薔薇 2
――しまった……、迷ってしまった……。
ローゼは細い路地を見渡して、肩を落とした。
季節は初秋。
ローゼがシューレ音楽学院に入学して間もなくの頃。
休日、ローゼはケーレの街を散策していた。
早くこの街に慣れたい、と思っていたし、秋晴れのとても気持ちの良い日で、外出しないなど勿体ない程だったのだ。
しかし、初めての場所で、うっかり風にスカーフを飛ばされてしまった。
戻る道が分からなくなることがないよう気をつけていたのだが、慌ててそれを追いかけて捕まえて――気付けば、道が分からなくなっていたのである。
――こういう時に限って人も通り掛からないんですよね……。
憂鬱な溜め息を漏らす。
そこへ、
「てめえ!」
人の争う声が聞こえ、反射的に彼女はそちらへ首を巡らせた。
諍いならば、放っておくのは性分ではない。
入学草々そうしたことに首を突っ込むのは気が進まないが、と思いながらもローゼは声のする方へ向かった。
「スカした面しやがって!」
「俺たちの邪魔しやがったんだ、せいぜい代わりにサンドバックになってもらうぜ」
「膝ついて謝るんなら少しは手加減してやってもいいけどなぁ」
何とも分かりやすい台詞を並べ立てている三人組に、行き止まりを背にして対面しているのは一人。
奥にいる一人はローゼの位置からよく見えないが、その向かいの三人組の姿と、その内の一人がナイフを手にしているのは見てとれた。
――三対一か……。
何があったか知らないが、これだけ分かりやすい状況だ。そのままにしてはおけまい。
「……そこで何をしているのですか」
ローゼがさほど大きくはないものの、凜としたよく通る声を上げると、はっとしたように三人組は振り向いた。
一瞬だけ怯むような色を見せた彼らだが、ローゼを見てそれを好色なものへ変える。
「へぇ、こりゃえらい美人だ」
「こいつの代わりに相手してもらいてぇな」
「そりゃそっちの方がいいな。いくらおキレイな顔してても男じゃ勃たねぇからなぁ」
そう言って下卑た笑いを上げる彼らに、ローゼは呆れたような視線を送った。
――全く、どこへ行ってもこういう輩は同じですね……。
「黙っていただけますか、下衆。これまでにも似たような台詞を汚い声で聞かされてきて、耳が腐りそうです」
「んだと、このアマぁ……」
「状況分かってんのかぁ?」
「こっちにはこいつもあるんだぜ」
「痛い目みたくなきゃ、せいぜいおとなしくしな」
「そうそう、たっぷり可愛がってやるからよ」
「おいお前、今日のところはこれで勘弁してやる。もう俺たちの邪魔すんじゃねぇぞ」
そう言って三人は、先ほどまで相手をしていた一人になど興味を失ったようにローゼに近付いて来た。これみよがしにナイフを見せつけながら。
不用意に身体に触れてこようとする彼らに、ローゼは冷たい一瞥をくれてやって、
「もう少し、相手の力量を見極める目を養った方がいいですよ」
と、まず一人、隙だらけのそのみぞおちに、無造作に拳を打ち込んでやった。
言葉もなく、一人は悶絶し崩れ落ちる。
「……っ」
「このアマぁ、何しやがる!」
逆上して声を上げる残りにもまるでたじろがず、ローゼは向かって来る一人の急所に蹴りをくれてやり、そのまま軽くターンするようにもう一人に後ろ蹴りを決めた。
一瞬の出来事。
凶器を振るう間もなく終わってしまい、三人は苦しそうに蹲るしかなかった。
「どうせならもっと手応えが欲しかったですよ、全く。これに懲りたら少しは自分たちを省みることですね」
ローゼは忠告してやったが、痛みの中にある彼らの耳に届いていたかどうか。
そしてローゼが顔を上げ、細い道の奥に視線を向けたその時――。
「……お見事、と思っていたら、もしやローゼ・フォン・ブランシュか?」
どこか冷たくも感じられる硬質な、美声。
三人に囲まれていた一人が、路地奥の暗がりから姿を表す。
類い稀なる美貌の青年……、ローゼはその顔に見覚えがあった。
「……ライナルト殿下?」
驚きを込めてそう、この国の第二皇子の名を呼ぶのに、つい声を潜めてしまう。
何故こんなところに、と訝しく思ってすぐ、ローゼは思い出していた。
彼は数年前に第三皇子と共に皇室を出た身で、今はローゼと同じ、シューレ音楽学院の生徒であると――。
ライナルトはローゼが口走った呼称に苦笑を浮かべており、ローゼはばつが悪くなった。
「今はライナルト、とお呼びした方が?」
「ああ」
「……相手があなただったのでしたら、余計な手出しだったでしょうか。ここからだと、奥にいたあなたの顔が見えなかったものですから……」
「いや、助かったし、良いものを見せてもらったよ。さすがだな」
「やめてください。こんな連中相手に。あなただってその気になればすぐにでも片付けられていたでしょうに。何故こんなところで彼らの御託を聞いてやっていたのですか?」
「いや、なかなかこういうこともないものだから、物珍しくてつい……」
つまり彼らは面白がられていたわけだ。
ローゼは呆れた。
「……珍しくも絡まれることになったわけをお尋ねしても?」
「ああ……、」
ライナルトは少しばかり躊躇ったが、手出しすることになったローゼには聞く権利があるだろうと口を開いた。
「彼らが女性を無理矢理暗がりに引き込もうとしていたから……、それを止めさせたんだ」
「へえ……? つまりこいつらは、暴行未遂犯の上、強姦未遂犯だと、そういうわけですか」
ローゼは目を剣呑に光らせ、隠しもせずその単語を口にした。
「それならもっと念入りに急所を潰してやるべきでしたね……」
妙齢の女性が迫力を持って呟く言葉ではない。
ライナルトはおかしそうに目を光らせた。
「その代わりでもないが……、警察に連れていくか?」
「そうですね……、それがいいんでしょうけれど……」
何故か言葉を濁したローゼに、ライナルトは首を傾げ……。
「……警察署が分からない、と言うかそれ以前に、ここはどこでしょう……?」
真顔で問いかけられ、ライナルトは次の瞬間、笑いを堪えきれずにふきだしていた。
「全く、あんなに笑わなくてもいいじゃないですか……?」
休日が明けて、翌日。
授業を終えた放課後、ローゼは入学草々入部した調理部の活動に参加していた。
今日は部活見学に来た他の一年生を含め、皆でジンジャークッキーを作っている。
寝かせておいた生地を取り出して型抜きをしながら、ローゼは昨日のことを思い出し、ついぼやいた。
あれから結局、ライナルトの案内で例の三人組を警察に引き渡し、帰り道もエスコートされたローゼだった。
あれ以上道が分からなくなる羽目になるよりは良かったのだろうが、何となく癪に障ってしまう。
別にそこまで大層な気持ちであの場に割って入ったわけではなかったが、助けはいらなかったようだし、むしろ助けられてしまったという事実が何とも言えない羞恥を誘うのだ。
――まあもう関わりあいになることはないでしょうし……、あまり考えないようにしましょう……。
あれだけ目立つ青年だから、学院で見掛けてしまうのは頻繁かもしれないが、きっとそれくらいだ。
ローゼは努めて羞恥の記憶を封印しようとした。
悶々としながらも、やがて生地の焼成に入り、仲間たちとクッキーの焼き上がりを楽しみに待つ。
その時。
「……何を作っているんだ?」
その声に、調理室はしん、と静まり返った。
それが、明らかに部員のものではない、一度聞いてしまったら忘れられなくなりそうな美声だったからだ。
「ラ……っ」
その声に一同が振り向き、思わず叫びそうになった部員たちが慌てて口を塞ぐ。
「ライナルト……! どうしてここにいるんですか……!」
ローゼも後ろを振り返り、一瞬絶句して、しかし次の瞬間叫ぶように呼んでいた。
昨日の今日で、一番顔を会わせたくなかった相手がそこにいて、抑えるのは難しかったのだ。
いつの間にかローゼの後ろに立っていたライナルトは、どこか楽しそうに笑っている。
「お前に会いに来たんだ、ローゼ」
「な……、」
驚愕に驚愕を重ねるローゼだが、周囲は色めき立った。
もしかして、と囁く彼女たちにローゼははっと我に返って、このままではあることないこと言われてしまう、とライナルトの腕を掴む。
「ちょっと来てください」
引っ張って行くローゼに、引きずられていくライナルト。
それを見送る調理部の面々は、「もしかして……?」と目を輝かせる。
あることないこと噂が駆け巡るのは、避けられそうになかった。
サークル棟の中では人目につきすぎる、とローゼはサークル棟を出、その裏手に回り込んだ。
すぐ脇が鬱蒼とした茂みになっているので、あまり人は寄りつかなそうだ。
「……会いにって、何か御用でも?」
驚かされた恨みを込めて、ローゼがいささかつっけんどんに問うと、ライナルトは質問で返してきた。
「調理部はいいのか? 何か作っている途中だったのだろう?」
「もう焼成に入っていますから終わったようなものですし、他の方がやってくれます」
ライナルトが表れた途端に浮足立った周囲の様子を思い出す。
例えローゼが抜けることに問題があっても、ローゼがライナルトを待たせていたら、ローゼを含め部員全員通常通りに続きができるわけもない。
用件が終わったら片付けを手伝いに戻らなければとローゼは思ったが、戻ったら根掘り葉掘り聞かれそうだと、想像しただけでげんなりした。
「良い匂いがしていたな。何だったんだ?」
「ジンジャークッキーです。たくさんありますから良ければ差し上げますよ。昨日のお礼にでも」
「いいのか?」
「構いませんよ、それより用件を」
早口でいかにも早く済ませようとするローゼだが、ライナルトは楽しそうに笑うばかりで気にした様子もなく、彼女の望む通り用件の内容を単刀直入に告げた。
「ローゼ」
「何です?」
「私のパートナーになってもらえないだろうか?」
その瞬間、ローゼの思考は停止した。
ライナルトは涼しげな顔で、ローゼの答えを待っている。
「……何ですって?」
「私と、パートナーを――」
幻聴ではなかったらしい。ローゼは慌ててライナルトの言葉を遮った。
「いえ、繰り返さずとも結構です! 本気ですか?」
むしろ正気ですか、と尋ねるような雰囲気だった。
ライナルトは心外そうな顔になる。
「もちろん本気だが?」
それに尚疑わしげな視線を向けて、ローゼはさらに聞いた。
「……何故、私なのですか? ご存じかどうか知りませんが、私は別に成績が優秀というわけではないし、フルートだってそこまで腕がいいとは言えません。あなたならもっとできる人をよりどりみどり選びまくりじゃないですか! どうしてそんな、良く知っている仲というわけでもないのに……」
ライナルトとその異母兄弟ディルクの優秀さは、学院の生徒のみならず国民全てが知っていると言っても過言ではない。
皇子の頃から皇帝の息子の三兄弟がずば抜けて優秀であるというのは有名なことだったし、この学院にいて彼らの話を聞かない日はないのだ。
加えてその並はずれた容姿に、ディルク、ライナルトをパートナーにと望む声は男女問わず多い。
それが何故、この学院において特別優秀というわけでもないローゼをパートナーにと望むのか。
ライナルトの本心は、掴めない。
「だから、かな」
「え?」
「知らないから、知りたいと思った。こういう風に言えばお前は気を悪くするかもしれないが、正直お前の成績が良くとも悪くともお前ならそれでいいんだ。側にいて、ずっと見ていたい、と思う。他の誰かがお前の隣りに立つのは嫌だった。だから、お前がまだパートナー登録をしていないと知って、焦って来たんだ。今日もできればもっと早くに来たかったんだが、確実にお前が掴まえられそうなのは放課後だったから……」
訥々と語るライナルトの言葉に、ローゼの顔は真っ赤に染まっていった。
「……っ、それじゃ、まるで、パートナーの申し込みというより、愛の告白ですよ、ライナルト……」
ローゼは熱い頬を誤魔化そうとして、笑い飛ばすように言ったが、返ってきたのは肯定だった。
「ああ、私はお前が好きになったんだ、ローゼ」
真顔で肯定したライナルトに、ローゼは息を飲んだ。
「だからこれはパートナーというより……、交際の申し出だな。他の誰かではなく、私の手をとってもらえないだろうか、ローゼ」
それはとても甘やかな響きを伴って、ローゼを誘惑した。
けれど。
「お、お断りしますっ!!」
一刀両断、とばかり、気付けばローゼはそう口走っていた。
好きになった、なんてとても信じられない。
きっかけは当然昨日あったのだろうが、一体昨日のあれでローゼのどこを気に入ったと言うのか。
容易に頷けることではない。
しかし、断りの文句を口にしたはいいが、ライナルトの顔を何故か直視できず、ローゼはくるりと踵を返していた。
「……それでは私は部活に戻りますから!」
そのまま振り返らず、ライナルトから逃げるようにローゼはその場から去った。
だからローゼは知らない。
「……参ったな……」
ローゼの背を見送ったライナルトがこう呟いたことを。
「ますます、諦めきれなくなったじゃないか……」