対峙 11
「お嬢さま、最近とてもお楽しそうですね」
「そうかしら」
朝、侍女に髪を丁寧に梳られながら、エッダは澄ました顔で返した。
だが、実際のところ侍女の指摘は正解だ。
ここのところずっと、エッダは学院生活が楽しくて仕方なかった。
毎日のようにディルクと二人きりの時間がある――それが理由だ。
学院祭実行委員をしていた時もディルクの側にいられる時間は多かったが、他のメンバーもいることが大半だったし、何よりもテアが泉の館にしょっちゅう顔を出していたから、ディルクとテアのツーショットを見なければならない場面も多かった。
だが今は違う。今回の生徒会選挙では、エッダは個人的に相談に乗ってもらっていたし、二人きりになれるよう努力もした。そして、テアがディルクの側に現れない。
だからか、少し前までは不愉快な噂を聞くことが多かったというのに、ここ数日ちらほらとエッダの情報網に引っかかってきたのは自分自身とディルクとの噂話。
思い出すとついつい口元が緩んでくるのを引きしめて、エッダは朝の支度を終えた。
鏡に映る、白い制服に身を包んだ彼女は、今朝も完璧にその美貌を整えている。
学院に通う間はオイレンベルク家の本邸を離れ、学院近くの別荘で暮らしているエッダだが、別荘とはいえ大勢の使用人に見送られ、その日も馬車で学院へ向かった。
――選挙日まで残り僅か……。
馬車に揺られながら、エッダは心の中でそう呟く。
準備は万全に整っており、自身が当選することを、現時点でエッダは確信していた。
何より、力になってくれたディルクに報いるためにも、エッダは絶対に生徒会役員にならなければならないのだ。
そして、当選した暁には……。
そのことを考えて、エッダはぎゅっと強く膝の上で拳を握った。
生徒会選挙で当選することができたら、ディルクにパートナーの申し込みをしよう――。
エッダはそう決めていた。
一歩を踏み出すために、生徒会選挙当選は良いきっかけだった。
だが、断られるかもしれないと、そのことを考えると、身が竦むような怖さを感じる。
選挙に対しての自信はあったが、恋に対してはそこまで強くなれなくて、ディルクにふさわしい女性にと努力を続けてきた彼女であっても、臆病に構えてしまうのだ。
今日も、そうして、エッダはその時のことを何度も頭の中でシュミレーションした。
その内に馬車は学院に辿り着き、エッダは不安を微塵も見せない堂々とした態度で、校門をくぐったのだった。
「ディルク様、演説会の草稿なのですが、気になった部分や指摘された部分を訂正したので、またチェックしていただいて構いませんか?」
「ああ」
生徒会選挙、その投票の一日前に、候補者による演説会が開かれることになっていて、エッダはそのための原稿を用意している最中だった。
原稿を完成させるため、その放課後、講義棟の一室を借り、エッダとディルクは小卓を挟み向かい合って座っている。
講義に使われない時間帯、講義室は生徒の勉学やグループワーク等のために開放されているのだ。
とはいえ練習室と同じで基本的には予約が必要で、エッダは選挙のため、何よりディルクの助言を受けるために、連日講義室を使用していた。
図書館にも同様の部屋がいくつか用意されているのだが、彼女が図書館を敬遠したのは、テアが頻繁にそこを利用しているからだ。
ディルクにもエッダと同様図書館に行き辛い理由があったし、特に異を唱えることもなく、エッダに従っていた。
その理由を、エッダは知る術もないが――。
ただ彼女は、自身が持ってきた原稿に目を通すディルクの姿をこっそりと見つめ、彼の近くにいられることに幸福を感じていた。
原稿を見てもらっている、ということに緊張を感じるが、それよりもこの距離間による動悸の方が激しい。
エッダの原稿を真剣に見てくれているディルクは何度見ても美しく、一瞬でも目を離すのが惜しくなる。
ずっとこの時間が続けばいい、とエッダは思った。
二人きりの時間、ディルクを独占できる時間……。
年が明けてから確実に、ディルクと過ごす時間が増えた。
年明け当初はあんなにも恐れることがあったというのに、その幸福に恐怖はぼんやりとしたものになりつつある。
エッダのために、試験前でもあるのに、貴重な時間を割いてくれるディルク。
もしかしたら、本当に……、過ごす時間が増えるにつれて、彼が少しでもこちらに想いを向けるようになってくれているのではないか、そう錯覚してしまいそうになる。
――いいえ、錯覚などではない。本来、そうあるべきだったことなのだから。
あの時――、学院祭でディルクが見せた動揺とテア・ベーレンスへの抱擁。エッダはその一部始終を遠くから見つめていて、ディルクの想いを疑った。
けれど、あれも、一時の気の迷いのようなものだったのかもしれない。
テアがディルクに選ばれたのも、あまりにも学院にそぐわない彼女にディルクが同情したから。
真実はきっと、そうなのだ。
そう思ってもやはり、テアの存在は目障りで。
エッダはそっと、テアに反感を持つ者たちに囁いていた。
『彼女がいなければ、ディルク様が後期のパートナーに誰を選ぶか分かりませんわね――。いいえ、いたとしても続けてディルク様があんな娘を選ぶなどあり得ないけれど――』
そう、思うでしょう?
エッダがそう首を傾げて微笑んでみせれば、男女関係なく、彼らは頬を紅潮させて頷いた。
エッダはただそう言っただけだったが、その後彼らが密やかに始めたことを知っていて、止めることはしなかった。
これは約束の反故にあたるだろうか、と彼女は自問し、否、と自答する。
エッダの父が彼女に言ったのは、テアに関わるな、手出しするな、ということだけ。
エッダが口にしたのは、あくまでも後期のディルクのパートナーに関してのことだ。直接テアに関わったわけではない。
他の人間がその言葉を受けてどう行動しようと、それはその人間が起こしたことであって、自分は関係ない。
けれど、それ以上のことは口にしなくとも、誰でもいい、早く、とエッダは思っていた。
あの娘を、ここから、消してしまって。
自分の視界から。ディルクの、隣から。
「先日見せてもらったものより、ずっと良くなっているな」
やがて、原稿を読み終えたディルクは顔を上げ、エッダに微笑んだ。
「ありがとうございます」
物思いから覚めたエッダは、彼女の努力を認めて微笑むディルクに笑顔を返す。
「いくつか気になる箇所があったが、そこを少し手直しすればもっと良いものになるだろう」
ディルクはそう言って、問題と思われる場所を指摘した。
エッダはディルクの指摘に頷きメモを取ると、返された原稿を受け取る。
他にいくつか聞いておきたいことがあったので確認して、エッダは座りながら丁寧に頭を下げた。
「今日もありがとうございました。ディルク様もお忙しいのに、いつもすみません」
「謝ることはないさ。お前くらい一生懸命な人間が役員になってくれたら、俺も安心して後が任せられる」
「そんな……」
エッダは恥じらうように少しだけ顔を俯かせた。
その様子に何故かディルクは既視感を覚えたが、その感覚も一瞬のこと。
「ディルク様、演説会の打ち合わせには参加されますか?」
「あ、ああ。少し早いが、一緒に行こうか」
「はい」
エッダは嬉しそうに頷き、ディルクと同じタイミングで立ち上がると、二人で部屋を出、演説会の打ち合わせが行われる泉の館へ向かったのだった。
そんな風にしてあっという間に日々は過ぎ、演説会を迎え、翌日の生徒会選挙投票日――。
選挙場は講堂、朝の八時から夕方の五時までに、生徒たちは任意の時間に来て投票できることになっている。
一時間に一度選挙管理委員会が投票用紙を回収し開票するため、その日の内に結果が出、翌日全校生徒に公開されるのだ。
その日一日を落ち着かずに過ごしたエッダは、授業を終えてすぐに帰ってしまうというのも気が進まず、夕方、構内のベンチに一人座っていた。
と言っても、その側に控えるように侍女が立っているのだが。
投票時間が終了するまであとわずか。
演説会以後選挙活動は禁止され、泉の館にも選挙管理委員以外立ち入れなくなる。
さすがに取り巻きたちの追従にあまり余裕も見せられず、動揺を他人に知られるのも嫌で、彼女は一人になれる場所を選び、風に葉を揺らす樹の下腰かけているのだった。
とは言え、エッダの当選への確信が揺らいだとか、そういうわけではない。
彼女が考えるのは明日、当選の発表がされるその後のことだった。
結果が出たら――、ディルクにパートナーの申し込みをする。
今日はもう、そのことで頭でいっぱいで、講義中も気もそぞろだった。
ディルクは頷いてくれるだろうか、それとも――。
考えても答えは出ないし未来が分かるはずもない。エッダは本日何度目になるのか、大きな溜め息を吐いた。
せめて来期までディルクが生徒会長を務めてくれれば、パートナーという接点が万一見出せずとも、エッダが生徒会入りすることでその側にいることはできたかもしれないのに……。
そんな後ろ向きなことを考えてしまう。
だが実際、エッダだけではなく他生徒もディルクの退任に惜しむ声を上げている。
昨日の演説会でも、候補者の前にディルクが挨拶をしたのだが、辞めないで欲しい、という声がその時いくつも上がっていた。
ディルクの跡を継ぐ生徒会長候補は今回一人で、任期が終わるまで現生徒会役員の会計である青年だ。
堅実な性格で仕事をきっちりとこなし、他の生徒からの人望もある。
ディルクが彼の手腕を認めて推薦したらしいが、やはりというか当然というか、ディルクと比較してしまえば見劣りするのはいたしかたないことだった。
それにしても、ディルクは何故今期での退任を決意したのだろう。
多くの生徒に期待され、ディルク自身生徒会長という役職をやりがいを持って務めていた、と思う。
何よりも飛び級したディルクは来年最上級生で、最も生徒会長でいるのにふさわしい時期とも言える。
エッダは不思議に思って、一度それとなく尋ねたことがあったがはぐらかされてしまった。
その姿は何かを隠しているようにも見え、エッダはディルクとの間に壁を感じて、悲しくなったのだ――。
思い出して、エッダは俯いた。
また、壁をつくられてしまうのだろうか。それとも彼は受け入れてくれるだろうか。
そうして下を向いていたエッダの耳に、五時を知らせる鐘の音が届いた。
投票時間の終わりを告げるその音に、ますます明日が近づいてきたことを感じ、エッダはぎゅっと両手を結んだ。




