対峙 3
フリッツと踊った後、テアはまた一人になっていた。
ダンスの後、フリッツが他の友人に声を掛けられたので、遠慮したのだ。
――交際。
少し弾んだ息を整えていると、その言葉が頭の中を一人歩きし出して、テアは困惑した。
ただの噂だ。ディルクに関する噂など真偽に関わらずいくらでも流れているし、気にしたところで何の意味もなく、どうしようもない。
分かっているのだが、何故だろう、落ち着かない。
静かな所に行きたいと思って、テアは給仕係からひとつグラスを受け取ると、会場から抜け出すようにテラスに出た。
幸いにも他に人はおらず、テアはパーティに背を向けるように、手すりに前のめりに凭れ、俯く。
陽はもうとっくに暮れており、外は真っ暗だったが、会場内の明りが洩れて、地面の芝生がぼんやりと目に映った。
グラスからオレンジ色の液体をそっと口に含むと、胸の辺りがかっと熱くなる。
間違ってアルコールをもらってきてしまったと気付いたが後の祭りで、テアは小さく嘆息した。
テアは生真面目な性格だったが、今までにアルコールを摂取したことがなかったわけではない。
過去、母と旅をしている最中、金を稼ぐために酒場でピアノを弾くことが度々あったが、母は何事も経験などと言って、酒場の客がテアにアルコールを勧めるのを止めなかったし(さすがに度を過ぎる場合はもちろん止めていたが)、冬の寒さにはアルコールが一番だったのだ。
『何事も経験よ、テア!』と、自身も酒を飲んで言い切った母の姿を思い出して、テアは笑う。
一度口をつけてしまったし、もったいないので、と言い訳しつつ、テアはちびちびとグラスに口をつけた。
味は甘ったるくジュースのようなのに、喉元を過ぎれば身体の中を熱くするアルコールを口にしながら、そう言えば、他人の恋に触れる機会はあっても、それを自分のこととして考えたことはなかった、とテアは思う。
母は父との思い出を色々と語ってくれたけれど、テアは母とまだ見ぬ父が並んで立つところを想像するだけで何だか温かい気持ちになれて、それ以上は考えが及ばず。
ローゼとライナルトのことを聞いた時も、親友であり姉のような存在であるローゼが幸せであるようにと思うばかりだった。
確かに――母と父のような、ローゼとライナルトのような、そんな男女の結びつきは素晴らしいと思える。憧れないと言えば、嘘になる。
けれど、自分には資格がない。
少なくとも今は、母のようなローゼのような、そんな恋をする資格を持たない。
今はこうして無事にシューレ音楽学院に通うことができているけれど、それもいつまで続くのか、オイレンベルク家との因縁は消え失せたわけではなく、不確定要素は多い。
もし、大切な人ができたとしても、巻き込みたくはないから。
その人を守るためには、深く関わらないのが一番だ。
その人を……。
『……怪我は、ないか?』
『駆け付けるのが遅くなって、すまなかった』
「……!」
何故かその時――神誕祭直前に起きた事件のことを思い出して、テアは不意に胸を突かれたような気がした。
あの時も、もし何かのタイミングがずれたり何か予測もしないことが起こっていたりしたら――、彼が傷つくようなことも、あったかもしれない。
巻き込みたくないのに。
失いたくないのに。
彼だけは。
――彼、だけは……。
そう思って、ふとテアはグラスを下ろしていた手を止めた。
どうして今ここで、ディルクのことばかり考えているのだろう……。
いや、交際に関する噂について考えていて、その噂というのがテアとディルクに関するものだったのだから、別におかしなことではない。
おかしなことではないが……。
何だろう、これは何だろう――。
ちりちりと、胸が疼く。
久しぶりにアルコールを摂取したのが、やはり良くなかったのかもしれない。
考えがまとまらなくて、混乱して――。
「……テア?」
後ろから、聞き慣れた、耳に心地よい低音に名を呼ばれて、テアは肩を揺らした。
早くなった鼓動を落ちつけるように、テアはゆっくりと振り返る。
「ここにいたのか。見つけられて良かった……」
言葉の通りどこかほっとした様子で、パーティの賑わしさから遠ざかり近付いてくるのは、ディルクだった。
会場から漏れる明かりはあれども、夜の闇の中。彼の姿はそれでも眩しくテアの目に映る。
「すまないな、なかなかお前の所まで戻って来られずに……」
「いえ……」
ディルクは生徒会長として短い挨拶をしたのだが、その際にテアと別れたまま、挨拶後にあちらこちらから声を掛けられ引き止められて戻るに戻れなかったのだ。
「もう、いいのですか? 先生方や他の方と……、色々お話しすることがあったのでは?」
「いや、休みも終わってこれから毎日同じ学院で過ごすんだ。授業や仕事の話はこれからいつでもできる。今日は最初の挨拶だけして後はお前とのんびり気楽に食事でもしていたいと思っていたのだが……、ステージを下りた途端に囲まれて逃げるに逃げられなくなった」
お手上げと肩を竦めるディルクに、テアは思わず笑っていた。
「あなたがそういう風に言うのは、珍しいですね」
「そうか? 確かに……、たくさんの人と言葉を交わすことは大事だと思うし、勉強になることも多いから、人と接する機会は大切にしたいと思っているが……。こういう場は独特の雰囲気があるし、入れ替わり立ち替わり知り合いがやって来てどうも落ち着かないからな。何よりもやはり、親しい人間とゆっくりできるのが一番だよ」
ようやくそうできると言うように、ディルクはテアの前で肩の力を抜いて微笑を見せる。
親しい人間、とディルクが口にする一人がテアであることはこの場合明白で、嬉しいような照れくさいような気持ちで、テアはそっとディルクから視線をそらした。
交際、の文字がまた、頭に浮かんでしまう。
ディルクの言葉の意味はそうではないと、分かっているのに。
そう言えば、ディルクはその噂のことを知っているのだろうか。
もし、既に知っているのだとしたら。一体、どういう風に思っただろう。
もし、これから知るのだとしたら。一体、どういう風に思うのだろう。
困るのだろうか。
そう、それは、困るだろう。事実無根の噂なのだから。
だが、ディルクほどの人ともなると、これまでもきっと多くのこういった噂が飛び交っていたのだろう、とも思う。
ディルクの本当の気持ちなど、実際には知らぬまま、噂だけが。
ディルクの本当の気持ちは――。
「テア? 何だか顔が赤いが……、大丈夫か?」
「え?」
ふと気付けば間近にディルクの顔がある。
手を伸ばされて、テアは思わず後ろに逃げかけたが、すぐに手すりに背中がぶつかってそれは叶わなかった。
テアの額に、そっと大きな手のひらがあてられる。
「……っ」
「少し、熱いな。熱があるんじゃないか? 具合は?」
「い、いえ――」
体調には問題ない。
テアは首を振り、咄嗟に見えた手の中のグラスに言い訳を思いついた。
「その、間違ってお酒を飲んでしまったので……、熱いのはきっとそのせいです」
「酒? ……お前は確かまだ――」
「ええ、その、……すみません」
神妙に頭を下げたテアが何だかおかしくて、ディルクは笑いを零した。
「いや、そんな風に謝らないでくれ。俺も人のことは言えない。テアの年にいかない頃から、飲酒も含め『何事も経験』などと言って色々やっていたものだからな――」
それに、今度はテアが小さくふき出す。
「……母も、同じようなことを言っては無茶をすることがありました」
「それは気が合いそうだ」
「傍から見ていると心臓に悪いんですよ。でも……、すごく楽しそうで、なんだかんだと最終的には私も同じようなことをしていたりやらされたり……」
その後、けろりとしているテアとは対照に、身体の弱い母は寝込むことが多かったのだが、それも良い思い出だ。
呆れながらも心配して看病するテアの前で、母は熱を出しながらも『昨日は楽しかった! またいっしょにやりましょうねテア!』と、元気に言っていたものである。
それでテアが当然のごとく駄目だと言うと、唇を尖らせて、こう反論してくるのだ。
『あなたのお父さんなら付き合ってくれたわよ。……でも、何だかんだ言いながらテアも付き合ってくれるのよね。やっぱり親子、そういうところも似るのね――』
それは単に父もテアも母が大事だから放っておけないだけだ、と思ったけれど、母の慈しむような表情にテアはいつも何も言えなくなった。
そして、母は大抵こう続けたのだ。
『ええ、でも、テアがお父さん似で良かった。本当に優しい人だったもの。例えばあの時だって――』
耳にたこができそうなほど何度も聞かされた、父と母との惚気話。
具合を悪くしているのだからもっと安静にしていないとと思うのに、母があまりにも楽しそうだから、いつもテアは大人しく聞いてしまっていた。
『テアもいつか見つけるわ。あなただけの、特別なひとりを――』
そうなのだろうか。
母の言葉に、テアはいつだって半信半疑だった。
逃げて逃げて、逃げ続ける日々がずっと続くのだと思っていたから。
けれどこうして、幼い頃は予想もできなかった穏やかな日々の中に、テアはいる。
そして、大切な人も、今、目の前に……。
「一体どういうことをしたのか聞いてみたいものだが……、……テア? 酔っているのか?」
知らず知らず、じっとディルクのことを見つめてしまっていたテアは、慌てて視線を逸らした。
だがその拍子に眩暈のようなものを覚えて、ほんのわずかよろめく。
それをディルクは咄嗟に、けれどちゃんと支えて、労わるように囁いた。
「大丈夫か?」
「は、はい……。すみません……」
「酒に弱い体質なのかな。俺のパーティでの仕事はもういいし、寮に帰ろうか。明日から授業だしな」
だがまだ、パーティ終了時間までは間がある。
テアが一人で帰るのはいいが、ディルクまで早々に寮へ帰らせてしまっては何だか申し訳ない気がした。
「いえ、でも、あの……」
「気にするな。行こう」
だが、そんなテアの逡巡も分かっているのだろう。
ディルクは屈託なく笑うと、テアが持っていたグラスを奪い、テアを支えるようにその背中に手を回して、出口へ向かうために賑やかな会場へ戻っていく。
パーティのざわめきは、変わらない。
けれどいくつもの視線を感じて、テアは思った。
こんなに大勢の生徒がいる前でこんなに密着していては、ますます例の噂に拍車をかけてしまうのではないだろうか……。
とはいえ急に身体を離せばディルクは気分を害するかもしれないし、それはそれで妙な印象を与えるかもしれない。
何よりも、テア自身が望むのが――。
「……やはり少し、酔ってしまったようですね……」
彼の手のひらが置かれた部分を、とても熱く感じるのも、きっと、アルコールのせい。
ディルクの言うとおり早く帰って寝た方が良さそうだと、テアはディルクのエスコートに従ってパーティ会場を後にした。