒸し返さないためにも、勘繰られそうなことはなるべく控えようと、テアは追究しなかったし、自分のことも演奏会参加自体は告げても、詳しい話はしなかったのである。
今更になって、それを少し後悔した。
最初から聞いておいて、確実に異なる演奏会へ申し込めば良かったのだ。心の誘惑など振り切ってしまえば良かったのだ。
毎年恒例のことだというから、教会へ行くのはまた来年でも良い。
優先すべきは、ディルクとのことで余計な噂話を煽らないこと。そうすることで、なるべく彼を危険から遠ざけること。そのはずだったのに。
幸いなのは、学院を経由しての演奏会であるということだ。テアとディルクはパートナーなのだから、勉強の名目で共に出演を果たしたと言って、そこまで注目することでもない。今回の演奏会も本当に小さなものだから、噂にも上らないだろう。
問題は、そんな小さな演奏会であってもテアの動向を気にしている相手がいるということにあるのだが――。
もう列車が動き出そうとする頃になって色々考えても仕方がない、とテアは腹をくくることにした。
今更行き先を変更することはできないのだ。
それならば、楽しもう。
せっかく、ディルクと一緒なのだから――。
まさかテアと一緒とは、とディルクも驚きを隠せないでいた。
既に列車は動き出し、ディルクはテアの隣で揺られている。
ディルクが此度演奏会の開かれる教会に向かうのは、テアと同様初めてではない。
シューレに入学してから、三度目になる。
ディルクにとっても、入学して以来、この演奏会は毎年恒例のことなのだ。
常ならばライナルトと申し込みをしていたところなのだが、今回ライナルトは別の予定が入ってしまい、それではもう一人は一体誰になるかと思っていた。
もしくは今年は一人になるかもしれないとも考えていたのだが……、こういうことになるとは。
予期しないことだった。
ディルクもテアと同じだ。この春休み、互いに演奏会に参加する、そのことは承知していたが、その内容を詳しくは知らなかった。聞かないようにしていた。
予定が許すならばテアと同じ演奏会に申し込みをしてしまいそうだったし、あれこれ心配して過保護になってしまいそうだと自覚していた。
これまでにも何度となく危険な目にあってきたテア。学院の外で、ローゼもついていかないというから、行き先を知らないなりに心配していた。これまでの犯人にも対処はされてきたし、ここしばらくは何もなかったから、このままなにもないと信じたかったが、これまでがこれまでだ。
だから、たった数日のこととはいえテアを一人きりにしてよいのかと、春休みが始まる前、ローゼに相談をもちかけた。その時ローゼは心配ない、大丈夫だと笑い、詳しいことは言ってくれなかったのだ。テアは護衛を好まないようであるが、モーリッツ卿に頼んで、こっそり手配してくれたのかもしれない、等考えていたのだが……。
おそらく、というより確実に、ローゼは知っていたのだ。ディルクとテアの行き先が重なっていることを。テアからは当然はっきりと行き先を聞いていただろうし、ディルクのことは去年から毎年恒例のことだと知っていたはずだ。何より、ライナルトがいる。
あの二人、とディルクは恨めしく思った。それならば、教えてくれていても良かっただろうに。
テアの驚きようからして、彼女も聞いていなかったのだろう。
パートナー同士のことだからと気を遣ってくれたのかもしれないが、単に面白がられたのかもしれない。何故知らないのかと、呆れて言う気にもなれなかったのか……。それともこれも、「例のサプライズ」の一環なのか。
ディルクには、どの答えも等しく正解に思われた。
だが、もしテアと行き先が同じであると聞いていたら、どうしていただろう。
今年はこの演奏会に行くことを止めにしていたかもしれない、ということをディルクは考える。
それすらも、一歩間違えれば何かを勘繰られる結果になる可能性があるけれど。
今こうしてテアの隣にいることが幸いであるのか、否か。
窓際の席に座るテアのつむじを、ディルクは見下ろした。
その、滑り落ちるような綺麗な髪は、うなじの辺りでひとつにまとめられている。
ディルクの贈った髪飾りが、そこに輝きを添えていて。
視線を感じたのか、テアが不思議そうにディルクを見上げた。
澄んだ瞳に、自分が映る。
堪え切れないような思いが、して。
抑えるように、拳を握った。
「ディルク?」
「……なんでもないよ」
――せっかく、のことだ。
この時間を大切にしよう、とディルクはテアに微笑みかけた。