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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第5楽章
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聖夜 20



何故こんな追いかけごっこをすることになってしまったのか、と先ほどまでテアに銃口を向けていた黒服の男は思った。

たかが子娘一人相手にここまで苦労することになるとは、昨日まではまるで思っていなかったことであった。

容易く捻り潰せてしまえそうな華奢な背中は、暗闇の中を躊躇いを見せることなく駆けて行く。

長い距離を走ってきて、そろそろ疲れをみせてもいいはずなのに未だそれはなく、距離はなかなか縮まらない。

彼女が角を曲がる度、その姿を見失いそうになって、ひやりとした。

ひらりひらりとスカートの裾が揺れて、追い詰めているのはこちらの方なのに、玩ばれているような、そんな気すらしてくる。

裏社会に身を置くこの男に、今回の依頼があったのは、一週間ほど前のことだった。

依頼があると呼び出しを受け、行ってみれば依頼人の代理だという身なりの良い女が待っており、おもむろにこう切り出したのだ。

ある人物を指定した場所に連れて来てほしい、と。

できれば生きたまま、多少なら怪我をさせても構わない。ただ、字を書いてもらわねばならないので少なくとも片手は何の問題もないように。

淡々と、女は続けた。

だが、いざという時は殺してしまっても構わない――。

いっそ、さっさと殺してくれと依頼された方がまだ簡単だったかもしれないと、その対象の人物を追いかけながら、男は歪んだ笑みを浮かべる。

いざという時は殺していいと言われたものの、できる限り生かしておけというのが依頼主の意思。銃弾一つで殺すことは容易いが、ここで手を出してしまうのは、短慮に過ぎるというものだろう。

男の都合としても、できれば対象を手に掛けたくなかった。「クンストの剣」に守られている人物だ。そんな相手を連れ去るだけならまだしも、万が一にでも手に掛けてしまったら……、間違いなく、消されるのは男たちの方だった。

「クンストの剣」のことさえなければ、こんな依頼――、と男は思う。

「クンストの剣」が関わっておらずとも仕事で手を抜くつもりはないが、とにかくその存在はあまりにも目障りだった。

テア・ベーレンスはシューレ音楽学院に在籍し、そこで生活をしており、警備の目があるそこから滅多に出てこない。ほとんどない外出の際も、「クンストの剣」を伴っている。

そうであるから、依頼人は冬休み、対象が学院の外に出る時を狙えばいいと告げた。

しかし学院から出て対象が帰省のために向かうのは、「クンストの剣」が統べるブランシュ領。それにはもちろん、「クンストの剣」も同行する。

だから、学院からブランシュ領へ入るまでの時間。対象がひとりになった瞬間を逃さないようにしなければならない。

今日一日、対象が学院を出てから、男は依頼人が集めた他のメンバーと気を尖らせながら、ずっと彼女が一人になる時を狙っていた。

だが、チャンスはなかなか巡って来ず……。

結局、残された時間が少なくなり、思いきった手を打つことになった。力づくでも「クンストの剣」を遠ざけ足止めし、目標を孤立させる、というシンプルで手荒で、けれど有効な策だ。もちろん警戒したのは「クンストの剣」だけではなく、劇場の廊下には見張りを立たせたし、対象の友人らしい男性たちにも見張りをつけ、間違いの起らぬようにした、つもりだった。

それなのに、作り上げたその絶好の好機ですら、対象を捕えるには至らず――。

それでも、とにかく対象が同行者と離れ、一人きりになった今しか依頼を果たすことはできまい、と男たちは彼女を追いかけ続けているのだった。

全く厄介な依頼を引き受けてしまったものだと、男は思う。

一体どこの誰が何の目的で、と問いたいのは、実は彼も同じだ。依頼人の代理の人間とは対面したが、結局男は依頼人の名も聞かないままで、何故対象の人物を連れていく必要があるのかも、教えてはもらえなかった。知りたくはあったが、男も敢えて尋ねはしなかったのだ。より多くを知ることがいかに危険なことか、彼はよく弁えていた。

一方で、この依頼を引き受けない、という考えは最初からなかった。男の仕事に楽で安全なものなどありえないし、仕事を選べる状況でもなかったのだ。示された報酬は莫大なもので、簡単に首を振るのは躊躇われたし、その報酬の金額からしても依頼人が只者ではないということは分かったから、断れば今後この世界で生きていくのは難しくなっただろう。

それにしても、「クンストの剣」を常に隣に置き、大層な依頼人に狙われる、テア・ベーレンスという人間は一体何者であろうか。

少なくとも、普通の学生ならば男のような人間に銃口を向けられて平然としていることなどできはしないし、こんな風に逃げ続けることも難しいだろう。

詮索は無用と分かりながらも、男が余計なことを考えていた時だった。

狭い石畳の道に入りこんだ対象が、急に立ち止まってこちらを向いた。

よくよく目を凝らせば、少し先は行き止まりだ。

ようやく観念したかと思うが、しかし彼女は、まだ距離があるとはいえ、複数の男相手に、不敵な、表情で。

「……あなた方の雇い主は、フォン・オイレンベルクですね?」

そう言った。






テアは劇場隣の森を抜け、石畳の街の中を走っていた。

テアはローゼのように、高いヒールで動き回ることに慣れていない。

窓から飛び降りる際に脱いだヒールを小脇に抱えて、彼女は素足のままだった。

陽が沈んでからもう随分と時間が経っており、石の道はすっかり熱を失って、冷たい。

しかし走り続けるテアの身体は熱かった。

白い息が短く吐き出され、すぐに暗い空気に溶けて消える。その、繰り返し。

勝手の分からない街の中で、できれば人が多い場所にと思ったが、その願いに反してどうやら人気がない路地に入りこんでしまったようだった。

だがそれはそれで、悪くはなかった。他人を巻き込むことを考えずに済むし、いくつもの曲がり角でなるべく方向を変えるようにすれば、追ってくる男たちをいくらでも翻弄できる。

ローゼのようなドレスでなくて良かった、と足に触れるスカートの感触に、テアはつくづくと思う。テアのドレスは短く、ふわりとしていて動きの邪魔をしないが、ローゼのドレスは足に纏わりつきそうで、見るからに動きにくそうな塩梅だった。あれで戦おうと思えば戦えるローゼを、テアは素直にすごいと感心し尊敬する。

だが、動きやすいものの、気になってしまうのは、スカートの丈がやや短めなので、足が人の目に触れる面積が広い、ということだ。こういう状況だから仕方がないが、ディルクたちがいたらこんな走り方はできなかっただろう。

昔は……、もっと長めのスカートで、もっと動きやすいシンプルなワンピースだったから、何も気にせずに走っていられた。何よりもまだ子どもで、羞恥心もそう、なかったように思う。

月が皓々と照らす宵闇を見上げて、テアは過去のことを思い出した。

思い出す小さなテアも、こうして見知らぬ街を駆けていた。

命を狙ってくる追っ手を振り切るために。

母と、二人で。

そう、あの頃はいつだって、母が隣にいてくれたのだ。

だから、追っ手のことが恐かったけれど、恐くなかった。

母がいてくれれば、二人でいれば、きっと大丈夫だと、信じていたから、走り続けることができた。

一人ではなかったから、母が生き抜く事を願ってくれたから、強く地面を蹴って駆け出すことができた。

時には、母に隠れていてもらい、小回りの利くテアが一人で追っ手を撒くようなこともあった。

その時でも、一人だったけれど、独りではなかった。

母は必ずテアのことを待っていてくれる。そう知っていたから。

そうして追っ手を撒いて母の元へ誇らしげに戻れば、テアの無事を確認するように、母はいつだってテアを強く抱きしめてくれた。心配してくれた母に対して不謹慎だったかもしれないけれど、その温かさがテアは好きだった。

ここが自分の帰る場所なのだ、と実感できて。

母に望まれていることで、命を狙われ死を望まれているテアでも、生き続けることを許されているような気がして。

それでは、今の自分はどうなのだろうか。

テアは自問する。

母は、もういない。

だからといって、易々とこの身を相手に委ねていいのかといえば、答えは否だ。

母はもういないけれど、命をかけてテアを生み、その生をずっと願い続けてくれたその人のために、テアは生き続けなければならない。

例えテア自身が己の命を軽んじていたとしても、それでもこの命は母の願いのために守らなければならない。

それに、あの頃も、今も、こうして一人で走り続けているとしても、テアは独りではない。

それをちゃんと、テアは理解している。

母がいなくなってしまっても、テアには新しい帰る場所がある。

そこに、きっと、帰るのだ。

月の光を受けて駆けながら、ピアノが弾きたいとふとテアは思った。

思えば今日は朝からピアノに触れていないのだ。

だから、早く帰ろう。

思いながらも、襲ってくる寂しさがあって、テアは涙の気配にごくりと息を飲んだ。

感傷に流されていてはいけない。

今はただ、生き延びる、術を。

テアはまた角を曲がりながら、塀に見つけたくぼみに、追ってくる男たちには気付かれないように素早く、持っていたヤドリギの実を押し込んだ。

先ほど森で取ってきた、小さな実である。

もしかしたら、誰かがテアを助けるために追ってきてくれるかもしれない。そこで、テアの通ってきた場所が分かるように考えた印がこれだった。

相手が気付いてくれるか分からないがやらないよりはまし、という程度の気休めだが、テアが確実に劇場に戻るための一手段としても悪くはない、と考えたのだ。

ただ来た道を戻るというのは追っ手のことを考えても無理だろうから、おそらくまたよく知らぬ道を行くことになるだろうが、違うルートで戻るにしても、来た道を分かるようにしておけば助かることもあるだろう。

とはいえ、テアは追っ手を撒いた後のことはあまり心配していなかった。月明かりでいくらか心許ないものの、星空で方角を確認することを怠っていなかったし、幼い頃からの慣れもあるから何とかなるだろうと、その点は楽観視している。

問題はどうやって追っ手を撒くかだ。

相手はつかず離れずの距離でずっと追いかけてきているし、何かしらこちらから仕掛ける必要があるだろうが、複数の男にどう対処するか……。

昔はまだ身体が小さかったので簡単にどこかに隠れられたものだったが、今は状況からしても難しい。

先ほどから何か利用できる物はないかと探しながら足を動かしているのだが、なかなか良い物には巡り合わなかった。

体力の限界を考えても、そろそろ何かの手を打たなければテアの体が持たない。男たちの体力が先に尽きてくれればいいのにと思うが、そんな期待は抱くだけ無駄と言うものだろう。

――……、あれを使わせてもらいますか。

そんな時、目についたものがあって、テアはそれを利用することに決めた。

先ほども一度目にしたのだが、決心がつかず保留にしたのだ。

だが、逃走を始めて時間も随分経つし、ここは勝負に打って出るべき、だろう。

何よりもここは、先ほどより条件が良い。

テアは決断し、すぐに実行した。

男たちをその道に誘いこむように立ち止まり、踵を返すようにして、男たちと向き合う。

驚いた表情を浮かべる男たちの様子がほんの少し、おかしかった。

そうしてテアは、攻撃を仕掛ける。

「……あなた方の雇い主は、フォン・オイレンベルクですね?」

最初の爆弾投下はそれだった。




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