聖夜 17
「その……、紹介します。私の後見人を務めて下さっています、」
「ロベルト・ベーレンスです、よろしく。いつもテアと親しくしてくれて……、それから今日は演奏会へ来てくれて、ありがとう」
テアの言葉を引き取るように、「あしながおじさん」――ロベルト・ベーレンスは紳士的なにこやかさでディルクたちに挨拶した。
後見人と被後見人の久々の再会が感動的に行われて、後。
アロイスに背中を押されるようにして、他の面々は楽屋の一室に詰め込まれた。
鏡面に囲まれ、白一色で統一された、こぢんまりとした一室である。
その鏡に存在感のある姿を映しながら、ディルクもローゼもライナルトも、いまだに驚きの中にあった。
だが、全く予期しなかったこと――というわけではない。
テアの後見人が、ロベルト・ベーレンスである、ということは。
テアの姓を聞いて、ロベルトを連想しないなどということがあるだろうか。
音楽界の人間ならば、誰でも少しは疑うだろう。
テア・ベーレンスは、ロベルトに近しい人間なのではないか、と。
実際に、ディルクやフリッツは彼女の名を最初に聞いた時、ロベルトを思い浮かべずにはいられなかったのだ。
しかし、テアは自身の後見人に関して固く口を噤んでいて、親友であるローゼにすらわずかのことしか伝えていなかった。
ロベルト・ベーレンスが後見人であるならば秘匿する必要などないはずで、世間的に注目度の高いロベルトが後見人を務めるということがあるなら、それなりに話は出回ったはずである。今までにもロベルトは何人かの有望な若手を支援しており、その者たちの名前は明らかになっている。
しかしテアの場合、それがなかった。
そのことが、誰もが考え得る可能性を否定させていたのだ。
ディルクもローゼもライナルトも、ロベルト楽団にテアの後見人がいると分かっても、それがロベルト・ベーレンス当人ではないだろうと、思いこんでしまうくらいには。
ただの楽団員であれば後見を務めるほどの財力は通常ないはずだから、それなりに力のある人間だと、数名の名が候補として挙げられていたが、ロベルトの名はその中に括弧つきで入っているくらいだった。
だが、こうしてテアとロベルトが並ぶのを目の当たりにすると、疑問を覚えるよりも納得してしまうのが、不思議だった。
「……とはいえ、ディルク君とライナルト君とは初対面ではないが……。久しぶりだね。大きくなった」
ロベルトの言葉にようやく、青年たちは我に返った。
久々に会った親類のような言葉に、ディルクとライナルトは苦笑する。
「お久しぶりです。本日はお招きありがとうございました。ご健勝のようで、何よりです」
「元気だけが取り柄だからね」
笑って頭を掻く仕草を見せたロベルトに、アロイスは人の悪い笑みでまぜかえした。
「いやいや、そんなにご謙遜なさらずとも、他にも取り柄などたくさんあるでしょう。面倒臭い仕事から逃げる才能とか、ところかまわず動物を拾ってくる才能とか、後先考えず自由に行動する才能とか」
「……アロイス、才能ある若者たちに偏見を植え付けるのは止めてくれ」
「偏見? 事実の間違いじゃないですか?」
二人のやりとりに、若者たちはくすりと笑わされ、余計な方の力が抜ける。
「……お知り合い、だったのですか? ディルクたちと」
驚いた様子のテアに聞かれて、ロベルトは頷いた。
「ああ。随分昔に少し顔を合わせた程度だったが……、まだ二人が皇子だった頃だね。アウ……、いや、陛下が紹介してくださったんだ」
「陛下が?」
不思議そうな顔になったのはローゼである。
宮廷楽団の誘いを蹴ったロベルト・ベーレンスと皇帝陛下に、皇子を紹介するほど親密な関わりがあるというのが奇妙に思えたのだ。むしろ皇帝はロベルトを怒り、嫌悪していてもおかしくはない。
「あまり知られていないことだが、陛下はロベルト殿を殊のほかお気に入りだ。これほど爽やかにきっぱり宮廷楽団の誘いを断った人間もいない、と言って。宮廷は、それがあまり他に知られるとまずいだろうと、口を噤んでいるが」
それはそうだろう。皇帝が、大げさに言えば反逆者を笑って許していては大変なことになる。
「そうだったんですか……」
そういうこともあるものかと、ローゼは頷いた。
ロベルトはそんなローゼに微笑みかける。
「フロイライン・ローゼ・フォン・ブランシュ。初めまして、だが……。私は君にいくら感謝してもし足りないほどの感謝を持っているよ。ずっとテアのことを守ってくれたと聞いている。本当に、どうもありがとう」
「いいえ、そんな」
ロベルトほどの人に頭を下げられて、ローゼはややうろたえたが、すぐにいつものように毅然と返した。
「テアは私にとって親友であり家族でもあります。だから私はただ、テアの側にいただけです」
それでも言葉にせずにはいられなかったのだろう――ロベルトは最大の感謝の意を瞳に込めていた。
テアはその隣で、どこか面映ゆそうにしている。
「でも……、それにしても驚きました。いつ、どのようにしてテアと出会われたのですか?」
テアが母とブランシュ家の元に身を寄せるようになってから、テアはほとんど外出らしい外出もしなかったし、外に出る時はローゼと一緒だった。今とほとんど変わらないと言えば変わらないが、それだけに交友範囲もかなり限定されていて、入学前のテアの人間関係でローゼの知らないことなどほとんどなかったのだ。
ロベルトはローゼの問いに懐かしむような瞳を見せて、口を開く。
「今から、一年前のこと……、いや、まだ一年も経っていないが、ブランシュ領の隣で演奏会を開くことになってね。少し時間が空いた時にぶらぶらと近くを散策していたら、いつの間にかブランシュ領内に足を踏み入れていたようで……、そうしたら一つの邸からとても綺麗なピアノの音が聴こえてきたんだ」
「その日帰ってきた時、大層興奮なさっておいででしたね。行き先も告げず無断でどこへ行ったのかとこちらの心配など聞く耳持たず、心あらずでそのことばかり」
その時のことを思い出して、アロイスも微笑みながら告げた。
「ちゃんと謝っただろう……」
「ええ、謝罪だけはいつもしてくださるんですよね」
だけ、の部分に力を入れられて、ロベルトは首を竦めた。
この二人は万事このような調子なのだろうかと、若者たちは失笑してしまう。
ロベルトはこほんと咳払いをして誤魔化して、続けた。
「ともかく……、その、邸の中から響いてきた音が忘れられなくてね。切なく哀しく、……そしてとても美しいものだった。季節は春になろうかという頃で、陽射しが温かく心地の良い日だったのだけれど、その邸はそのピアノの音で寂しそうに佇んでいるように見えたよ。……分かるだろうか。それだけの影響を持ちえた、人の心に響く音だったんだ」
夢見るようにロベルトは語った。彼の聴いた音が、話を聞く者の耳にも届くかのように。
彼の話の続きを待たずともその音の持ち主というのは明らかで、耳元を真っ赤に染めたテアは、隣のロベルトの服の裾をそっと摘むようにして抗議の視線を向けた。
「おじさん……、誇張し過ぎですよ……」
「誇張なものか! あの時は心を打たれたあまり本当に邸の前から動けないと思ったんだ。いや、むしろ堂々と乗り込んで行って奏者のところへ行って跪きたいとまで思ったよ!」
「うう……。絶対、贔屓目です……捏造されています……」
テアは唸り、ここから姿を消したい……、と願ったが、ロベルトは話を続ける。
「とはいえ、その内ピアノの音も止んでしまって、これ以上居座ると不審者と間違われかねないと思ったから、その日は渋々帰ったんだ。唐突に訪ねて行ってもおそらく追い返されただろうし、次の日には演奏会が控えていたから、私もさすがに帰らないとまずいと思ってね」
うんうん、とアロイスは頷いた。あの時はちゃんと帰って来てくれて本当に良かった――と思っているらしい。
「でも次の日、演奏会が終わってからも、前日に出会った音のことばかり考えてしまって……。夜遅かったけれど、何となく足を向けてしまったんだ。また、あの邸へね」
「こちらとしては皆が演奏会の成功で酒を飲んでいる席にあなたがいないんで、心臓に悪かったものですよ。他のメンバーは一番上の人間がいない方がぱーっと騒げるなんて嘯いていましたが、俺の役目はあなたの面倒を見ることですから」
「……もう分かったからあまり責めないでくれ。あの時はお前もすぐにあの場所に来たじゃないか」
「それは前日あなたの話を聞いていたからできたことですよ。……昨日も急に姿を消したと思ったら、近くの公園で野良猫に餌をやっているんだから! いくら今日が特別な日になるからって、徘徊するのは止めて欲しいものです」
昨日もそんなことがあったのならば、アロイスが今こんなにも嫌味を続けたくなるのは仕方ないのかもしれない、とやや呆れ気味に聞き手の若者たちは思った。
「分かった、悪かったよ! 今度から、外に出たくなったら絶対お前に声をかけるようにするから。話の腰を折らないでくれ」
「いつもそう言ってふらりと出て行っちゃうんですから……。俺の目を盗んで行けるんだから、本当に素晴らしい才能ですけどね。お願いしますよ。お嬢さんの前で約束したんですから、ちゃんと守ってください。じゃあ、俺はしばらくちゃちゃいれずにいますよ。どうぞ」
アロイスに促されて、ようやくロベルトは話を再開することができた。
「それでだな……どこまで話したんだったか、そう、次の日の夜、私はまたあの邸に足を向けていた。夜更け、というほどの時間ではまだなかった。その時間に音は聞こえまいと分かってはいたんだが、ついね。そうしたら……、驚いたことに、一人の少女が邸から出てきたんだよ。もしかしたら、と私は思った。そして……、思わず声をかけていたんだ」
それが、テアとの出会いだったのだと、ロベルトは語る。
「月の美しい夜で……、足が向いた先におじさんがいた時は……、本当に、驚きました」
何故か気まずそうに、申し訳なさそうにテアは呟いて、ロベルトを見上げた。
「私も驚いたよ。けれど……、何度でも思うんだ。出会うことができて、良かったと。素晴らしい導きがあったと……」
穏やかで優しいロベルトの瞳が、テアを見つめ返した。
テアはふと胸に詰まるものを感じて、そっと俯く。
二人が出会ったその夜に、具体的にどういう出来事があったのかは、第三者には分からない。
けれど二人にとって決定的な何かがその夜にあったのだと、はっきりと言われずとも感じられた。
それにふと、ディルクは胸をざわつかせる。
「……とまあ、それでその導きに従うほかはない、と私はそれからお邸にあげてもらい、テアを楽団に誘ったんだ。そこがブランシュ家の邸だと知ったのはそこに足を踏み入れた時でね。ちょうどモーリッツ卿も居合わせて、彼女を楽団にとかき口説いたんだよ」
「楽団に!?」
それも初耳だ、とローゼは声を上げた。
「そんな話が先にあったんですか……」
「すぐにお断りした話です。私は……、今まで誰かからきちんとピアノを教授されたわけでもなかったですし、ただ感情のままにピアノを弾いていた私がこれまで苦労してこられたプロの方と肩を並べるなんて、とんでもないことですから」
謙虚な言葉に、アロイスが感心したように言う。
「……いや全く、この人にはもったいないくらいに真面目なお嬢さんですよ。普通なら舞い上がって頷いてしまうところですから。俺が駆け付けた時がちょうど、テアお嬢さんがばっさりその申し出を断るところで、この人半泣きでしたよ」
「泣きもするさ。今だって喉から手が出るほどここにいて欲しい、と思っているんだ。だがテアの意志が固いのならば仕方がない。……とはいえ、私もただでは諦めなかった。埋めておくには、あまりにも惜しい、魅力あるピアニストだ。誰かにきちんと師事したことがないことを後ろめたく感じるのならば、これから師事すればいい。それで是非シューレにと勧めて、今に至るわけだ」
「では……、テアは学院を卒業したら、ここに入団するのですか?」
「それは…まだ」
ローゼの問いに、テアは逡巡を見せた。
ロベルトはそれに鷹揚に微笑む。
「私はそれを期待しているが、まだテアは学院の生活を始めたばかりだ。その中でじっくりと自分自身の答えを見つけてくれれば、それでいい」
格好つけて、とアロイスは苦笑を唇に乗せたが、言葉にはしなかった。
テアが「あしながおじさん」の言葉に感謝するようにそっと頭を下げたので、無粋な真似は控えたのだった。