聖夜 18
しかし、そんなロベルト・ベーレンスとの歓談の時間は、残念なことに長くは続かなかった。
楽団の撤収が進み、楽団長としてロベルトも様々な務めを果たさなくてはならなかったのである。テアたちと会う間は副団長に仕事を任せていたのだが、全てを任せきりにするわけにもいかなかった。
副団長が、「劇団のオーナーが団長に会いたいと言ってきている」と伝えに来たのをきっかけにして、テアたちは楽屋から出ていかなくてはならなくなった。
『来てくれてありがとう。元気そうで良かった』
と慈しむように微笑みかけてくれたロベルトを思い浮かべて、テアはそっと口の端に笑みを乗せた。
既に楽屋を出て後、彼女は化粧室にいて、鏡の中の自分と向き合っている。
演奏会終了から時間が経っているので、劇場内はほぼスタッフだけとなり、閑散としていた。
その静けさの中、テアは再会を終えたばかりの「あしながおじさん」のことを考えずにはいられない。
『手紙にも書いたけれど、学院祭のステージ、とても良かったよ』
『その、ドレス……着てくれたんだね。ありがとう。よく似合ってる』
ロベルト・ベーレンスを――「あしながおじさん」を一目見た時、思わず駆け寄ってしまい、取り乱したところを見せてしまった。
けれど、ロベルトはそんなテアを受け止めてくれ、温かい言葉をかけてくれた。
今日、会うことができて、本当に嬉しかった、とテアは思う。
だが、とテアはその秀麗な面に翳りを見せた。
本当に、会ってしまって良かったのだろうか。ディルクたちにも、様々なことを曝してしまった。
それがテアにとっては気がかりでならない。
『今回のことは、どうかご内密に――』
別れ際、アロイスはそう、人差し指を立てて見せた。
何故、と当然ディルクたちは訝しげにしてみせたものだ。
アロイスは、それについてこう説明した。
『テアお嬢さんが、あの人を後見人だと秘密にしている理由と同じですよ』、と……。
『あの人が宮廷楽団の誘いを蹴ったというのは、皆さんご存じの通りです。それで、この人は随分と親皇帝派の連中に嫌われていましてね。愛国心が足りないとか訳の分からないいちゃもんをつけてくる輩は少なくないんです。あの人は宮廷を軽んじているとかそういうことじゃなく、ただ身分などに関係なく多くの人と音楽がやりたかった、それだけなんですが。宮廷楽団は確かに腕のいい音楽家さんが揃っているみたいですが、聴衆が上の階級の方だけと、あまりにも限られていますからね』
『とにかく、反逆の意図を持ってるわけでなし、あの人が何をどうこうできるわけでもないから、放っておいてくれればいいんですが、残念なことに、親皇帝派の一部の過激な連中はこの人のことを目障りだと目の敵にして狙ってくるんですよ。特に最近になってまた、不穏な影が増えてきていましてね』
話の流れが分かって、その時ディルクとライナルトは苦々しげな顔になった。元皇族の彼らにとっては、耳が痛い話だったのだ。
『テアお嬢さんに後見人の件を公にしないでもらっているのは、親皇帝派がお嬢さんにまで手を伸ばさないようにするためです。ご覧になった通り、この人はお嬢さんのことを目に入れても痛くないほど慈しんでいらっしゃるので、それを知られれば相手がどう出るか、分かったもんじゃありません。今回は、皆さん揃っていますから、懐かしい学院の後輩とちょっと会った、くらいで済むでしょう。ですが、万が一ということがありますし、皆さんのことも下手に巻き込むわけにはいきません。……まあ、お三方には手を出したくてもそう容易く手を出すことなんてできないでしょうが……』
その言葉に、ディルクたちは納得したように頷いた。
テアも後見人であるロベルトを慕っているようであるし、彼と口外しないと約束したのなら、テアは固く口を閉ざすだろう、と分かったからである。それに、先ほどテアがロベルトとの面会を断ったのも、ディルクたちを巻き込むまいと発したことであるのならば納得できる、と思ったのだった。
そのディルクたちの考えは間違ってはいない。
だが、テアが危惧を抱いているのは、アロイスが口にした事柄に対してだけではなかった。
アロイスが口にしたことは決して嘘ではないが、真実のすべてではない。
テアが最も恐れているのは、顔も名も分からぬ親皇帝派などではなく、その名も力も明確に分かっている相手。
その相手も、アロイスが言葉にした通り、元皇族であるディルクやライナルト、「クンストの剣」であるローゼに対し、容易に手を出すことなどできはしないだろうが、それでももしもということがある。
何より、少し前にディルクが明言してくれたように、彼らはテアを守ろうとしてくれるだろうから。
そうすれば、巻き込まずにはいられなくなってしまう。
――何より、「おじさん」を守るためには……、あんな風に心のまま駆け寄るなど、してはいけなかった……。
しかし、過ぎてしまったことをいつまでも悔やんでいても仕方がない。
ロベルトはもちろん、ディルクたちは今回のことを他言しないだろうし、全ての真実を何れかに知られてしまうことはきっと、ないだろう。ロベルトにはアロイスという心強い味方もいてくれるし、心配することはない。これからもまた、今までのように気を付けていればいいだけだ。
――今度こそ、きっと守り通してみせる。
もう二度と、大切なものを失いたくない。そのためなら、どんなことでもしてみせよう。
テアは鏡から目をそらし、化粧道具をバッグにしまうと、化粧室から出た。
そしてふと、首を傾げる。
「ローゼ?」
テアよりも一足先に化粧室を出たローゼが、すぐそこで待っているはずだったのだが、その姿がない。
きょろきょろと広い廊下を見渡そうとして、その時はっとテアは後ろに飛び退った。
「……っ」
他に人気のない廊下。
そこにただ一人、黒づくめの格好をした男が、立っていた。
ほんのわずか、テアの反応の素早さにその表情が驚きを示したが、それはすぐに無表情へと変化して。
「テア・ベーレンスだな?」
「……人違いです」
男の手に握られた、黒く光る物体に、テアは目を細めつつ答えた。
質問を否定されながらも、男は対峙する相手を間違えたとは思っていないらしい。かすかに眉をピクリと動かしたが、続けた。
「大人しく付いてきてもらおう。そうすれば痛い目を見ずに済む。抵抗するようなら……、殺す」
テアの「あしながおじさん」がロベルト・ベーレンスである――。
ローゼはそのことに驚きを禁じ得ず、それをずっと隠していたテアを水臭い、と改めて思わずにはいられなかった。
アロイスの言う事情があるにしても、「クンストの剣」であるローゼを脅かせる存在などそうないのだから、話してくれていても良かったのに、と思うのだ。
それでも万一のことを考えて慎重になってしまうのはテアらしさである。
分かっているのだが、それでも、もっと信じて、頼ってくれればいいのに、と思ってしまうのはどうしようもないことで。
それはおそらく、ディルクも同じだろう、とローゼは考えた。
――でも……、どうしてテアは学院に入学することを承諾したのでしょう……。
テアはロベルト楽団への入団の誘いを蹴った、という。
その理由はもちろん、テアが口にしたこともあるだろう。
しかし何より、テアが首を振らなければならなかった大きな理由がもうひとつあることを、ローゼは知っている。
フォン・オイレンベルク――。
その存在が、これまでテアと、テアの母カティアを苦しめてきたことを、本当のところ、ローゼは理解していた。
テアが知らないでいて欲しいと望んでいるから、何も知らないというスタンスを守っているけれども。
テアたちが「クンストの剣」を頼ったのも、その存在から身を守るため。
ならば同じ理由で、テアは学院に入学することも頑迷に拒む、はずだった。
学院にいるのは貴族や、貴族の後ろ盾を得たものばかりだ。学院には、テアが姿を見せるわけにはいかない人々が集まっている。テアが入学を果たしてしまえば、すぐにでもその話は「敵」に伝わってしまうだろう。
そのことを何よりも恐れているはずなのに、どうして、とローゼは考えずにはいられなかった。
テアが音楽を本格的に学びたいと強く思っていたことを知っているから、テアが今学院で勉学に励めることは喜ばしいことだと思う。
だが、オイレンベルク家とのことはどうなっているのか。
ローゼが受験する際、ローゼは事情を半ば悟りながらも、自分が守るからと、テアに一緒に入学しようと熱心に誘った。その時もテアは頷かなかったのに。
ローゼが入学試験を受ける時には、カティアも存命だったから、それもあったのだろうが……。
――ロベルト・ベーレンスが介入した、のでしょうか……。
ロベルト・ベーレンスは高名な音楽家であるけれども、大きな権力は持たない、ただの平民だ。四大貴族に太刀打ちできるとは考えられないが、先ほどの話で聞いた通り、ロベルトが皇帝と密かに懇意だと言うのならば、ひとつの仮説が成り立つ。
――何かしらの約束が交わされて、それでテアは……。
テアが学院に入学することを決めた、と聞かされた時から、実を言えばずっと、ローゼはそのことを疑問に思っていた。
この時になってようやく納得できる答えに辿り着けて、ローゼは少しほっとする。
この仮説が全て正解であると、はっきり言い切ることはできないが、何も分かっていないよりはずっとましだ。
テアを守り切ってみせると思っていたけれど、それでも脅威が彼女の存在を消してしまうのではないかと、ローゼは不安を抱えていたのである。父モーリッツもテアの入学に反対しなかったのだから大丈夫だと自分に言い聞かせて、これまではその不安を紛らわせていたのだ。
だが、警戒すべきことがなくなったわけではない。テアは相変わらず自身のことに関して何も語ってはくれず、そのことは危険が全て去ったわけではないことを示しているし、彼らの存在がなくとも学院にはテアに対する暗い感情が渦巻いている。
――テアの後見人がロベルト・ベーレンスと知れたらまた、どんな騒ぎになることか……。
ローゼは想像するだけでうんざりした気持ちになった。
誰もかも、テアの背景など気にせず、その演奏を聴いてそれによって彼女を正当に評価してくれればどんなにか。
楽屋を辞してからずっと、ローゼはそんなことを考えていた。
「先に外に出ていますね」
そう、共に入った化粧室から、テアより一足先に出てきたのも、わずかの間だけでもひとりで色々と考えてみたかったからだ。
そうして一人、ローゼが冷たい壁に背を付けてテアを待つ体制になったところで、劇場内に時を知らせる鐘の音が響いた。
「時計……」
それにふと、ローゼは呟きを漏らす。
先ほどのロベルトとの歓談の中で、気になったことがもうひとつあった。
『もう、そんな時間か……』
副団長が団長であるロベルトを呼びに来た際。
落胆を隠しもせず、ロベルトは懐から懐中時計を取り出すと、その文字盤を見て溜め息を吐いた。
その、懐中時計が。
――テアと同じものに見えましたけど……、でも、そんなこと……。
しかし、その先を考えることはできず、ローゼは顔つきを厳しくしてはっと身構えた。
殺気、のような物騒な気配を感じたのだ。
ローゼは鋭くその気配を辿り、その次の瞬間。
しゅっ、と、小さく鋭利な何かが横を掠めるように飛んできた。
ローゼは俊敏にそれをかわし、大理石の床に跳ね返り転がった細い短刀に眉を寄せる。
更に続けて投擲される凶器を避けるローゼに、追い打ちをかけるように、黒づくめの男が姿を見せて襲いかかった。
男は武器を持っていなかったが、その拳を猛然とローゼに向けてくる。
「何者……!」
その攻撃を高いヒールでありながら危うげなく避けつつ、ローゼは鋭い声を上げたが、相手は無言でローゼを後退させるばかりだ。
――この男……!
強い、と男の身のこなしにローゼは汗を滲ませた。
それでも、剣があれば倒せる、と思ったが、ドレス姿で武器らしい武器も持っていないローゼでは避けるくらいしかできない。
ローゼは体術も習得しているが剣とは比べ物にならないし、相手とは結構な体格差もある。相手が素人ならば何とかできただろうが、この相手に拳で向かうのはさすがに無謀だ。
「私をローゼ・フォン・ブランシュと知っての暴挙ですか。こんな、いつ誰に目撃されるか分からない、捕まれば言い逃れできないような状況で襲ってくるとはいい度胸ですね。一体何が目的です」
焦りを出さないようにしながらローゼは問うたが、やはり男は無言だ。
大声を出して助けを呼ぶか、とローゼは逡巡する。
それで心強い味方が来てくれるならいいが、一歩間違えれば民間人を危険に晒すことになるかもしれない。悪い言い方をすれば、足手まといを増やすだけに終わってしまう可能性もある。それが、彼女を躊躇わせた。
しかしやがて、相手と攻防を繰り返す内、ローゼはそれに気付いた。
――この男……、どうして決定的な攻撃をしてこない……?
まさか、とローゼは顔色を変えた。
時間稼ぎ、という単語が頭に浮かぶ。
相手は何も言わないが、本命はローゼではない――と、彼女はそう直感した。
男は、化粧室から廊下を曲がり、奥へ奥へとローゼを追い詰めている。
男の――"彼ら"の狙いは、テアだ。
この状況だけを根拠に、ローゼはそう結論づけた。おそらくそれは、間違っていない。
十中八九、この男には仲間がいる。男がローゼを遠ざけている内に、その仲間がテアに近付くつもりだ。
廊下を曲がってしまって、既に化粧室は死角である。
テアに危険が近付いていても分からないし、この状況では何が起こってもすぐに駆けつけることはできない。
――何ということ……!
ローゼは音がしそうなほど強く歯噛みした。
そういうことなら、無謀でも何でもこの男を倒さなければならない。
ふ、とローゼは姿勢を低くし、刃のような鋭さで男を見据えた。
――私は、剣。
守るための刃となって、ローゼは反撃を開始した。
一方、ディルクとライナルトは、楽屋を辞してから化粧室へ向かった女性二人を、ロビーのソファに腰掛けて待っていた。
客の姿はちらほらとまだ残っているが、開場前や開場直後などと比べると本当に静かなもので、時折スタッフなのだろう人々が足早に過ぎゆく音がやけに大きく聞こえる。
「ロベルト・ベーレンスに、まさかこういう形で再会するとはな」
「ああ……。あの人がテアの後見人だとは……」
ディルクはライナルトの言葉に複雑な顔で頷いた。
ロベルト・ベーレンスがテアの演奏を気に入ったというのは、彼女をパートナーにと望んだディルクにとって、非常に納得できる話だ。
ロベルトを尊敬するディルクは、彼の目に留まったテアが正直なところ羨ましい、と思う。
その一方で、テアと確かな絆を持っているロベルトが妬ましい、と思う。
しかしまた、ディルクがテアのパートナーであることをロベルトが認めてくれたことを、この上もなく光栄なことだとも思うのだった。
『これからもテアのことをよろしく』
そう、ロベルトは笑って告げてくれた。
その彼が親皇帝派に狙われているとは、とディルクは苦々しく思う。
テアが後見人を明らかにできず、学院で侮られている、その原因が、皇族に関わっていると思うとやるせなかった。既にディルクたちは皇族ではないのだが、それでもかつてこの身がその中にあったことを考えると、どうにも割り切れない。しかも、そのディルクがテアをパートナーに選んだことによって、彼女をますます危険な立場にしてしまったのだから、ディルクが自分を余計に責めるのも仕方のないことだった。
『……行けません』
そう、テアは最初後見人に会うことを頑なに拒もうとした。本当は会いたいと思っているのに、そうしなければならなかったのだ。
だが、テアが首を振った理由は親皇帝派に関することだけではないだろう、ともディルクは考えるのだった。
アロイスが言った通り、その理由があるにしても、ディルクとライナルト、ローゼに関して言えば、その危険が及ぶ可能性はとても低い。
だからといって、テアが自分の身の安全を図るためだけに、あんな風に会うことを拒むとは、テアの性格を知っていれば考えられないことだ。
おそらく何か他にも理由があるに違いない。
それは、ディルクに限らずライナルトも共通して考えていることだった。
そして。
『私には秘密がある。それは危険を孕むものです』
『私さえ口を閉ざしていれば……、誰も傷ついたりはしない』
ライナルトに向けて、静かにそう言ったテア。こうも簡単に後見人のことを明らかにしてくれたということは、彼女が最も口にはできないと考えていることは他にあるのだろう。
それが、テアがロベルトには会えないと思っている、その理由なのかもしれない。
ディルクとライナルトがそれぞれそんな風に考えを巡らしていた時だ。
「……ライナルト、ディルク!」
ローゼの焦ったような呼び声がロビーに反響し、二人の耳に届いた。
ただならぬ声の調子に、二人は思わず立ち上がる。
ローゼはドレス姿で走りにくい様子も見せず、二人の元へ駆け寄った。
その暗い表情に、ディルクたちは既視感を覚え……。
すぐに、学院祭の時と同じではないか、とさっと顔を強張らせた。
「テアが……!」
泣きそうな声で、ローゼは続ける。
「テアが、襲われました……!」
それは、悪夢の再来だった。