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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第2楽章
6/135

二人 1



進級し、新しい年度が始まって数日。

放課後、ディルクは泉の館の裏にある、その名称の元ともなった泉にやってきていた。

近くには誰もいない。彼一人だけだ。

彼の手にはヴァイオリンケースがあるが、それを開くこともなく、ディルクは芝生の上にごろりと横になった。

――少し、疲れたな……。

思いながら、ぽかりと白い雲の浮かぶ空を見上げる。

去年のパートナー登録期間中もそうだったのだが、この時期ディルクにはパートナーの申し出が凄まじい数襲い、それにきちんと返事をしようとするのに労力を費やすのだ。

対人関係を適当にしないディルクだから慕われているのだが、そのために苦労することもある。

今日は空いた時間にピアノ科の練習を(こっそり)聴こうと思っていたのに、人に囲まれているうちに結局果たせなかった。今も逃げるようにして、ようやくここまで一人で来られたのだ。

このままパートナーはできないままかもしれない。

だが、ディルクはパートナーを諦めたくなかった。

ピアニストのパートナーと在学中にコンサートで演奏したい曲があるのだ。

在学中にこだわる必要はないかもしれないが、自身の今後を考えれば、今が最もその曲に集中できるはずだった。

しかし、彼の卒業まで、機会はそう多くはない。

だから少し、ディルクは焦りを覚えていた。

彼は横になったまま、陽射しを遮るようにファイルから楽譜を取り出す。

ディルク自身が作曲したものだ。

タイトルは――「夜の灯火」。

この曲をつくることになったきっかけは、もう十年ほど前のことになるだろうか。

宮殿の聳える城下の街で祭が開催されていた、夜。

ディルクはひとり街に繰り出して、祭を楽しんでいた。

そこで彼は、一人の少女がピアノを弾くのを聴いたのだ。

それは祭のために設置された特設ステージで、飛び込みで人々がかわるがわる自分の演奏を披露していいという趣向のものらしかった。

その少女のピアノの、言葉に言い表せないほどの澄んだ音色の美しさに、温かさに、優しさに、ディルクは茫然と立ち尽くしてしまったものだ。

――こんな、音が……。

輝くような旋律の波に包まれた。柔らかな余韻を残してしかし、音は夜の闇に溶けていく。

聴衆の拍手に、はっとディルクは我に返った。

曲が終わり、少女は立ち上がってお辞儀していた。

もう一曲と聴衆が言うのに困ったように笑いながら首を振って、少女は祭限定の仮のステージから退いていく。

ステージの下で、少女の母親なのだろう女性が待っていて、笑顔で少女を迎えていた。

少女も嬉しそうに母親に近付いていく。

二人は明かりを持っているわけではないのに、ディルクの目に眩しかった。

ディルクは母親とあんな風に温かな眼差しを交わし合ったことは、ない。

ディルクは焦がれるように手を伸ばして、二人に近づこうとしたけれど、人混みに邪魔されて。

親子はやがて、大勢の人の中に紛れて消えて行ってしまった。

少女のピアノとあの時の親子の優しいまなざしを幾度も思い出し、つくらずにはいられなかったのがこの、「夜の灯火」。

この曲のピアノには、ディルクの望む音が、どうしても、欲しかった。

しばらくディルクはそのまま過去を振り返るように動かなかったが、やがてはっと身を起こす。

ピアノの音色がどこからか聞こえてきたのだ。

泉の館からだった。

他棟の練習室からというのはありえない。練習室はどこも防音がしっかりしているし、ここからは距離がある。

――この音……。

ディルクは誘われるように立ち上がると、泉の館に入った。

響く音色を奏でているのは誰だ。

生徒会役員ではない。彼らの音は知っている。

――テア・ベーレンス……、なのか……?

しばらくここのピアノを使うといい、と言ったのはディルク自身だ。

階段を数段飛ばしながら上がって行き、間もなく彼は三階の奥に行き着いた。

ピアノが置かれた部屋の中を、窓ガラス越しに見ることができる。

そこにはやはり、テアがいた。

滑らかな指づかいは、普段からの彼女の練習量を物語っている。

どうやら彼女はエンジュに出された課題曲の練習をしているようだ。

テアは、一生懸命で、とても生き生きとしているように、見えた。

そんな彼女の紡ぐ音に、ディルクは。

彼の理想とする音を、聴いた――。






気を散らしてしまうかと思ったが、そのまま盗み聞きするというのも気が咎める。

ゆっくりと彼女のピアノを聴きたいと、ディルクは部屋に入っていった。

小さなノックの後、ドアが静かに開かれると、テアは気付いて手を止める。

顔を上げて、ディルクと目が合った。

「あ……、こんにちは」

テアは目を瞬かせたが、律儀に頭を下げて挨拶して、それから恐縮して見せた。

「もしかして、ピアノ、お邪魔でしたでしょうか……?」

彼女のピアノは素晴らしいのに、どうしてこうも自信がない様子なのだろうか。

彼女の瞳は落ち着いた、理知的な色を湛えているのに、謙虚すぎるとディルクは感じた。

ディルクはそんなテアを安心させるように微笑み、告げる。

「いや、違うよ。お前のピアノが聴きたくてきたんだ。ここにいて聴いていても良いだろうか」

「え……」

思わぬ言葉に、テアは驚いた。

「構いませんが、ディルクさんに聴いていただくほど大した演奏は……」

「呼び捨てでいいと言っているだろう? 俺はお前のピアノの音が美しいと思ったから、聴いていたいんだ。俺のことはいないものだと思ってもらっていいから……、ここにいることを許してもらえないだろうか」

「……はい」

ピアノの音を評価されて、テアははにかんだように微笑む。

ディルクをいないものだと思うことなどできそうにないが……。

「……それでは、練習を続けます」

「ああ……」

テアはピアノに向き直った。

ディルクは聴きやすい位置にある椅子にゆったりと座って、テアのピアノを聴く。

遠い昔の夜に聴いた、記憶の中の優しい音と重なって、テアの音がディルクを満たした。






テアは小走りで、寮の自室に戻った。

少し走ったせいなのかどうか、テアの顔は紅潮している。

――あの方といると、私はどうも落ち着かなくなる……。

夕刻になって、夕食の時間も迫ってきたからと、テアはこの日の練習を終えた。

テアの練習を最後まで聴いてくれたディルクは、懐かしむような不思議な笑顔を見せて、ありがとう、と呟いて彼女を玄関まで送ってくれた。

「ディルク……」

既に相手はいないけれども呼んでしまって、はっとテアは口を押さえる。

呼び捨てで構わない、と彼は笑うけれども、本当にこんな風に自分が呼んでしまっていいものなのだろうか。

ここに来てまだ数日しか経っていないが、他の生徒がディルクのことを話すのはよく耳にした。

生徒は誰もが皆彼を尊敬し、慕っている。

教師も彼に一目置いている。

そんな人を。

何より彼は、出会ったばかりの、平民であるテアに、何度も手を差し伸べてくれた。

出会って数日でありながら、警戒心の強いテアがこんなにも心を揺らすほど、優しい人。

――彼の側にいて緊張して、けれど不思議に心地が良いのは、私も彼に尊敬を覚えているからなのでしょうね……。

そんな彼が、テアのピアノを聴きたいと、ずっと耳を澄ませていてくれた。

それがとても、嬉しくて。

高揚している心を、テアは自覚した。

「ただいま帰りました」

「お帰りなさい」

テアが部屋に入ると、既に帰っていたローゼが迎えてくれる。

「泉の館で練習して来たのですか?」

「はい」

練習室の予約が取れずにいたことを、テアは正直にローゼに話していた。親友であるローゼに隠し事は難しい。心配させてしまうと分かるので全てを赤裸々にはしたくないのだが、隠していて知られてしまった時のローゼの心情を考えると打ち明けずにもいられないのだった。

「私も今日は調理部でクッキーを焼いて来たんです。夕食の後、いっしょに食べましょう」

「ええ、楽しみです。……ライナルトにはもう?」

「はい」

予想通りの返事にテアは笑った。

「どうして笑うんです?」

「いえ……、」

テアは首を振って、続ける。

「私にも、ローゼのように良いパートナーが見つかればと思って……」

「……周りの様子は相変わらずなんですか」

「残念ながら……。でも、フリッツだけは話しかけてくれるんです。先日は、サイガ先生が担当になったことを知って、感心されてしまいました」

「ああ、彼は、素直で良い人ですからね」

フリッツ・フォン・ベルナーのことを、ローゼは知っている。

彼女はこれまであまり領地から出ることはなかったのだが、それでも何度か行ったことのあるパーティでフリッツとは顔を合わせたことがあった。

ローゼのフリッツに対する印象は、純僕そうな青年で、好感が持てる、というものだ。ただ、後継ぎである彼の兄に存在感がありすぎて、若干影が薄いところがある。本人もそれを気にしているようだったが……。

「フリッツとパートナーに、ということは全然?」

「それは――そう言えば、考えたことがありませんでした……」

何となくローゼはフリッツが気の毒になった。彼をよく知っているというわけではないが……何となく。

「けれど、これ以上彼に迷惑をかけるのも……。私と言葉を交わしているせいで、既に迷惑をかけてしまっているのに」

「そんなことを言っていたら、パートナーができないじゃないですか」

「……登録しないまま、ランダムに決められたなら、仕方のないことだからと、相手の方が周りに何か言われることは……、」

つまり最初から諦めモードということか、とローゼは腹立たしい気分になった。

「そんな弱気でいてどうするんです? 前期を共に過ごすことになるパートナーなんですから、ちゃんと選ばなくては駄目です。ちゃんと探して駄目なら仕方ありませんが……。テア、貴方は自分のためにこの学校に入って学ぶことを決めたのでしょう?」

「はい」

「それならば、自分のためにパートナーを選ばなくては。周りは関係ありません。周りに何か言われたら、二人で乗り越えればいいんですから。ね、ちゃんと自分が組みたいと思える相手を探してみてください。私も協力します」

「探して見つかっても断られるかもしれませんが……」

「その時は慰めてあげます」

力いっぱい励ますように言われて、テアは苦笑した。

パートナーに関しては諦める気持ちが強かったが、もう少し学院生活の中で考えてみよう、と思う。

「登録期間が終わるまで……、頑張ってみます」

言いながら、組みたい相手か、とテアはふとディルクのことを思い出していた。






「ただいま」

ディルクも、テアを送った後、寮の自室に戻っていた。

彼に割り当てられた部屋は二人部屋で、当然の如くルームメイトはライナルトである。

学年が上がるにつれ一人部屋を割り当てられることが多くなるのだが、一人部屋だと二人部屋よりも経費がかかるので、二人は利害の一致を見て二人部屋を希望したのだ。

「お帰り。ピアノ科の練習は聴けたのか?」

「ああ、いや……」

ディルクは言葉を濁す。

珍しく発言を躊躇うようなディルクの様子に、おや、とライナルトはわずかに首を傾げた。

「何かあったのか?」

「……イメージ通りの音を見つけた、と思う」

「それは――良かったじゃないか」

ピアノ科の音を聴くのに苦戦しているようだったのに、と急展開にライナルトは目を見開く。

「ああ」

「もうパートナーの登録はしてきたのか?」

「話が飛ぶな」

ディルクは苦笑した。持っていた鞄とヴァイオリンケースをいつもの場所に置きながら、ベッドに腰かけているライナルトに答える。

「まだパートナーの申し込みもしていない」

「せっかく見つけたのにか」

「俺の相手は……苦労するだろうからな。慎重に話を進めた方がいいと思うのだが……、」

「そんなことを言っている間に誰かとパートナーを組んでしまうかもしれないぞ」

「それは……、そうなのだが……」

こんなに歯切れの悪いディルクも珍しい。

ライナルトはまじまじと親友を見つめながら尋ねた。

「相手に何かあるのか?」

「いや――」

テアのピアノはまさに理想の音だった。

彼女をパートナーとしたい、と彼女の練習を聴いていて強く思った。

しかし、今でさえ苦労している彼女にディルクが接近すればどうなるだろう。

それが、ディルクを躊躇わせる。

「それともお前、もしかして、怖いのか?」

「怖い? 何がだ?」

「断られるのが、だよ」

不意を突かれた気がして、ディルクは黙り込んでしまった。

そんなディルクにむしろライナルトが驚く。

ディルクは相手が誰であれ怯まず真っ直ぐに向かっていく性質だ。

それなのにそんな彼が足踏みをしているようだとは、ますますもって珍しい。

「……もしかしたら、それも少しはあるかもしれんな」

ディルクは己の心を振り返り、認めた。

こんなことも起こるものだと、ライナルトは意外に感じながら返す。

「……数時間で随分と執着したものだ。しかし、かけがえのない出会いとはそういうものかな」

「執着……と言うほどではないと思うが。そうだな――数時間などではない、もう何年も重ねてきた思いだからな……」

あの音には、何年も何年も、焦がれ続けて、ここまで来た。

逃がしたくないという思いが強く、遠ざかってしまうことが他の何よりずっと怖いから、慎重になる。

「手に入れたいなら後悔する前に行動した方が良い。大丈夫、既に決まった相手がいるなら話は別だが、そうでないならお前から声をかけて断る人間はいない」

確信に満ちた後の方の台詞に同意することはできなかったが、行動した方が良いという助言に、ディルクは頷いた。

「明日、また会いに行くよ」

あの音に――彼女に。




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