対峙 5
優しい音が、余韻を持って、響く――。
ピアノの前に座ってテアが奏でるのは、ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」だった。
気の向くままに鍵盤に指を下ろしたところ、その旋律を奏でようと手が動いたから、そのままに任せて、テアはピアノに集中する。
だが、曲はそう長いものではなく、あっと言う間に終わってしまった。
余韻を感じながらも鍵盤から指を離して、テアは軽く溜め息を吐く。
その耳元で、ふと囁く声があって――。
「……ディルクのことでも考えてたのか?」
思わず、テアは両手を下ろして目の前の鍵盤を叩いていた。
バーン、と強い音が響く。
「……お前、なんちゅう分かりやすい動揺するんだ」
テアの後ろ、嫌そうな顔で耳を抑えるのはテアのピアノ教師、エンジュ・サイガだ。
授業が開始された日の午後。
テアは彼のレッスンを受けるため、開始時刻より随分と早かったが、練習室に来ていた。
テアが来てすぐ確認した際には誰もいなかったから、エンジュはテアがピアノに集中している隙にこっそりと練習室に入ってきたのだろう。
エンジュは今までにもそうやって、テアを驚かせて楽しむことがままあった。
だからいつの間に、ということをテアは口にしない。師の行動に対し抗議するよりも、エンジュの台詞に対する驚きの気持ちの方が大きかったので、振り返ったテアはこう言った。
「どうしてそこでディルクの名前が出てくるのですか……!」
「そりゃお前、あんなきらっきらっした音出してたら、なんかお前がイメージしてそうなのはディルクかなーと思うだろ」
「そ……っ」
そんなことはない、と否定しかけて、テアは己を振り返った。
自分は一体、何を考えて演奏していただろう、と。
「お前、相変わらず分かりにくそうで分かりやすいなー。ま、とりあえず新年おめでとさん。今年もよろしく」
「お、おめでとうございます……、よろしくお願いします……」
ぽんぽんと頭を軽く撫でられて、テアは動揺を引きずりながら挨拶を返す。
会ったら一番にきちんと挨拶しようと思っていたのに、エンジュのマイペースな振る舞いに調子を崩されてしまった。
「この髪留め、キレイだな。よく似合ってるぜ。イメチェン?」
さらりと新年の挨拶を終え、テアの頭を撫でていたエンジュは手を離して褒める。
それにテアはわずかに頬を紅潮させた。
「ありがとうございます。……こうしておけば演奏の時や勉強の時も邪魔にならないだろうと……、ディルクが、」
「ふーん」
それにエンジュはにやにやと笑って、
「――ホントのところ、お前とディルクって、どうなわけ?」
その答えをよく分かっていながら聞くところに、彼の人の悪さが表れている。
「どう……とは?」
意味を掴みかね、テアはきょとんと首を傾げた。
「なんか噂はしょっちゅう聞くんだよ、結婚を前提としたオツキアイが始まっているとかいないとかさぁ。実際はどうなのかなーと、師匠としては気になるわけだけど?」
「け……っ」
交際の噂については昨日聞いたばかりだが、結婚云々は初耳である。
その衝撃にテアは言葉を失いかけたが、何とか言葉を返した。
「そ、その噂は眉唾です。……どうして先生が生徒間での噂を御存じなのですか?」
「そりゃー俺は人気者だからなー。ついでに言うとお前たちに関するやつは別に生徒間だけのもんじゃないぜ。学院中での、が正しいな。ま、意外かもしれんがこういうのは教師の方がよく知ってたりするもんだ。他に娯楽がないからなー」
からからとエンジュは笑って言う。
娯楽、とテアは口の中だけで呟いて。
「……できればもう、それに関しては耳にしたくないものですが……」
「なんで?」
「心臓に悪すぎます……」
「眉唾もんなら気にせず放っとけよ。人の噂も七十五日、どうせ皆忘れるもんだ。頼りない噂話に振りまわされて、って周りを笑っとけばいいのさ」
「はあ……」
それができれば苦悩はしない。
昨晩噂について聞き、今朝それを思い出して頭を抱えたくなり、それからずっと考えないようにしてきたテアだ。
「それともなんだ? 噂の相手がディルクじゃ不満か? ああそれとも、どっか別に相手がいるから変に騒がれると困るってか」
「そんなことは……!」
ない、と言いかけてテアは口を閉ざした。
「……ただ、ディルクの迷惑になるのではないか、と」
「別に気にしないだろ、あいつは。あいつに関する噂話なんて、どれがホントでどれがウソやら分かったもんじゃないのが山ほどあるし、女関係のやつだって数え切れない。今更迷惑も何もあったもんじゃないさ」
「そう……ですか」
何だろうか――胸に痛みを覚えた気がして、テアは俯いた。
「――難儀だねぇ……」
その様子に、散々弟子を振りまわした本人であるエンジュがぽつりと呟く。
そこでようやく授業開始のチャイムが鳴って、さて、とエンジュは伸びをするように背筋を伸ばした。
「よっしゃじゃあ、新年初レッスンを始めるとして――」
テアもチャイムに思考を切り替えてエンジュを見上げる。
「お前さ、実技試験の課題曲が何に決まったのか誰かに聞いたのか?」
エンジュはいつもながら単刀直入だ。
テアはその問いに戸惑いを覚えながら首を振った。
「え? いえ、私はまだ何も……」
「じゃ、単なる偶然か。発表しちまうと、ピアノ専攻科一年、実技試験の課題曲はドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』に決定」
先ほどまでテアが気まぐれで弾いていた曲。
エンジュから楽譜を手渡されながら、テアは軽く目を見張った。
「後は前々から言ってたように初見演奏を一曲、させられる。試験までは課題曲に集中するかな。今までは色んなヤツらに初見演奏聴いてもらってたし、感想聴く限りでもそっちはやっぱ得意みたいだから、そんなにやんなくても問題ないだろ」
「は……はい」
一月末に行われる学期末試験には、筆記試験と実技試験の両方がある。
ピアノ専攻科の生徒たちが受ける実技試験の内容は、初見演奏と課題曲演奏の二つ。
課題曲は今まで発表されていなかったため練習しようと思ってもできず、これまでレッスンにおいて試験対策として行ってきたのは初見演奏ばかりだった。
学院祭が終わってからこれまで、テアはエンジュの知り合いのピアニストに度々ピアノを聴いてもらっていたが、専らそれが初見演奏に限られていたのは、そういうわけがあったからである。
「それにしても……、『亜麻色の髪の乙女』、ですか」
「お前ドビュッシー好きだし、今の演奏聴いた限りじゃ普通に大丈夫だろ」
「そう……でしょうか。試験というものを受けるのが入学試験以来二度目なので、自分では何とも……」
「ま、何だかんだ言うより、とりあえずもう一回弾いてみるか」
「はい」
エンジュに促されて、楽譜を譜面台に置くと、テアはもう一度ピアノに向き直った。
一呼吸おいて、指を鍵盤の上にそっと置いて。
『……ディルクのことでも考えてたのか?』
エンジュの言葉が脳裏によみがえって、いけない、とテアはわずかに躊躇を覚えた。
目を閉じて、テアは何とか頭を切り替えて。
指を、滑らせる。
弾きながら頭に描いていたのは――。
「……で、今度は何考えながら弾いたんだ?」
鍵盤から指を離してすぐ、そう突っ込まれて、テアは詰まった。
「悪くはなかったけど、なんかお前の『月の光』のイメージに近かったな。簡単に言えば寂寥、悲哀、慈愛。さっき聴いたのはどっちかっていうと光輝、慕情。俺としては最初に聴いたやつの方が良かったと思う。もともと『夏の明るい陽をあびて、ひばりとともに愛をうたう、桜桃の実のくちびるをした美少女』に捧げた曲だろ?」
「はい……」
エンジュの言葉に、テアは少し項垂れた。
自分でも音の違いは分かっていた。
先ほどの演奏では――ディルクのことを考えまい、としてあえて他の人物のことを思い浮かべていたのだ。
そう……、母の、面影を。
「さっきみたいに、ディルクのこと考えながら弾いてみろよ。どうせ俺以外にはお前が具体的に誰のこと思い描いてるかなんてそうそう分かんねーだろうし」
「だ――駄目です、できません……」
「はあ?」
首を振ったテアに、エンジュは無造作に聞いた。
「なんで」
「それは、その……」
テアは口籠る。
ディルクのことを尊敬している、その気持ちを表現するのに、なんら問題はないはずなのに。
抵抗心が、ある。考えてはいけない、と思ってしまうのだ。
困惑しているようなテアの様子を見て、エンジュは溜め息を吐いた。
――さっき調子に乗ってつつきすぎたかね……。
反省はしていないが、反省めいた独り言を心の中でする。
「ま、別に今の演奏でも、試験乗りきるだけなら問題ないと思うけどさー」
ふむ、とエンジュは考えるそぶりを見せた。
「でもお前の師匠としては、演奏するなら最低限こなすだけじゃなくて、最上を目指してほしいんだよな。俺はどっちかっつーとSだし、甘くしてやるのは癪だしなー」
「後者の理由はなんなんですか……?」
思わず突っ込みを入れたテアである。
それには答えず、うーん、とエンジュは首を捻って、続けた。
「よし、じゃあ、お前に新年初の課題を出す」
「は……、はい」
「一日だけ時間やるから、今回の試験、どう演奏するのかよーく考えてこい。今日のレッスンもこれで終わりにしてやる」
「え……」
「試験まで間がないからな。あんまり時間を多くはやれない。だから一日しっかり考えてくること。OK?」
「……はい」
頷きながらも、テアは今までに覚えたことのないような不安を覚えた。
一日でその課題を――エンジュが納得するほどの形にできるだろうか。
「ま、基本的な知識なんかは問題ないし、お前ならいけるだろ」
「先生、」
どこか縋るように呼ばれたエンジュは、テアの表情を見て苦笑した。
おせっかいはしたくない、だがなんだかんだと言いながらついつい口を出してしまう。
「逃げんなよ、テア」
投げかけられた言葉に、テアはひゅっと息を呑んだ。
「コンクールと同じだ。いつまでも逃げ続けられるもんなんかない。お前はそろそろ、気付かなきゃいけない……そういう時期なんだろ、多分な。そいで、ちゃんと受け止めて――、そうしたらきっとお前の音楽はもっと面白くなる。俺にそれを聴かせろよ」
抽象的なエンジュの言葉。
テアはそれに応える術を、持たず。
「と、いうわけで。ちょっと早いが俺は退散するぜ。練習室は放課後まで借りられるようにしとくから、ここでずっとでも、場所移したくなったらどこへ行ってでも、とにかく考えてみろよ。じゃあな」
最後にエンジュはにっと無造作に笑うと、さっとドアを開けて練習室を後にしてしまう。
取り残されたテアはどこか茫然と、その背中を見送るしかなかった。