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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第6楽章

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対峙 6



ポーン、と澄んだ音が響く。

エンジュがいなくなった練習室で、テアはひとり、ピアノを前に悄然と座っていた。

気が塞ぐ――けれどピアノの音を聴いていれば、少しでも気が休まった。

考えたくない、とテアは思う。

考えろ、とエンジュは言った。

でも、嫌だ。

頑是ない子どものように思って、テアはひとり苦く笑う。

こうして拒めば拒むほど、答えは眼前に迫ってくる。

何故、嫌なのか。

どうして、考えたくないのか。



――「離れたくないから」だ。



テアはもう一度鍵盤に触れて、ざわつく心を抑えた。

昨晩から、意識的に、ずっと考えないようにしていた。

ディルクとの噂話。

エンジュの言うとおりだ。

これまでも、テアに関する噂話だけでも様々あった。いちいちそれを気にしていたらきりがない。誤解は少し悲しかったけれど、それでも自分らしくあればいいと、構わなかった。

けれど此度の流言は、どうしても聞き流せなくて。

途方もないデマだと、笑い飛ばすことなんかできなくて。

何故なら。


――私は、「嬉しかった」のだ……。


例えデマであっても、そういう話が出回るということは。

ディルクの隣に立つ人間として、テアは認められうる、ということで。

嬉しかった。

そして。

――噂が、真実ならばいいのに。

そう、思ったのだ。

その思いの、示すところは。

尊敬を、超えていて。

「なんて、おこがましい……」

自嘲の言葉が漏れる。



気付きたく――なかった。

だから、聞きたくなかった。

自分と彼がそういう関係になってもおかしくないのだという事実に耳を塞いでいたかった。

聞いて、知れば、考えてしまう。気付いて、しまう。

だから、弾けなくなった。

彼の人のことを考えながら弾いてしまえば、明らかになってしまう。

自分のこの……想いが。



この想いには、気付きたくなかった。

気付いてしまったら、離れなくてはならない。

特別なひとりを、自身の運命に巻き込みたくない。

傷つけたくない。失いたくない。

だから、離れなくては。

全ての決着がつくまでは、大切なものほど、遠ざけておかなくては。


――それなのに。

どうして。

切望してしまうのだろう。

離れたくない。

離れたくない。

離れたく、ない!

だから気付かないふりをしよう。

私は気付いていない。

この想いには気付いていない。

こんな想いは「知らない」――。

だから、このまま、隣に。

彼の、隣に。






けれど、駄目だった。

本当は、ずっと前からきっとこの想いは存在していて、でも蓋をして、見えないように、隠していた。

そう、蓋はあったのだ。

それなのに、どうしても想いは溢れ出そうとして、かたかたと蓋は音を立てて自己主張し始めた。

それでも、ずっとずっと、それを知らぬふりで、今までやってきたのに。

昨日眼前にでてきた事実に、何とか閉じていた蓋はずれてしまった。

そして今、開いた蓋はどこかに転がって。

蓋を探して、その中身には、見えない振りをして。目を背けて。

何とか、何とか、凌ごうとして。

逃げて、逃げていたのに。

限界だった。

逃げているのに、奏でる音は彼への想いを描いていて。

無意識にでも、引き寄せられて。

逃げ切れなくなっていた。

エンジュに見透かされて。

それでも、逃げきろうとして。

母の面影に、逃げ込もうと、足掻いて。

けれど足掻けば足掻くほど。

離れたくないと、思えば思うほどに。

たったひとつの感情が、浮き彫りになってしまう。


「私は……」


そうだ。

考えるまでもない。

本当は、多分、以前から気付いていた。

ただ気付きたくなくて、気付いていない振りをしていただけ。

心の真実を見たくなくて、目を瞑っていただけ。

離れたくなくて、側にいたくて。

音楽の「パートナー」であることを、全ての言い訳にしていた。


「私は……、」




――私は、見つけてしまった。私だけの……、特別な、ひとりを。




テアはようやく、それを認めた。

自分が、恋をしているのだと――。




「ディルク……」




そして彼女は、ぽつりとその想いの向かう名前を呟く。

しかし、万感の想いがこめられたその音を聴く者は、彼女の他には誰もいない。

それに安堵して、テアは瞳を閉じた。




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