対峙 7
同じく、授業開始日の放課後、ディルクはひとり、教員棟へ向かっていた。
昨日のパーティで、学院長に話があるから来て欲しい、と言われていたのである。
生徒の代表であるディルクと学院長が言葉を交わす機会はこれまでにも多々あった。
パーティではゆっくり話す暇もなかったし、今回は選挙が迫っているのでおそらくそれに関連した話があるのだろう、とディルクは見当をつけながら学院長室へと進む。
学院長室では、いつものように学院長が正面の書斎机を前にしていた。
学院長はディルクが入室すると立ち上がり、ソファにかけるよう促す。
「忙しいところすまないな。昨日のような場でできる話ではなかったんだ」
「いえ、構いませんが」
学院長の言葉にふと訝しさを覚えながらディルクが返す間に、学院長もディルクの前のソファに腰を下ろす。
すかさず秘書の男性が二人の前に紅茶を出して、丁寧に礼をすると部屋から出て行った。
学院長はディルクに紅茶を勧めると、自身もカップに口をつける。
「……冬休み、また事件に巻き込まれたようだな」
カップをティーソーサに置いて、そう切り出した学院長に、ディルクははっと視線を向けた。
「どうして、」
それを知っているのかと言いかけて、思い当たることがあった。
「……そう言えば、学院長はロベルト・ベーレンスとご学友でしたか」
「そんな丁寧な言葉よりも、腐れ縁、と言われた方がしっくりくるが」
そう、学院長は笑う。
「あいつは多忙だからな、私がメッセンジャーとして立つことになったわけだ」
「それでは……、もう何か掴めたのですか」
ディルクの問いに、学院長は表情を引き締めた。
「……件の犯人は既に判明した。対応も、終わっている」
その言葉に、ディルクは何故かあまり良い印象を覚えることができない。
「一体、誰が」
「すまないがそれには答えられない」
ぐっ、とディルクは拳を握った。
「何故、ですか。黒幕が――貴族だからですか。それも、ひどく力のある」
ディルクはずばりと口にする。それに学院長も躊躇わずはっきりと答えた。
「そうだ。そして今回のことが公になれば、ディルク、お前が思う以上に厄介な事態になる可能性がある。そのため、今回の件は学院祭の時と同様、公的機関に任せることはしない」
学院長が公平な人物であることは、ディルクも知っている。
彼が秘匿を否定しないということは、実際に何かしらの危険が潜んでいるということなのだろう。
だが簡単には納得できず、ディルクは食い下がった。
「しかし、それでは、犯人がテアにまた危害を加えるかもしれない。それに……、あれだけのことをした人間が何の償いもせずにいられるというのは、間違っています」
真っ直ぐな視線に、ほんのかすか、学院長の口の端が上がる。
しかしすぐに真面目な表情に戻って、言った。
「犯人が再びテアに手を出すことはない」
「それは……、確実に言えること、なのですか」
「ああ」
学院長は頷いたが、彼を認めるディルクでも、それを鵜呑みにすることはできなかった。
「今回の件、犯人に償いの機会は与えられない。だが、今回のことが我々に露見して、犯人にとってはあまりにも大きすぎるリスクになった。もう一度同じ過ちを繰り返すようなら、……犯人にとって最も起こって欲しくない事態を我々は引き起こすことになるだろう」
「それは、一体どういう……」
その問いに、学院長は答えなかった。
「……すまないが、このことを、事件は一応の解決を見たと、お前から他の関係者に話してもらえないだろうか。できれば直接こうして話をしたかったが、まとめて来てもらうにしろ私が出向くにしろ少々目立つことになるので、悪いが控えさせてもらった。当事者であるテアには、既に話はしてあるが」
ディルクと学院長が直に話すことは珍しくもないが、他の関係者ともとなると確かに、他の人間の注目を集めることに繋がりかねない。事件のことが公になるとは考えにくいが、勝手な憶測が広がっていく可能性もある。ディルクが学院長の立場であっても、同じように慎重な姿勢を崩さなかっただろう。
「……分かりました」
この話を伝えればきっとローゼは怒るだろうと想像しながら、ディルクは頷いた。
「テアはこのことについて、了承したのですか」
「ああ」
それは聞くまでもないことだったかもしれない。
テアの性格を考えれば――、彼女が首を横に振るはずはない。
学院祭の時も、そうだった。テアは自身のことにはほとんど無頓着で、周りのことばかり気遣って……。
強い意志を秘めた黄金の瞳を脳裏に浮かべ、ディルクはそっと、けれど強く、拳を握った。
「……学院長、いくつかお伺いしておきたいことがあります」
「答えられることなら、いくらでも」
「犯人の動機は、何だったのですか」
「……」
学院長は束の間沈黙し、やがて苦笑した。
「……ディルク、お前も、人が悪いな」
「あなたは嘘をつかない、と信じているだけですよ」
ディルクが推測できる、テアが狙われる理由と言えば、二つ。
無名だったテアがシューレに入学を果たし、エンジュ・サイガという高名な音楽家を師としたことを妬んで。
もしくは。
ディルク・アイゲンをパートナーとしたことを、妬んで。
これ以外にも、ディルクの知らないところで何かあるのかもしれない。
それでも、この二つのいずれかが犯人の動機として有力であると、あれからディルクはずっと考えていた。
だが、犯人の動機がディルクだと、ディルク本人が知れば、ディルクは気に病む。そう学院長は考えて、犯人の動機が後者であればディルクに対してそれを出さないようにするだろう。
だから、ディルクたちに対して誠実であろうとしてくれている学院長が前者を答えればそれが真実で。
学院長が沈黙すること、それはすなわち犯人の動機がディルクだと言っているも同然ということになる。
「……テアはこのことを知っているのですか。いえ、学院長はテアに対してどこまで口にしたかは仰らなかった。テアは一体どこまで知っているのですか?」
「お前……、あまり頭が回るのも考えものだな」
学院長は苦い顔を見せて、それでも真摯に答えた。
「……彼女は何も聞かなかったよ」
この場合は嘘をつく方が誠実なのかもしれない。
そう思うが、学院長である彼にしてもこの聡明な相手を前にして見破られない自信はなかった。
それでも、嘘でなくとも、学院長の言葉は真実でもない。
テアは何も聞く必要などなく、最初から、誰よりも先に全てを知っていて、全てをなるべく隠そうとした。
自分の周囲の人々のために。
――この目の前にいる、青年のために。
学院長の詭弁を分かって、答えにくい質問をしなければならないことを申し訳なく思いながら、ディルクは続ける。
「それでは……、テアにはいつ、この話を?」
「冬休みの間だ」
「そう……、そうですか……」
新年が明けて、ここで再会した時のテアの微笑みを思い出す。
自身が襲われたことなどなかったように、笑っていた。
思うことは色々あるだろうはずなのに、何も表には出さず、いつも通りに笑っていたのだ。
おそらく彼女は事件の裏側をほとんど理解している、とディルクは直感していた。
テアは公正な人間だ。いくら大層な貴族が相手でも、相手が罪を犯せば償いをさせるのが当然のあり方だし、今後一切手を出さないからと、それだけで済ませることを許すのはおかしい、とディルクは思う。
表には出さずとも、何かしらの償いを課すことはできるはずだ。
だがそれをさせない、というのは、それをさせると何かあったと勘づくようなことがあるのではないか。
例えば――、この学院の中に犯人がいて、その人物に何かしら異変があれば……。
もしくは、学院の外のことであっても、名のある貴族に何かしら異変があれば……。
ディルクは疑うだろう。先の事件に関連してのことではないか、と。
犯人の動機がディルクにあるのならば、おそらくテアはそれをディルクに気付かせまいとする。
気付けばディルクがディルク自身を責めることを、彼女は分かっているだろうから。
その上で、彼女は多分ディルクにそうさせたくない、と思ってくれているだろうから。
だから、隠そうとする。全てを。
名のある貴族が相手だから、黙るのではない。
守るために――、彼女は口を閉ざすことを選ぶのだ。
公正さを、捨ててでも。
これは、自惚れかもしれない。
それでも、テアがディルクをパートナーとして尊重してくれているというのは、間違いではないはずだから。
「――最後にひとつだけ、確認しておきたいことがあります」
だから、テアのパートナーとして、彼女に恥じないよう、自分もこうして向き合わなければならない。
「なんだ?」
「……先の事件に――、ルーデンドルフは関与していますか?」
その名に、学院長は少しばかり息を呑んだが、やがてゆっくりと首を振る。
「いや……。誓って言おう、この件にルーデンドルフの関わりはない」
「そうですか……。すみません、質問ばかりになりました。学院長からのお話は以上ですか」
「ああ」
「それでは、伝えるべきことはライナルトたちにも伝えておきます。お忙しいところ、ありがとうございました」
「いや、こちらこそ……。悪いな、色々と」
「いいえ。それは俺が言うべき台詞でしょう。気遣いを無駄にするような真似をしました」
「全くだ」
言葉とは裏腹に、気にするなと言うように、学院長は笑う。
それに微笑を返して、ディルクは立ち上がった。
「それでは、失礼します」
落ち着いた、丁寧な仕草で、ディルクは来た時と同じようにその部屋から出ていく。
その内心は、おそらく入室の時とは比べ物にならないほどに、落ち着いてなどいなかっただろうけれど。
「……全く……、難儀なことだな。ああ、全く……」
ドアが静かに閉まったのを確認して、学院長は深くソファに凭れ、そうひとりごちた。
――やはり、離れなければならないのか。
学院長室を退出し、教員棟から出て、ディルクはひとり、広い構内をあてもなく歩いていた。
かけがえのない、たったひとりの存在を、大切にしたいと強く、思うのに。
ディルクが近付いたせいで、テアは何度も人の悪意の標的にされてしまった。
パートナーを組んでから、もともとあまり好意的でなかった生徒たちの彼女へ向ける視線はますます冷たくなって。
ずっとひどい嫌がらせを続けられて。
学院祭では軟禁させられそうになり、神誕祭には命を狙われた。
ディルクが近付かなければ、まだしも彼女は平穏な生活を送れただろう。
分かっていた、はずだった。
それでも、最初は、あの曲を、あの音と共に、奏でたくて。
そして今は――、ただ、彼女の側にいたいと、思う。
けれどそれは全てディルクのわがままでしかない。
テアが受け入れてくれ、頷いてくれたからこそのパートナーではもちろんあるのだけれど、ディルクはそう感じてしまう。
けれどそれも、テアの望みにかなわぬこと。
守りたいと、きっと守ってみせると、そう思いながら、ディルクは守られてばかりいる。
今回のことも、そうだ。
彼女は穏やかに微笑んで、ディルクを傷つける事実などなかったかのように隠そうとした。
ディルクが自分を責めることを、彼女は良しとしない。
だからディルクは、本来なら、こんな風にネガティブに考えるべきではないのだろう。
テアの本意を思うなら、ただ何も恥じることなく前を向くことが正しいのだろう。
けれど――。
守りたいのに、守られて。
守りたいのに、守れなくて。
自分を責めるのも自己満足で、テアが望まないことだと分かっていても、やはりそれは嫌だから、自分を叱咤してしまう。
そして、テアを守ることを一番に考えるのならば……、おそらく、ディルクがテアから距離を置くのが、一番簡単で効果的な方法。
だからディルクは、テアを守りたいと思うのならば、身を引くべきなのだ。
それなのに、守りたいと思うのに、離れたくないという思いも強く存在していて。
それこそ自分勝手な望みだと分かっている。
けれど、側にいたいのだ。
彼女の隣で、彼女の全てを見ていたい。
他の誰にも、彼女の隣を譲りたくない。
――いっそのこと、彼女を閉じ込めて、自分としか触れあえぬようにしてしまいたい。
そうすれば、彼女が傷つけられる可能性に怯えることはない。
そうすれば、自分が一番彼女の近くにいられる。
そう考えて、その昏い情念に、ディルクは自嘲するような笑みを浮かべた。
それを為せば、築いてきた関係も、テアの穏やかな笑顔も全て失ってしまうことになるのだろう。
そうなってもいいから、彼女が欲しいと、心の一部は告げる。
けれどそれも、ただの逃げだ。
大切なものを守れない自分から、ただディルクが逃げたいだけだ。
もし欲のままそうしても、結局のところディルクは何も満たされることはなく、テアを傷つけるだけで終わってしまうだろう。
テアから離れなければと思うのも、もしかすると逃避なのかもしれない。
守れない自分からの逃避。
ただの、自己満足。
もし、ディルクがテアから距離をおいたとして……、テアがそれをどう受け取るのかを考えていない。
彼女は、傷つくかもしれない。
彼女は、自分が何か過ちをおかしてしまったのかもしれない、と自分を責めるかもしれない。
それでも、余計な感情を抜きにしてみれば、ディルクがテアから離れるという選択肢が最も彼女を危険に晒さない手段だと――そう、考えて。
ディルクの思考は、止まる。
世界が色褪せてしまったように感じる。
こんなにも、テアへの想いが大きくなっていることに、改めて気付かされて――。
だからこそ、離れなければならない。
けれど、離れたくない。
そう思って。
その相反する感情に、ただただ、強く胸が締め付けられた。
どちらかを選択する決断は、まだくだすことはできなかった。




