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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第2楽章
7/135

二人 2



「……テア」

名前を呼ばれて、テアは顔を上げる。

昼休み、彼女は図書館の一隅に座って本を広げていた。

既に彼女の昼休みの行動は、昼食後図書館へというものに決まりつつある。

「ディ……、ルク」

顔を上げた先にディルクの姿があって、驚きに思わずテアは立ちあがっていた。

「敬称なしで呼んでくれたな」

ディルクが嬉しそうに微笑んで、一瞬テアはそれに見とれた。

「いえ、あの……すみません」

「謝るところではないが? これからもそう呼んでくれ」

テアは少し困ったような表情を見せたが、こくりと頷く。

「……はい。……あの、こちらには何か調べ物をしに?」

「いや、お前に会いにきた」

「え……、」

ディルクに促されてテアはまた座り、それを見届けてからディルクもテアの向かいに座った。

人の少ない静かな図書館の隅で、二人は小声で言葉を交わす。

「読書の邪魔をしてしまってすまないが、少し話をしても良いか?」

「はい」

わざわざ足を運んできてくれたのかと鼓動を速めながら、ディルクの心地良い声音にテアは耳を澄ませる。

「今日も泉の館に来るか?」

「はい、そのつもりでいたのですが……」

今日は立ち入りできないのだろうか、とテアは悪い方に考えた。

テアの表情からそれを読み取って、ディルクは苦笑する。

「それならいいんだ。実は、お前に来てほしいと思っていて、」

「え……」

「またお前のピアノを聴かせてほしい。駄目か?」

「い、いえ」

真っ直ぐにテアを見つめて語るディルクの言葉に嘘はなく、テアは顔が熱くなった気がして俯いた。

「また……、行かせてください」

「良かった。……それで、もうひとつ、練習の邪魔をしてしまって申し訳ないのだが、この曲を弾いてもらえないだろうか」

差し出された楽譜を、テアは受け取った。

「『夜の灯火』……」

受け取った楽譜を、丁寧にテアは見ていく。

「……聴いたことはありませんが、綺麗な旋律ですね。ストーリーがあって……。どなたがつくられたものなのですか?」

「俺だよ」

「え……」

「その曲は俺が作曲したんだ」

「作曲もなさるのですか……」

テアは驚いて楽譜とディルクを交互に眺めた。

ディルクは短い間で彼女が知っただけでも、本当に様々な才能に恵まれている。

「そのピアノ譜をお前に弾いてほしいんだ。もちろん完璧でなくていい。弾けるところまでで構わない。頼まれてくれるか?」

どうして私に、とテアは不思議に思いつつも、この曲を弾いてみたい、とも思って、素直に頷いていた。

「はい。弾かせてください」

「――ありがとう」

また微笑まれて、どきどきとテアは視線を逸らした。

ディルクはとても美しく、眩しいひとだ。

自分などが直視してはいけないような気にすら、なる。

「では放課後に、よろしく頼む」

「はい」

二人は約束を交わして別れ、テアはその後本には手をつけずに、じっと渡された楽譜を見つめていた。





放課後まで、あっという間だった。

ディルクが全ての用事を終えて、少し遅くに泉の館に向かうと、既にテアはピアノの前で練習を始めていた。

「お疲れ様です」

ディルクが入っていくと、テアは手を止めて笑顔を向けてくれる。

何となくほっとして、ディルクはお前も、と手を上げた。

「それでは早速、弾きますか?」

「ああ、頼む」

「はい」

テアは深呼吸をして気持ちを落ち着けた。

ディルクの存在に緊張するが、それは不快なものではない。

テアはそっと、両の手のひらを鍵盤に下ろす。

――始まる。

ディルクは息を呑んで、その瞬間を迎えた。

浮き立つ心を表すかのような、テンポの良い始まり。

ふっ、と過去の情景が思い浮かんで、ディルクははっとした。

瞬く間に、その音に、引き込まれていく。

曲の中で、またその旋律に出会い、驚き、彼は魅入られる。

――ほとんど楽譜を見ていない……。もう暗譜したのか……?

彼はその旋律に近づこうとする。しかし、手を伸ばしても届かない。

ディルクは思わず、ヴァイオリンを手に取っていた。

彼は既に楽譜がなくともヴァイオリン部分を弾けるようになっている。

ディルクが不意に奏で始めてテアは驚いたようだったが、ピアノを途中で止めはしなかった。

――こんな風に誰かと音を重ねることができるなんて……。

楽しい――、とテアは口の端を柔らかく上げる。

ディルクの音は、力強く、それでいて優しい。

ぴたり、とテアの音に寄り添って響いていた。

そうして、旋律の表すストーリーは進む。

やがて消えゆく音。

音は、温かな眼差しの方へ去っていこうとする。

行くな、と「彼」は引き止めようとする。

音と「彼」の視線が……交わる。

不可思議な交錯。

温かく、優しく、悲しく、寂しく、切ない視線が交わり、やがて全てが闇に溶けゆく。

しかし、その闇の中には……光、が。




ゆっくりと最後の一音が消えていく。

二人はしばらく音の余韻に酔った。

言葉に表せないこの感情は……何だろうか。

ディルクがゆっくりとテアの方へその瞳を向け、そっと顔を上げたテアと視線が重なると、ようやく時が動き出したようだった。

「あの……、ありがとうございました」

先に口を開いたのは、テアだ。

「こんな演奏ができるとは思わなくて、私、何と言っていいのか、とても……」

「礼を言うのはこちらだ。……お前がこの学院に入学してくれて良かった」

「……!」

そんなことを言ってくれる人がいるとは思わず、テアは息を呑み、胸が熱くなるのを感じた。

「テア……、俺とパートナーを組んでくれないだろうか」



これは夢なのかもしれない。

テアは思った。

あんなにも満たされるような演奏ができて。

しかも音を重ね合わせたのは尊敬するディルクで。

その彼が、テアをパートナーにと……。

テアは冷たい鍵盤に片手だけでそっと触れて、これは夢ではないと現実を認識した。

ディルクの真意を確かめるように、じっと彼の瞳を見つめる。

彼の言葉が本心からそう望んでくれているものならば、本当に嬉しいと思う。けれど素直に喜べない慎重さが、彼女にはあった。

「……どうして、私を望んで下さるのですか」

確かに先ほどの演奏は呼吸が合っていたけれども、それだけで、誰からも慕われているようなディルクがテアをパートナーにと思うのだろうか。

ピアノが上手い人間なら、テアでなくともこの学院には山といるはずだ。

それなのに、何故テアを選ぼうとするのか。

「……この曲のピアノには、どうしても譲れないイメージがあるんだ」

ディルクはテアの問いに真摯に答えた。

「以前からずっと、ふさわしい弾き手をと探していたが、見つからなかった。だが、昨日、お前のピアノを聴いて直感したよ。俺が探していたのは、この音だ、と……」

学院になかなか馴染めずにいるテアを憐れに思うからではなく、彼自身がテアとパートナーになりたいと望んでいるのだと、ディルクは言う。

「この曲を、俺はコンサートでやりたいと思っている。それにはお前が必要だ。テア、俺のパートナーとして、共に音楽を……」

「……!」

手を差し出され、この手をとっても良いのだろうかと、テアは逡巡した。

ディルクのような輝かしい存在に、これ以上自分のような人間が近づいて良いのか――。

だが、ディルクはテアを求めてくれている。

テア自身、彼に憧れ、また先ほどの演奏は今までに経験したことのない心地よいものだった。

彼とまたあんな演奏がしたい……。

この手を取りたい……。

テアは躊躇い――けれどやがて、その手をとった。

「……私でよければ、あなたと共に……」

テアは立ち上がり、二人は握手を交わした。

「ありがとう、テア。これからよろしく頼む」

「こちらこそ……」

ディルクは笑顔でテアを見つめていた。

眩しい笑顔にテアは視線をそらすように俯いて、握った手のひらの温度を感じた。




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