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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第5楽章
54/135

聖夜 22



「皆さんにも…、ご迷惑をおかけしてしまって、すみませんでした」

アロイスを見送って、テアは友人たちにも深く頭を下げた。

それにローゼは眉を吊り上げる。

「もう、テアのそういう律儀なところは嫌いじゃありませんけど、いちいちそんなことしなくっていいんですよ。大体今回のことで迷惑をかけてきたのはあの男たちの方で、テアはなんにも悪いことなんてしていないじゃないですか」

腰に手をあててはっきりと言うローゼに、テアは顔を上げて曖昧に笑った。

「ああもう、思い返すだに腹立たしい奴らでした! もっと痛めつけてやればよかったです。一体誰がどういうつもりで送りこんできたのやら……、その辺りはフューラーさんの連絡を待つことにしますけど、はっきりしたら首謀者に関してはただじゃおきませんから」

ローゼの剣幕にライナルトは苦笑しながら、宥めるように言う。

「それはそうとして……、駅へ向かうか。冷え込んできたことだし……」

他の三人はその提案に頷き、テアはずっと抱えたままだったヒールを履こうとして、ふと手を止めていた。

「あ……」

片方のヒールが、折れてしまっている。

先ほど、黒服の男の顔面を打ったせいだ――、とすぐに分かった。

やってしまった、とテアは困ったように眉を寄せる。

「テア、ヒールが?」

テアの挙動を見守って、本当に怪我などないか確認していたディルクが声をかける。

「はい……、折れてしまったみたいです……」

「これは――、ここで直すというのも難しそうですねえ……」

ローゼもそれを見て顔を顰めた。

ディルクはさらにあることに気付いて、顔を険しくする。

「……テア、もしかしてずっと素足のままで走ってきたのか?」

「ええ、私はローゼのようにヒールで走ることに慣れていませんから――」

当然のように返したテアに、頭を抱えたくなった面々であった。

「ローゼ、テアの足を……」

「はい」

言われずとも、とディルクの言葉に、ローゼは道の脇に置かれた木箱にテアを座らせて、テアが戸惑うのにも構わずその足の裏を診た。

「切ったりはしていないようですけど、擦れて赤くなっていますね……。霜焼けには幸いなっていないようですが。鉄道に乗ったら救急箱を借りて消毒させてもらうことにして……、今はハンカチを巻いておきましょう」

「ローゼ、大丈夫ですよ、これくらい……」

「これくらい、じゃありません!」

きっぱりと撥ね退けて、ローゼはハンカチを取り出す。

「じゃあせめて自分でやらせてください。汚いですから……」

しかしローゼはテアの言葉を無視して、さっと応急手当をしてしまった。

「全く、もっと自分の身を大切にしてくださいよ……。こんなに冷えた地面の上をずっと走ってきただなんて……。仕方がなかったとは思いますけれど、血が出てないのは幸いに過ぎるくらいです」

「すみません……」

テアは頭を下げるしか術を持たず、謝罪の言葉を繰り返すしかない。

「だが、どうする? このままテアを歩かせるわけには行かないだろう」

「大丈夫です、歩けますから」

ライナルトの言葉にテアはそう返したが、誰も賛同しなかった。

ただ、ディルクがさっとテアに近付き、驚いた顔のテアを横抱きにして抱き上げてしまう。

「ディ、ディルク――」

「これで問題ない。駅の周辺まで行けば靴の代わりも見つかるだろう」

戸惑いの声を上げるテアに構わずそう言うと、ディルクはそのまま歩き出した。

素晴らしい、とローゼは目を細め、苦笑を浮かべるライナルトとそれに続く。

「ちょ、ちょっと待ってください、こんなの、駄目です。下ろしてください――」

ただ一人、テアはディルクの腕の中で頬を紅潮させながら抗議した。

「ヴァイオリニストのあなたが、こんな重いものをずっと持っていくなんて、いけません……!」

そうやって、自分のことを「こんな重い物」と主張し、ディルクを案ずるテアに、ディルクは思わず口元を綻ばせる。

その時ようやく、随分と自分は緊張し怒りもしていたらしい――とディルクは自覚した。

学院祭の時と、同じように。

テアを失ってしまう可能性に、怯え、身を強張らせていた。

ただ、待つことしかできなかったあの時とは違い、テアの足取りを追って自分で足を動かすことができたから、こういう言い方をするのも妙だが、まだ良かった。

あの時アロイスが無理にでもディルクたちを止めようとしていたのなら、もしかしたらアロイスを殴り飛ばしてでも、ディルクはテアの元へ駆けつけようとしたかもしれない。

絶え間ない焦燥にかられて。

だが、もう一つ、あの時と異なることは――。

今回は本当に、テアが死と隣り合わせの位置にいた、ということだ。

改めてテアが銃口を向けられていた光景を思い出して、ディルクは身震いしそうになる。

自分が銃口を向けられてもこうはなるまい。

もし、駆けつけたのが自分ひとりだけだったならば、とディルクは白藍の瞳に物騒な色を浮かべて思った。

全員、手加減も忘れて殺していたかもしれないな、と。

失うかもしれないという恐怖――それを与えようとした相手に対する怒りが、ディルクの胸の内に滾る。

『首謀者に関してはただじゃおきませんから』と言ったローゼに、ディルクは全面的に賛成だった。

一体どこの誰がどんな理由でこんなことをしでかしたのは知らないが、その犯人を決して許しはすまい――。

「……大丈夫だ。駅までお前ひとり運んだところで支障をきたすような軟な腕じゃない」

まだ恐怖と怒りの残滓は強く胸に残っているものの、こうしてテアに触れていれば自然と固くなっていた心も解れてくる。

ディルクはようやく自然な表情でテアに微笑みかけた。

「ですが……!」

「それに、こうしていると安心できるんだ」

反論を封じるように言われた言葉に、テアは首を傾げた。

「え……?」

「お前が無事だったと――実感できる」

真っ直ぐ前を見つめて告げるディルクに、テアは言葉を失う。

それほどまでに強く心配され、案じられていたのだと、分かって。

遠い昔、抱きしめてくれた母の腕を思い出す……。

テアはようやく身体の力を抜き、けれどなるべくディルクの負担にならないように寄り添った。

「……ごめんなさい、ディルク……」

その囁きは、多分ディルクの耳にも届いただろう。

けれど彼は何も言わなかった。

ただほんのわずか、テアを抱きかかえる手に力がこもって、それはまるで、気にするなと伝えるようで……。

『俺のパートナーとして共に音楽をやらないか』

あの時、頷かなければ良かったのだろうか、とテアはディルクの体温を感じながら思った。

あの時、この手を取らなければ、彼にこんな心配をかけることもなかった……?

けれど、そんな後悔は間違っている。

それは、テアの母がテアを産んでくれたことを否定するのと同じようなもの。

小さかった頃、テアの存在があったからこそオイレンベルクは親子を追ってきた。

だからテアはずっと、思っていたのだ。

私さえ、いなければ……、と。

けれどそれを表に出すことは決してしなかった。

母が悲しむと、分かっていたから。

テアがいてくれてよかった、と言ってくれる母を傷つける考えだと、分かっていたから。

だから、あの時ディルクの手をとった自分の選択も、テアは否定しない。

それこそがディルクを傷つける行為だと、分かるからだ。

――私はこれからもこの方と共にある。

少なくとも、このパートナーの関係が続く限り。

ディルクが、望んでくれる限り。






テアたち四人は、鉄道の発車時刻に間に合うように駅に到着することができた。

駅にはすでにアロイスが手配してくれた彼の部下が四人の荷物を持ってきてくれていて、その辺りの受け渡しもスムーズに進み、またテアの靴の代わりと足の消毒も終えることができた。

結局駅までディルクに運んでもらうことになってしまったテアは恐縮しきりだったが、縮こまるテアをローゼが引っ張って、四人は一つのコンパートメントを占領することに成功する。

やがて、四人を乗せた鉄道は、時間になるとゆっくりと発車した。

「なんだかあっという間でしたけど、もう冬休み、なんですねえ……」

ようやく腰を落ち着けてほっとすることができて、窓際に座ったローゼはしみじみと呟いた。

「とはいえ、冬休みが明けたらすぐに試験ですから、あんまりゆっくりもしていられませんが。試験前には生徒会役員選挙も控えていることですし……。特にライナルトやディルクは、去年大変そうでしたよね」

その言葉に、ローゼの隣のライナルトが頷く。

「ああ。だが今年は引継資料も作ってしまったし、あとは選挙管理委員がしっかりやってくれるだろうから、まだ気が楽だ」

「しばらくは色々と担ぎ出されるかもしれないがな」

苦笑するディルクに、テアは少し前から疑問に思っていたことを尋ねた。

「今年はお二人とも立候補しない予定と伺いましたが……、何故とお聞きしても?」

惜しむ声は山とあるだろうし、ディルクもライナルトもやりがいを持って務めていたと思うのだがと首を傾げる。

「生徒会よりもずっと大きなものをつくり上げようと言うから、そちらの方が余程面白そうだと思ってな」

テアの疑問に、ライナルトはそう答えて正面に座るディルクに視線をやった。

ディルクはライナルトを物言いたげに見やったが、やがて不思議そうな顔をする女性陣に向けて実は、と口を開く。

「もう少しちゃんとした形になってから言おうと思っていたのだが……。――新しく、楽団をつくろうと思うんだ」

それは、ローゼも初耳だったらしい。テアと二人で驚きの表情になった。

「それは、学院の中で、ということですか? それとも――」

それにディルクははっきりと告げる。

「ロベルト氏のように……、たくさんの国で様々な聴衆に音楽を楽しんでもらえるような楽団をつくりたい。今はまだその準備段階だが、夢で終わらせるつもりはない。卒業したらすぐにでも国内で演奏する機会をつくるつもりだ」

告げるディルクのその瞳には、冷静さと熱意が同居している。

本気なのだ、と誰もが疑わない真っ直ぐさだった。

「……実を言うと、学院に入学した当初目指していたのはロベルトの楽団に入団すること、だったんだがな」

懐かしそうに笑ってみせて、ディルクは言う。

「音楽を学ぶうちに、やりたいことが大きくなっていって……。指揮科に転向したのも、だからなんだ。自分ひとりで奏でるのでもいい、アンサンブルも楽しいと思う。だがもっと多くの人と、一緒に音楽を楽しみたい……。一人ではできないことをやってみたいと、そう思うようになったんだ」

ディルクではなく、他の人間が語ったならば、それは本当にただの夢だったかもしれない。

けれど、彼ならきっとその夢を現実にしてしまえるだろう……。

そんな気持ちにさせられるものが、ディルクにはあった。

テアは感嘆して、素直に応援の言葉を口にする。

「あなたなら――きっとできます。きっと……」

黄金の瞳が確信を持って、ディルクを見つめた。

ディルクは一瞬息を呑み、照れと嬉しさの混じる微笑を口の端に浮かべる。

「ありがとう……。お前にそう言ってもらえると、これからも頑張っていけると思えるよ」

そして誤魔化すように、軽い口調で続ける。

「だが、その時はお前の後見人の聴衆をかっさらってしまうかもしれないが」

「おじさんも、負けてはいられないとこれまで以上に熱心にやっていくでしょうから、分かりませんよ」

まだ見ぬ未来に期待を寄せながら、テアも悪戯っぽく返した。

「ですが、おじさんのライバルの調査も兼ねて、是非聴きに行きたいです。最初の公演のチケットを、今から予約しておいてもいいですか?」

「ああ。では、お前が一番の客だな」

「では二番手は私で」

「了解だ」

ローゼが挙手するのにディルクはまた頷いて。

「これで、少なくとも聴衆がゼロということはなくなったな」

最後にライナルトがそんな風に言って、四人で笑い合ったのだった。




「あっ!」

そうして、鉄道が走り始めてしばらくして。

談笑していた四人は、外が暗闇に包まれているということもあって、ほとんど外に視線を向けていなかったのだが、ふと窓に目をやったローゼが声を上げた。

「雪ですよ、雪!」

それに、他の三人も窓の外へ目を向ける。

「初雪、か……」

ちらちらと舞い始めた六花は、暗闇の中でも――だからこそか、なかなかに風情のある光景を見せていた。

「じっとしているからこんなにも寒さを感じると思っていたのですけど、実際に随分冷え込んでいたんですね……」

しばらく四人はじっと流れて行く外の景色を見つめていたが、やがてすっくとローゼが立ち上がり言った。

「私たち、ちょっとオープンデッキに出てきますね。そこからの眺めもきっと素敵でしょうから」

たち、と言った通り、ローゼの腕はライナルトの腕を掴んで引いている。

ライナルトは苦笑しながらも立ち上がって、行ってくる、とディルクたちに告げた。

「風邪をひかないように、気を付けてくださいね」

二人の邪魔をするのもなんだと、ディルクもテアも同行するとは口にしない。

「大丈夫ですよ。これくらいで風邪を引くほど軟じゃありません。じゃあ、行ってきますね」

コンパートメントのドアを開け放ちながら、ローゼはディルクに目配せをした。

その意味を明確に読み取って、ディルクは目で軽く頷いてみせる。

寄り添って通路の向こうに姿を消したローゼとライナルトを見送り、テアはゆっくりと今度は反対方向の窓の方へ首を向けた。

夜の雪は、幻想的なまでに美しい。

だが、テアは雪というものがあまり好きではなかった。

ピアノの音も、近くの温度も、全てが雪に吸い込まれ奪われてしまうような気がするから。

幼い日――凍えそうな夜のことが思い出される。

寒さのために母の体調が思わしくなかった時、その小さな咳の音でさえしんしんと積もる雪にかき消されていくようだった。自分の身体が冷えていく中で、母の温もりまでこの雪で失われはしないかと、テアは何度も何度も母の温度を確かめずにはいられなかった。

その恐怖を、今でも思い出して――。

隣のディルクでさえ気付かないような、ほんの小さな溜め息をテアは零す。

「……三月の、雪の上のダイアモンド……」

その時、そんなディルクの呟きが聴こえて、テアは顔を上げた。

すぐにディルクの白藍の瞳と目が合って、何故か動揺してしまう。

「し……シベリウス、ですね」

「ああ、何となくそれを思い出したよ……」

見つめられながら告げられて、テアはその歌曲の詩を思い出した。

顔が熱を覚えそうになるのを誤魔化すように、テアはディルクの腕に目を落とす。

「あの、本当に腕は大丈夫でしたか……?」

「お前は先ほどから、そればかりだな」

ディルクに横抱きにされている間も、その腕から下ろされてからも、テアはずっとディルクの心配ばかりしていた。

ディルクはその心配を吹き飛ばすように軽く笑う。

「本当に、大丈夫だよ。これからタクトを振れと言われてもすぐに振れるくらいにはな」

「それならば、良いのですが……」

「俺のことよりも、お前のことだ。お前は平気だ、と言うが、あれだけずっと走って逃げ続けて……。時間が経ってからどこか痛むということもありえないではないし、あんな輩に囲まれて……」

ディルクが気にかけてくれていることが分かって、テアはそっと微笑した。

ディルクは、命を狙われずっと走って逃げ続けたテアの身体と、そして精神の両方を思いやってくれているのだ、と。

「私も……本当に大丈夫ですよ。小さい頃からの旅のおかげでこれでも体力には自信がありますし、モーリッツさんにも一応扱かれていましたから、あんな連中、どうということはありません」

強がりではない、テアの言葉。

だが、いたって平然としているテアだからこそ余計に、ディルクは気掛かりだった。

ローゼから聞いた、テアの過去の断片。

テアにとっては、過去に何度か遭遇したような出来事だったのかもしれない。

けれど、慣れているから大丈夫だ――などとは思ってほしくなかった。

あんなことに、慣れるべきではないのだから。

けれどそんなディルクの思いも見透かしたように、テアは続けた。

「銃口を向けられた時は……、どきりとさせられましたけれど……。私は決して死なない、と思っていましたから」

テアは落ち着いた、しっかりとした声で言う。

「どちらかというと、死ねない、に近いですが……。私にはまだやりたいこともありますし……、私という人間を受け入れてくれる人たちのところへ絶対に帰るのだと決めていましたから。何があっても、最後まで抵抗するつもりでした。例え発砲されても、避けてやるくらいの気持ちで……。これでも、意外にタフなんですよ。だから、大丈夫です。それに、もし何か異状が出てくるようなことがあれば、きちんと伝えますから……」

テアの言葉は、死を遠くにあるものだと、その存在を避けて言う根拠のないものではなく。

死の存在を身近に感じながらも、それに屈しない強さを秘めたものだった。

痛みや恐怖に鈍くなるのではなく、それを感じながらも打ち克とうと言うのだ。

その強さに、ディルクは敬意を感じて目を伏せた。

「お前は、すごいな……」

「え?」

小さく呟かれた言葉がはっきりと聞きとれずに首を傾げるテアに、ディルクはもう一度言った。

「お前はすごい、と言ったんだ。……あの男に食らわせていた蹴りもなかなか見事に入っていたし……」

「みっ、みみみ、見ていたんですか!?」

ディルクたちが登場してきたタイミングからして、見られていたかもしれない、とは思っていたが、それを事実として認識させられテアは赤面した。

「ああ……。あれは効いただろうな……」

重々しく告げたのは、わざとだった。

このまま話を続けてテアに負担を強いるのも嫌だったし、自分が何かしらの感情に従って何かを口走ってしまいそうで――。

「忘れて下さい、綺麗さっぱり消去してください」

そうやって必死に言い募るテアには、先ほどの一撃を放った人物とは思われない可憐さがある。

「そうだな、忘れてもいいが……」

ディルクはそんなテアの様子を堪能しながら、ローゼの目配せを思い出して、今が良いタイミングだなと、ポケットの中にそっと手を入れる。

「その代わりに、これを受け取って欲しい」

「え?」

差し出された物を反射的に受け取ってから、テアは手のひらに置かれたそれをぱちぱちと見つめた。

青と白のボーダー模様の包装紙で包まれ、青のリボンで飾られた、手のひらに乗るサイズの箱は、どう見ても。

「神誕祭、だからな。これまでもお前には世話になったし、今日はお前のおかげでロベルト楽団の演奏会にも足を運ぶことができた。その礼だ」

「そんな、いつもお世話になっているのは私の方で――」

首を振るテアにディルクは笑った。

「いいから、開けてみてくれ」

「は、はい……」

促されて、テアはぎこちない手つきで、それでもなるべく綺麗なままにと包装を剥がしていった。

出てきたのは、紺青色をしたビロードのケース。

それだけでいかにも高級感があるような気がして、テアは触れるのを躊躇ってしまった。

「大したものでなくて、悪いが……」

さらりと、しかしテアがなるべく気にしないようにと思いを込めて、ディルクは告げる。

そうしてテアがそっとケースの蓋を開けて出てきたものは、天然石を散りばめた美しい装飾のバレッタだった。

「綺麗、ですね……」

その輝きに、テアは見入ってしまう。どう見ても、「大したものではない」というような物には見えない。

「あの、でも……」

「留めやすい金具のようだし、これならお前でも大丈夫だろう? 読書の時や勉強する時、髪を束ねるのに使ってくれ」

ディルクが、読書の際などにテアの手元が暗いのではないかと気に掛けてくれたことを思い出して、ずっと気にしてくれていたのか、とテアはその気持ちだけで胸がいっぱいになるような気がした。

「ディルク――」

「受け取って、もらえるだろうか?」

真摯に尋ねられ、テアは手のひらの上に乗ったケースをぎゅっと抱きしめる。

自分がこの贈り物を頂いてしまっていいのかと、躊躇いが全くないわけではないけれど。

「はい……、あの、ありがとうございます……。すごく……嬉しいです」

「……良かった」

微笑んだテアに見上げられ、それを直視できないながらもほっとして、ディルクも微笑む。

「テア、よければ少し、お前の髪に触れさせてもらえないか?」

「え、あ、は、はい……」

楽しそうにディルクはテアの手元のバレッタを取り上げて、テアはその様子に頷いていた。

ディルクはどこからともなく櫛を取り出して、結われていたテアの髪を一度ほどいてしまう。

さらりと零れた髪に、まるで宝物でも扱うように櫛を入れられ、その大きな手のひらに、テアはどきりとした。

心臓が、うるさい、とテアは思って。

ディルクがテアに触れていた時間はそう長くなかったのだが、テアにとってはとても長く、そしてとても短くも感じられたのだった。

「……どうだろう、不快感や痛みはないか?」

「はい……」

後ろですっきりと髪がまとめられているのをテアは感じて、頷いた。

そっと後ろに手をやると、バレッタの冷たい感触にあたる。

先ほどまで高い位置でまとめられていた髪だが、それよりも下の位置でシンプルに留められているので、ずっと楽に感じた。

いつもとは違う感触に、テアはわずかの戸惑いを覚えながら、ディルクを見上げる。

「やはりお前の髪に……よく、映えるな」

神々しいまでの微笑みで、ディルクは言って。

テアはそれを真正面から見てしまい、眩しい太陽を直視してしまったかのように顔を熱くした。

「……本当に、先ほどの蹴りも忘れてしまいそうだ」

「ディルク!」

その軽口に思わず声を上げ、テアは一瞬前とは違う意味で体温が上がるのを自覚した。

ディルクが喉の奥で楽しそうに笑うのを見て、唇を尖らせる。

「……もう、本当に忘れてください」

テアは頬を紅潮させ、けれどいつまでもディルクが笑っているので、話をそらすように自身のバッグに手を伸ばした。

「……今が良い機会なので、私もお渡しします」

こほん、と小さく咳払いをして、小さな袋を手にする。

「あなたから頂いてしまった後で、こうしてお渡しするのもなんだかやりにくいですが……。その、私も、神誕祭のお祝いと、いつもお世話になっているお礼……です」

その言葉の後に差し出されたシンプルな袋に、ディルクは目を見張った。

自分が渡すことばかり考えて、もらうことは全く考えていなかったので、予想外の喜びが胸を満たす。

「その、こういう贈り物をする機会が今までにあまりなくて……、少しでもお気に召していただければ良いのですが……」

台詞通り、自信のなさそうな様子で差し出されたそれを、ディルクはしっかりと受け取った。

「いや……、ありがとう。……開けてみても良いか?」

「はい」

ディルクは慎重な手つきで、小さな袋の中から贈られたものを取り出した。

それは、とても綺麗な音でしゃらり、と音を立てて、ディルクの手のひらの中で転がる。

「これは……、オルゴールボール、か」

ディルクの親指の先ほどの大きさで、一見したところは、簡単に言ってしまえば金属のボール。

それはけれど青みがかった色で光を反射して、まるで満月のように美しかった。

「はい。……いつもディルクは生徒会長として、寮長として立派に仕事を果たしていて……、勉強に関しても演奏に関してもその努力は簡単に真似できるものではありません。けれど、だからこそ……、時にはこういうものででも、ほっとしていただけたらなと、思って……。……すみません、何だか、生意気でしたでしょうか……」

「いや……」

小さくなるテアに、ディルクはまた輝くような笑顔を向けた。

「そんな風に言われるほどのことはない、と思うが……。お前がそんな風に俺のことを気に掛けてくれるというのは……、本当に何より、嬉しいことだよ」

心からディルクは告げて、手のひらの上でその贈り物を転がした。

しゃらり、しゃらりと、癒しの音が奏でられる。

――まるで、テアのピアノのようだ。優しく綺麗で繊細で……。俺を、満たす――。

「ありがとう……大切にするよ」

「私も――大事に、使わせていただきます」

そんな風に微笑み合う二人の胸には、冬の寒さも関係なく、ただ温かい灯が燈っていた。




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