二人 3
ディルクとパートナーとなることを決めたとテアが告げると、ローゼは驚いた顔をした。
「ディルクと……」
二人は寮の部屋の真ん中に置かれているテーブルを囲み、ローゼが調理部でつくってきた焼き菓子を紅茶と共に味わっていた。
驚きが過ぎると、ローゼはテアにパートナーができたということにほっとする。
「良かったですね。彼なら、とても良いパートナーとなってくれるでしょうし……。ですが、いつの間にディルクとそんなに親しくなっていたんです?」
「親しく……というほどでも、ないかもしれませんが……。色々と助けていただいて……。私のピアノを聴いたディルクが、申し出をしてくださったんです」
照れくさそうに頬を染めながらテアは告げた。
「あの方は成績も優秀ですし、私では足手まといになってしまうのではないかと、それが心配ではあるのですが……」
「その気持ちは分かります。あの二人は、すごすぎて……。私も、時々不安になるんです」
ディルクの片腕として、同じように他からの尊敬を集めるライナルト。そのパートナーとして、ローゼも彼の足を引っ張っていることがあるのではないかと、不安に思うことがあった。
「でも、それでも私を選んでくれたのだからと、なるべく胸を張るようにしています。だからテアも……」
「そうですね……。あの方の恥とならぬよう、背を丸めずにいたいと思います」
前向きなテアにローゼは微笑んで、しかしふと心配事が首をもたげた。
「ですが……、相手がディルクともなると、これからまた周囲が変に騒がしくなりますよ、テア。ディルクには度を越したファンが結構いるんです。テアが彼のパートナーになったと知れたら……、嫌がらせされることは必至です」
「あの方が私のせいで悪く言われるのは我慢なりませんが、私が嫌がらせされることなどささいなことですよ」
テアは虚勢ではなく本心からそう言った。
「テア、」
「昔を思えば……、大抵のことは他愛もないことです」
告げたテアよりも、ローゼの表情に翳りが宿った。
「私も力になりますから……、一人で抱え込もうとするのだけは止めてくださいね」
「……はい。ですが、本当に大丈夫ですよ」
テアはローゼを安心させるように微笑んだ。
「それよりも、これからの生活がこれまで以上に楽しみなんです。彼と共に演奏できると思えるだけで……、本当に嬉しくて」
テアが今までに見たことのないような表情を浮かべたので、ローゼはどきりとした。
――テア、もしかして……?
「どうだった?」
「登録申請をしてきたよ」
ライナルトの問いは抽象的であったが、部屋に帰ったディルクは親友の意図を読み取って簡潔に答えた。
パートナーの話だ。
ディルクの答えに、ライナルトは微笑む。
「良かったな。それで、相手は誰だ?」
「テア・ベーレンス」
部屋の中央に置かれたテーブルの前で、フルートの手入れをしていたライナルトは友人の名に目を見開いた。
「テアだったのか……。それなら昨日言ってくれれば良かっただろうに」
「ふられたら恥ずかしいだろう?」
ぬけぬけと言ってのけるディルクにライナルトは苦笑した。
「……しかしそれなら、そのうちテアのピアノを聴くのが本当に楽しみだな」
「聴いたことがなかったのか?」
「ああ。彼女が入学するまでに会ったのが数回……。ピアノを聴かせてもらうような時間まではなかった」
「そうなのか。……それは、お前の驚く顔を見るのが楽しみだな」
「自慢か、それは……」
ライナルトが苦笑しつつ見上げると、ディルクはベッドに腰をおろし、感慨深げな表情で「夜の灯火」の楽譜を手にしていた。
ふとライナルトは思いついて、それを口にする。
「……もしかして、お前が祭の時に会ったというピアニストもテアではないのか? 年頃は合うだろう」
「その可能性も、なくはないな。音はよく似ているから……。しかし、もう俺の記憶もおぼろげで面影が重なるのかはっきりしない」
「本人に直接聞いてみれば良いんじゃないか?」
「そうだな、今度、機会があれば…」
ディルクは楽譜をなぞるようにした。
何か懸念を抱いているような親友に、ライナルトは怪訝な視線を向ける。
「どうしたんだ? パートナーが決まって、喜ぶところだろう」
「ああ、パートナーができたことは素直に嬉しいと思う。しかし、明日からのテアのことを考えるとな…」
ディルクのパートナーとなって苦労するのはテアの方だろう。
ディルクはそれを考えると気が重かった。
彼女と共に演奏したいだけだというのに、どうしてなのかと。
パートナーとなる人間が大変な思いをする……。分かっていたことではあるが、実際にパートナーとなってしまうと余計にそのことを考えずにはいられない。
「気にするのは分かるが、あまり深刻に考えすぎなくても良いのではないか? おそらくテアも、今まで以上に騒がしくなるのを承知でお前とパートナーになったはずだ。ローゼもついているし、私もお前もできるだけサポートする。それでは不満か?」
「いや……、そうだな。少し気にしすぎているようだ」
「せっかくのパートナーだ。もっと楽しい方向に考えた方がいい」
「そうしよう」
ディルクは親友の助言に素直に頷いた。
「テア、聞いたよ、ディルクさんとパートナーになったって!?」
翌日、テアが授業のために講義室の窓際に着席して教科書を読んでいると、フリッツが興奮したように話しかけてきた。
人の良い彼は、周りの視線も気にせずにテアと友人でいてくれている。
フリッツは貴族の出なので、周りもそう彼のことを悪くは言えないようだ。
テアにとって、それは救いだった。
「おはようございます、フリッツ。情報が早いですね。パートナー登録をしたのは昨日のことなのに……」
「だってあのディルクさんだよ。去年は結局パートナーをつくらなくて、今期もそうじゃないかって言われてたのに、まさか君となんて誰も考えていなかったから……。あ、ごめん、こういう言い方は失礼だよね」
「いえ、いいんです。私も自分で驚いているくらいですから」
テアに断って、フリッツは彼女の隣に座った。
二人の会話にこっそりと耳を澄ませている人間は多かったが、二人は続ける。
「あの、ですが、去年パートナーをつくらなかったというのは……?」
「ああ、テアは知らないんだね」
ディルクの名はよく耳にするが、テアは誰かの会話を外から聞くというのをあまり好まないので、なるべく話の内容には耳を傾けないようにしている。ただ一つ確かなことは、ディルクの名が聞こえてくる時、テアの名が囁かれる時のような嫌な雰囲気を覚えることはほとんどない、ということだ。
フリッツはそんなテアのために、ディルクとライナルトにまつわるパートナー騒動の話をし、ディルクに与えられた特例について教えた。
「そうだったのですね……」
「うん。僕も話に聞くだけだけど、本当に大変だったらしいよ。でも、そんな騒動になるのも分かるな。ディルクさんたちは本当にすごいんだ。コンクール入賞の常連だし、かといって偉ぶるでもなくて、誰にでも優しいし……。それに、何よりあの二人は平民ではあるけど、まごうことなき高貴な血筋を受け継いでいるわけだから……、」
「?」
テアは熱を込めて語るフリッツの言葉に首を傾げた。
「それはどういう……?」
フリッツはテアの反応にはっと口を閉じた。
「もしかして、このことも知らない……?」
「多分……」
テアが頷くと、フリッツは困ったような顔になる。
「そうか……。誰でも知っているようなことだから、別に僕が話しても支障はないんだけど、ディルクさんたちはあまりこの話を好まれないだろうから……」
もしかして、ライナルトが言っていた、「アイゲン」の意味にかかわりがあることなのかもしれない、とテアは思い当たった。
違うかもしれないが、言い辛いようなことならば、深く聞くことはすまい。テアにも人に話せないことはある。
躊躇うフリッツに、テアは微笑んで告げた。
「無理に話してくださらなくても、大丈夫ですよ。いつか、ディルク自身の口から聞かせていただけるかもしれませんし……」
「そう、だね。ごめん」
「いえ、謝ってもらうことでは……。むしろ、色々と教えてくださってありがとうございます」
フリッツは、「ディルク」と呼び捨てにしたテアにどきりとして、胸に苦いものがよぎるのを感じた。
「……テア、君はすごいな」
「何がです?」
「サイガ先生が担当教諭で、ディルクさんがパートナーで……」
「すごいのは私ではなくて、お二人ですよ」
テアはそう言うが、その「すごい」二人に選ばれたテアを、フリッツは遠く感じてしまう。
「そう言えば、フリッツはパートナーは決まりました?」
「あ……、僕は、まだ……」
――本当は、できることならテアを誘いたかったけど……。今の僕にその度胸はなかった……。ディルクさんには、敵わない……。
「私でも何かできることがあれば仰ってください。微力ですが、力になります」
「ありがとう」
――それでも今、テアが隣でこうして笑いかけてくれるなら、いいか……。
「そーいやお前、ディルクとパートナー組んだって?」
レッスンが終わってからエンジュ・サイガにそう言われて、テアはこの人にも話が伝わっている、と驚いた。
「どうしてその話を?」
「教員の間でも話題になってるぜ。あのディルクが、お前を、ってな」
「そうなんですか……」
情報がこんなにも伝わっているのは、テアのパートナーであるディルクの人望の厚さ、注目度の高さを示しているのだろう。
「秋の学院祭のコンサートは二人で出るのか?」
「はい、そうしたいと」
「ふーん……」
エンジュはディルクに教えていた時のことを思い出す。
テアをパートナーにしたと聞いた時は、驚くと同時に納得してしまったものだ。
彼の求める音楽のかたちを、テアは持っているから……。
「楽しみだな」
にやり、とエンジュは笑った。
「先生、あまりプレッシャーをかけないでください……」
「いやー、教え子二人が共演っていうのはなかなか感慨深いものがあるんだぜ。一人は元だけど。こりゃ公演の予定は学院祭には絶対入れないようにしなきゃな」
パートナーになったのは昨日の今日であるのに、その言葉に今から緊張してきたテアである。
ピアノに関してエンジュはこの上なく厳しい。後悔するような演奏をするつもりなどないが、後でどんなことを言われるかと思うとプレッシャーだ。
「……で、テア、これからいくつか課題出すけど、その進みが早かったらレッスン中にコンサート曲の練習しても良いぞ」
「本当ですか!」
「おう。だからレッスンしっかりやれな。あと、学院祭で下手な演奏したらシメるかんな、ディルクといっしょに」
「先生……」
――だが、本当に楽しみだぜ……。ディルクが目指す音楽の最初の一歩、早く聴きたいと思っていたからな……。しかもピアノがこのテアとなれば……。
想像もつかない音楽が目の前に現れてくれるかもしれない――。
エンジュはにやにやとして、困ったような表情を浮かべるテアが時間になって練習室を出ていくのを見送った。
楽譜を片付け彼も練習室を出ようとして、ドアから顔を出したところでエンジュはふと動作を止める。
彼の視線の先に――。
「テア・ベーレンスさん?」
「ちょっと来て下さいません?」
廊下の先で、テアが数人の女生徒に囲まれていた。
――おうおう、穏やかじゃねーな……。
自分が助け船を出してもいいが、適任は他にいるだろう。
エンジュは、テアが連れて行かれてしまった後、自分の方に歩いてきた生徒が見覚えのある顔であることに気付いて声をかけていた。
「そこの一年、テアの友人だな」
エンジュが言うと、彼は驚いた顔で立ち止まった。
エンジュが声をかけたのは、フリッツだ。エンジュは、フリッツとテアが仲がよさそうに話しているのを何度か見たことがあった。
「サイガ……、先生」
「ちょっと頼まれてくれるか」
「は、はい。何でしょうか」
フリッツは音楽界の大物に声をかけられた驚きで身を固くしながらエンジュの言葉を聞いていたが、話が進む内にみるみると顔色を変えていった。
「テア……!」
エンジュの話が終わった途端、フリッツは駆け出す。
「……もしかしてそういうことか? 青春、ってやつだなー」
エンジュは廊下を走っていくフリッツを見送り、のんびりと呟いた。
テアを心配する様子はまるでない。
出会って間もないが、彼はテアがこの程度のことでどうにかなるなどとは微塵も思わなかった。
彼女は一見大人しそうに見えるが、中にとても強かなものを持っている。
それを、エンジュは彼女の音楽を通して知っていたのだ。
――むしろ、助け船は余計なおせっかいだったか? まぁでも、何もないよりはあった方がいいだろ……。
ふぁ、と彼は伸びをして、あくびをこらえずに練習室の扉を閉めた。




