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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第6楽章
68/135

対峙 13



――何をやっているのだろう……。

その放課後、テアは自分自身に呆れながら、先ほど出てきたばかりだった講義室に戻っていた。

教師が講義室に来るまで読んでいた本を、講義が始まる際、机の下の物入れに入れておいたのだが、退室する際にそれを鞄に入れ忘れ、本だけ講義室に置いてきてしまったのだ。

レポートに使用する本だったのだが、一度図書館に行ってレポートを作成しようと本を取り出そうとして、ようやく忘れたことに気付き、今に至る。

本は誰かに持っていかれることもなくそこにあって、テアはほっと息を吐くと、鞄の中にそれをしまった。

顔をあげて、視界に入った窓の外には葉を失った木立がそびえ、ひとつの人影もない。

「……静か、ですね……」

数日前までは、試験前とはいえ、生徒会役員選挙を控え、候補者がサークルを巡ったり、帰宅者に向けてPR活動を行っていたりして、賑わしさのようなものがあったのに。

演説会以降は候補者の宣伝も禁止され、冬らしい静けさが戻ってきたように感じられる。

――生徒会選挙、か……。

と、テアは演説会でのディルクを思い出した。

あの時、とても久しぶりに、彼の姿をきちんと見た気がする。

距離をおけば、少しでも気持ちを薄れさせることができるのではないか、と思って。

距離をおいて、早く彼のいないことに慣れなくては、と思って。

テアは少しでもディルクとの接触を避けていた。

けれど、会わない日が続けば続くほど。

会いたい、という気持ちが募るのだ。

あの日、講堂のステージに立つディルクを見て、泣きそうなくらいに、テアは――嬉しくて、切なかった。

全く変わらない、むしろ強くなったような気さえする、自身のどうしようもない感情が、厭わしくて、辛かった。

感情を抑えつけることには、慣れていた、はずだったのに。

抑えつけて、でも膨れ上がって、両方の圧力に、心が押しつぶされてしまいそうだ。

そして、そんな風に、苦しいと思えば思うほど、ピアノの音も重く濁っていく。

どうしていいのか分からない――途方に暮れて、テアは以前と同じようには、ピアノに触れられなくなってしまっていた。

ピアノができないなら……、ここにいる、意味もない――。

逃げて、しまいたい。

そう思って、あしながおじさんの、優しい笑顔が浮かんで。

けれど駄目だと首を振る。

今度こそ、守られるだけではいたくない。

守りたいのだ。

だから……。




コツコツコツ、と静けさの中に小さく響いてきた足音に、テアの物思いは破られた。

余計なことを考えている暇があったら、今は勉強しよう――。

ぼんやりと立ち竦んでいたテアは、ゆるゆると鞄を持ち上げ、足をドアの方へ向ける。

その時。

殺気、のような強い何かを感じ、テアははっと顔を上げた。

その瞬間、彼女の目に映ったのは、まるで、血のような……、濃紅。

エッダ・フォン・オイレンベルク――。

テアがそう認識した時、彼女のしなやかな腕が伸び、テアは彼女に押されるように、床に背中を叩きつけられていた。



「……っ」

眼鏡が床に落ちて転がる音がした。

それを無意識に聞く中で、背中をしたたかに打って、テアは息を詰まらせる。

一瞬、もしかしたら意識が飛んでいたかもしれない。

その上、上から圧し掛かるようにされ、テアの首にエッダの細い指が巻きついた。

テアは身をよじるが、エッダの細い腕に、どこに潜んでいたのかというくらいの力で首を締め付けられ、なかなか拘束から抜け出せない。

「……どうして、あなたなの……。どうして私ではなく、あなたのような女を、ディルク様は――」

呼吸を制限され、息苦しさと戦いながら、テアは見た。

目の前のエッダの美貌が歪んでいる。

それでいてなお美しい、その琥珀色の瞳は燃えるようで、まるで蝋が溶けてでもいるかのように……、テアの頬に、エッダの涙が零れ落ちた。

「許さない、許さないわ……。あなたさえいなければ良かったのよ。そう、あなたさえいなければ……!」

エッダの言葉に、テアの頭はすっと研ぎ澄まされるように、冷えた。


エッダ・フォン・オイレンベルク。

――私の従姉妹。

――まるで、もう一人の私を見ているよう……。


許さない、そう、私は私を許せない。

そしてあなたたちを許せない。

あなたを許せない。

オイレンベルクの娘。

何故なら全て、私から大切なものを奪った者たちだから――。


テアは妙に冷めた頭で、利き手を伸ばし、護身用に身に付けていたそれを手に取った。

意識がぼやける、その中で、テアはそれを、エッダの喉元に突きつける。

「――手を離しなさい。エッダ・フォン・オイレンベルク」

かすれてはいたが、鋭利な刃物のような言葉だった。

エッダはそこでようやく我に返ったように、肩を揺らす。

エッダの喉元に突きつけられたのは、短いナイフだ。その冷たい感触に気付き、エッダの手が緩む。

テアはその隙を逃さず、エッダの身体を押しのけた。

解放された喉から身体が酸素を欲しがって、テアは何度か強く咳き込んだが、鋭いナイフの切先を、エッダから逸らそうとはしなかった。

エッダはそれを、蒼白な顔で見つめる。

彼女は先ほどまで我を失った状態だったのだろう――、今は、半ば茫然と、立ち竦んでいた。

「……そんな、もの……、私を、殺す気?」

「それはあなたにこそ問いたいですね。もうこちらには関わるなという約束だったはずです」

クリスマスのこともあり、最近の嫌がらせも度を越してきていたので、テアは護身用にそれを持ち歩くようにしていたのだ。

実際に使うことになる事態は、想定したくなかったのだが。

「約束――、あなた、全て、知って……?」

「あなたにとっては、残念ながら。ジョーカーを握られていながら、よく手出しができたものですね。……ディルクと、何かあったのですか?」

皮肉るように、嘲るように、テアを知っている人間が見れば愕然とするような冷ややかさで、テアは問うた。

今までテアと一定の距離を保っていたエッダが、こんな風に直接的な行為に及ぶということは、ディルクと何かしら決定的なことがあったのだろう。そう見当をつけることは、難しいことではなかった。

「……っ、あなたには、関係ありませんわ!」

ディルク、とこれ見よがしに呼び捨てを強調されたような気がして、エッダは険を露わにする。

「あなたが……、ディルクを傷つけるような行為さえしなければ、こちらとしても関係など持ちたくはないのですが」

「――私が、ディルク様を傷つける、ですって? そんなこと……」

「ありえない、とは言えないでしょう。神誕祭の時のことは、あまりにも軽率でした。あの時……、一歩でも間違えば、ディルクも傷を負っていたかもしない。悪ければ、命さえ」

「私はきちんと命じましたわ、あなただけをと。それ以外には手を出すなと……」

「だから? 命じればそれが全て忠実に実行されるとでも? 現にあなたは失敗した。知らないようだから言っておきましょう。あなたが差し向けた方々と私が対峙していた時、ディルクたちもその場にいたのですよ。あの時は何もなかったから良かったものの、彼らが持っていた銃が、ディルクを傷つけることだってあったかもしれない」

「……」

淡々としたテアの言葉に、エッダはいよいよ蒼白になった。全く考慮に入れていなかったというわけでは、なかった。けれど確かに、大切な人の安全を完全に確保していたわけでもなかった。狙いはテアだけで、存在が消えてなくなるとしたらテアだけだと、勝手にそう思い込んでいたのだ。

「今もそうです。あなたが私にしたことがどういうことなのか、本当に分かっているのですか」

エッダの社会的な存在が危ぶまれることをテアが心配するはずもないから、もう一つ頭に浮かんだ回答をエッダは口にする。

「……それは、あてこすりのつもりなのかしら? あなたを害せばディルク様が傷つくと? けれど勘違いなさってはいけませんわね、それはただあの方が人一倍優しいというだけであって――」

ふぅ、とテアは遮るように、わざとらしく嘆息した。

「そうですね、あの方はとても優しい……、言われるまでもなく、それが私でなくとも、少しでも親しくした人間に不幸でもあれば、悲しむでしょう。だから、それもありますが……。あなたは"約束"のことを忘れています。それに、私にとっては少々意外なことですが……、ディルクとのことで、自身を過小評価しているのでは?」

それとも、想像力が足りないだけでしょうか、とテアはあからさまにエッダを蔑視する言葉を吐いて。

「何を、言って……」

言い返そうとしたエッダは、テアの言葉の意味を理解しようと頭を回転させて、ようやく気付いた。

「ま、さか……」

凝然と、愕然と、テアを見つめる。

「あの約束を言い出したのは――あなた……?」

それにテアは無言で返したが、是、という答えをエッダは受け取った。

そうして、確かにあった、違和の正体を、今、エッダは掴んだ。

父がエッダの犯したことを知って、処罰を与えず、ただひとつだけを約束させた理由。

それは約束を提案した者が、ディルクに、「エッダの仕業だと知られないようにしたかった」ためだった、のだ。

それを知れば、ディルクは――。

思わずエッダは、その手で自身の口を覆った。

テアが保身のみを図るならば、エッダを遠ざける選択をしただろう。

そうしなかったのは、ディルクに真実を知られないようにするため。

何故父がテアの言い出した約束を受け入れたのか、そこは判然とせず、気にかかる点ではあったが、今はそんなことはどうでもいい。

テアはディルクを守ろうとしていた。

それならば、エッダがしたことは、しようとしたことは――。

先ほどよりもずっと強い敗北感がエッダを襲った。

けれど、それを認めたくない、と彼女の矜持が声を上げる。

「……なるほど、確かに、考えが足りなかったかもしれませんわね、私は……。けれどそれはあなたも同じ。テア・ベーレンス……、あなたが、あなたが分不相応にディルク様のパートナーになるようなことがなければ、ディルク様はこれまで通り過ごしていられた。あなたのせいで、いらぬ謗りを受けることになった。そもそもあなたがいなければ、ディルク様が余計なことで思い煩う可能性もなかった……!」

それは負け犬の遠吠えと言って差し支えないものであったが、テアの胸に突き刺さるものでもあった。

けれどテアは動揺を表には出さず、変わらない冷静な態度で口を開く。

「あなたが私のことをどう思っていようが構いません。ただ、お話ししたように、もうディルクのことは巻き込みたくない……。今後は今回のようなことは慎むようお願いします。今日のことは、私の胸の中だけにしまっておきますので……。あなたが真にディルクのことを想っているのなら、約束を守って、もう二度と私には近寄らないでください」

真にディルクのことを想っているのなら――。

その言葉が、エッダにはまるで、テアに本当に切りつけられたかのように痛かった。

その想いも、先ほど拒絶されたばかりだったから。

「……私も、好き好んであなたのような方に近寄りたいなどとは思いませんが」

それでも、口元を歪めて、エッダは嗤ってみせた。

「けれどディルク様のためを思う、と言うのなら、あなたもディルク様の側から消えるべきではなくて?」

「……それは、ディルクのパートナーになるのは今期限りにしろ、ということですか」

「本当に、思い上がりも甚だしい方ですわね。万一にでも、どうしてもう一度あなたなどとパートナーを組みたいと思うでしょう? この学院から消えなさい、そう言っているのです」

「それは……」

「守りたいのでしょう、あなたも。それならばそうすべきです。ねえ、本当は分かっていらっしゃるのでしょう? ディルク様の唯一の汚点……、それは今あなたが彼の人のパートナーだということ」

「私が消えたところで、その事実が変わることはないでしょう」

「いいえ、あなたがいればいつでも誰かが思い出さずにはいられない。けれどあなたさえいなくなれば、皆すぐに忘れてしまい、やがて何もなかったことになる……」

そうだろうか、と思う一方、そうかもしれない、とテアはエッダの言葉に内心、頷いていた。

それは単にエッダの願望かもしれなかったが、テアも同じようなことは何度となく考えたのだ。

自分さえいなければ、何事もなく、日々は平穏無事に過ぎていっただろう、と。

学院に入学してから、だけでなく。母が亡くなる前も、幾度自分がいない世界を想像しただろう。

テアは目を伏せ、逡巡を見せた。

いずれにせよ、エッダの提案はここでそう簡単に結論を出せるものではない。

ここに入学したのはテアの意思だが、背中を押してくれた人々の存在がある。それを疎かにすることはできない。

今のエッダはおそらく、テアへの悪意だけで言葉を発している。それに安易に頷いてしまうのも躊躇われた。

「ディルク様を巻き込みたくない、と仰ったではありませんか。どうしてそうしないのです? 守りたいと思いながら、結局は自分の方が大切なのですわね」

黙ってしまったテアに、エッダは弱みを見つけたような錯覚をした。

挑発するように、残虐な色を口の端に湛えて、エッダはせせら嗤う。

「自分から辞めることができないというのなら、私が引導をお渡ししてあげましょうか。そう……、例えば、そのナイフ。今私がこの部屋を出ていってあなたに襲われそうになったと主張したら、どうなるでしょうね? 駆け付けてきた方がそのナイフを見たら……、私のことを疑うなど、きっと思いもよらないことでしょう」

「……そう、でしょうね」

小さく呟くように同意して、自嘲を覚えながらも、テアは淡々と続けた。

「確かにあなたの言うことにも一理ある――。ですが、こちらにも簡単に頷けない理由があります。そういう手段をとられて、私とあなたが一対一になったと知られるのも、"約束"に関わっているのは私だけでないので、いささか問題がある……。引導を渡して頂けるというのなら、もっと平和的に願いたいものですね。……どうでしょう、私とあなたで勝負するというのは」

思いついたように、テアはそう言葉に出した。

「勝負?」

怪訝に問い返してきたエッダに、テアは明瞭に答える。

「ええ、そうです。……今度の試験で――、あなたが私より上位であれば、私は退学します。けれどその逆であれば、私はここに残り、もう一切あなたは私に関わらない。そういうのはどうです?」

「あなた……、その勝負に勝てるとお思い?」

見下すように視線を向けてくるエッダにも、テアはあくまでも冷静だった。

「それはやってみなければ分かりませんが……。そもそも、あなたが引導を渡して下ると仰ったのでしょう?」

挑発を返され、エッダはテアを一層強く睨みつける。

「……あなたが約束を守るという保証は?」

「ご心配なく。私はあなたとは違います」

それには強く反論できず、悔しさを堪えるしかない。

「……そう、それならもう一つ付け加えてもいいかしら? 退学の上、それ以降ディルク様と関わらない、と。そうでなくては意味がありませんものね?」

「構いません。それではこちらからも一つ」

テアはエッダの言葉を待っていたかのように即答し、エッダはテアが一体何を言い出すのかと身構えた。

「私がここに残るとなった場合、さりげなくでよいのですが、私を害しようとする生徒がいて、あなたが気付いた場合、それを止めさせて欲しいのです。正直、最近色々仕掛けられて困っているのですよ。迷惑をかけられるのが私だけならばよいのですが、そうではありませんし。広い人脈をお持ちのあなたなら、そう難しいことでもないでしょう?」

エッダは自身がやってきたことを全てテアに知られているのではないか、と若干窺うようにテアを見やったが、彼女はあくまで無表情を貫くばかりだ。

だが、付加された条件が無茶なものではないことに、癪ではありつつわずかに安堵する。

「……いいでしょう。私がそんな労をすることは、きっとないでしょうけれど」

エッダは頷き。

二人は、互いの間にあるものに決着をつけるために、ここで契約を交わしたのだ。



そして――。

「……それでは私は失礼しますわ。せいぜい、ここにしがみついていられるよう努力なさることね」

「……」

そんな捨て台詞を吐いて、去っていくエッダの背中を、見送って。

テアは手の中にあるナイフを見下ろした。

それを掴む自身の手は、力の込め過ぎて強張ってしまっている。

背中を打ちつけたこともあり、心配だったが、指を握ったり開いたりして、ピアノを弾くのに問題ないだろうと分かり、安堵する。

酷い疲労を覚えて座り込みたくなったが、あまりここに長居するのはまずい。

テアは素早く護身用のナイフを再び身に隠し、眼鏡を拾ってかけなおすと、近くに転がっていた鞄もさっと拾い上げた。

エッダと向かいあっていた最中も気にはしていたが、もう一度近くに人の気配がないことを自分なりに探って、誰にも見られてはいなかったと、ドアの方へ向かう。

部屋の中には特に痕跡らしいものもないから、このまま去ってしまって問題ないだろう。

エッダもそろそろ講義棟から出ていっただろう、とテアは窓の外と、部屋の中を確認して、ようやくドアを潜った。

歩きながら、空いた手で制服に付いた埃を簡単に払う。

そのまま何もなかったように図書館に戻る気にはさすがになれず、テアは一度寮の部屋に戻ろうと、足をそちらに向けた。

その顔色は若干青白いものの、表情は何事もなかったかのように平素のまま。

ただ、その指先がほんのかすかに震えていて、動揺の残る彼女の心情を表していた。




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