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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第6楽章
71/135

対峙 16



どうして、何故――。

その言葉がディルクの頭の中を占拠する。

ケーレの街の片隅にある酒場で。

あまりにも思いがけずピアノの前に座るテアと出会って。

茫然と目を見開いて、ディルクは立ち竦んでいた。

ディルクが酒場に足を踏み入れて間もなくして、一曲が終わりテアが顔を上げる。

ディルクと目が合ったテアも、驚いたように目を丸くして固まり――。

けれど次の瞬間には酒場の客にリクエストされて、またすぐに演奏に戻ってしまった。

これではなかなか、話しかけにもいけない。

「ディルク君、座ろうか」

同行者であるヴィクトールに袖を引っ張られるようにして、ようやくディルクは空いているカウンター席に彼と隣り合うように座った。

「とりあえずビールでいいかな?」

聞かれて反射的に頷く。

ヴィクトールはカウンターの向こうにいる初老の男性をマスターと呼び、ビールを注文すると、すぐに黄色い液体で満ちたジョッキが目の前に置かれた。

乾杯してすぐにヴィクトールはそれを空にしてしまうと、もう一杯と頼み、ディルクに尋ねる。

「……ピアニストさん、知り合いなんだ?」

あれだけ分かりやすい反応をしてしまえば分からないはずもない。

「ええ。……ただ、ここで会うとは思わなかったものですから……、驚きました」

ディルクが顔を上げて、ピアノに指を滑らせるテアに目をやると、ヴィクトールの視線もそちらに向いた。

学院で顔を合わせるテアとはまた印象の異なる彼女がそこにいて、一目でテアだと分かったのは少しばかり不思議なくらいだ。

驚くべきことに、彼女は男装していた。眼鏡は外し、長い髪は被っている帽子の中に隠している。その帽子があるから容貌がはっきりとせず、もともとのテアを知らない人間であれば彼女のことを少年だと判断して全くおかしくなさそうなのだ。

実際、酒場の客たちは「坊主、次はもっと激しいの弾いてくれよ!」などと声かけしている。

テアは昨日もここでピアノを弾いていたらしいが、学院の生徒だということを周知しているのかどうか。

どうしてここでピアノを弾いているのか、何か事情があるのか、不明な内からあまり余計なことは言わない方がいいのかもしれないと、ヴィクトール相手でもディルクは自身の発言に注意することにした。

「奇遇だねぇ」

そんな風にディルクがあまり口にしたくない様子であるのを感じ取ったのか、ヴィクトールは深く追究してこず、それだけ口にして、杯を呷る。

「おう、ヴィック、今日はえらく別嬪なにーちゃん連れてんじゃねえか」

しばしディルクとヴィクトールがピアノの音色をつまみにジョッキを傾けていると、ヴィクトールの肩を軽く叩いてきた男がいた。

ヴィクトールの友人らしい男は、いかにも仕事帰りに寄ったという風体で、酒がまわっているのか顔を真っ赤にしている。

ディルクに対する形容も、素面であれば決してできなかったものだろう。

「うちのお得意さんなんだよ。あんまり絡まないであげてね」

「へえ、にーちゃんも音楽をやりなさんのかい。もしかして学院の学生さんか? どっちでもいいけど、プロと比べてもやっぱうめえだろ、あの子の演奏はさ」

「ええ」

ディルクは苦笑を浮かべつつ、相手の台詞に同意した。

「学院でもなかなかいないでしょう、あれほどの弾き手は」

「言うな、にーちゃん。気が合いそうだ、一杯奢るぜ」

ディルクの本音に男はにっと笑い、マスターに「俺の奢りで一杯やってくれ」と声をかける。

「俺も昨日今日と聴いてるけどな、全然飽きねえし、楽しかったりなーんかぐっときちまったりなぁ、これから毎日でも来てほしいくらいだぜ。でもま、そういうわけにもいかないらしいな。こんだけうまいんだ、こんなとこでだけ弾いてるんじゃもったいねえよなぁ……」

こんなとこ、と言われたのが聞こえたのか、マスターが顔を上げて男を睨み、彼は首を竦めた。

ちょうど元いたテーブルの仲間たちからも呼ばれて、「ゆっくりしていけよ!」と男は去っていく。

ヴィクトールはそれを苦笑しつつ見送り、口を開いた。

「……ごめんね、気を悪くしなかった?」

「いえ、酔いのせいもあったでしょうが、気さくに話しかけてくれて嬉しかったですよ」

ディルク自身は、こうした酒場や人々の雰囲気がとても好きだ。

だが、実際にはこうした場所に馴染む存在にはなかなか成りえないと分かっているから、知らない人間にでも親しみを込めて接されるのは、真実喜ばしいことだった。

生まれを捨てても、その容貌や、身に付いてしまった皇族としての気品は簡単に取り除けるものではない。

それを隠そうとすれば隠せるが、こうして自分らしくいる時にはどうしても、こうした市井の中に紛れ込むことは彼にとって困難なことだった。

酒場に入った瞬間も、今も、常連客が多いということもあるのだろうが、ディルクに向けられる客たちの視線はまるで異物を見るかのようなもの。

それが訝しさや反感と同時に賞賛や感嘆を含んでいても、彼らとディルクが異なるものだという認識がそれにはある。

――だが俺は選んだんだ、"ここ"にいることを。"あそこ"ではなく……。

その選択が、いかに他人に受け入れがたいものか。

何度でも、ディルクは噛みしめてきた。

いつしか、ピアノの調べは物悲しい旋律に変わっている。

それを聴きながら、ふとディルクは思った。

例えば、彼女にとっても、ディルクの選んだ道はあってなきがごとしのものだったのではないか、ということを。

彼女――エッダ・フォン・オイレンベルク。

ディルクにパートナーとなることを申し出てくれた後輩。

ディルクに好意を抱いてくれていた、妹のような存在。

ディルクはその想いを拒絶した。

あの時エッダが見せた失意の表情を思い出せば、罪悪感に胸が塞ぐ。

だが、自分の気持ちに嘘をついて、エッダの想いを受け入れることはできなかった。

もし頷いていたとしても、結局のところは互いに辛い思いをすることになっただろう……。

ディルクの想いのベクトルは、既にエッダとは別の方向に向かっていて。

そして、エッダはおそらく、ディルクの中にとうに消えてしまった幻影を、見ているから。

ディルクを「様」付けで呼ぶ彼女は、解っているのだろうか。

ディルクがとうに貴族という身分をなくし、一平民であるという事実を。

それは他の人間にも言えることであるが、今は皇族の気まぐれで市井に下りているだけで、また宮殿に戻るつもりがあると、そんな風にでも捉えられているのではないだろうか。

身分がどうこう、というのを口にするのはあまり好きではないし、シューレ音楽学院という特殊な環境の中にいるから、一々そのことを追究しようとは思っていない。

だが、おそらく。学院を卒業して、街中でエッダとディルクが出会ったとして。

彼女は一平民であるディルクに笑顔でへりくだり、「ディルク様」と呼ぶのだろう。

その光景は、あまりにも易々と想像することができた。

一方で、他の平民に対し、彼女は一体どんな尊大な態度で振る舞うのだろう。

ディルクは、酷く残酷だと承知の上で、一つの質問を胸中に抱かずにはいられない。

――例えば俺の生まれが皇族ではなく、平民だったとして、この学院で出会って、パートナーになりたいと、お前はそう思うだろうか……?

皇族の生まれだという事実はもはや変えることはできず、幼い頃の記憶も決して消えることはないのだから、そんな前提の話をするのは卑怯かもしれないし、間違っているかもしれない。

それでも、ディルクは問わずにはいられない。

本当に、今のままの、ありのままのディルクを求めてくれているのかと。

今のディルクは、四大貴族の一、オイレンベルク家出身の彼女とは身分上比べるべくもない存在だ。

貴族でプライドの高い彼女が、本当にそんな男を隣に置きたいと思うのか。

情を交えずに、淡々と考えてしまえば、その疑念はディルクの中に大きかった。

疑念……、いや、多分ディルクは分かっていた。

彼女はディルクの選択を知ってはいても、理解はしていない。

彼女が望むのは過去なのだと。

だから……相容れない。

――自分勝手な言い分、酷い男だな、俺は……。

自己嫌悪を、覚える。

だが、それこそがディルクの本音だった。

ありのままの自分を受け入れて欲しい、という、それが、何よりも彼の欲することだった。

正しいと思って、選びとってきた道。誇りを持って、歩んできた。

それを否定され、見ないふりをされて、見たいところだけを見、そこだけに向かって微笑みかけられる。

その苦痛は、もう二度と味わいたくない……。

ディルクはぐっと酒を飲み干し、杯をテーブルに置いた。

一曲がまた、終わる。

「次は温かくなるような曲がいいなぁ」

と、ディルクの隣のヴィクトールが小さく呟いたのを聞きとめたように、ピアニストが次に奏でる曲は、明るすぎないものの、穏やかで温かみのあるものだった。

それでは、彼女は。テア・ベーレンスは、どうなのだろう。

そうしたかったわけではないが、比較してしまうことに罪悪感を覚えながら、考えずにはいられなくて、ディルクはまた、思う。

テアは最初、ディルクの生まれを知らなかった。

「生徒会長」と、「先輩」と、ディルクを呼んだ。

「様」と、「殿下」と呼ぶことは決してなかった。

いつ、どのようにして彼女がディルクの出身を知ったのかは分からない。

彼女はずっと変わらなかった。いつ知ったか、それを悟らせないほど変わらず、「ディルク」と呼んで、媚びるでもなく、いつでも穏やかに微笑んだ。

彼の夢に対しても、困惑するのでも笑い飛ばすのでもなく、応援してくれると言った。

ディルクが皇族の生まれだからと言うのではなく、「ディルクだから、ディルクならできる」と――。

これはひとりよがりな思い込みだろうか、とディルクは自問する。

彼女への特別な感情がそう思わせるのか。

否、逆だ、とディルクは心の中で首を振る。そんな彼女だから惹かれずにはいられなかったのだ。

それに、とディルクは内心小さく呟く。

彼女とディルクは似ている。

貴族の中にあっても、平民の中にあっても異端の存在。

自分だけではない、何故かテアにもそんなところが感じられる。

だから、なのではないか。

彼女がディルクを見つめる、その眼差しが他の人間と異なるように思えるのは……。

ディルクは顔を上げ、ピアノに向かうテアをひたむきに見つめた。

同じ学院にずっといたのに、しばらく見ることも避けていた彼女のことを。

ここならば、こうしていても許されると思って。

久しぶりの彼女の音に、こんなにも胸が満たされる……。

やがてまた、一曲が終わる。

店の中は曲の余韻を残すように温かなざわめきに満ちていて、次はあの曲で、という声がちらほらと上がった。

その中で。

「今度はヴァイオリンとの協演でどうでしょう?」

隣のヴィクトールが立ち上がって声を上げたので、ディルクは驚いて彼を見上げた。

「ここに将来有望なヴァイオリニストがいます。聴いてみないと損ですよ。今ならタダで聴けますからね。将来聴こうと思ったらお金取られちゃいます。ピアニストさんも、きっと楽しいと思いますが」

その言葉に、周囲が楽しそうに沸いた。

「おっ、ヴィックが言うなら相当うめーんだろうなぁ」

「いいじゃねーか、坊主もにーちゃんもやれよ!」

「期待してるぜ!」

ディルクに向けられる笑顔に、躊躇いを持って彼はテアの方を見、またヴィクトールに視線を戻した。

「ほら、行っておいでよ」

と促されて、ディルクは柔らかな声音に逆らわず立ち上がる。

ケースからヴァイオリンを取り出し近付いていくと、おそらくディルクと同じような顔で茫然としているテアと目が合った。

「その……、良いだろうか?」

ディルクが声をかけると、はっとしたように頷かれる。

その唇が、曲は、と問うように動いた。

「……昨日も弾いていたという、タイスで」

テアはまた首肯し、ディルクが調弦を終えるのを待った。

演奏の準備が終わると、店内のざわめきが少しずつ消えていく。

ヴィクトールの煽りが客たちの期待を高めたのか、先ほどまでとは異なる、息を潜めて待つような緊張感のある空気に包まれた。

演奏者たちは視線を交わして、頷き合う。

テアが鍵盤に指を落とし、それにディルクが続くように、始まった。

「切々と」と、ヴィクトールが形容したその音は、見事にディルクの音と重なって、ぐっとディルクは込み上げる感情に蓋をするように奥歯を噛みしめる。

優美で甘美な旋律は、恋の美しさを描くようにも思えるのに、二人が奏でる音楽には、まるで身を切られるような切なさが滲む。

二人で演奏するのは初めての曲だから、完璧な演奏とはもちろんいかない。

しかし音のそのすれ違いも、切なる感情の発露のように思われて、悪くはなかった。

――テアも、こんな風に誰かを想って苦悩するのだろうか……。

それを思えば、ますます胸の内は苦しくなった。

けれど、だからこそ、このままずっとこうして彼女と演奏を続けたいと願った。

この時だけは、ディルクがテアを独占していられるから……。

最も強い自身の素直な想いを、ディルクは自覚した。

――やはり俺は、ここにいたい。テアの隣に……。

彼女を失いたくないから離れなければならない、けれど側にいたいと、その葛藤も本物で、今も胸に巣食う。

だが、心は当然のごとくに、彼女の隣にいる未来を望み、そちらに傾きつつある。

――どうか、もう少しだけでもいい、猶予をくれ……。彼女との時間を、もう少しだけでも――

ディルクは切なく強く願いながら、最後のフレーズを弾き切る。

テアとの演奏が終わる度、この音を途切れさせたくないのにと、そう思うが、それも叶わず、今もまたテアと視線を交わして、音を響かせて、終えた。

続くように、店内に拍手喝采が上がる――。

それは通常のコンサートとは異なる形での賞賛であったが、ディルクは勇気づけられたように感じて、テアと、そして聴衆に微笑みを向けたのだった。




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