薔薇 6
「どうしたものかな……」
夜の闇の中――白い溜め息を吐き出し、ディルクはついそう呟いていた。
聖ウァレンティヌスの日。
彼は後援者の一人に招かれ、その日にちなんだ小さなパーティで演奏をしてきた。
今はその帰りである。
学院の近くまで馬車を使い、そこから学院までの短い距離を歩いているところだ。
彼の手には、ヴァイオリンケースと、それから、白い薔薇の花束がある。
その花束に、彼の困惑した視線は向けられていた。
聖ウァレンティヌスの日は恋人たちのためにある。
想い人はいるものの、恋人と呼べるような関係に発展しているわけでもないディルクには、贈るための花束はまだ早い。
そう思う彼が何故花束を手にしているかというと、無理矢理持たされたのである。
今回の演奏の依頼主であり、ディルクの後援者である子爵夫人の趣味は、薔薇、なのだ。
子爵邸の庭はこの季節でも素晴らしいものであり、その中に咲いた一つをディルクはプレゼントされたのである。
この良き日に演奏に来てくれた礼と詫びに、恋人に渡すようにと。
恋人はいないから、とディルクは断ったのだが、子爵夫人は疑わしげな眼差しだった。
ライナルトの言葉を引用するに、ディルクのような「優良物件」に恋人がいないなどと信じられようか、ということらしい。
今時の女の子はこんな良い男を売れ残りにしておくなんて、もっと自分が若かったなら恋人に立候補していたのに、と冗談っぽく口にしていた。
そうして結局、好きな子の一人や二人いるだろうし、部屋に飾ってもいいのだからと主張され、押しつけられるようにもらってきてしまったのである。
好きな相手が複数いたら大変だろうな、とディルクは少々ずれたことを思い、苦笑した。
普段であればそこまで抵抗もなく受け取り、部屋に飾らせてもらうのも良いし、ローゼとテアの部屋に飾ってもらっても良い、と考えられたのだろうが。
逆に、聖ウァレンティヌスの日である、ということがディルクを躊躇わせたのだった。
贈る相手もおらず、こんな日に男二人の部屋に花を持ちかえって飾るというのは、何とも虚しい心持ちがするではないか。
今朝花を持っていそいそと出かけていったライナルトがこれを見て何と言うか。
少なくとも嬉しそうな顔はしないだろう。嫌な顔はされそうだが。いや、むしろ気の毒そうな顔を向けられるか。それが一番堪えるが。
かといって捨てるにはあまりにももったいない。
ディルクの手の中の白薔薇は、子爵夫人が胸を張り語った自慢話が誇張ではないと証明するように、それは美しいものであったから。
『初恋、というのよ』
子爵夫人はそう、白薔薇の名前を教えてくれた。
白薔薇といっても、中心部の縁が淡くピンク色に色づいて、それが何とも可憐な風情である。
『もっとピンクが濃くなるものもあるけれど、わたくしはこれくらいほんのり差しているくらいが可愛いと思うの。まさに初恋、という感じがするでしょう?』
薔薇が好きだという子爵夫人は、それを疑わせない生き生きとした表情で続けた。
『ちなみに、白薔薇の花言葉には、「恋の吐息」「私はあなたにふさわしい」というのがあるわね。あら、そんな顔しないでちょうだい。「心からの尊敬」というのも有名だから、恋人に限らず大切な人によく贈られるのよ。だからあなたの大切な人に渡してあげればいいんじゃないかしら』
「大切な人、か……」
それはもちろん、ディルクとて渡せるものならばテアに贈りたい。想いを込めて、花束を。
それができないから、苦悩しているのである。
さてどうしたものか、ともう一度ディルクは憂鬱そうに花束を見やった。
この花束を受け取るのが一日早ければ、ライナルトに押しつけてローゼへの贈り物にしてもらっても良かったのに、とディルクはどうしようもないことを考える。
ライナルトの幼少時代のことは詳しくないが、ライナルトの初恋の相手はローゼだと言ってもいいだろうから、それにふさわしいではないか。
実際、ディルクはあそこまでライナルトが執着を見せた相手を知らない。
パートナーの申し出を断られても、ローゼが受け入れてくれるまで諦めなかったライナルト。
あんな彼の姿を見ることになるとは、あの頃は思いもよらなかった。
ライナルトは最初から何もかもを諦めているところがあって、それがあるからこそ常に第三者の冷静な視点を持ち得ることができているのではあるが、特に人間関係について多分に冷め過ぎているところがあった。
そのことをディルクは気に掛けていて、だから最初は驚いたものだ。
彼が『パートナーにしたい女性を見つけた』と言ってきた時は。
ライナルト自身も若干の戸惑いを覚えていたようだった。
だが、とにかく、もっと彼女を見ていたい、彼女と共にいたい、彼女のことを知りたい、その欲求は紛れもない本心であり、ライナルトはそれを否定せず受け止めた。
それからの彼は今まで見せなかった積極性を見せ、親友の知らなかった一面をディルクに知らしめることにもなった。
ライナルトが紹介するまでローゼに接触しないよう頼まれたのが、一番記憶に根強い。
あけすけな牽制をされた時には呆気にとられもしたし、思わず笑いさえ零しそうになってしまったものだ。
恋によって、ここまで人が変わるのかと。
信頼してくれないのかと怒るより、今までディルクの影にいるようにしていたところのあるライナルトが、あからさまにライバル視してきたのがディルクにとっては嬉しくも愉快だった。
それに、ライナルトはただ恋に盲目になっていただけではなく、確かにディルクにとっても、ローゼは好ましいと思える女性だったのだ。
意志の強い、こちらを真っ直ぐ見つめてくる揺らがない眼差し。
それは、稀有なものだったから。
出会う順序が違っていれば、と、そんなことをふと考えたこともあった。
だがそれも一瞬一度のこと。
ライナルトがローゼを口説いている間、ディルクはそれを親友の要望に応えて遠くから見守るに止めていたが、親友があんなに幸せそうにしているのに、それを壊すなどできるはずもない。
だいたい、はっきりした返事がないだけで、見るからにローゼもライナルトを意識しているではないか。
だから、約束を破って、ほんの少しだけ、余計なおせっかいをした。
結局うまくまとまったのだから、構わないだろう、とディルクは思っている。
あれからささいな喧嘩などありつつも、二人の仲は順調だ。
わざわざ言葉に出すことはしないでいるが、ライナルトのむずがゆくなるほどの笑顔を見る度、ディルクはローゼに感謝を覚えずにはいられない。
彼女が、ライナルトから過去の影を完全に取り払ってくれたのだ、とディルクはそう思っている。
嘆く人形のようだった母親の呪縛は、細く長くライナルトに纏わりついていて、けれどローゼの眩い真っ直ぐな剣が、それを断ち斬ってくれたのだ。
彼女自身は決して意図したわけではないだろう。
だが、彼女の持つ、強い真っ直ぐな意思は、ライナルトにとっての救いなのだ。
ディルクがそれを一番強く実感したのが、ローゼがライナルトの申し出を最初にばっさり断った時だと知ったら、彼女は怒るかもしれない。
しかしその場面で、ライナルトやディルクのような相手に対し、申し出をそう簡単に断れる人間など数多くないのだ。
ライナルトの母親が、そうであったように。
ライナルト自身も、のちのちに「惚れ直した」とのたまう出来事だったから、ディルク一人の思い込みではないだろう、と彼は思っている。
ともかくも、あの二人がこのまま末永く幸せであるよう、ディルクは願っていた。
――……と、人のことを考えている場合ではなかったな……。
いささか現実逃避気味に親友のことを考えていたディルクだが、学院の裏門を目前にして、自身の問題に思考を戻さなければならなくなった。
この手の中の花束の行方であるが、このまま部屋に持って帰らなければならないのか。
これを押し付けるのに問題のない相手がどこかにいないだろうか……。
花束を見られたくないがためだけに、人の通用が正門よりも少ない裏門を潜ったディルクは、寮へ足を向けつつ考える。
しかし、帰る間中考えていて浮かばなかった名案が、突如閃くということはなく。
頭を悩ませ暗がりの道を行くディルクの視界に、ふと一つの人影が入りこんできた。
休日の遅い時間に珍しい――。
視線を向けて、ディルクは一瞬、目を見張った。
そこにいたのは、彼のパートナーだったのだ。
またつい長居をしてしまった、とテアは図書館を出た。
この休日、午前中をピアノの前で過ごしたテアは、昼食をとった後すぐに図書館へ足を踏み入れたのだが、それからずっと書物に夢中になっていたのだ。
顔馴染みになった司書に苦笑されつつ声を掛けられて、ようやく閉館時間になっていることに気付き、慌てて謝罪し、退出してきたところである。
ローゼはもう帰っているだろうか、と考えながら、テアは寮への道を行く。
例え行き先が構内の図書館であっても、あまり遅くなるとローゼは心配する。
だが今日は夕食も外でとるかもしれないと言っていたし、念のために外出届けを出していったくらいだから、まだ親友は恋人と共にいるかもしれない。
今日この日が、ローゼにとって幸福だったならば良い。
テアは思いながら、昨日のローゼの話を思い返して、少し笑った。
なんだかんだと、ただ惚気られただけだったような気もするが、テアは惚気話を聞くのが嫌いではない。
母もそうだったし、ローゼもそうなのだが、大切な人が幸せそうな顔をしているのを見られるというのは、それこそが幸せで素敵なことなのだと思うのだ。
寮の部屋で帰ってきたローゼから楽しい土産話が聞けると良い、とテアは思いながら、本の詰め込まれた鞄を抱え直した。
でも、とテアはその重みに苦笑を零す。
少しだけ、羨ましかった。
きっとローゼは綺麗な花をプレゼントされて、それを持ち帰ってくる。
それはしばらくの間、部屋を飾り、ローゼの心に温もりをくれるのだろう。
思い出が、彼女の笑顔になるのだろう。
けれどテアの腕の中はからっぽで。
今の彼女は、花束を受け取る資格など持っていない。欲しがることなどできないけれど、いつか、知らない未来で、この腕に抱く日が来るだろうか。
テアはそんな想いを抱えて、澄んだ星空を見上げながら歩く。
そんなテアの視界の端に、星とは異なる白が映った。
小道が交差する場所で、テアはふと足を止める。
その白に引かれるように目を向けたテアは、そこにいた人物と同じように、目を見張った。
そこにいたのは、彼女のパートナーだったのだ。
近づきすぎてはいけない――。
とかく最近はこればかりを念頭に置いている二人は、距離感を意識しかすかな緊張を覚えながらも、偶然の出会いに心を弾ませ、笑みを交わし合った。
「こんな時間まで……、また図書館で勉強か?」
テアが歩いてきた方向から、その見当をつけるのはディルクにとって容易なことだった。
軽い口調で問いつつも、ディルクは腕の中の花束を意識せずにはいられず、若干手のひらに汗をかくのを感じる。
まるで、ディルクの背中を押してくるようなシチュエーションだった。
一時の衝動に流されてはいけないと、彼は自身を戒める。
けれど、心さえ偽っておけば、この上ない出会いであると、彼は認めざるを得ない。
この花束を――、押し付けるのではなく、贈りたいのだと、ディルクは少しだけ、腕に力を込めた。
「ええ。ディルクは……、今日は演奏に行かれていたのですよね。お疲れさまでした」
ねぎらうような微笑を浮かべつつ、テアも、ディルクが持つものに動揺せずにはいられない。
テアの目には、演奏という仕事を終えた彼が、これから恋人に花を贈りに行くように見えたのである。
様々に噂はあるものの、ディルクにそんな存在はいない、とテアは信じきっていた。
そう信じたかったから思いこんでいた、というのもあるが、常々彼が、今は音楽に夢中だしそれに集中していたいから色恋のことは考えられない、と公言しているせいもある。
だからテアはそれに安堵していたし、同時に落胆のようなものも感じていた。
「……」
花束のことを聞くのは、ぶしつけだろうか。
テアが次の言動に迷っていると、ディルクは躊躇を見せつつも辺りを見渡すような仕草をみせ、思わずどきりとするような真摯な声音でテアを呼んだ。
「――テア」
「はい」
誰からも見られていないことを確認し、警戒するようなそぶりを見せたディルクに、テアは首を傾げたが、その声に緊張感を呼び覚まされて、背筋を伸ばす。
「その……、迷惑かも知れないが、これを受け取ってもらえないだろうか」
差し出された花束に、テアは絶句した。
まさか、と思った。自分の願望が見せる甘い夢幻かと疑った。
だがこれは確かに苦い現実のようである。
ディルクの意図は愛の告白ではない、とテアの目には映ったのだ。ディルクも上手く隠していた。
今日が聖ウァレンティヌスの日でさえなければ、テアもこう戸惑うことはなかっただろう。
困惑の視線を向けると、ディルクは事情を話してくれた。
演奏に行った先でこの花束をもらったこと、しかしどうすべきか迷っており、結論が出ないままここまで来てしまったこと……。
ディルクの話を最後まで聞いていたテアだが、彼が口を閉じると抑えきれず笑ってしまった。
それは自嘲の響きも伴っていたが、テアの中で、純粋におかしいという気持ちの方が大きかった。
「テア……」
「すみません、深刻そうな顔をされているので、一体何事かと……」
「お前は笑うが、これを持って寮に入ってみろ、他の寮生に振られた男のレッテルが貼られて、明日には全校生徒に気の毒そうな目を向けられることになるぞ……」
ディルクに対し「振られた男」などという称号を与えることのできる人間はそうそういないと思われたが、それでなくとも何かしら言われることは容易く想像できて、テアは笑いを引っ込めた。
「有名人は、大変ですね……」
今度はしみじみと呟かれて、ディルクも苦笑するしかない。
「……協力を頼んでもいいか?」
「そういう……ことでしたら」
テアは頷いたが、差し出された花束を受け取る手は、躊躇いで覚束なかった。
――本当に私が受け取ってしまっていいのだろうか……。
恋人の想いが込められた花束ではない。
それが少し悲しくて、同時に今の自分にはふさわしいのだと、思う。
切なさに胸が痛んで、それなのに嬉しい気持ちもここにある。
震える唇を隠すように、テアは受け取った花束に鼻先を埋めた。
「良い香り……ですね。――ありがとうございます」
「こちらこそ……ありがとう」
図らずも、それは、互いに特定の相手がいないことを再確認する作業でもあった。
心中、複雑なものが渦巻いていたが、疑似的にでも恋人同士のようなワンシーンを演じられたことにより、二人が共に大きな喜びを持っていたことは、確かで。
「……引きとめてしまったな。身体を冷やして風邪を引いてしまう前に帰ろうか」
「はい」
彼が贈った花束を胸に、嬉しそうな、と形容して良いだろう微笑を浮かべるテア。
そんな彼女を抱きしめたい衝動にかられたが、それをかなりの自制心を動員して抑制し、ディルクは寮への道を示した。
受け取ることを拒否されなくて良かった、と安堵すると同時に、次の機会には心を隠さずに贈りたい――、と、そう、祈るように思いながら、ディルクも少しだけ、笑みに本心をのせる。
やがて、並んで歩き出す二人は、心を隠す日常にまた、戻っていく。
けれど、確かにこの時二人は共に、同じ淡く甘い香りを漂わせていたのだった――。
「お帰りなさい、テア」
テアが寮の部屋に入ると、ローゼも既に帰っていた。
「ただいま帰りました。ローゼも、お帰りなさい。楽しい一日でしたか?」
「はい」
ローゼははにかみながら頷き、首を傾げて問いかけた。
「テア、鞄に入りきらないほど本を借りてきたんですか?」
「えっと、これはですね……」
テアは両手に分厚い本を十冊ほど抱え、鞄は腕にひっかけるようにしていた。
先ほどまでそれらの本を鞄に入れていたのだが、今鞄に入っているのは、ディルクから受け取った花束だ。
テアはテアで、他の寮生に花束を見られて何を言われるか分かったものではないと、鞄の中に隠したのだった。
ローゼはテアが鞄から取り出した花束に目を丸くし、嬉しそうに言う。
「ディルクに告白されたんですか!?」
「違いますよ」
何故そうなるのか。
聖ウァレンティヌスの日は恋人たちの日であるが、だからといって告白をする日ではないのである。そういうこともあるかもしれないことは否定しないが。
しかも相手は名指しなのかとテアはきょとんとするばかり。
ディルクから想いを寄せられていると全く気付いていない上に、自己評価が低くそんな対象にはなるまいと考えているテアは、ローゼの喜びに何かしら勘づくこともなく、あっさりと否定し、事情を説明した。
テアの淡々としているとも言える語り口に、この二人は本当に何をやっているのか、とローゼは呆れかえる思いである。
だがそれでも鞄から花束を取り出すテアの仕草は、まるで宝物でも扱うかのように丁寧で……。
ローゼは目元を和らげて、綺麗ですね、と言った。
「今度、一緒にドライフラワーをつくりましょう、テア」
「……はい」
目を細めて花束を見つめるテアのために、ローゼはその薔薇を活けるための容れ物を探した。
そんなローゼの机の上にも、恋人から贈られた花が飾られている。
甘い色と香りに包まれた、恋する者たちのための、夜だった。