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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第6楽章
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対峙 14



講義棟を出、寮に戻りながら、テアはエッダとの対峙を反芻し、よく耐えたな、と無感動に胸の内で言葉にした。

一度は封印したはずの憎悪が溢れ出るのは容易なことだった。

あの、ナイフの冷たい輝きで、彼女の、エッダの命を奪ってやりたかった。

テアにとって最も大切なかけがえのない存在を奪っておいてなお、ようやくできた居場所も何もかもを奪おうとする彼女が、憎かった。

エッダを前にして無表情の仮面を外さなかったのは、外せなかったのは、それをしてしまえばそんな凄まじいまでの憎悪がテアの内から外へ溢れかえってしまうと、分かっていたからだ。

――あの頃の私であれば、こうはいかなかっただろう……。

たったひとつのかけがえのないものを失ったばかりの、あの頃であれば。

憎悪の衝動に従うことに、何の躊躇いも覚えなかっただろう。

だが、今は違う。

いや、あの時も本当は同じだった。ただ、あまりにも大きな喪失に、それ以外のことを考えられなかっただけで。

あの頃も今も、テアを大切に思ってくれる人たちがいる。そしてテアも、同じように思っている。

テアがその手を血に染めることは、彼らを悲しませてしまうこと。

それは、想像に難くなかった。

それだけは、それだけが、嫌で、テアは踏みとどまっている。

彼女は、エッダは、その想像を少しでもしなかったのだろうか。

テアはそれが不思議でたまらない。

そもそも、テアがいなくなったからといって、その後すぐにディルクがエッダを選ぶかなど、分からないではないか。

他の女性が現れたら、また同じことを繰り返すのか。

それともテアさえいなければ次はエッダ、という自信があるのか。

一時でも他の女性が彼の隣にいるのが我慢ならなかった、そういうこともあるのだろうか。

テアは先ほどのエッダの様子を思い返す。

尋常ではなかった。誰に見られるか分からない場所であんな行為に及ぶなど、通常ではあり得ないことだ。幸いなことに、誰にも見られなかったようではあるけれど。

心当たりはディルクのこと、もしくはテアの出生に関わること、二通りが浮かんだが、後者のことであのような取り乱し方をするとは思えない。

何より彼女の反応を見て確信を持ったが、ディルクと一体何があったのだろう……。

そのことを考えると、胸が締め付けられるように痛んだ。

ここにあるのは復讐心だけではない、とテアは未だ落ち着かない自身の鼓動を感じながら思う。

相手を消してしまいたいと思うのは、エッダだけではなくて。

その理由にディルクの存在があるのも、エッダだけではないのだった。

本当に求める唯一を手に入れるためなら、多少の犠牲を出してもいい、エッダはそう思って、ディルクがその行動をどう捉えるのか、後回しになってしまったのかもしれない。

それを少しでも理解できることに、テアは嫌悪の念を抱く。

これが恋というものなのだろうか。

こんなに辛苦のあるものを、この胸に抱かなければ良かったのに……。

彼女も――自分も。




テアは寮の部屋へ戻り、ローゼがまだ帰っていないことにほっとした。

勘の良い彼女のことだから、先ほどの余韻が残っている状態で会ってしまえば、何かあったとすぐに気付かれてしまうことだろう。

それに、何よりも。

鏡で首元を確認して、テアは嘆息した。

そこまで目立つほどのものではないが、エッダに首を絞められた指の痕が残ってしまっている。

こんなものをローゼに見られたら、大騒ぎだ。

一体何があったのかと問い詰められ、その場を誤魔化せたとしても、ローゼは犯人を捜し出して懲らしめることを諦めないだろう。

昨年末の事件のことも、学院長からディルクへ話がいき、ディルクからそれを聞いて、納得できないと憤慨していた。

ディルクたちがその話をしていた時、テアはその場に居合わせなかったが、どうやらライナルトが上手く宥めてくれたようで、それがなければ、ローゼは滅多に使おうとしない権力を使ってでも犯人に辿りつこうとしたかもしれない。

確かにあの時は本当に、一歩間違えば死人が出る事態になっていたかもしれないのだから、彼女の主張も分かるし、テアも心配されているというのは承知しているのだが。

少なくとも、今はまだ、決して知られるわけにはいかないのだ。

――さて、どうしましょうか……。

首に何かを巻いておくか、化粧でもして誤魔化してみるか。

だがそれでは、何かを隠していると見せつけるようなものだ。

困った、と途方に暮れながら、テアは時刻を確認した。

ここ最近の放課後、部活も試験前で休みになり、ローゼは常以上にフルートの練習に勤しんでいる。

部屋に戻ってから学科試験の勉強もしているが、今回のフルート専攻科二年の実技試験課題曲は難易度の高いもので、苦戦しているようだ。

ライナルトと共に楽譜に向き合う様子を、テアは何度か目撃していた。

常と同じであれば、彼女がこの部屋に帰ってくるまで、もう少し時間がある。

それまでに対策を考えなくてはなるまい。

隠しておきたいのはローゼだけにではない。他の生徒や教師にも知られるわけにいかないが、一体どんな方法を使えば、上手く隠し通せるだろうか。

簡単な方法はやはり包帯を巻くことだろうが、きっとローゼには心配をかけてしまうし、目立つ。上等な言い訳とは言えない。

「いっそ……」

――痕が消えるまで、知人と会わずにいればよいのではないか。

ブランシュ家に匿われていた時のように、引きこもるというのは、今の場合難しい。

この寮の部屋はローゼとの二人部屋であるし、学院で身を隠せるところなど簡単には思い浮かばない。

だから、その逆を行えばいいのだ。

痕が消えるまで。そう、試験が始まるまでの、何日かだけでも。

ここから、出ていけばいいのだ。

それがあまりにも魅力的で、心から離す気にならず、そのことに自分で驚いた。

試験は一週間かけて行われ、最終日に実技試験がある。その試験週間まであと三日。それだけあれば、この痕も薄れていることだろう。

試験日一日目にテアが受ける学科は、試験でなく全てレポート提出で代替することになっていて、そのレポートは既に完成させてあるから、三日と言わず四日空けたとしても問題ない。

試験前には戻る、と言っていたエンジュからも連絡がないままだ。それもあって実技試験のことでテアが悩んでいるのをローゼは知っているから、息抜きという名目で外泊してみても、やはり心配はかけてしまうだろうが、エッダのことにまで話が及ぶことはないはずだ。

数日間試験勉強がまともにできないのが辛いところだが、これまでピアノの調子が乗らなかった分、学科試験の勉強はできた、と個人的には思う。

あとは本番でどれだけその成果を出せるかどうか、と開き直ってしまえばいい。

これ以外にないとテアは思いこむように決めてしまって、時間もないからと、早速必要最低限のものだけを、クローゼットの奥にしまいこんであった小さなバックパックの中に詰めていく。眼鏡も外して、ケースと一緒にその中へ。

その手際はかなり慣れたもので、そう時間もかからずに荷造りは終わってしまった。

次は着替えだと、それもテアはてきぱきと済ませてしまう。さすがに制服で何日も外をうろつくわけにはいかないから、街を歩いても問題ない格好になった。

だがそれに、一般の女性として、という形容がつくなら、少し話が変わってくるかもしれない。テアは、普段ローゼと外出する時のようなワンピースやスカートではなく、下はパンツ、上はシャツにベストに上着という、普通街に出るのに女性が身を包むファッションとしては、一般的でない出で立ちだ。

何故テアがそんな服装一式を持っているかというと、何かあった際に逃げやすい……動きやすいものが必要だろうという考えから、入寮の際、念のため持ってきてあったのである。

普段であれば使わないようなバックパックもその時のためのものだ。

その上テアは鳥打帽をかぶり、長い髪もその中に隠してしまった。

胸のふくらみも抑え込んでしまえば、一見、街にいそうな少年、といった風情だ。

夜も外で過ごすつもりであるのに、女性の格好では危険なので、鏡に映り込んだ己の姿に、テアはこれなら大丈夫だろうと頷く。

それにさらに、首元を隠すようにスカーフと、防寒のためのマフラーも巻きつけた。

そこまでしてしまうとペンを手に取り、ローゼに伝言を残しておく。

文言に悩んだが、簡潔に「息抜きに外に出てきます。試験には間に合うように戻るので、もし何日か帰らなくても心配しないでください」とだけ書きつけた。

それから手袋をはめて、靴も動きやすいものに履き替える。

後は、出掛けてしまえばいいだけだ。

全ての準備を終えてしまって、先ほどまでとは打って変わった展開に、いっそ苦笑するしかない。

だが撤回の意思はまるで起こらず、早々にテアはバックパックを持って部屋の外へ出た。

今のテアを見て、すぐにそうと分かる生徒はほとんどいないだろう。

誰かとすれ違い不審に思われた時にはいくらでも言い逃れすることはできるが、面倒なので女子寮にいる間は見とがめられたくない。そう思いつつ、制服を着ている時よりもむしろ堂々とした態度で、テアは廊下を進んだ。

門限時間より帰宅が遅れる際は、寮の入り口の施錠の関係で管理人に届け出が必要だが、寮の鍵が空いている時間に出入りするならば書類提出は必要ないから、管理人室のドアは横目で見るにとどめる。

これが所謂貴族のお嬢様であったりすれば、外出や帰宅がチェックされていたりするのだが、平民であるテアはそういう点では扱いが緩い。後見人がそういう点で厳しくないというのもあり、信用されているとも感じて、素直にありがたいと思った。

そのまま特に誰とすれ違うこともなくテアは寮を出ると、人が多い正門ではなく裏門の方へと向かった。

裏門にもしっかりと警備の人間が待機しているが、学生証をちらりと見せ、不審に思われないようテアは至極当然という顔で門をくぐる。

学生証をまじまじと見られていれば性別欄で不審な顔をされたかもしれないが、気をつけてという言葉だけで終わって、ほっとした。

おそらく学院長からの通達で、警備の人間は全てテア・ベーレンスという名前を把握しているだろうから、その点でも安堵せずにはいられない。

ローゼへの言い訳と同じものを使えるので外出のことを知られるのは構わないが、この時点で学院長を呼ばれてしまえば引きとめられてしまう。

ここにまた帰ってくる時であれば首の痕も消えているはずだから、その時には警備に声をかけられても問題はないのだが……。

そうしたことを考えつつ、学院から離れるテアの足取りに迷いはなかった。

勢い任せの外出だったが、行き先は一応決めてあったのだ。

だがここからは結構な距離があるので、徒歩では随分かかってしまうかもしれない。

――それも、いい。

テアは軽い足取りで、赤く染まる空を見上げながら歩いた。

先ほどまでとはまるで違う、浮つくような気持ち。

――本当はずっと、こうしたかったのだろうか……。

テアは頬を打つ冷たい風すら心地良いものに感じて、目を細める。

深く息を吸って、吐く、その時胸にいっぱいになったのは酸素だけではなくて、解放感も満ちているように思えた。

ピアノと本と、大切な人たち。

それがあれば、後は何もいらないと思っていたけれど。

こうした時間も、必要だったのかもしれない。

今まで気付いていなかっただけで、こういうところも、もしかしたら母に似たのだろうか。

生まれつき病弱でベッドに寝付くことの多かった母は、ずっと外の世界を見て回りたかったのだという。

両親は厳しい人たちだったけれど、母の身体のために力を尽くしてくれ、世話をしてくれた人々も温かく優しくて、環境は満たされていた。

けれどそれでも、母は自分の足で外を見てみたかったのだと言った。

優しさに包まれていたのに息苦しかったのだと言った。

『だから今が一番幸せなの。あの時が不幸だったというわけじゃないけれど、選択も自由もなかったから』

『でも今はどこにだって行けるわ。何より、テアもいてくれるしね』

朗らかに笑った母の顔を思い出す。

それでも彼女は、自身の身体のせいで、"どこにでも"行けるわけではなかったのだけれど。

幸せそうな笑顔に嘘はなかったと思う。

――私も、息苦しかったのか……。

逃げ続ける生活からは一応、解放されているが、学院で様々な注目を浴び続けて。

覚悟して入学してきて、昔と比べれば何でもないことだと思っていたけれど、やはりそう簡単に割り切れるものでもなかったのだろう。

生活には何不自由ない、けれどどこか閉塞感を覚えてしまって……。

何という贅沢な、と自嘲するが、生まれた時から流れ者として生きてきたテアだから、ブランシュ家に匿われたり、学院で生活したり、そういうことの方が違和感が強い、という本音も確かにあるのだった。

――このまま、戻らなくても、いいかもしれない。

その可能性を、考える。

悪くはない、と頷く自分がいた。

立ち寄る先で、ピアノを弾いたり、本を読ませてもらったりしながら、思うがままにあてどなく旅を続ける。

それはとても素敵なことのように思えた。

何よりも、たったひとりの流れ者であれば、誰かを巻き込むこともない。

大切な人を失う恐怖に怯えることも、ない。

だが、それを実行するには少し、遅すぎた。

あそこには、学院には、自分のことを仲間だと思ってくれる人々がいる。

そして彼らのことを、テアも大切だと思う。離れたくない、とも。

――ローゼ、フリッツ、ライナルト……、ディルク……。

書き置きは残してきたが、それでも何日も戻らなければ、彼らはきっとテアの身を案じてくれるだろう。

それが、今回のこの外出の最大の問題点だ。

だが、早く戻ることは考えられなかった。

この首に残る指の痕を、彼らには決して見せるわけにはいかないのだから。

テアはマフラーに手をやり、首元のそれを少し強く掴む。

今こうして学院の外へ出ていることは、エッダとの勝負においては不利に働くのだろうな、ということをぼんやりと思った。

あの時、勝負、などと言い出したのは本当にふと思いついたことだったのだが、踏ん切りをつけるにはちょうど良い案だった。

ディルクへの特別な気持ちを、なかったことのようにしようとして、できなくて、どうしていいのか分からなくなりそうだったから。

もし、彼女に勝てたなら。それは、少しだけなら自分に猶予を与えてみよう、という自分の甘さへの寛容。

想いは封印しなければならない、それは分かっている。だから、ほんの少しだけ。せめて、友人という距離で、もう少しだけでも近くにいさせてもらえるように。

その猶予の間は、何が起ころうと、自分の命をかけても、大切な人をきっと守り抜いてみせるから。

もう少し気持ちが落ち着くまで、時間を。

けれど、彼女に負けたなら。その時は、潔くこの学院を去ろう。ディルクとも、会わない。少なくとも自身のことに決着がつくまでは。

勝負の決まりごとという理由があれば、諦められるから。離れることを、きっと決意できるから。

だからテアは勝負を持ち出した。

正直なところ、勝ち負けにはこだわっていない。いや、この場合負けた方がいいのかもしれない。いずれにせよ、その結果次第で決断する。それ以降は悩まない。そう決めてしまった。

あれだけ「あしながおじさん」や学院長には尽力してもらい、これからまた迷惑をかけてしまうかもしれないけれど、ずっと悩んで、迷って、どうにもならなくて、苦しくて、もうそんな日々に決着をつけてしまいたかったのだ。

そういう動機が大きかったから、実のところ、エッダが約束を守るかどうかはあまり重要視していない。あれだけ脅すように言ったのだから、少なくとも「テアに直接関わることはしない」という約束は、もう破られることはないだろう、とそこは幾分楽観視している。ああいう分かりやすい勝負を設けることは、エッダにとっても自身の気持ちを割り切るのに良いのではないか――、などということも、考えないではなかった。

賽は、どちらに転がるだろう。

勝ちか負けか。テアかエッダか。猶予か離別か。

「今それを考えても仕方がない、か……」

呟きながら、テアは歩み続けた。

陽が落ちた暗い道を、たったひとりで。




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