対峙 19
――まだ、こんな時間……。
まどろみから覚めたテアは、寮の自室のベッドの上で身を起こすと時刻を確かめた。
学院に戻ってから、まだ数時間。
窓の外、空はまだ厚い雲に覆われているが、雪は止んだようだ。
ぼんやりとしたまま、習慣に従って、枕元の眼鏡をかける。
眼鏡越しに見える外の景色はうっすらと白く変貌して美しく、静寂を纏っているような気がした。
あまりにも静かすぎて、こうしていると、ここ数日学院の外にいたことが、ここにはない音を、熱を感じていたことが、まるで夢の中の出来事だったかのようにすら感じられる。
首の痣も消えてしまった今、エッダ・フォン・オイレンベルクとの邂逅もまた遠く感じられ、このまま、このただ静かな日々が続いていくのではないか……、そんな錯覚がよぎった。
だが、全てが現実なのだ。
自身に秘せなくなってしまった想いも苦悩も、エッダとの賭けも、酒場での一時も、雪の朝に触れた大切な人の温度も。
――そして私は、選んだ……。
身体はまだ休息を求めていると分かっていたが、テアはベッドから降りた。
やりたいことが、やらなければならないと思うことがあったから。
機敏とは言い難い動作でテアは制服に着替えると、部屋の真ん中に置かれたテーブルに用意された軽食に目を向け、少し笑う。
数時間前、ディルクと共に学院へ戻り、彼と別れて寮の部屋に戻ったテアは、その物音に起き出したローゼに説教をくらうことになった。
書き置きはしていったとはいえ、それだけで唐突に何日も部屋を空けてしまい、やはりローゼには相当な心配をかけてしまったようだ。
自分を宥めながらも心配でじっとしていられず、テアを探しに出ようとすらしてくれたらしい。ライナルトが待とうとローゼを諌め、ディルクにも告げず、大事にならないよう計らってくれたので、大げさなことにはならずに済んだようだけれど。
近い内にローゼにもライナルトにも詫びと礼を何かしよう、とテアは思っていた。
そして、ディルクにも……。
テアはローゼに散々説教されたが、ローゼはそれでも何やかやと気を遣って、ずっと夜中起きていたというテアを半ば無理矢理ベッドに押し込んだ後、テアが起きた後に食べられるよう軽食まで用意していってくれたようだ。
ローゼ自身も今は試験の最中で、そんな日なのに、とテアは心から申し訳なく思う。
学院の外に出た判断を誤りだとは思わない。けれど、帰ってきたテアを迎えたローゼの表情は、今にも泣きそうなもので……。
今までも、これからも、ローゼにはどれだけ心配をかけてしまうだろう。
それでも。
いや、だからこそ――。
そう、テアは決意を強くする。
有り難く、テアはローゼが用意してくれた食事に手をつけ、それから部屋を出た。
テアの目的は練習室だったが、その前にと掲示板を確認する。
「……、」
その掲示板の一角を見、テアは小さく声を漏らした。
そこに、エンジュからの呼び出しが貼り出してあったからだ。
――戻って来られたのですね……。
彼はテアの学科試験の日程も把握している。呼び出しは学科試験に問題のない今日の午後の早い時間になっていた。
久しぶりのエンジュのレッスン。エンジュに、演奏を聴いてもらう、そのことに、否が応でも緊張が高まった。
――それにしても、本当に、間に合って良かった……。
テアは自身の首元に手をやりながら、思う。
数日前、エッダとの邂逅によって残ることになった首の痣。
それは学院の外でディルクと再会した時にはほとんど消えかけていて、昨晩も安堵したものだった。
痕がいつまでも消えなければこの朝も学院にはいなかったかもしれず、すぐに消えるもので良かったとつくづく思う。
まだレッスンまで時間には余裕があるが、テアは胸元でぎゅっと拳を握り、踵を返してそもそもの目的地だった練習室へ向かった。
最初からピアノのために部屋を出てきたのだが、エンジュのレッスンが控えているならば尚更、ゆっくりなどしていられない。
テアはまっすぐ、師が用意してくれている練習室を目指した。
学院の外で見つけた自分の音を、もっと確かなものにしておきたくて。
彼女はまた、ピアノのもとへ。
試験週間が始まった、その午後――。
「……」
エンジュ・サイガは練習室の中、一人ピアノに向かう弟子の姿を認めると、小さくドアを開け、固まった。
もっと早く帰るつもりだったのだが、天候その他もろもろの事情があって、戻ってくるのが予想以上にオーバーしてしまったのだ。さすがのテアも怒っているだろう、何を言われても謝るしかないなと、普段は飄々としたエンジュも時期が時期だけに少々気が咎めていたのだが――。
テアの音が、エンジュのそんな思いをかき消した。
彼の脳裏に浮かんだのは、懐かしい面影。
ずっと側にいられるわけではなかった、それでも共に生きていくのだと思っていた、けれど失ってしまった彼の人。
愛していた。
愛して、いる。
そう想い、そしてそう告げてくれた人。
それなのに……。
――行くな、逝くな、俺を置いて、どこにもいくんじゃない!
過去の自己の叫びが胸によみがえった。
辛い、切ない、寂しい、悲しい――。
それなのにどうしてこんなに、愛しいという想いは鮮明で、温かくて優しい気持ちに包まれているような気がするのだろう?
「――」
茫然とするエンジュの口から、小さく、一つの名前が零れた。
「……先生?」
はっとエンジュは顔を上げた。
見れば、テアが目を見張って立ち上がっている。
一体今自分はどんな顔をしているのだろう。
エンジュは不安を覚えたが、何とかいつも通りに笑ってみせた。
「よう、テア、久しぶり!」
「お久しぶり……、です」
どう返すか若干困った風で、それでもテアは律儀に頭を下げる。
エンジュは練習室のドアを閉め、そんなテアに近付いた。
「いやー、戻りが遅くなっちまって、悪かったな。俺もこんなにかかるとは思わなくてさ」
「いえ、それは……いいんです。それより、先生、無理をなさっているのではないですか」
「へ?」
気遣わしげに問われ、妙な声を上げてしまった。
「何となくですが、顔色が優れないような……」
「あー、や、大丈夫大丈夫。元気元気。……っつうか、お前の方が顔色悪いんじゃねえか?」
気付いてエンジュは、弟子の顔を見つめた。
テアは心当たりがあるのか苦笑して、それに答える。
「少し睡眠不足で……。大したことはありません」
確かに顔色は悪かったが、瞳には強い色があって、その言葉は嘘ではなさそうだと分かった。
「お前のことだから、夜遅くまで勉強してたりしたんだろ」
エンジュの言葉に、テアは誤魔化すように笑った。
若干目が泳いでいるが、エンジュがいない間に何かあったのだろうか。
いや。
何もなく、そう簡単にあんな音になるわけがない……。
「あんま無理すんなよ。お前には俺の弟子として、ばあさんになって老衰するまでピアノを弾き続けてもらわなきゃいけないんだからな」
「そ、そうなんですか……?」
「そうなの。だから、出てきてもらって悪いけど、今日はもう帰ってゆっくりしとけ」
「え……。で、ですが、実技試験の課題曲が……」
「ああ、それなら大丈夫だ。今聴いて分かった」
「え?」
「ピアノ専攻科一年の首席はお前だ」
エンジュはそう、断言した。
真面目な響きに気圧されたように、テアは絶句する。
「一応明日も、試験が終わったらここに来い。いくつか指摘したいことがある。だがとりあえず、今日は身体を休めろ。勉強したいかもしれんが、それもほどほどにな」
エンジュの言葉は優しいものだったが、有無を言わさぬものでもあった。
「お疲れさんだったな、テア」
「……はい。それでは今日は失礼します。先生も、無理はなさらずに」
「俺はだーいじょうぶだって」
最後ににっと笑ったエンジュはいつも通りに見え、テアは幾分ほっとして練習室を出た。
練習室に入ってきた彼が泣きそうに見えたのはきっと気のせいだろう……、と、早々に練習室から追い出されてしまったことを幾分気にしながら、テアは去っていく。
彼女の気配が遠ざかって、エンジュはピアノの前に座った。
「……ちっとあいつを見くびってたかな、俺は……」
小さく呟いて、鍵盤に、指を落とす。
愛しい人の面影に想いを馳せて、彼は奏でた。
エンジュも、テアと同じなのだ。
ピアノが、大切な人と今の自分を繋ぐ絆。
だから彼も、いつも、いつまでも、奏で続ける。
「なぁ、――」
呼びかけに答える声はなくても、エンジュの耳には届いた。
窘めるように、笑いを含んだ優しい声が彼の名を呼ぶのを。
明日はちゃんと今の弟子をフォローしてやろうと思いながら、彼は今だけと、この一時を自分に許した。
その翌日から実技試験当日まで、テアは連日エンジュの指導を受け続けた。
学科試験を受けつつの練習だったが、今までの練習に手応えがなかった分、試験週間の間の練習の方がずっと充実していたかもしれない。
もちろん実技試験にばかり気を取られていたわけではなく、テアは学科試験にも全力を尽くした。
もともと生真面目な性格だから手を抜かない、というのもあるが、後見人である「あしながおじさん」にがっかりされたくない、というのもテアの熱心さに拍車をかける。
それ以上に、今回の試験には学院に残るか否かがかかっていた。
最初は、ここから去った方がいいのだと、そう思った。
だが、心は残ることを望み、テアは自分にそれを許そうとしている。
だから、明らかな形で、彼女は勝たなければならなかった。
エッダ・フォン・オイレンベルクに。
そして。
自分自身に。
そうして、試験漬けの毎日はあっと言う間に過ぎ、試験週間最終日の実技試験もとうとう終わってしまい――。
「さ、テア、行きましょう!」
張り切るローゼに手を引かれるようにして、その日、テアは寮を出、講義棟へ向かった。
試験週間が終了を告げた次の日、月も変わって二月となり、学院は一日休校だった。
生徒たちは試験から解放され、久々に休日をゆっくりと楽しんだ。
テアもさすがに精神的な緊張の糸が切れて、その休日は一日ゆっくりとしていた。
エッダとの勝負のことがあって、結果のことが気になり胸がざわつくのは抑えきれなかったが、試験が終わってしまった以上もうどうしようもないことだと、なるべく考えないように、読書をしたり、ローゼとお茶をしたり、穏やかな時を過ごした。
その翌日から、後期の授業が開始される。
前期試験の結果発表は試験終了から一週間後であるが、試験終了後こうしてすぐに後期の授業が開始されるので、教師陣のスケジュールは慌ただしい。
試験週間終了直後の休校も、教員にとっては平穏とは程遠いもので、結果発表に備えて教師たちは試験の採点を終え、成績開示の準備をしなければならず、教員棟は殺気溢れるものとなっていた。
だが、それにも終わりを告げる、前期が終わって、そして後期が始まってから一週間経ったその日。
教師たちが死屍累々となって終えた試験の採点結果――、その中の一部、成績優秀者の発表が講義棟の掲示板に大きく貼り出されていた。
成績優秀者は、学年別に、学科試験と実技試験とに分けて掲載される。
学科試験は共通科目の総合点が高かった者から上位十名と点数を。
実技試験は専攻科毎に首席の名のみ挙げられていた。
成績優秀者の発表とは別に、各々の生徒の、全ての学科試験のそれぞれの点数と実技試験の順位と評価は、担当の教員から渡されることになっている。
テアはまずその結果を知らなければと、エンジュのレッスンに向かうのが先で、成績優秀者の発表を見るのは後回しにしてしまおうと考えていたのだが。
朝からローゼに急かされてしまい、テアは結局早々と掲示板の前に来ることになった。
それはいいのだが、掲示板の前に大勢の生徒がひしめいている光景に、テアは引き気味に小さく呻き声を漏らす。
相変わらず外の寒さは厳しいものであるのに、溢れる人の熱気でその寒さもどこかへ行ってしまいそうだ。
朝一番は生徒が大勢見に来るものだと聞いてはいたが、ここまでとは思わなかった。
これでは肝心の掲示板が見られない。
「ローゼ、やはり後にした方がゆっくり見られると思うのですが……」
とても前まで分け入っていく気にはなれずにテアは提案したが、ローゼがそれに否の答えを返すより早く、テアとローゼの姿に気付いた生徒たちが、少しずつ道をあけてくれた。
――え……?
わざわざ譲ってくれるなんて、ローゼがいるからだろうか。
リサイタルや学院祭コンサートの後にも感じた視線によく似ているものを感じ、テアは腑に落ちないかのように首を傾げ、そして。
「ああ、やっぱり!」
ローゼの歓声に、顔を上げた。
「これを早く見たかったんですよ! テア、おめでとうございます!」
「え……」
ローゼが笑顔で指差す先を見つめ、テアは大きく目を見開いた。
「一年の学科試験一位、テア・ベーレンス。実技試験ピアノ専攻科一年主席、テア・ベーレンス! W首席なんてこんな快挙、滅多にないことですよ!」
はしゃぐようなローゼの声を聞き、掲示板を見上げて自身の名を認めながら、それでもテアは信じられない気持ちで立ち尽くす。
――本当に……?
『ピアノ専攻科一年の主席はお前だ』
脳裏にエンジュの言葉がよぎる。その言葉を、正直なところテアは信じられなかった。
エンジュの言葉を疑ったというよりは、自分自身に自信が持てなかったのだ。
エッダに勝つことを目指していた。「あしながおじさん」に恥じないよう努力だけは怠るまいとした。
だがそれがまさか、こういう結果になるとは思わなかったのだ。
天下のシューレ音楽学院である。優秀な人間が集まっているここで、一学年のとはいえ頂点に立つなど、どうして想像できただろう。
結果を待つばかりだったこの一週間、落ち着かずに何度もそのことを考えていた。
勝った時のことも、負けた時のことも。
――でも、まさか、首席なんて……。
「……何かの間違いとかじゃないですよね」
「もう、こんな時にまでそんな慎重に考えずに素直に喜びましょうよ。間違いなんかじゃありません。正真正銘、あなたが新入生の首席なんです、テア」
驚きを引きずりながら、テアは笑顔のローゼを見つめ返す。
嘘ではないのだ、と実感が湧いてきて、胸が不思議に熱くなった。
誇らしさが溢れてくる。
嬉しかった。
何よりも、ここに残れると、自分に許せることが。
――私は、ここにいたいと、こんなにも望んでいたのか……。
今更それを実感するほど、胸に溢れる喜びは大きいものだった。
「あなたの努力の結果なんですよ」
優しいローゼの笑顔。
テアはそれに、はにかむような笑顔で返した。