対峙 17
「……ディルク……」
彼の姿を見た瞬間、時間が止まってしまったように感じた。
そう感じたのも、束の間であったようだけれど。
学院を出たテアがそのまま足を向けたのは、街外れにある酒場だった。
昔――母と逃亡の旅を続けていた頃、テアは一度ケーレの街に立ち寄ったことがあったのだ。
とはいえ中心部には向かわず、街の片隅に一晩の居場所を求めて、という形であったが。
その時に足を踏み入れたのがこの酒場で、今も続いているかどうかが不安だったが、以前と変わらない店構えに安堵を覚えた。
あの頃この店を選んだのは、ちょうどその時店の外からでもピアノの音を聴くことができたからで、今でもやはり同じようにピアノが置いてあったことが嬉しかった。
ピアノを弾いていいかと尋ねると歳をとった店主はひとつ頷いて、それに甘えるように三晩も続けて足を運んでしまった。
昔を思い出してとても懐かしく感じ、同時に母がいないことに寂寥を覚えずにはいられない。
それでも思い出の中の母が微笑んでいて、テアは最近の不調などなかったかのようにピアノを奏で、とても楽しい時間を過ごしていた。
そして、何故あんなにも音を紡ぐことが難しくなっていたのか、分かったような気がした。
――心を押し殺すことばかりを考えていたから、それが響きを濁らせ、指を鈍らせていたのだ……。
けれどここでは、何も隠す必要はない。
テアはただ思うがままに奏でた。客たちの反応に合わせながら臨機応変に指を動かしていくのも、学院での演奏とは違って面白いことだった。
客たちは仲間たちとそれぞれ会話を交わしているが、店の中にどこか一体のような空気が流れる。
楽しみ、癒される、そんな空間が心地良かった。その一部であれることが光栄だった。
しかしまさか、ここでディルクと顔を会わせることになるとは――。
露ほども思っていなかった出来事に、テアは動揺を隠せなかった。
音が揺れたのを、誰かに気付かれただろうか。
気付かないでいて欲しいと思った。特に、ディルクには……。
その内に、ディルクと共に店に入ってきた青年が声を上げた。
テアに、ディルクと一緒に演奏して欲しいと言う。その言葉に、さらに心が揺れた。
演奏をと請われて近付いてくるディルクの足取りは、どこか慎重で。
ゆっくりとテアのすぐ側に立った彼の姿に、胸が高鳴った。
その存在を近くで感じられるのは久しぶりで、避けていたのは自分の意思だったはずなのに、喜びで胸が詰まる。
演奏が始まれば、いつかと同じような心地良い緊張感と泣きそうなほどの歓喜で包まれて、演奏に集中しながらも、テアは一方で不安だった。
こんなに、近くで。こうして、共に奏でて。この気持ちを、知られてしまうのではないだろうか、と。
それでも想いは溢れていた。
――やはり、私は、ディルクのことが、好きだ……。
一層想いは募って、胸がはちきれてしまいそうだ。
ディルクと演奏できることが、こんなにも幸せで。側にいられることが、こんなにも嬉しい。
『わがままでいいから、もっと自分の気持ちに素直になれよ。そうしたい、と思ったらそうすればいい』
エンジュの言葉が、脳裏によぎる。
その言葉に、縋ってしまいそうだ。
一番の願いは、"今"。
この時が、ずっと、永遠に続けばいい……。
けれど、永遠はきっと許されない……、自分が、許せない。
それでも、今しばらくと、それだけ、ひとつだけ、望んでもいいだろうか。
この想いは自分一人の胸の中だけにしまっておくから。
口には決してしない、誰かに気付かれたとしてもいくらでも首を振る。
守るためには、何だってする。
ただ、ひとつだけを、もう少しだけという期間を限定して、許して欲しい。
永遠は望まないから、一時だけでも……。
今すぐにこの存在の側から離れることは、やはり無理なのだと分かってしまったから。
心が歪んで、壊れてしまいそうだったから。
この時ようやく、テアは師の言葉の通りに、素直になることを決めた。
――だから、私は、きっと勝とう。あの、賭けに。
曲が終わり、テアは顔を上げてディルクを見つめた。
その瞳には、既に決意と覚悟が固まっていた。
結局、その後も客たちの声があって、テアとディルクの協演は続いた。
その内に夜も深まっていき、一人、また一人と、酒場から客たちは引き上げていく。
やがてヴィクトールもそろそろと腰を上げ、ディルクはヴァイオリンを下ろしてヴィクトールを見送ったが、しかし彼と共に辞すことはしなかった。
「ごめんね、僕もなるべく長くいたかったけど、明日も早いから」
「いえ……。こちらこそ、ありがとうございました。ここで演奏が聴けて……、共に演奏することができて、本当に良かった。あなたの、おかげです。今日は借りだらけですね」
「いや、演奏を聴かせてもらった僕の方こそ、ありがとう、だよ。今日は本当に楽しかった。また一段と冷え込んでいるし、帰る時は気をつけてね」
「ヴィックさんも」
店の外まで出て、ディルクはヴィクトールを見送った。
「……そうだ、ディルク君」
「はい」
「恋、上手くいくといいね」
「――!?」
耳打ちされ、唖然としたディルクに、ヴィクトールは悪戯っぽい笑みを零す。
「君、思ったよりも分かりやすかったんだねぇ。それじゃ、また!」
「……また」
返すディルクの言葉にはあまり力がなく、その顔には少々朱が昇っていた。
小さくなっていくヴィクトールの背中に、ディルクは唸るように内心呟く。
――見抜かれていた、か……。
気をつけよう、とディルクは心に留めて、鼓動を落ちつけると、再び酒場のドアを開ける。
店内では、ディルクが外に出ていた間も、今も、変わらずピアノの音が止まずに続いていた。
もう一度共に、というより、またゆっくりとピアノを聴いていたくて、ディルクは先ほどと同じようにカウンターに座る。
それからずっと、彼はピアノを聴いていた。
彼以外に、客がいなくなるまで。
「……何を食べる?」
最後の客が店の外に消え、ピアノの蓋を閉めて立ち上がったテアに、店主はぶっきらぼうに、けれどどこか温かさの感じられる声で尋ねた。
今日ここに来て初めてマスターの声を聞いたような気がして、ディルクは店の主を思わず見つめてしまう。
「では……、シチューをいただけますか?」
テアが答えるのに頷いて、店主はカウンター奥の厨房に姿を消した。
その前に彼は店のドアに「準備中」の札をかけていったが、特に退店の言葉もかけられなかったので、ディルクは黙認に甘えることにして、カウンターに座ったままでいる。
その隣、一つ席を空けるようにして、テアは腰を下ろした。
「……驚きました」
テアが口を開いて、彼女の声をまともに聞くのも久方ぶりだ、とディルクは思う。
他の客がいる間、テアはまともに声を出さず、コミュニケーションをとる際も、身ぶり手ぶりで終えていたから。
「まさかここで、あなたに会うとは……」
「俺もだ」
顔を合わせて、苦笑し合う。
互いに避けあっていたことなど知らず、二人はただ、以前の距離を手探りしつつ、おそらく変わっていないだろうその距離に安堵を覚えていた。
「この近くに来る用があって、ここで良い腕のピアニストが演奏していると聞いて立ち寄ったのだが、まさかお前だったとは……。どうしてここに?」
テアはその問いに言葉を探すように間を空けたが、やがて告げる。
「……実技試験の課題曲の練習が捗らなくて……、気分を入れ替えてみようと思ったんです。ここには昔、母と来たことがあって……、その時もピアノを弾かせてもらったものですから」
その言葉に、ディルクは驚くと同時に、自身の情けなさを感じずにはいられなかった。
自身の感情に翻弄されるばかりで、テアが悩んでいることに気付きもしなかったとは……。
「……良い気分転換になった、ようだな」
「ええ。おかげで納得できる演奏ができるような気がしています」
それは今までの演奏と、今のテアの表情に翳りが見られないことでも明白だった。
「だが何故その格好なんだ? 皆お前のことを少年だと勘違いしていたようだったが……」
テアはその問いに少々ばつの悪い表情になる。
「その、やはりこういう時間に女性が一人というのは問題があるかと思いまして……。こちらの方が動きやすいですし」
昨日も今日の昼間も公園と喫茶店で睡眠時間を確保したので、そういうことを仮定しての装いなのだが、さすがにそれを素直に口に出せずに少しばかりぼかして答える。
人の目を避けることに慣れたテアには、こうして別人に見える装いの方が何となく落ち着くような気がして、そんな理由もあるのかもしれなかった。
「だからか、なるべく声を出さないようにしていたのも」
「はい……。私の声はもともとそう高い方ではないですし、低めを意識すれば大丈夫かと思ったのですが、声を出さないのが一番確実でしたから」
「そうだな」
ディルクは頷き、間近でもう一度テアを見つめる。
「しかし、上手くしたものだ」
「……呆れて、ます?」
「いや、感心しているよ。お前は本当に……、面白いな」
面白い、と形容されてテアは複雑な表情になったが、ディルクは特に揶揄するというつもりもなく、素直な言葉だった。
テアと言えば、普段は清楚で、そこらの貴族よりもよほど淑女と呼んで差し支えない様子である。
というのに、ローゼすら剣を持つ時以外でこんなことをするかどうか。彼女なら面白がってやりそうな気もするが。
だから面白い、と思う。
警戒心の強いテアのことだから、そこまでしてもあまり奇異には感じず、どちらかと言うと、そこまでするほど演奏に詰まっていたのか、と案じる気持ちの方が強かった。
「……何にせよ、何事もなかったようで、良かった」
ディルクは手を伸ばし、帽子の上からテアの頭を撫でるように何度かぽんぽん、と触れた。
そこに、店主がシチューを盛った皿を二つ持って、奥から現れる。
そのためにディルクは気付けなかった。テアの耳が赤く染まっていることには。
「……」
店主は無言で、テアだけではなくディルクの前にもシチューを置く。
「俺は……」
「食っていけ。演奏代だ」
端的に告げられ、支払いも拒否されて遠慮は当然もたげたが、ディルクは苦笑して厚意を受け取ることにした。
酒場に入ってから、ディルクは飲みはするものの食事は取っていなかったから、それを店主もちゃんと分かって、気を遣ってくれたのだろう。
ありがたく、ディルクはテアと共にスプーンを持った。
温かいシチューに身体を温めながら、しばらくテアとディルクは黙々と食事をする。
「……昔、母ともこうしてここのシチューをご馳走になったんです」
やがて、懐かしそうに目を細めて、テアは小さく言った。
「けれどまさか、あの一晩のことを、マスターが覚えていてくださったとは思ってもいませんでした……。ずっと前のことでしたし、私も以前とは随分様変わりしたと思うのに……」
ああ、だからテアは彼の前で普通に口を開いたのか、とディルクはようやくそれが腑に落ちた。
けれど寡黙な店主は、口を結んだまま、コップを丁寧に磨き続けている。
「幼い頃のお前はどんな風だったのか……、俺も会ってみたかったな」
「きっと、可愛げのない子だと呆れますよ。あの頃はこんなに小奇麗な格好もしていませんでしたし」
「いや……、マスターが覚えているくらい、可愛らしい子どもだったと思う。今のお前が……、こんなに、綺麗なのだし」
そうでしょう、と店主に同意を求めるディルクにテアは反論しようとして口を開いたが、できず、ただ口をぱくぱくとさせて、結局真っ赤になって押し黙るしかなかった。
そうこうする内に、二人の皿もすっかり空になり、腹が落ち着いたところで、テアがまた席を立って言う。
「……マスター、あと一曲だけ、ピアノをお借りしていいですか?」
店主は無言で頷き、テアは礼を告げて、ディルクに向き直った。
「ディルク、聴いて欲しい曲があるんです。その……、試験の課題曲なのですが、忌憚のない意見をお願いできますか」
「ああ」
テアの表情はどこか緊張感の漂うものだった。
それは、しばらく不調だったという事実からくるものなのだろう。
ディルクは頷き、テアがピアノの前に移るのを見守った。
ピアノを前にして座ったテアは、一度深呼吸して、肩の力を抜く。
そしておもむろに一度、ディルクへと視線を向けた。
眼鏡をかけないテアの、硝子を通さない瞳は凪いでいるようで、一方その奥に熱を隠し持っているようにも見え、ディルクの胸はさざめく。
テアはやがて目を伏せ――、静かに、ピアノに指を落とした。
――まるで太陽みたいだ、と思った。
あなたに最初、出会った時。
とても眩しくて、熱い。
惹かれずにはいられない、そんな存在。
心が揺れた。大きく。
だから。
近付けたことがとても、嬉しくて。
側にいられることが、幸せだった。
共にいられれば、この音も豊かに色づいて。
永遠を願わずには、居られなかった。
ああ、けれど。
さようなら、さようなら、さようなら!
そんな、別離の言葉を言わなくてはならない。
その輝きを損なうことがないように。
でも、どうしても、その笑顔が向けられればそんな言葉、口に出せなくなってしまう。
どうしたらいい?
感情の板挟み。
苦しい――苦しい。
だって、あなたを、愛しているから。
あなたを、愛しているのに。
あなただけを……。
その言葉は、決して口に出せない、真実の気持ち。
いつかきっと告げなければならないのは、さよならの言葉。
けれどこの気持ちはきっとこの胸にあり続ける。
だからどうかずっと、あなたはそのままでいて。
幸せに、笑っていて。
私はきっと、それを守る。
きらきらと輝く、大切な、人。
――だから。
最後の一音が、静かに響いた。
ディルクはいつの間にか立ち上がっていた。
いつ腰を上げたのか、自分でも定かでない。
ただ、圧倒されて。
優しくて悲しいのに、それでいて情熱的な、音。
魅了され、心が揺さぶられて。
動揺を、抑えきれなくて。
何故なら、テアが奏でたのは。
きっと、恋の曲だったから。
何より、最後の音を弾き終えた瞬間に。
どうしてだろう、テアがいなくなってしまうような、そんな錯覚を感じて……。
離れなければとそればかりを考えていたのにと、自身を滑稽に感じるほど。
「……ディルク?」
ゆっくりと立ちあがったテアが、いつの間にか側に近付いていることにも気付かず、ディルクは立ち尽くしていた。
茫然とするディルクを、心配するようにテアは見上げて。
ようやくディルクは、ぎこちなく微笑んだ。
「すまない……」
「いえ、謝ることなんて――。それより、大丈夫ですか? 具合が悪くなったのでは? やはり、ひどい演奏でしたか」
見当違いなことを言って、真剣に案じてくるテアに、ディルクは今度は自然に込み上げる笑みを感じる。
「そうじゃない。逆だ」
「逆……?」
「お前の演奏が……、今までとはまた違う感じを受けたから、驚いて……。それが、ひどく胸に迫って、音に呑み込まれるようで……。なかなか、余韻から覚めない。それくらい、感動した」
「え……」
信じられない言葉を聞いたかのように、今度固まるのはテアの番だった。
「正直、妬けるくらいだ」
それは複数の対象に向けられた、言葉。
だがテアがその言葉の意味を、正確に把握できるはずもなく。
「そんな……」
ただ、謙遜に首を振るだけだった。
一瞬だけ、ディルクは切ない色を瞳によぎらせる。
――お前は一体、何を、誰を想ってあの曲を弾いたんだ……?
「タイスの瞑想曲」の時にも思ったこと。
そうテアに、問いかけたい言葉を、ディルクは呑み込んで――。
「そう、思うでしょう?」
カウンター向こうの、店主を振り仰ぐ。
店内を整えていたその手を止めて彫像のように固まっていた店主は、ディルクのその言葉にようやく我に返ったように手を動かし始め……。
彼は何も言わなかったが、その様子がディルクへの同意を物語っていたのだった。