対峙 18
時刻は早朝と呼べる時間に移り変わろうとしている。
そとそろ暇を告げなければ店主にも迷惑をかけてしまうだろう、とテアが顔を上げて窓の外を見ると、まだ太陽も昇らぬ暗い中に、ちらちらと白いものが見えていた。
「また、雪が……」
テアの呟きにつられるようにディルクも顔を上げる。
「あまりひどくならない内に帰った方がいいか……」
これ以上長居するわけにもいかないだろう、という思いもあって、ディルクは立ち上がった。
そして、テアの方へ、手を差し伸べる。
「帰ろう、テア」
この時、ディルクが「お前もこのまま学院に帰るのか?」と、テアの都合を聞かずに、そう告げたのは。
多分、先ほどテアの演奏から受けた印象を、引きずっていたからだった。
このまま別れてしまえば、テアが戻らず、行方知れずになってしまうのではないか……。
もう、手の届かないどこかへ行ってしまうのではないか。
根拠もなく、そんなことを思ってしまったからだった。
テアも、まるでその懸念を裏付けるように、一瞬、躊躇いを見せて。
けれど、彼女は首を横に振ることはせず、ただ、頷いた。
「はい」
テアは素直に、ディルクの手を借りて立ち上がる。
そのことだけに、ディルクは大きな安堵を覚えた。
テアは立ち上がると店の片隅に置かせてもらってあったコートを羽織り、手袋とマフラーを身に付ける。
ディルクも外に出る支度をして、店内を整えている店の主に、テアと共に挨拶をした。
「ごちそうさまでした。ありがとうございました」
「何日もお世話になってしまって、すみません。楽しい一時を過ごさせていただいたこと、感謝します」
丁寧に礼をされ、店主は大したことはしていないと言うように、緩く頭を振ってみせる。
「……持っていけ」
そうして別れ際、変わらずぶっきらぼうな店主が差し出したものは、一本の紺の雨傘だった。
雨傘と言えば、最近街でも少しずつ見られるようになってきたが、結構な高級品だ。
何故酒場にあるのか不思議に思ってしまうがそれはともかく、簡単に頷いて借りていいのか困る代物で、テアとディルクは顔を見合わせた。
確かに、テアは帽子があるものの、ディルクはもともと日帰りのつもりでいたから無防備なもので、ここから学院までの距離を思えば厚意を受けたいとも思うのだが。
「これ以上甘えてしまうのは、」
「また演奏するついでに返しに来い。一緒に」
遮るように半ば無理矢理、ディルクは傘を押し付けられ、そう告げられる。
二人はその心遣いに、遠慮を捨てることにして、笑顔を浮かべた。
「……ありがとうございます」
「また、来ます」
長く短い夜の明け、二人は寡黙な店の主に見送られ、ちらちらと雪が舞う外へと足を踏み出した。
石畳の道に、雪はうっすらと積もり始めている。
その中を、ディルクとテアは静かに歩いていた。
一本の、雨傘の下で。
最初テアは帽子があるからと、ディルクに傘を全て譲ろうとしたのだが、それでは肩が濡れてしまうと諭されて、結局二人で傘の下並んでいる。
久しぶりに顔を合わせ、演奏をすることができて、さらにこの、今の二人にとっては、今しか叶えられないと思えるような距離。
いっそ、幸せな眠りの中で見ている夢なのだと言われた方が信じられるくらいの一時だと、二人共に思っていた。
街はまだ眠りの中にあって、その眠りを妨げないよう、気遣うように黙ったまま歩き続ける二人。
ただ静謐な雪の音と足音と、二人の熱だけが、世界の全てのように感じられた。
それだけでいい、と思えていた。
しかし、どれほど歩き続けただろう。
不意に、その静寂が破られる。
二人が向かう先から、一つの人影が忙しない様子で走ってくるのだ。
こんな時間に一体、とディルクは傘をもう片方の手に持ち直し、庇うようにテアの肩を抱いていた。
肩を抱くディルクの手は大きく熱く、テアは鼓動を跳ねさせる。
ばたばたと向かってくるその人物は、そのまま二人の横を通り過ぎていくかと思われたが、足を止め驚いたように声を上げた。
「おやこれは驚いた! ディルク殿下じゃありませんか!」
風情を壊す、男性にしては少し高めの声。
ディルクも相手の顔を認めて驚き、相手の名を口にしていた。
「ディボルト――。何故……」
そう、雪で肩と帽子を濡らしている男は、ヴァイス・フェーダーの記者、ロルフ・ディボルトであった。
彼はディルクの問いに、快活に笑う。
「そりゃもちろん、取材のためですよ!」
その答えに、テアは小さく身体を揺らし、顔を伏せた。
そんなテアの反応を腕の中で感じて、ディルクはテアの肩を抱く手に力を込める。
「こんな時間にか?」
「いやー、もっと早く到着する予定だったんですが、ここに来る前の取材先で思ったより時間を食ってしまいまして……。馬車も急がせたんですが、この天気ですし、走った方が間に合うかもしれないと思って降りてきたんですよ。知ってます? この先にある酒場。この辺りは珍しく朝までの営業を許されてますからね、急げば何とか……と思ったんですが」
「酒場? お前は芸術専門ではなかったか?」
「ええ、そうですよ。だから、ピアニストの取材です。その酒場に突然現れたピアニストがかなり良い腕らしいって、昨日たまたま噂話を耳にしまして。プロが隠れてふらっと足を運んだのかもしれないし、こりゃ一見の価値はありそうな具合だと、もともと入っていた取材の後に予定を入れてみたんです。今夜も来そうだって、話をしてくれた奴からはそう聞いたもので。でもまさか、こんなところでディルク……殿と会うとは思いませんでしたが。もしや、噂のピアニストはあなたじゃないですよね?」
「ああ。だがその方がお前にとってはいいだろう? 学院近くでピアノを弾いたと言って、俺の名ではそう大した記事にもなるまい」
「いや、それはそれで話題性がありますよ。是非にとお願いしたいところですが……、そう言えば、そちらの方は?」
そこでようやく、ロルフはテアの方へ視線を向けた。
好奇心の強い彼が、知らない顔のことを聞かないわけはない。
ディルクは内心の揺らぎを表に出すことなく、変わらぬ調子で答えた。
「知り合いの子なんだ。実を言うと先ほどまで、一緒にその酒場にいてな」
「ええっ、そうなんですか!?」
「ああ。お前の言うとおりのピアニストの演奏を最後まで聴いてきた。ピアノが好きらしくてな、帰りたくないと言って、俺も付き合ったんだ。俺たちが最後の客だったのだが、この時間だろう。今送っているところだよ」
「へえ……。それはそれは。どうでした? やはり噂通りの演奏でしたか?」
「ああ。かなりのものだった。俺が酒場を出てくる時はまだ店にいたから、急げば何とか会えるのじゃないか」
「本当ですか! それなら是が非でも会ってみないと気が済みませんね。それじゃディルク殿、またその内! あなたのパートナーにもよろしくお伝えください! それでは!」
また慌ただしく、ロルフはディルクたちが来た道を辿るように去って行った。
ほっとテアは肩の力を抜く。
「……大丈夫か?」
「はい……すみません」
ディルクに嘘を吐かせてしまったことが申し訳なく、テアは悄然とした。
といっても、全くの嘘は実のところなかったのだが。
「気にするな。お前がああいうのを苦手とするのは分かるから……」
「……記者の方、だったんですよね?」
「ああ。ヴァイス・フェーダーの記者だ。学院祭の時の記事を書いたのもあいつだった」
「そうですか……。でも、わざわざ街の小さな酒場にまで足を運んでくるなんて……」
予想もしていないことだった。
まだ胸がざわついて、嫌な動悸がしている。
素性を隠していて良かった、とテアは思い、事情を知らないはずなのに、隠していたいことを理解してくれているディルクのことが有り難かった。
「あいつはフットワークが軽い……というか、興味を持ったことには躊躇いもなく飛びつくんだ。それだけお前の演奏が聴いた人間にとって魅力的で、伝え聞いただけでも足を運んでしまうくらいだったのだろう」
その言葉にテアは喜んでいいのかどうか迷ったが、ディルクが心を軽くしてくれようとしているのは分かったから、微笑した。
「そんな、大層なものでは……。ですが、きっと行ってがっかり、なさるのでしょうね」
「その前に、マスターに店にすら入れてもらえないかもしれないがな」
冗談っぽく、ディルクは告げる。
テアもそれが想像できて、少しだけ声に出して笑った。
少なくともあの寡黙な店主がテアのことを記者相手に簡単に話してしまうとは考えにくいから、件のピアニストがテアであると知られることはないだろう。
そのことに安堵して、やがて二人はまた、暗い朝を歩き出した。
その内にロルフが乗って来たらしい馬車と遭遇することができたので、馬車を使って二人は学院へ戻ることにする。
馬車の中、ディルクの隣で揺られながら、きっといつかまた、あの記者とは顔を合わせるだろう……、そんな確信がふとテアの胸をかすめた。
けれど、今は、ただ。
隣にいてくれる人の温もりだけを感じていよう。
余計なことなど考えずに。
テアは思って、束の間、瞳を閉じた。
その傍らのディルクもまた、同様に。
雪の朝、太陽の昇る姿は見られない。
だが、厚い雲がかかっていても空は白み始め、世界は色を取り戻し、新しい日がまた、始まろうとしていた。