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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第6楽章
70/135

対峙 15



試験前の休日の午後。

ディルクは学院を離れ、隣街との境界近くにまで足を運んでいた。

そこに、ディルクが常連として利用するヴァイオリン工房があるのだ。

工房といってもそこは、ヴァイオリンを作る場というだけではない。ヴァイオリンのメンテナンスや修理、ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロといった弦楽器やその部品の販売まで行っている。

ディルクは当然、自身の手によるメンテナンスをこまめに行っているが、年に数回はプロにも見てもらうことにしており、その時に利用しているのがその工房だ。

何度も訪れているので足取りに迷いもなく到着すると、ディルクは躊躇いもなく工房のドアを開いた。

「いらっしゃい」

ドアを潜ると、迎えてくれるのは芳しい木の香りと、柔らかいテノール。

入ってすぐは部品などを販売しているスペースで、実際に作業を行う工房は小さなカウンターの奥にある。

そのカウンターの中から穏やかに客を迎え入れるのが、この工房の若い主、マイスターであるヴィクトール・バインリヒだ。

彼の仕事に対する真摯さは確かなもので、ディルクは彼の腕を信頼し、いつも自身のヴァイオリンを預けている。

今日訪れた目的はメンテナンスではないのだが、その信頼があって、今日もここに来たのだった。

ヴィクトールも、ディルクを認めると、なじみの客に対する親しげな笑顔になる。

柔和な風貌はディルクと同い年といっても通じるほど若々しいが、実はディルクよりも一回りは年上という話なので、もう三十代。

黒々とした髪に濃緑の瞳を持つヴィクトールは小柄で、ディルクと並んで立つとむしろ彼の方が年下に見られるかもしれなかった。

「久しぶり……というほどでもないけど、今回もメンテナンスかな?」

「いえ、実は、学院で出された課題で、いくつかお尋ねしたいことがあって、お話を窺えればと足を運んだんです。連絡もなしに、申し訳ないとは思いますが」

そう告げて、土産に持ってきた菓子を差し出してくるディルクに、ヴィクトールは気さくに笑うと、ディルクからそれを受け取り礼を言った。

「ディルク君なら大歓迎だよ。今は急ぎの仕事もないし、他のお客様もいないしね。それならひとまず、こっちに」

「ありがとうございます」

ヴィクトールは店の隅に置かれた簡素な椅子を引っ張って来て、ディルクに勧めた。

工房の中に他にも二人、年嵩の男性が作業していて、ディルクは彼らにも声をかけてから、勧められた椅子に腰かける。

一度工房の奥へ姿を消したヴィクトールは、すぐにティーカップを二つ持って戻って来て、片方をディルクに手渡した。

「ごめんね、こういうのはあんまり得意じゃなくて。口に合わなかったらそのまま残してくれればいいから」

「いえ、そんな」

首を振って出された紅茶を一口すする。

ヴィクトールの言葉は謙遜ではなかったが、飲めないほどでもない。

ヴィクトール本人もカップに口をつけて首を捻り、まあいいか、などと呟いている。

ちょうどいいからとディルクが持ってきた土産も箱が開かれて、ヴィクトールは美味しそうにそれを頬張った。

そうして二人して少しゆっくりし、ディルクがどう話を進めていこうか考えていると、ヴィクトールの方から切り出してくれる。

「それで、課題って言ってたけど、試験前にわざわざここまで足を運んでくれるなんて、一体どういうものが出されたのかな?」

仕事柄、学院の行事やスケジュールに関しても把握しているのだろう。

首を傾げてくる仕草に幼いものを感じてディルクは苦笑を洩らしつつ、率直に話し始めた。

「ええ、それなのですが、レポートでヴァイオリンの材質やその変遷についてまとめることになりまして――」

ペンと紙を用意しながら、ディルクは課題の詳細と、自身がまとめようと考えている内容、それに関する質問をざっと並べていく。ディルクも自分で調べられることは既に調べてきていて、ヴィクトールに聞きたい内容というのは、本にもなかなか載っていないようなことだ。

ふむふむと大人しくそれらを聞いていたヴィクトールは、納得して頷くと、「こういう内容も吟味してみるといいんじゃないかな」とアドバイスもまじえつつ、質問にひとつずつ丁寧に答えていった。

これまでヴァイオリンを仲介にして工房主と依頼人という立場で交流を深めてきた二人だったから、それからヴァイオリンの話題で大いに盛り上がる。

時折話が脱線したり、工房に訪れた客のためにヴィクトールが中座することもあったが、課題のためとはいえ楽しく時間は過ぎ、陽が暮れる時刻になるのもあっと言う間だった。

工房にいた二人の男性もやがて帰ってしまい、ディルクもそろそろ暇を告げなければと思うのだが、ヴィクトールの温和な雰囲気にゆったりと落ち着いてしまって、帰れという風でもないので、立ち去り難く長居してしまう。

それは、一人になってしまえば余計なことを考えてしまうと分かっていたからかもしれないが。

「……ディルク君、なんだか、痩せた?」

課題のことで聞きたいことは全て聞き終え、窓の外が暗くなってきた頃、やがてヴィクトールはそう口を開いた。

その予期せぬ内容に、ディルクは目を丸くする。

「そんなことはない、と思いますが……。そう見えますか?」

「うーん、前回の十二月のメンテナンスの時と比べると、何となくだけどね。少し顔色も悪いような気がするよ。試験だからって、無理をしてない? 君のヴァイオリンを見てると分かるけど、ディルク君は本当に真面目みたいだから、逆に心配だよ」

「すみません……、ありがとうございます。ですが、大丈夫です。確かに、少しばかり根を詰め過ぎているかもしれませんが」

「君の少しが他の人にとってどれくらいなのかっていうのが微妙なところだけど、本当に無理はしないようにね」

「ええ。……それより、今日は長くお時間を割いていただいて、ありがとうございました。助かりました」

心配顔のヴィクトールにほだされて、これ以上ここにいては余計なことまで口にしてしまいそうだ、とディルクはようやく重い腰を上げることにした。

「おかげで課題も上手くまとまりそうです。今回の礼は、必ず」

「そんな、言ってもらう程のことはしていないよ。こっちこそ、雑談ばっかりしてたような気がして、何だか悪かったね」

「いえ、楽しい時間でした」

微笑して告げるディルクをヴィクトールは見上げて、そうだ、と口にした。

「もしディルク君の時間が大丈夫なら、お礼の一曲、今聴かせてくれないかな。君に会って、一度も演奏を聴かないというのも何だか妙な感じだし」

メンテナンス後、必ずヴィクトールは持ち主に目の前で演奏してもらって、出来を確認してもらうことにしているのだ。ディルクのメンテナンスの際も、その例に漏れない。

「……実を言うと、俺もここに来るのにヴァイオリンを持たないのは妙に感じて、持ってきてしまったんですよ」

同じような違和感を二人で覚えていたのだと分かり、ディルクは苦笑して、足元に置かれた彼のヴァイオリンケースに目をやる。

「ですが、俺の演奏一曲くらいで、いいんですか? 他にもあれば言ってください。随分と長くお邪魔してしまいましたし……」

「うーん、それがあれば十分なんだけどね。お菓子も頂いちゃったし。もし思いついたら追加することにするよ」

「では、待っていることにします。曲目は、何かリクエストは?」

「ディルク君の、弾きたいもので」

にこにこと笑って促される。

いいのだろうか、と思いつつ、ディルクは一曲を思い浮かべて立ち上がり、調弦を行ってから、おもむろに弓を弦にあてた。

彼が選んだのは、「タイスの瞑想曲」と呼ばれる有名な曲だ。

歌劇「タイス」の中で演奏される間奏曲で、ディルクはその美しいメロディを、葛藤と苦悩を秘めながら、弾く――。




やがて静かに音が夕の闇に吸い込まれ消えて、余韻を感じながらディルクが弓を下ろすと、ヴィクトールは手を叩いて彼の演奏を賞賛した。

「とても良かったよ! 何だか切なくて、胸にぐっとくるような演奏だった」

「少しでも満足していただけたなら、良かったです」

「少しどころじゃないよ。耳が離せなかった」

ヴィクトールは力説して、ふと思い出したように言葉を続けた。

「そう言えば……、昨日もたまたまこの曲を聴いたんだけど、その時の演奏も、本当に切々という感じだったな。この曲も結構たくさんの人の演奏を聴いてきたけど、本当に人によって受ける印象がまるで違うんだから面白いよね、音楽って」

「ええ、俺もそう思います。……昨日もこの曲を、というのはやはりメンテナンスの後で?」

「いや、それが、ヴァイオリンじゃなくてね、ピアノで弾くのを聴いたんだよ。時々ここの帰りに立ち寄る酒場があるんだけど、そこにピアノがあって。いつもはただ置きっぱなしなんだけど、マスターが本当にたまーにね、弾くんだよ。それが昨日一昨日行ってみたら、若い子がいて、どうも一晩中ピアノの前に座っていて、お客さんからリクエスト受けたり、騒がしすぎるってことはないけど、いつもより賑やかにやってたんだ」

「ピアノ……で」

「良い腕のピアニストだったよ。それこそ、学院や宮廷楽団にいてもおかしくないくらいだと、僕は思ったね。曲もそれこそクラシックに限らずたくさん知っているみたいだったし、一晩中弾き続けられるくらいピアノが好きなんだね」

それほどのピアノ好きと聞いて、ディルクの脳裏に思い浮かぶのはたった一人で、心がそれだけのことにかき乱される。

ヴィクトールが口にする人物が彼女であるはずはない、のに。

「……俺も、その場で聴いてみたかったですね。ヴィックさんがそれほどまでに言うピアノなら」

「それなら、一緒にこれから行く?」

「え?」

提案に、ディルクは目を瞬かせた。

「明日までは来るみたいな話を聞いたから。多分今夜も、行けばいるんじゃないかな。……と、試験前の学生さんを飲みに誘うのはさすがにまずいか。寮にも確か、門限とかあったよね?」

「いえ、大丈夫です」

ディルクは首を振っていた。

先ほどの台詞は嘘ではなかった。興味がわいたのは本心だ。

様々なことを考えすぎて眠れぬ夜を過ごすなら、たまにはそんな気まぐれな行動をしてみるのもいいだろう。

確かに寮には門限があって、外出届を出していないから遅くなれば出入口の鍵を掛けられてしまい夜は帰れなくなるが、一晩外で過ごしてもディルクに支障はない。

寮長であるディルクが無断で外泊するのも問題があるといえばあるだろうが、その辺りはライナルトが上手くやってくれるはずだし、一晩留守にするくらいなら、そう心配をかけることもないだろう。

「同行してもいいのなら、行って聴いてみたいと思います」

「お客さんも、ディルク君が一緒にヴァイオリン弾いてくれたりしたら喜ぶかもね。それじゃあ行こうか」

ヴィクトールは、それと決まったら早速と笑い、厚い外套をかぶって、ディルクを促した。

工房をしっかり施錠したヴィクトールと連れ立って、ディルクは宵闇の街を歩いていく。

出かける際には思いも寄らなかったことになったが、久々の冒険――というほどでもないが、そんな気まぐれに、少しでも胸が躍った。

ライナルトにも助言されていたのだが、やはり無理矢理にでも外に出てみた方が、少しはすっきりしていたかもしれないな、と反省する。

最近はずっと鬱屈を胸に抱えていて、こんな気持ちになることもなかったから――。

「もうすぐに着くよ。ほら、見えてきた」

ヴィクトールがよく利用するという酒場は、工房から徒歩十分ほどの距離にあった。

宿屋や食堂が複数並ぶ通りの、一軒だ。

ぼんやりとした明かりが、そのドアを照らしている。

そこから漏れ聴こえてくる音に、ディルクは思わず、足を止めていた。

脳裏に鮮やかに浮かんできた光景は、ずっと昔の夏の夜のもの。


道を埋め尽くす人波、並ぶ露店。ざわりざわりと意味のない音と、知らない人間の熱が自分のすぐ側を通り過ぎていく。その中で聴こえてきた、たったひとつの音。少女の奏でるピアノ。心はその音に吸い寄せられるのに、身体は心についていけない。

――ようやく、見つけたのに――


「ディルク君?」

遠い昔に束の間心を奪われ、茫然と立ち尽くしていたディルクは、穏やかな声に我に返った。

「どうかした?」

「いえ……、ここから聴こえるだけでも、良い弾き手だな、と……」

取り繕うように言った、その言葉も嘘ではない。

聴こえてくる曲のタイトルをディルクは知らなかったが、弾むようなテンポの、楽しげな曲だ。思わず、身体を動かして踊ってしまいそうな。

過去に聴いた「月の光」とはまるで違う曲調。けれどあの時のことを思い出したのはどうしてだろう。

あの時の少女が、この中でピアノを弾いているとでもいうのだろうか。

「それなら、近くでもっとじっくり聴いてみたいよね。早く行こうか」

ヴィクトールが酒場のドアを開け、促してくるのに、ディルクは鼓動が早まるのを感じながら、店内に一歩を踏み入れ、見つけた。

一歩入れば、店の内部は全て見渡せる作りになっている。正面にL字型のカウンターと、複数のテーブル席。席はすでにそこそこに埋まっている。そして店の奥に置かれた黒いピアノ。

そのピアノの前に座るのは、ディルクのよく知る人物だった。

ディルクの胸を占拠し続けている、"彼女"。

錯覚か、幻覚かと一瞬自身を疑ったが、違う。

「ディルク君?」

また、ヴィクトールが訝しげに見上げてくる。

今度はすぐには答えられず、ディルクはただ声にならない声で、呼んだ。

「……テア……」




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