薔薇 1
シューレ音楽学院では後期が開始し、既に二月も半ばである。
その日の授業を終え、寮の部屋へ戻る途中で「あしながおじさん」からの手紙を受け取ったテアは、部屋に戻ると早速机に向かってそれを広げていた。
――それにしても、耳が早い……。
「あしながおじさん」の手紙には、数日前にテアが聞いたばかりの噂のことも書かれていて、そう思う。
テアがこの前に手紙を出したのは、後期が始まって間もなく。
試験結果が出てすぐ、ディルクにパートナーの申し込みをして、諾の返事をもらってからのこと。
その時には噂のことまでは書かなかった、というか知りようもなく書けなかったというのに、学院長経由で伝わったのだろうか。
返事もかなり早い到着なので、テアの手紙を受け取ってすぐ、話を聞いてその場で返事を書いてくれたのかもしれない。
思いながら、テアは小さく溜め息を吐く。
テアとディルクがパートナー登録をした直後に流れ出したらしい、ひとつの噂のことを思い出して。
テアに憂鬱な溜め息を吐かせるその噂曰く、「学院祭のコンサートに出席出来なかった皇帝陛下が、評判の高かった息子とそのパートナーの再びの演奏を望んだ。それがあって学院側から二人にパートナーを組むように持ち掛けた」。
根も葉もない、とテアはそれを聞いて唖然とするしかなかったが、実は、と親友に打ち明けられた事実にさらに愕然とした。
その噂の発端はライナルトで、積極的に広めたのはローゼだというのだ。
しかしその理由を聞いてしまえば、どうしてと責めるわけにもいかなくなった。
自分のせいでテアが嫌がらせされることを気に病んでいるディルク。ライナルトはそれをよく分かっていて、それならばパートナーを組んだことを自分たちの意思とは無関係にしてしまえばいい、と言ったのだ。手の出しようがない相手の意思にしてしまえばいいと。
抗えない他者から強制されたパートナーであれば、他の生徒も諦めざるを得ない。その他者が最高権力者ならば尚更だ。嫉妬はあっても、皇帝の名にテアに手出しが出来なくなる。皇帝に対して恨みに思っても、何かできるはずもない。
それは実際にテアとしても、良い隠れ蓑になる話だった。
自ずから選んだわけではない、対外的にそう思わせられれば、ディルクを巻き込んでしまう懸念は減る。強制的な関係、と思わせられれば、余計な勘ぐりもそうされないだろう。
実のところ、ディルクについても、噂を許容するのはテアと同じ理由が大きく、ライナルトが噂をでっちあげた理由の大半も同じなのだが、テアがそれを知る由もない。
ただ、彼女の中に違和感は残った。皇帝がこうしたことに関して自身の名を出すことを好むようには思えなかったのだ。
だがいずれにせよ、学院長を通し、皇帝自身にまで許可を得て流したという話はもう学院中が知ることになってしまったから、撤回などできようはずもない。何より話が通してあるということは、噂がある意味では真実であるということも意味しており……。
一体いつの間に、いつから手筈を整えていたのかとテアはライナルトの手腕に舌を巻き、諦めるしかなかった。
皇帝陛下の期待、というプレッシャーが重過ぎるという問題はあったが……。
もう一度、そっと溜め息を吐いて、テアは大切な手紙を綺麗に畳み直し、封筒にしまった。
「……テア、明日なんですけど、これでいいと思います?」
後ろから声をかけられ、テアは振り向く。
そこには、明日の服装に悩むローゼがいた。ライナルトとのデート前には常に見られる光景であり、明日もやはり二人はデートなのである。
明日は聖ウァレンティヌスの日で、ちょうど学院も休日だ。
聖ウァレンティヌスの日と言えば、恋人たちの日。男性が女性に花を贈り、恋人たちは互いの気持ちを確かめ合う。
ライナルトとローゼは以前から出かける約束をしていたらしく、ローゼはその日をひどく楽しみにしていた。
そして彼女が今身体の前に合わせるように持っているのは、彼女に良く似合う、薔薇色のドレス。
先日、新しく仕立てていたものだとテアは知っていた。確か、ライナルトと一緒に選んだのだと……。
「いいと思いますよ。ライナルトが選んでくれたものでしょう?」
テアが微笑んで言うと、ローゼはほっとしたように、嬉しそうに、頷く。
「はい……。ありがとうございます、テア」
それでは今度は服に合うアクセサリーとバッグとあれとそれと、とローゼはまた頭を抱え始める。
だがそれも、何だか楽しそうだ。
テアが思わず笑いを零すと、ローゼは上目遣いに軽くテアを睨み付けた。
「なんで笑うんですか」
「楽しそうだな、と思って」
「もう、テアだってその内きっとこうなりますよ」
それは……、どうだろう。
テアが思ったことはローゼにも伝わったのか、言葉にせずとも反論された。
「そうなります。私だって最初は……、ライナルトのことだって気に入りませんでしたし……殴り倒してやろうかと思う時が……、まあ今でもないとは言いませんが……。それでも、変わる、ものですよね」
ライナルトのことを――気に入らなかった?
初耳である。
テアは目を瞬かせて、尋ねた。
「そういえば……、今まで聞いたことがなかったですけど……。ローゼはライナルトとはどのようにしてパートナーを? やはり宮殿などで縁があったりしたのですか? ……いえ、無理に聞こうと言うのではないのですが……」
テアの問いにローゼは逡巡を見せたが、口を開いた。
「入学以前にも確かに顔を合わせたことはありましたけど……。本当に数度、式典などで、私はいつも父の後ろに控える形でしたから、会話らしい会話もなくて……。出会ったと言えるのはやはりここに入学してからですね。その出会いにしろ……、何故その後ライナルトが声をかけてくれたのか、よく分からなくて……」
「と言うと、申し出をしたのはライナルトの方だったのですね」
「ええ……、そうです。最初は正直、からかいのつもりか何かと思って、断ったんですよ」
「断った……んですか」
テアはそれをひどく意外に感じた。
少なくともテアがよく知る今の二人からすれば、そういうことがあるとは思われなかったからだ。
「だって、その出会いにしろ特別なことがあったわけではなかったんですよ。むしろ私は恥ずかしいところを見せちゃったくらいで……。それなのに次に会ったらパートナーの申し込みですよ。正直信じられなかったんです。今まで私に近付いて来た男共は大抵、『クンストの剣』といっても女では大したことはないと思っていて、私が剣を持つところを見れば逃げていくし、最初から腕を知っているとそういう意味では近付いてこないし……。普通の女性らしいとは言えないと自分でも分かっていますから、ライナルトも何か勘違いしているかからかっているか、いずれかだと思ったんです。フルートだってそんな、大した腕というわけでもありませんし」
そんなローゼの言葉を聞きながら、テアはブランシュ領領主の顔を思い浮かべていた。
――騎士見習いでもローゼに憧れる方は結構いたんですけど……、モーリッツさんが睨みをきかせていたから迂闊に近寄れなかったんですよね……。
ローゼはおそらく大いなる誤解をしている。
逃げていった、というのも、全部が全部ローゼの言う通りだったわけではなく、強面ながら愛娘を溺愛しているモーリッツが関わっていたかもしれない。
だから例えライナルトが一目惚れしたとしても全くおかしくなどないのだ。
他の女性とは確かに異なっているかもしれない。けれどローゼは彼女しか持ち得ない魅力を持っているのだから。
テアはそう思うが、ローゼはこういうことに関しては案外奥手で、自信が持てないようだった。
相手がライナルト、というのが余計にそうさせるのかもしれない。
そんな風にテアが思っていたのをローゼはどう捉えたのか、彼女は拳を握って力説し出した。
「テアだって、あの時の私の立場だったら絶対疑います。話しますから、聞いてください」
そうして結局、請われる形でテアはローゼの話を聞くことになったのだった。