聖夜 5
何もない、とディルクは言ったけれど、やはり何かあったのだろうとテアはディルクの隣を歩きながら思った。
先ほど、ディルクを遠目から見た時、彼はどこか思い詰めるような、張り詰めたような表情を浮かべていたのだ。
テアを見て、ディルクは微笑んでくれたけれど、疲れのような何かがあったように思う。
一体どうしたのだろうかと、テアは心配だった。
ディルクは高い能力を持った、優れた人物である、それは誰もが認めるところだ。
それゆえに彼は誰からも慕われ、頼られ――だからこそ一人で何もかもを背負ってしまっている、そんなところがあるのではないかとテアは思っていた。
けれどいくら彼が優れているとはいえ、皆と同じひとであることに変わりはない。
傷つくこともあるだろうし、無理をすれば疲れるのだ。
ディルクが無理をして微笑んでいるのでなければいいと、テアは思った。
無理はせず、もしその胸を何か重いものが塞いでいるのなら、打ち明けて欲しい……。
少しでも、ディルクの力になりたい――。
そんなことを思って、テアは内心首を振った。
打ち明けて欲しいなどと思うことは、余りにもおこがましい。
打ち明けられぬことを多く持っているのは、テアの方なのだから。
――けれど少しくらいは、自惚れてもいいのでしょうか……?
ディルクがピアノを所望してくれたということは、少しの気晴らしにでも自分が役立つということだろう、とテアは解釈した。
少しでも力になりたいという思いが迷惑でないのなら。
そして、少しでも彼に頼ってもらえ、彼のために何かできるなら。
それは、とても嬉しいことだ。
やがて、ディルクとテアは、ディルクが予約していた練習室に入った。
テアは早速ピアノに近づいて、ディルクに問う。
「何かリクエストはありますか?」
「そうだな――」
ディルクは鞄を置き、手紙をその中にするりと滑り込ませて、半ば無意識に答えていた。
「『月の光』を……」
「ドビュッシー、ですね」
「ああ」
テアは確認して、微笑んだ。
「それでは……」
テアはピアノの前に腰を下ろし、椅子を調節して、静かに指を鍵盤に落としていった。
優しい優しい――光が零れて差しこんでくるような音。
ディルクはその音を間近で聴いて、瞳を閉じた。
どこか労わるようなそれに、テアの気遣いを感じて苦笑が漏れる。
荒立つ感情を見透かされてしまっているな、と。
けれどそれは決して嫌な感覚ではなかった。
優しく温かく包みこまれて、大きな安心感を覚える。
――ああ、やはり、あの時と同じだ……。
「月の光」――それこそ、彼が幼い頃の夏、出会った曲。
あの夏祭りの日、少女が小さな手のひらで奏でていた、淡く、けれど本当の光のような音楽……。
それまで音楽は、ディルクにとって教養のひとつでしかなかった。
けれど、あの時からディルクの音楽に対する考え方はがらりと変わった。
音楽は、あの時、ディルクの胸に光を灯したように、大きな力を持っている。
あんな音を出せる人間になりたい。音楽で、自分も誰かに言葉にすることのできないこの感動を、感情を、情動を、伝えられたら――。そんな風にディルクに思わせ、ここまで彼を連れて来てくれたほどには、大きな力を。
そうして、追いかけてきた音は、今、目の前にあった。
テアの音楽が、ディルクに確信を与えてくれる。
ここまでやってきたことは、決して間違いではなかったと。
そして、これから進んでいく道もきっと正しい、と……。
だから、あの手紙のことなど、今は気にする必要などない。
ディルクはきっぱりと思って、ただテアの音に身を委ねる。
やがて――曲が終わり、テアは鍵盤からそっと指を離した。
ずっとピアノの側に寄り添うように立っていたディルクを見上げ、テアはどこか照れくさそうに微笑む。
そんなテアにディルクも穏やかな微笑みを返して、告げた。
「ありがとう……」
それが本当に、心からのものだったので、テアは返って恐縮してしまう。
「いえ、そんな、大したことでは……」
「いや、お前のピアノを聴いていると……、心が休まる。安らいで……、励まされる気持ちになる。お前の――」
ディルクはそこで、躊躇うように言葉を切った。
「お前の……、ピアノが、俺はやはり、好きだな」
「あ、ありがとうございます――」
テアは頬を紅潮させ、真っ直ぐにディルクを見つめられずに、ピアノに視線を落とした。
ディルクはそんなテアを見てふと手を伸ばしかけ、しかしすぐにはっと手を戻し、誤魔化すように言葉を紡ぐ。
「……それにしても、随分と久しぶりのような気がするよ。お前とこうして練習室にというのは……。学院祭が終わって、まだ一週間しか経っていないというのにな」
「そうですね……。私も何だか、この一週間は長かったように感じられて……。今までがあまりにもあっと言う間だったのかもしれませんが」
テアが同じような思いを持っていたことが嬉しくて、ディルクは微笑んだ。
その時、テアが前に零れてきた髪をさらりと後ろへ流す仕草を見せて、今度はそちらに目を奪われる。
「随分と……、お前の髪も伸びたな」
「ええ、出会った頃と比べると、そうですね」
「以前お前は髪を売る……、というようなことを言っていたが、切りはしないのか?」
「はい、その――」
テアはまた顔に朱を散らして答える。
「しばらく、伸ばしてみようかと……」
「そうか……、良かった。……いや、こんなことを俺が言うのも変な話だが、やはり――、前にも言った通りお前の髪はとても綺麗だから、もったいないなどと考えてしまってな」
「いえ、そんな」
テアは何だか恥ずかしくて、俯きがちに首を振った。
ディルクが本気で言っていると分かるからこそ、一層身を縮めてしまうのだ。
「だが、結んだりはしないのか? この前図書館に行った時に、少し手元が暗そうだと思ったんだが……」
「ローゼも同じようなことを言って、結んでくれようとしたのですが、私は少々不器用で……」
テアは困ったように、照れたように微笑んだ。
「結んでいても、少しずつ緩んできたりするでしょう? その時に、一人だと上手く結び直せなくて……。結局ほどいたままになってしまうので、このままでいるんです」
正直なところを言って、テアはディルクが呆れるのではないかと思ったが、彼は少し悪戯っぽく笑って言った。
「練習すればいいんじゃないか? 良かったら付き合うぞ」
その申し出に、テアはぷるぷると首を振る。
一応はローゼから習って、時折思い出したように結んだりしているのだが、一向に手元が器用になる様子はないのだ。ディルクの手を煩わせるようなことでもない。
「そ、それには及びません」
「そうか――」
ディルクはテアのその様子に軽く笑いながらも、ほんの少し瞳に残念そうな色を見せた。
しかしすぐに、彼は違う調子で同じ言葉を繰り返す。
「そうか……」
「? どうかしましたか?」
「いや、ちょっと良いことを思いついたんだ」
ディルクはその言葉通り、楽しそうにテアに笑いかけた。
何だろうかとテアは首を傾げたが、ディルクがいつも通りに――少なくとも先ほどまでの翳りをなくして――笑って見せたので、ほっとして微笑みを返したのだった。




