聖夜 10
「それから、テアとカティアさんはうちで暮らすようになったんです。カティアさんの怪我が治ったら出ていくって、最初は二人ともそのつもりでいたようでしたけど、カティアさんは元々身体が丈夫な方ではなかったらしくて、そのままベッドの上で一日過ごすような生活になってしまって……」
「そんな、ことが……」
ローゼの口から語られた昔話に、ディルクはすぐに言葉を紡ぎ出せなかった。
「……テアから母親とずっと旅をしてきたとは聞いていたが、やはり口で簡単に言うほど、楽な生活ではなかったのだな……」
「当然でしょうね。何と言っても女二人だけだったわけですから……。テアは楽しかった話や珍しい話はたくさんしてくれましたけれど、きっとそんなことばかりではなくて……。罵られたり騙されたり……、もっとひどいこともあったのかもしれません」
「母親の怪我もそのひとつ、というわけか……」
ディルクの台詞は嘆息交じりだ。
「そうですね……。『悪漢』に襲われて、テアを庇って――、と二人は事情を説明してくれましたが……」
「……そんなこともあると一番分かっているのは本人たちだろうに、何故二人は一所に落ち着かず旅を……、」
ディルクは言いかけてすぐに止めた。
「いや、すまない。今の疑問は忘れてくれ」
立ち入りすぎたかと謝罪するディルクに、ローゼは首を振る。
「いいえ、当然の疑問でしょう。私も……、ずっと思っていることですから」
ローゼが口にすると、ディルクは意外そうに目を見張った。
「お前も、知らないのか」
「ええ……」
――少なくとも、私は「知らない」ことになっている……。例え何かに勘付いていたとしても。私は何も知らない。そうでなくてはいけない。
ローゼは心の中で呟く。
それが、テアのためなのだと。
「仕方ありません。テアが話したくないと思っているのなら……」
「……そうだな」
「水臭いとは、思いますけど。それに、私は何も知らないのに、父は全てを知っているようで、それが少しばかり腹の立つところです。……まあ結局、子どもの私が二人を守るためにできることなんて微々たるもので、最終的には父の力が大きかったわけですから、当然なのかもしれませんが」
「確かにモーリッツ卿でなければならなかった部分は大きいだろうが……。お前がお前でなかったら、テアたち親子はモーリッツ卿の保護下に入ることもなかっただろう」
自嘲気味に零すローゼに、ディルクは冷静にそう指摘した。
慰めではない、ただ事実を告げるそれが、下手な慰めよりもずっと励ましになる。
「……そうですね」
だから、そう言って、ローゼは淡く微笑んだ。
「まあ、テアが水臭いことについては、今は置いておくことにして」
ローゼは昔話を持ちだしてついつい感傷的になってしまった気持ちを切り替え、どうしてこの話をするに至ったのか軌道修正することにした。
「本題に移りましょう。そもそもどうして昔の話をしたかというと、先日の疑問にお答えしようと思ったんですよ」
「ああ、話を聞いて、考えていた。……つまり、あの事件自体は、今まで多くの経験をしてきたテアにとっては、そこまで大仰なものではない。そういうことか?」
さすがはディルク、察しがいい、と、ローゼは首肯する。
「そうです。普通の女性だったらもっと恐怖が後に残ったりするのでしょうけど……。実際のところ、テアにとってはあの程度児戯にも等しかったんじゃないかと思います。犯人の目的も、テアをステージに立たせたくない、それだけのようでしたしね。それに、テアは命が無事でピアノさえ弾ければそれ以外の自分のことには無頓着なところがありますから、自分のことに関しては怯えるどころか腹を立ててすらいないかもしれません。テアが怒っているとしたら、ディルク、あなたに迷惑をかけてしまったことに関してのみですよ、きっと」
確かにテアは、事件の直後も、学院祭が終わって学院長らに事情を説明する時も、不思議なくらいいつも通り落ち着いていたとディルクは思い返す。
「ただ、それでも、何の影響もなかったとは言えないみたいで……」
「なんだ?」
「何だかぴりぴりしていて、警戒している感じが、昔に戻ってしまったみたいなんですよね……。いえ、それでも昔と比べたらずっと穏やかですけど」
ローゼは溜め息交じりにそう告げた。
「警戒、か……。それに関しては俺も多少は感じるところがあったが、だがそれは、そうだろうな……。犯人もいまだ捕まっていない状況だ。学院の警備は増強されたが、学院内にテアへの反感を持った者はまだ多いし、隙をつこうと思えば……」
言いながら、ディルクの顔は知らず知らず険しくなる。今すぐ無事を確かめたくなる衝動を堪え、ディルクはコーヒーを口に含む。
「ええ。一度失敗した犯人が、犯行をエスカレートさせてくる可能性も高いですしね。警戒心が全くない、無防備な状態よりはマシだと、分かってはいるのですが」
ローゼは腕を組み、気に食わない、と言わんばかりの顔になる。
「それでも、私はテアに昔みたいに戻ってほしくないんですよ。せっかく普通の女の子と同じように、学校生活だって楽しめるようになれたのに」
「昔のテアは、そんなにも?」
「そうですね……」
ローゼは少し躊躇ったが、答える。
「私と出会ってすぐの頃は、カティアさんがあんな怪我だったこともあって、特にひどかったんじゃないかとは思います。カティアさんの容態が良くなってからは、よく笑ってくれるようにもなりましたし……。けれど、やっぱり、誰も信じてはいけないというような、頑ななものがとても強く……感じられて。私はずっと、テアのそんな信念を崩したいと思っていたんです。だって、おかしいじゃないですか。たった九つの女の子が、そんな風にしなくちゃいけないなんて。それは、テアだけに限った事ではないのかもしれませんけど……。だから、私は、私にできることをしたいんです。それが余計なお世話でも」
「……ああ」
その思いはディルクにもよく理解できたが、耳に痛い話でもあった。
そんな子どもたちが存在してしまうのは、国の政策等に問題がある、という一因が挙げられるからである。
元皇子、元皇族のディルクとしては、考えずにはいられない話であった。
だが、皇族であることを放棄してしまった時点で、ディルクにできることは余りにも少ない。
選んだ道を後悔などしないが、もしフォン・シーレのままであったなら何かできることがあったかもしれない、などということを考えてしまう。
そう考えてしまう自分を、傲慢かとも思うけれども。
「まあそれでも、昔よりずっと良い方向に向かっていることは確かです。テア自身も、ここに入学することがきっかけになったのか、ちょっと気を緩めるようにしているみたいですし。入学したての頃なんか、不器用さに加速がついていたくらいですから」
思い当たることがあって、ディルクは笑いを零した。
そんなディルクを真っ直ぐに見つめると、ローゼはあらためて告げる。
「ディルク」
「何だ?」
「……私が言うのも何ですけど、これからもテアのこと、よろしくお願いしますね。きっと、あなたのような方が側にいてくだされば……、テアはもっと、心を開いていけるんじゃないかと思うんです」
他でもないローゼからのその言葉に、ディルクの心は揺れた。
自惚れそうになる自分、それを戒める自分が心の中でそれぞれ囁く。
「……俺も、テアのことはかけがえのない友人だと……、パートナーだと思っている。だから、できる限り、力になりたい」
本音を隠して、けれど偽らざる気持ちで、ディルクは答えた。
「だが、俺などより余程お前の方がテアの力になれているだろう」
「そうなりたいと思って、その自負はありますが――。及ばないことも、多いですから」
ほんのわずか、寂しさを滲ませてローゼは呟く。
「私にしかできないこともあるし……、あなたにしかできないこともある。そういうことです」
言って、ローゼはずっと手にしたままだったスプーンを、既に空になっている容器の中におさめた。
ディルクはそれを合図にしたかのように、ほんのわずか残っていたコーヒーを飲み干す。
冷めてしまったそれは、口の中に苦かった。
「……さて、では、そろそろ帰りますか」
「そうだな」
二人は時計を見て頷き合った。
立ち上がろうとするローゼに、ディルクは微笑みかける。
「ローゼ、今日は一日ありがとう」
「いいえ。私としても、なかなか楽しい休日でした。……本当に、あなたがテアのパートナーで良かったと思います」
実を言えば、昔のことを語るのに、少々の躊躇いを持っていたローゼだった。
今のテアのことを理解するのに一番分かりやすいだろうし、これから何かあった時に役に立つかもしれないと思って話したのだが、それで逆にディルクがテアを軽蔑したり負担に思ったり――そういうこともないとは言い切れなかったからだ。
だが、ローゼはディルクを信頼した。ライナルトの親友であり、テアの信じるパートナーであるディルクならば、と。
そして、やはり……、と言っていいだろう、ディルクはテアに対する思いやり以外のものは見せなかった。
親友の密かな想いを感じ取って、ローゼは二人のことを応援したいと思っていたが、ここで彼女は確信を持つ。
ディルクならば誰よりもテアを大切にしてくれるだろう、と。
今のディルクの身分は平民であるし、身分的に不釣り合いということもない。
もちろん周りはうるさいだろうが、それも二人でいれば乗りきれてしまう問題だろう。
――ディルクほどの人であれば、テアを任せられるというものですよね……。
まるで母親のように思って、ローゼは笑う。
「……光栄だよ」
ディルクはローゼの言葉に一瞬面食らったような表情を浮かべたが、本心からそう返したのだった。